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婚約破棄された宮廷薬師ですが、隣国で溺愛されています 〜私を「薬係」としか見なかった王太子が寝込んでも、もう戻りませんわ〜  作者: 相川ことね


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第29話: 薬師の矜持

 その馬は、公館の門をくぐったところで前の脚を折った。


 鞍の上から、少年がひとり転がり落ちた。


 石畳に肩から落ちて、そのまま起き上がらない。馬のほうは首を垂れて、腹を大きく波打たせている。口の端から、白い泡がこぼれていた。


 会談から五十九日め、朝の鐘が鳴る少し前。カルディアの公都、公館の前庭でのことである。


 セレナは、ちょうど前庭を横切るところだった。朝の列が始まる前に金庫の間へ寄って、七年分の覚え書きをもう一度当たるつもりで来たのだ。


 春までに組むと約束した盾の帳面は、まだ一行目しか埋まっていない。


 盾というのは、毒の杯から王家の子を守る手立てのことだ。あの白い粉より確かな盾を宰相に見せられなければ、エルザは来年の春、九つで最初のひと匙を飲むことになる。毒に体を慣らすための、あの粉を。


 門の脇では、ジェラルドが厩の者と馬の蹄を見ていた。脱いだ乗馬の手袋を、片手に持っている。その彼が振り向くより先に、セレナはもう少年のそばに膝をついていた。


「動かないで。どこを打ちましたの」


「……肩、を」


 十五かそこらの少年だった。上着の袖に、エルデン王宮の紋が縫いとってある。泥で半分は見えない。


 唇が白く割れていた。目の下が落ちくぼんでいる。手首を取ると、脈は速い。速いけれど、乱れてはいなかった。


 膝に手をかけると、少年は顔をしかめた。鞍で擦れた腿の内側が、ズボンに張りついているのだろう。


「三日、ろくに眠っていませんわね。お水も、ほとんど」


「……なぜ、それを」


「唇と目の下に書いてありますもの。ジェラルド様、井戸のお水を。少しでいいの」


 ジェラルドは何も訊かずに井戸へ行って、柄杓に半分だけ汲んで戻ってきた。


 厩のほうから、テオが飛んできた。少年には目もくれずに、倒れた馬の首に手を当てる。


「おいおい。三日は走らせたな、こいつ」


 腹帯をゆるめ、鼻づらを撫でながら低い声で何か話しかけている。馬の荒い息が、少しずつ間遠になっていった。


 セレナは、少年の口もとに柄杓を当てた。


「ひと口ずつ。急いで飲むと、戻しますわよ」


 少年は言われたとおりにひと口飲んで、それから顔を上げた。


「……フェアミル。セレナ・フェアミルという女は、どちらに」


「わたくしですわ」


 少年が、柄杓からこちらへ目を移した。セレナの顔を、上から下まで眺める。


「毒――」


 言いかけた声が、喉の奥へ引っこんだ。


「ええ、その毒女ですわ。もうひと口、お飲みになって」


 馬の向こうで、テオが吹き出した。


 少年は耳まで赤くなって、柄杓の残りを飲み干した。それから、石畳に膝をついたまま背筋を伸ばした。


「エルデン王太子殿下の近習、フェリクスと申します。殿下のお言葉を、お届けにまいりました」




 厩の脇の、馬丁の詰所を借りた。


 壁ぎわに長椅子がひとつ。窓の下の小さな卓に、飼い葉の出入りをつける帳面と、先の割れかけた羽根の筆が置いてある。干し草と革の匂いがした。


 少年は長椅子を勧められても座らず、部屋のまんなかに立った。かわりにジェラルドが長椅子の端に腰を下ろした。テオは戸の外で馬の手綱を持ったまま、首だけこちらへ突っこんでいる。


「殿下のお言葉です」


 少年は、顎を少し上げた。言った人の顎の角度を、まねているのだろう。


「セレナに申し伝えよ。戻れ。婚約は、元に戻してやる。お前の席も、元のとおりに用意させる」


 戸の外で、テオが変な音を立てた。


「向こうの家との話は、私から断ってやる」


 ジェラルドが、手袋を右の手から左の手へ持ち替えた。それだけだった。


「それから」


 少年の声が、そこで少し低くなった。上げていた顎も、いつのまにか下がっている。


「お前の淹れたものでなければ、私は飲まぬ。……以上です」


 セレナは、すぐには返事をしなかった。


 (元に戻してやる、ですって。割れたお茶碗を継ぐみたいにおっしゃいますのね)


 腹が立つより先に、呆れが来た。呆れのあとで、ほんの少しだけしゃくにさわった。


 少年が、上着の内側から白い布の包みを出した。両手で差し出してくる。


「殿下が、ご自分でお書きになったものです。これを持っていけ、と」


 布をほどくと、たたんだ紙が一枚出てきた。


 折り目が、もう柔らかくなっている。開くと、折り目の溝に細かな埃が入りこんでいた。


 紙のいちばん上に、大きな字で名前が書いてあった。


 セレナ。


 一画目が、やけに太い。二画目からは揺れている。それでも、読めた。


 その下は、字ではなかった。線が絡まって固まった、黒い塊だった。塊の下に、墨のしずくが落ちた丸い染みがひとつある。


「この紙、何日かどこかにしまってありましたわね」


「……引き出しの奥から、お出しになりました」


 セレナは、名前の一画目を見た。


 この方の字は、婚約者だったころに何度か見ている。署名だけだ。いつも大きくて、勢いばかりあって、最後の払いが紙からはみ出していた。


 その方が筆を握って、自分の名前でなく人の名前を書いた。


 毎朝、手のひらを上に向けて待っているだけだった方が、だ。それだけは、少し意外だった。


 セレナは紙から目を上げて、少年を見た。


 少年は、上着の裾を右手で握りしめていた。耳が、さっきよりもっと赤い。こちらと目が合うと、窓の帳面のほうへ目が逃げた。


「フェリクス様」


「は、はい」


「殿下は、本当に『戻れ』とおっしゃいましたの?」


「……はい」


「そうですの。では、この紙は何のためにお書きになったのかしら」


 少年の口が、半分開いたまま止まった。


「戻れとおっしゃれる方なら、紙にもそう書けば済みますわ。お名前だけ書いて、続きをこんなふうに塗りつぶしたりはなさいませんもの」


「それは、指が……」


「ええ、指も震えていらしたでしょうね。でも、口上の最初と最後では声が違いましたのよ。最初はお顎を上げていらしたのに、最後だけフェリクス様ご自身のお声でしたわ」


 少年の手が、上着の裾を放した。


 外で、馬が鼻を鳴らした。詰所の中で聞こえたのは、それだけだった。


「……殿下は、それしか」


 声が、急に幼くなった。


「これを持っていけ、と。それから、あの女の淹れたものでなければ飲まぬと。おっしゃったのは、それだけです」


「戻れというのは?」


「わたしが……」


 少年は、うつむいた。


「殿下が、お可哀想で。そう申し上げれば、お戻りになるかと思ったのです」


 戸の外から、テオの首がもう少し伸びてきた。


「坊や。それ、勝手に婚約まで戻したの?」


「……はい」


「向こうの家との話を断ってやる、ってのも?」


「……はい」


 テオは、たまらないという顔でジェラルドを見た。ジェラルドの顔は、何も変わらなかった。手袋を持った指先が、膝の上で一度だけ跳ねた。


 セレナは、たたんだ紙を卓に置いた。


「正直に言ってくださって、ありがとう。……でも、戻りませんわ」


 少年が顔を上げた。


「それは、フェリクス様のお作りになったお話へのお返事ですけれど。殿下が本当に戻れとおっしゃっていても、同じお返事でしたわ」


 少年は、何か言い返そうとした。けれど言葉は出てこなかった。


「それより、教えてくださいまし。フェリクス様がお発ちになった朝、殿下はどんなご様子でした?」


「寝台で、起きて座っておられました。お声も出ます」


「お手と、お足は」


「まだ冷たくて。焼いた石を、足もとに入れたままで」


「宮廷薬師のザイデル様は?」


「毎朝、まいります。でも殿下は、もう誰の淹れたものも口にせぬと。お水と重湯のほかは、何も」


 セレナは、ゆっくりうなずいた。


「分かりましたわ。お返事は、少しお休みになってからにいたしましょう。テオさん、この方に何か温かいものを」


「へいへい。坊や、こっち」


「坊やでは……十五です」


「十五は坊やだよ」


 少年はテオに肩を押されて、詰所を出ていった。戸口で一度だけ振り返った。


「宰相閣下には、わたしが自分でご報告にまいります。殿下のお使いですので」




 詰所に、二人が残った。


 ジェラルドは長椅子の端に座ったまま、卓の上の紙を見ていた。


「ゆうべお話ししたこと、覚えていらっしゃいます?」


「過ぎた粉が抜けるまでの朝の数だろう」


「ええ。殿下が多すぎる粉を飲まされたあの朝から、早くて三朝、遅ければ六朝ですわ。今朝が四朝めですの」


 セレナは、指を折った。


「次官様が向こうへお着きになるのは、早くて六朝めの夕方ですわ。始め直せるのは、その翌朝からですの」


「なら、それまでは飲まなくてもいいんだな」


「ええ。どのみち、それまでは始められませんもの。困るのは、そこからですわ」


 セレナは、紙の黒い塊に目を落とした。


「殿下は、一度言ったことを曲げない方ですの。間違っていることほど、曲げませんのよ」


「飲まなければ、どうなる」


「三月前と同じですわ。朝ごとに細っていきます。今度は、三月ももちません。あの朝で、ずいぶん削れましたもの」


 ジェラルドは返事をしなかった。手袋を、また右の手に戻した。


 戸が開いて、テオが戻ってきた。片手に、丸いパンを二つ持っている。


「坊やは厨房でスープすすってます。食べたら宰相さんとこへ行くって。調薬室のリタちゃんにも、うちの者を走らせときました。列は昼からって。……はい、先生」


「まあ、ありがとう。考えごとをすると、お腹が空きますの」


「旦那のぶんは……あ」


「いい」


 テオは自分のパンをかじって、壁にもたれた。


「で、どうするんです」


 口をもぐもぐさせたまま、テオは言った。


「戻らないんでしょ。だったら、ほっときゃいいんじゃないですか。飲まないって決めたのは、向こうの王子さまなんだし」


「テオさん」


「いやいや、意地悪で言ってんじゃないですよ。先生が何もしなくたって、誰も先生のせいだなんて言いやしません。だいたい、先生を追い出した人でしょ。助けたら、またつけあがりますって」


 ジェラルドは、テオを止めなかった。止めずに、セレナのほうを見た。


 セレナはパンを半分に割った。片方を手に持ったまま、少し考えた。


「言いますわ。このままではもちません、と。殿下に」


「え。……先生が、ですか」


「ええ。わたくしが、ですわ」


 テオが、かじりかけのパンを口から離した。


「婚約破棄の朝のことですけれど」


 セレナは、割ったパンの白いところを見ながら言った。


「あの広間で、わたくし殿下のお顔を見ましたの。目の下の青みと、爪の生え際の白さと。左の指先を、親指でずっと擦っていらしたわ」


「……それで?」


「このまま朝の一服が途絶えたら、ひと月もつかどうか。それくらいは、分かりましたのよ」


 壁にもたれていたテオが、背中を壁から離した。


「言ってさしあげる義理はないと思って、黙って出てまいりましたの」


「そりゃ、あんなこと言われりゃ……」


「ええ。言ってもお聞きにならなかったでしょうし、言えないこともございましたわ。でも、黙ると決めたのはわたくしでしたの」


 セレナは、パンのかけらを口に入れた。噛んで、飲みこんだ。


「その紙を見て、思い出しましたの。一度は黙りました。二度めは、いたしませんわ」


「……なんで、です」


「分かっていて黙ったら、わたくしが殿下の匙に一粒足したのと同じですもの」


 テオの眉が、ぎゅっと寄った。


「一粒足したのと、って……」


「あちらの聖女さまが、殿下の杯に粉を足されたそうですの。わたくしが黙れば、それと同じですわ。違うのは、量を知っているかどうかだけですもの。知っているぶん、わたくしのほうが性悪ですわね」


 ジェラルドの口の端が、ほんの少しだけ動いた。笑いをこらえたのかもしれない。


 テオは、まだ納得のいかない顔をしていた。


「でも、またつけあがったら」


「お体は、お助けしますわ。お立場までは、存じません」


 セレナは、紙の上の自分の名前に指を置いた。


「そちらは、殿下がご自分で積んだぶんですもの」


 テオは、しばらく黙ってパンを噛んでいた。それから、頭をがりがりと掻いた。


「……わかりました。でも、戻らないんでしょ。じゃあ、どうやって飲ませるんです。あの女の淹れたものでなければ、って言ってんのに」


「ええ。ですから、殿下のおっしゃるとおりにしてさしあげますの」


「は?」


「王都に、量りの紙が一枚ございますの。最初の量と、量を上げてよい朝と待つ朝のことを書いた紙ですわ。書いたのは、わたくし」


 セレナは、指を一本立てた。


「ザイデル様は、あの紙と見比べて匙の端を払っていらしたはずですの。殿下はもう三朝、わたくしの量りでお飲みになりましたのよ。始め直す朝も、同じ匙ですわ」


 テオが、目をぱちぱちさせた。


「それ、屁理屈じゃ……」


「薬師の理屈ですわ」


 ジェラルドが、長椅子から少し身を乗り出した。


「また、あれを飲ませるのか」


 声は低かった。毒に体を慣らすための粉だと、この人は知っている。


「いまは、飲んでいただくしかございませんの。減らしていくお話は、殿下が生きていらっしゃらないと始められませんもの」


「……そうか」


 セレナは窓の下の卓へ行って、羽根の筆を取った。先が割れかけている。飼い葉の帳面の横の小さな壺に、筆の先を浸した。


 殿下の紙を広げる。名前の下の、黒い塊。そのまた下の、丸い染み。


 染みの下の余白に、セレナは一行だけ書いた。


 ザイデル様の匙は、わたくしの量りです。飲まねば、もちませんわよ。黙ってお飲みくださいまし。


 それで、筆を置いた。


 ジェラルドが、立ってきて紙をのぞきこんだ。


「名前がないな」


「書きませんわ」


「なぜだ」


「殿下の引き出しに、わたくしの名前をもう一枚しまわせる気はございませんもの」


 ジェラルドは、紙から彼女の顔へ目を移した。それから、卓の縁を指で一度だけ叩いた。


「……なら、いい」


「その代わり」


 セレナは、筆の先を布で拭いながら言った。


「婚礼の日の書付には、大きく書きますわよ。はみ出すくらい」


 ジェラルドは、咳払いをした。今度は、ほんとうに話を逸らすための咳払いだった。


「墨が乾くまで、たたむな」


「存じておりますわ」


 壁ぎわで、テオがパンの最後のかけらを口に放りこんだ。


「……旦那。いまの、聞かなかったことにしときます」




 昼前に、少年は前庭へ下りてきた。


 顔を洗って、髪も撫でつけてある。厨房で、誰かが上着の泥を落としてくれたらしい。


「宰相閣下は、なんと?」


「殿下のお言葉なら私が口を挟むことではありません、と。それだけでした」


 あの方らしい、とセレナは思った。殿下のお言葉を、止めもしなければ、足しもしない。


 前庭では、テオが栗毛の馬を一頭引いて待っていた。少年が乗ってきた馬は、厩の奥で飼い葉に首を突っこんでいる。


「坊や。帰りは、こいつに乗っていきな」


「え。でも、わたしの馬は」


「三日走った馬に、また三日走れってのは無理だ。こいつはあとで、うちの者に引いて返させる」


 テオは、栗毛の鼻づらを軽く叩いた。


「国境の手前の宿場で、厩番に言いな。港のテオの紹介だって。そこで替えてくれる。その先の宿場でも、同じことを言え」


「……ありがとうございます」


 少年は深く頭を下げた。頭を上げると、門の柱のそばに立っている男のほうを、ちらりと見た。


「あの。あちらの方にも、お礼を。カルディアのお役人の方ですよね。井戸のお水を、汲んでくださって」


 テオが、少年の耳に口を寄せた。何か短く言った。


 少年の顔から、血の気がすうっと引いた。


「こ、こう……」


「いい。行け」


 ジェラルドの声は短かった。少年は石畳に膝をつきかけて、テオに襟首をつかまれて止められた。


「坊や。膝つくのは、帰ってからにしな。時間がない」


 セレナは、たたんだ紙を白い布で包み直して、少年に渡した。


「殿下にお渡しする前に、ザイデル様にお見せくださいまし。わたくしの字を、ご存じの方ですから」


「名前が、ないのですか」


「ございませんの。殿下は、わたくしの字をご存じないでしょうけれど。ザイデル様なら、この字がわたくしのものだと殿下にお伝えくださいますわ」


 少年は包みを上着の内側にしまって、胸の上から手で押さえた。


「それから、殿下にお伝えくださいまし。戻りません、と」


「……婚約のことは」


「それも、お断りいたしますわ。わたくし、もうよそのお家に入りますの」


 少年の目が、門の柱のほうへ動いた。それから、ゆっくりセレナに戻ってきた。耳が、また赤くなった。


「フェリクス!」


 高い声が、上から降ってきた。


 公館の二階の窓から、小さな顔がのぞいていた。と思ったら、すぐに引っこんだ。


 まもなく、玄関の扉からエルザが駆け出してきた。後ろから、供の侍女が裾を持ち上げて追ってくる。


「やっぱりフェリクスだわ。おにいさまのところへ帰るの?」


 少年は、今度こそ膝をついた。テオも、止めなかった。


「王女殿下。はい、ただいまから」


「じゃあ、これ」


 エルザは握っていた手を開いた。小さな布の袋だった。口の紐をほどくと、中で琥珀色の粒がいくつか転がった。


 セレナには、見覚えがあった。宰相が外套の隠しに入れて持ち歩いている、蜂蜜を固めた粒だ。調薬室で、この子が手のひらに載せて見せてくれたことがある。


「ヴァルターがくれたの。帰りの船のぶん、とっておいたのよ。でも、おにいさまにあげる。苦いお薬のあとに、ひとつぶよ。おにいさま、苦いのきらいだから」


 少年は、両手で袋を受け取った。


「おにいさま、お元気?」


 少年の目が、セレナのほうへ泳いだ。


 セレナは、エルザの前にしゃがんだ。


「いまはね、腕のいい薬師様がついていらっしゃいますの。毎朝ちゃんと、お顔を見てくださる方ですのよ」


「セレナより?」


「わたくしと、張り合える方ですわ」


 エルザは少し考えてから、満足そうにうなずいた。それから侍女に呼ばれて、何度も振り返りながら玄関へ戻っていった。


 少年は、袋を紙の包みと同じ場所にしまった。テオの手を借りて、栗毛の鞍に上がる。


 手綱を取ってから、少年は思い出したように鞍の上から振り向いた。


「フェアミル様。もうひとつ、申し上げておかねばならないことが」


「なんですの」


「聖女さまはあの日のうちに王宮を出られて、ハーゲン家のお屋敷に入られました。その晩にはもう、古いお家の方々がお見えだったそうです」


 テオの手が、栗毛の首の上で止まった。


「聖女さまは、お客さまにこうお話しになっているそうです。殿下が毎朝お飲みになっているお粉こそ毒女の置いていった毒だ、と」


 お粉。


 あの寝室で、それを聞いた者は五人だった。そのうちのひとりが、その晩のうちに屋敷の客間で自分から話している。


「わたしが発った朝には、もう宮廷の廊下でも」


「分かりましたわ。教えてくださって、ありがとう」


 少年は頭を下げて、馬の腹を蹴った。栗毛は門をくぐって、通りの向こうへ小さくなっていった。


 セレナは、門の外の通りを見ていた。


 毒は粉のほうだと言う人が王都で増えれば、いずれ誰かが粉を止めろと言いだす。殿下の枕もとで、それを口にする人も出るだろう。


 そのとき、殿下の手もとには、名前のない紙が一枚あるだけだ。


 隣に、ジェラルドが来て立った。


「間に合うか」


「紙のほうは、間に合いますわ」

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