第28話: 口先の終わり
麦粒ひとつ。
それが、王太子アロイスの朝に要る白い粉の量だった。
それより多くても、少なくてもいけない。宮廷薬師イレーネ・ザイデルは毎朝、銀の匙ですくった粉の端を小刀の背で払って、その量にそろえていた。
その朝までの三朝、そうしてきた。
払った粉は、乳鉢の底に戻す。袋に戻せば、袋の粗い粒と混ざって量りが狂うからだ。匙ですくえば、どうしても麦粒四つ五つぶんは乗る。三朝のあいだに、払った粉が底に白く溜まっていた。
その乳鉢は、王太子の寝室の、窓のそばの小卓に置いたままになっていた。袋からあけた粉は寝室の外へ出さない。宰相府の決まりだった。
前は、もっと多かった。けれど粉が切れて三月、何も入らなかった体は、前の量を忘れてしまっている。だから一から、麦粒ひとつから始め直していたのだ。三月のあいだ細っていく一方だった王太子の体は、それでやっと持ちなおしはじめていた。
会談から五十五日め、安息日の明けた朝。エルデンの王都リューンでのことである。
その朝、王太子の口に入った粉は、麦粒ひとつではなかった。
入れたのは、聖女ミレーヌである。
胸が鳴って、アロイスは目を覚ました。
まだ暗かった。窓の板戸の隙間が、うっすら灰色になりかけているだけだ。朝の鐘には、まだ間がある。
胸の高鳴りは、毎朝いちばん先に来る。そのあとで喉が渇き、口が苦くなり、最後に指が震えだす。イレーネが広げて見せた紙に、そのとおりの順で書いてあった。
祈りの声がしていた。
寝台の脇に、白い衣が膝をついている。ミレーヌだった。昨日の朝も、夜明け前からここにいた。
ただ、今朝はひとりではなかった。
壁ぎわに、知らない顔が並んでいた。紫の帯を首から下げた、腰の曲がった老人がひとり。扇を胸に当てた若い女が二人。女たちは、王宮の侍女のお仕着せを着ている。
いつも壁ぎわに立っている侍従は、隅のほうへ押しやられていた。アロイスと目が合うと、困ったように目を伏せた。
「……誰だ、それは」
祈りが止まった。ミレーヌが振り向いて、にっこり笑った。
「お目覚めですのね、殿下。大聖堂の司祭さまと、宮廷の侍女のおふたりですわ」
「なぜ、ここにいる」
「見届けていただくためですわ」
ミレーヌは、胸の前で両手を合わせた。
「大聖堂の石段で祈るお指図は、まだ届きませんでしょう? でしたら、殿下の枕もとで祈ればよろしいのよ。今朝のことをちゃんと見ていてくださる方さえ、いらっしゃれば」
アロイスは返事をしなかった。返事をする息が惜しかった。胸の音が、耳の内側でうるさい。
ミレーヌは立ち上がって、窓のそばの小卓のほうへ行った。袖から、素焼きの小瓶を出すのが見えた。
白い袖が、小卓の上で少しのあいだ動いた。石のふちを何かがこする、小さな音がした。
何をしているのかは、寝台からは見えなかった。
やがてミレーヌは小瓶を胸に抱えて戻ってきて、また膝をついた。祈りが始まる。さっきより大きな声だった。
喉が、渇いてきた。
「……水を」
侍従が、水差しのほうへ動きかけた。
「お水なら、こちらに」
ミレーヌのほうが早かった。抱えていた小瓶の、口に詰めた白い布を抜く。持ってきた銀の小さな杯に、中身を注いだ。
「大聖堂の泉から汲んだ、清いお水ですわ。今朝のために、夜どおしお祈りを込めましたのよ」
侍従が、何か言いたそうに口を開けた。壁ぎわの司祭が、そちらを見た。侍従は、口を閉じた。
ミレーヌが、アロイスの首の後ろに手を回した。
喉が鳴るほど渇いていた。アロイスは、杯の縁に口をつけた。
ぬるい水だった。飲み下したあとで、舌の奥に苦みが残った。
苦い、と思った。それから、口の苦みは三番めに来るものだと思い出した。今朝も、紙のとおりの順だ。
アロイスは枕に頭を戻して、四番めを待った。
指の震えだ。毎朝、最後にそれが来る。来れば、あとはイレーネの粉を飲んで、四半刻待つしかない。
来なかった。
敷布の上の右手を、アロイスは見た。指は、じっとしていた。
胸の音も、いつのまにか静かになっている。喉の渇きも引いていた。
「ご覧になって」
ミレーヌの声が、ぱっと明るくなった。彼女は立ち上がって、壁ぎわの三人を振り向いた。
「殿下の指をご覧になって。今朝は一度も震えておりませんわ」
侍女の一人が、扇の陰で小さな声を上げた。もう一人は、扇を取り落としそうになった。司祭が、ゆっくりと胸の前で印を切った。
「祈りが、届いたのですわ。あの方の置いていった悪いものが、やっと抜けたのよ」
アロイスは、自分の手を見ていた。
三月のあいだ、毎朝この手が震えた。粉が戻ったこの三朝も、飲んで四半刻待たなければ狭まらなかった。それが今朝は、待つより先に止まっている。
(……なぜだ)
祈りでないことは、知っている。昨日の朝、祈りの声のなかで震えが続くのを、自分の目で数えた。
考えかけたところで、指の先が冷たいことに気づいた。
震えは止まっている。そのかわり、指の先から冷えが上がってくる。夏の終わりの朝なのに、手のひらが井戸の水に浸けたように冷たい。
胸の音が、遅くなっていた。
さっきまでうるさかった音が、いまはひとつ打つと、次がなかなか来ない。来たと思うと、重く打つ。それから、また来ない。
腹の底から、何かがせり上がってきた。
「ミレーヌ」
声が、思っていたより小さかった。
「冷える」
「まあ。悪いものが、いま出ていくところですわ」
ミレーヌはまた膝をついた。祈りの声が大きくなる。壁ぎわの侍女たちの扇が、ぴたりと止まっていた。
額に、汗が浮いてきた。冷たい汗だった。窓の隙間はもう白くなりかけているのに、目の端のほうから部屋が暗くなっていく。
この順は、紙に書いていなかった。
胸、喉、口、指。あの紙の順は、粉が足りないうちに来る順だった。いま来ているのは、そのどれでもない。
祈りの声が、遠くなったり近くなったりした。
――祈れば、殿下の明日の朝はちゃんと来ますの?
あの広間で、セレナがミレーヌに訊いた言葉だった。ミレーヌは答えに詰まった。自分は、それを聞き流した。聞き流したどころか、その場で、お前のしていたことなど誰にでもできると言ったのだ。
明日の朝どころではなかった。今朝のうちに、何かが終わりかけている。
朝の鐘が鳴りはじめた。
扉が開いた。
扉を開けたところで、イレーネは足を止めた。
人が多すぎた。
壁ぎわに、紫の帯の老人と、扇を持った侍女が二人。寝台の脇には白い衣。いつもの侍従は隅に押しやられていて、イレーネの顔を見るなり、泣きそうな目をした。
うしろで、ついてきた次官の足音が止まった。
「宮廷薬師さま」
ミレーヌが立ち上がって、振り向いた。頬が上気していた。
「今朝は、もうお粉は要りませんのよ。殿下の指は一度も震えませんでしたの。皆さまがちゃんとご覧になりましたわ」
イレーネは答えなかった。薬箱を床に置いて、まっすぐ寝台へ行った。
アロイスの顔は、灰をはたいたような色をしていた。唇に血の気がない。額に、汗の粒が並んでいる。
手首を取った。
冷たかった。脈は、遅かった。ひとつ打って、間があいて、重く打つ。ときどき、ひとつ抜ける。
イレーネの背中が、すっと冷えた。
粉を入れる前の朝の脈は、速い。三日前の朝も、一昨日の朝も、昨日の朝もそうだった。遅い脈は、その逆だ。足りないのではない。多すぎるのだ。
イレーネは、窓のそばの小卓を見た。
縁の欠けた乳鉢が、昨日置いて帰ったところにあった。
中が、からだった。
三朝ぶん、匙から払った粉が、底に白く溜まっていたはずだった。麦粒にすれば、十を超える量だ。それがない。底には、指でこそげた筋が何本も走っているだけだった。
振り返ると、枕元の小卓に素焼きの小瓶が立っていた。口の布は抜いてある。瓶の口のまわりに、白いものが細く乾いていた。
「聖女さま」
自分の声が、ひどく平らに聞こえた。
「乳鉢の粉を、どうなさいましたか」
ミレーヌの口もとが、ほんの一拍だけ固まった。
「……あら。お祈りのお水に、ほんの少し足しただけですわ」
「どれだけ」
「残っていたぶんだけよ。だって、もったいないでしょう?」
ミレーヌは、壁ぎわの三人にも聞こえるように声を張った。
「殿下が毎朝お飲みになっているお粉が、わたくしの祈りに少し混じったって、かまいませんでしょう? お薬なんて、誰が入れても同じでございましょう?」
寝台の上で、アロイスの目が動いた。ミレーヌの顔のほうへ、ゆっくりと。
イレーネは、もうミレーヌを見ていなかった。
「侍従どの、盥を。次官どの、厨房で湯を沸かさせてください。石も焼かせて、布にくるんで持ってきて」
扉の内側にいた次官が、身をひるがえして出ていった。侍従は盥を抱えて走ってきた。
イレーネは薬箱を開けて、炭の粉の包みを出した。椀に湯冷ましを注いで、炭を溶かす。水が、墨のように黒くなった。
それから、アロイスの体を横向きに起こした。
「殿下。吐いていただきます」
「……な、に」
「口を開けてください」
指を二本、彼の喉の奥へ入れた。
「何をなさいますの!」
ミレーヌが、イレーネの腕にしがみついてきた。
「殿下のお口に指を入れるなんて! 悪いものは、いま祈りで出ていくところで――」
ミレーヌの体が、後ろへ引かれた。
司祭だった。腰の曲がった老人が、ミレーヌの袖をつかんで、寝台から引き離していた。ひとことも言わなかった。
アロイスの喉が、大きく波打った。盥に、吐いたものが落ちた。もう一度、落ちた。
イレーネは盥の中を見た。濁った水の中に、白いものが細く混じっていた。
「これを飲んでください。少しずつ」
黒い水の椀を、口もとへ運ぶ。アロイスは、むせながら飲んだ。
次官が、布にくるんだ石を三つ抱えて戻ってきた。ひとつを足もとへ、ふたつを脇の下へ入れさせて、毛布を首まで引き上げる。
それから、手首に指を当てて数えはじめた。
ミレーヌが、司祭の手を振りほどいて寝台の足もとに膝をついた。祈りの声が、また始まった。
誰も止めなかった。イレーネも止めなかった。止めている暇がなかった。
ひとつ打って、間。重く打って、ひとつ抜ける。抜けたら、はじめから数え直す。
窓の板戸の隙間から入った光が、床の上を少しずつ伸びていった。
乳鉢を置いて帰ったのは、自分だ。
あけた粉は寝室から出さない。決まりは決まりだった。けれど昨日の朝、この人は廊下で、粉を一つまみ分けてくれと頼んできた。量を知らない人が入れれば命にかかわる、と言ったのは自分の口だ。
危ないと、分かっていた。分かっていて、侍従に誰にも触らせるなと言い置いただけで、決まりのとおりに置いて帰った。
(数えなさい。いまは、それだけ)
光の先が、床の板を二枚ぶん渡ったころだった。
抜ける拍が、減っていた。
イレーネは、もう一度はじめから数えた。遅い。けれど、さっきより遅くない。重く打つ間が、少しずつ縮んでいる。
アロイスの唇に、薄く色が戻りはじめていた。
「……イレーネ」
「はい」
「寒い」
「石を足します」
侍従が、厨房へ走っていった。
祈りの声は、いつのまにか止んでいた。
ミレーヌが立ち上がって、寝台のそばへ来ていた。頬の赤みは消えている。それでも、口もとには笑みを作っていた。
「ほら。殿下は、持ちこたえられましたわ。祈りが――」
「ミレーヌ」
アロイスが言った。かすれた声だった。
ミレーヌは、それきり黙った。
「お前に、訊く」
アロイスは、枕の上で顔だけをミレーヌに向けた。
「あの日の広間で、セレナがお前に訊いたな」
イレーネには、何の話か分からなかった。
「祈れば明日の朝は来るのか、と」
ミレーヌの顔から、笑みがすっと抜けた。
分かったのは、ミレーヌの目が一度だけ壁ぎわへ逃げたことだけだった。司祭と、侍女が二人。三人とも、ミレーヌを見ていた。
「答えろ。来るのか」
「……参りますわ」
ミレーヌの声は、細かった。
「わたくしが祈れば、きっと――」
「今朝は、終わりかけた」
アロイスは、毛布の上に出した自分の手を見た。まだ冷たくて、指の先が白い。
「お前の水を飲んで、終わりかけた。……明日の朝は、来るのか」
ミレーヌの唇が開いた。
いつもなら、すらすらと言葉が出てくる口だった。
何も、出てこなかった。
彼女は司祭を見た。司祭は目を伏せた。侍女たちを見た。扇の陰の二つの顔は、動かなかった。最後に、イレーネを見た。
イレーネは、アロイスの手首から指を離さなかった。
「……分かりません」
小さな声だった。
寝室の中で、誰も動かなかった。
司祭が、手の中の祈祷書を閉じた。ぱたん、と乾いた音がした。
アロイスは一度目を閉じて、それから開けた。
「さがれ」
ミレーヌの肩が、びくりと揺れた。
白い衣が一歩、寝台からさがった。
調印の日、倒れた殿下の脇で聖女さまが一歩さがった。その話なら、イレーネも宮廷の廊下で何度も聞いている。
これで、二度めだった。今度は、殿下に言われてさがったのだ。
「次官」
戻ってきていた次官が、扉の脇で背を伸ばした。
「はっ」
「この者を、二度とここへ通すな」
「……承りました」
ミレーヌが、何か言いかけた。誰も、続きを待たなかった。
白い衣が、扉のほうへ向かった。司祭はついていかなかった。侍女たちは、扉の脇へ寄って道を空けた。
扉の前で、ミレーヌは司祭を振り返った。
「司祭さま。次の安息日の――」
「石段は、もうお貸しできませぬな」
司祭はそれだけ言って、背を向けた。
ミレーヌが出ていくと、扉の脇の侍女が、扇の陰でもう一人に何か言った。声を落としたつもりなのだろう。それでも、寝台のそばまで届いた。
「……聖女さまが、殿下のお水に」
「しっ」
もう一人が、扇で口もとを隠した。その扇の陰から、短い一語がもれた。
「毒を――」
扉の外で、足音が一度止まった。それから早足になって、廊下を遠ざかっていった。
「毒」と言われたのは、今朝は自分のことではなかった。
毒女のお仲間。宮廷の皆さまがあなたをそう呼んでいる、と聖女さまに言われたのは、つい昨日のことだった。
昼前に、アロイスは眠った。
脈は、まだ遅い。けれど、もう抜けなかった。手のひらに、少しだけ温みが戻っている。
司祭は侍女たちを先に帰してから、寝台の足もとで深く頭を下げた。
「宮廷薬師どの。殿下を、お頼みします」
そう言って、ひとりで出ていった。
盥を片づける侍従の横で、次官がイレーネに声をかけた。
「ザイデルどの。閣下に、お知らせせねばなりません」
「早馬ですか」
「いいえ」
次官は、首を横に振った。
「これは、文には書けません。……門の書付で、懲りました」
イレーネは、次官の顔を見た。
あの書付に名を入れよと迫ってきたのは、この人だった。外より入りしものの障り。嘘ではないが、読む者はみな毒と読む一行だった。
「私が参ります。今日の昼から、早馬を乗り継いで」
「殿下のお側は」
「あなたがおられます」
イレーネは、小卓の上の小瓶を取った。瓶の底に、水がまだ少し残っている。白い布を詰め直して、さらに布で二重にくるんだ。
「これを、持っていってください」
「閣下に、ですか」
「いいえ。カルディアにいらっしゃる、前の宮廷薬師さまに」
次官が、くるまれた瓶とイレーネの顔を見比べた。
「瓶の中に、まだ粉が残っています。あの人は七年、毎朝あの粉を量ってきた人です。瓶の水を見せれば、量が分かるはずです」
「量が分かれば、どうなるのです」
「いつからまた始めていいかが、分かります」
イレーネは、くるんだ瓶を次官の手に押しつけた。
「わたしには、それが分かりません。……訊いてきてください。それだけでいいので」
次官は、瓶を上着の内側にしまった。
次官が出ていってから、イレーネは乳鉢を手に取った。
底の筋を布で拭う。拭った布を、炉の口にくべる。それから乳鉢を別の布でくるみ、薬箱のいちばん底に入れた。
決まりのことは、次官どのが戻ったら謝ればいい。
今夜からは、これも持って帰る。
調薬室の昼下がりだった。会談から五十八日め。朝からの列はもう引けて、セレナは卓で盾の帳面を開いていた。相変わらず、一行目しか埋まっていない。
戸が、叩かれた。
開けると、宰相ヴァルターが立っていた。
その半歩後ろに、知らない男がひとりいた。黒い上着の、痩せた男だ。上着の裾に、乾いた泥がこびりついている。顎には、剃り残しの影があった。
「フェアミル殿。お時間を、いただけますか」
「どうぞ、閣下」
宰相は中に入ると、勧められる前に椅子へ腰を下ろした。男もあとから入って、戸を閉めた。
棚の上のコハクが、男のほうへ鼻先を向けて、震わせはじめた。
「コハクちゃん?」
干し棚の陰から、リタが顔を出した。
コハクは前足をそろえたまま、鼻先だけを細かく震わせている。逃げもしないし、近づきもしない。
セレナは、筆を置いた。
黒い匙に鼻を寄せたときと、同じ困り方だった。
宰相が、男を目で示した。
「宰相府の次官です。今朝がた、早馬を乗り継いで着きました」
男が、深く頭を下げた。
「ザイデルどのから、お預かりしたものがございます」
棚の上で、コハクが低くうなった。セレナは、男の上着の胸のふくらみを見た。
「その上着の中のものですわね。出していただけます?」
次官は少し驚いた顔をしてから、内側から布の包みを出した。卓の上でほどく。
素焼きの小瓶が出てきた。口に白い布が詰めてある。
「大聖堂の、聖水の瓶でございます。三日前の朝のことです」
次官は、背筋を伸ばしたまま話しはじめた。
声は乾いていて、余計な言葉が一つもなかった。粉が六日前の朝から再開されたこと。麦粒ひとつから始めたこと。粉を飲んで四半刻待つと、殿下の指の震えが狭まるようになったこと。
セレナは、卓の縁に手を置いた。
「……届いて、いましたのね」
声が、自分で思っていたより小さかった。
量りの紙は、ちゃんと向こうへ渡っていた。ザイデル様の手もとで、三朝、ちゃんと働いていた。港の坂の聖堂で祈った、あの朝にはもう。
リタが、そっとセレナの袖に触れた。
次官は、話を続けた。
四度めの朝、聖女ミレーヌが司祭と侍女を連れて、夜明け前に寝室へ入ったこと。乳鉢の粉の残りを、この瓶の水に入れたこと。殿下がそれを飲んだこと。夜明け前のことは、侍従から聞いたこと。鐘のあとのことは、自分の目で見たこと。
「脈は」
セレナが訊いた。
「遅く、ときどき抜けたそうです」
次官は、同じ調子のまま続けた。
「湯と石を取って戻った私に、ザイデルどのは指で吐かせて炭の水を飲ませたとおっしゃいました。それから焼いた石で温めて、昼前まで脈を数えておいででした」
セレナは、ゆっくりうなずいた。
「それで、よろしいのですわ。わたくしがその場にいても、同じことをいたします」
それから、卓の小瓶を取った。
白い布を抜く。瓶の底で、水が少し揺れた。セレナは小指の先を瓶の口から差し入れ、底の水に触れて、舌にのせた。
「セレナ様!」
リタが声を上げた。
苦い。粉の味だった。七年、毎晩舐めて覚えてきた、あの味だ。
セレナは、すぐに水差しの水で口をすすいで、盥に吐き出した。もう一度すすいだ。
「大丈夫ですわ。舐めただけですもの」
いつもの量の苦みなら、すすげば舌の先で消える。これは、二度すすいでも舌の奥に残っていた。
「……濃いですわね」
「どのくらいです」
宰相が訊いた。
「殿下がお飲みになったのは、どれほどの杯でしたの」
「銀の小さな杯に、一杯と聞いております」
次官が答えた。
「でしたら、麦粒にして十か十一ですわ。見ただけでは多いとしか言えませんけれど、舌に残る長さで絞れますの。わたくしが最後の春にお出ししていたのが、四つと半ですの」
リタが、指を折って数えかけた。
「それって、倍よりもっと……」
「三月お休みになった体には、倍どころの話ではありませんわ」
セレナは、瓶に布を詰め直した。
「ザイデル様が昼前まで数えてくださらなかったら、殿下の朝はあの日で終わっておりましたわ」
次官が、一歩前に出た。
「ザイデルどのから、言伝がひとつございます。いつからまた始めてよいか。それだけを、訊いてきてくれと」
セレナは、顔を上げた。
「……ザイデル様が、わたくしに訊いてこいと?」
「はい。ご自分には、それが分からないと」
セレナは、少しのあいだ黙った。
七年、同じ棚の前ですれ違っても、一度も薬の話をしなかった人だった。
「では、お伝えくださいまし」
「十一ですと抜けきるまで、あの朝から早くて三朝、遅ければ六朝かかりますわ。脈が遅いうちは粉はお休み。体を温めて、お水を少しずつ」
「脈が戻って胸が先に鳴りだした朝に、麦粒ひとつで始め直していただきます。あの朝から十朝たっても胸が鳴らなければ、粉ではない別のことを疑ってくださいまし」
「胸が、先に鳴った朝から」
「ええ。多すぎたぶんが抜ければ、いつもの順がまた来ますの。いちばん先に来るのが、胸ですわ」
次官は、目を閉じた。口の中で、いまの言葉をくり返している。
「紙に書きましょうか」
「いえ。覚えて帰ります」
次官は目を開けて、セレナの言ったことを、言ったとおりの順で口にした。一字も違わなかった。
宰相が、短く言った。
「この者は、宰相府でいちばん物覚えがいい」
「まあ。頼もしいこと」
それから、セレナは宰相のほうを向いた。
「殿下のお口に触れるものは宮廷薬師の手を通ったものだけ、と閣下が次官様宛てにお書きになった、あの一行は」
「まだ、向こうへ着いておりません」
宰相は、隣の次官を見た。
「宛てた相手とは、道ですれ違ったことになります」
宰相は、そこで言葉を切らなかった。
「石段のときの一行は、届いておりました。祈りの水も、と書いてありました」
次官の肩が、わずかに下がった。
「聖女さまは、大聖堂の司祭を前に立てて入られた。侍従ひとりでは止められなかったでしょう。止められる者を枕もとに置かなかったのは、私の落ち度です」
手袋の手が、膝の上で重なっている。指の一本も、動いていなかった。
「それで」
リタが、戸口のそばから進み出た。両手で、前掛けの端を握っている。
「聖女さまは、どうなったんです」
次官が、宰相の顔をうかがった。宰相が小さくうなずくと、次官はまた乾いた声で話した。
「聖女さまはザイデルどのに粉のことを問われて、ほんの少し足しただけだとおっしゃいました」
「それから、皆さまの前でこうおっしゃいました。お薬なんて誰が入れても同じでございましょう、と」
リタの口が、半分開いた。
「それ、あの日の殿下の……」
「ええ」
セレナは、片方の眉だけを上げた。
「殿下と、同じことをおっしゃったのね。お似合いですこと」
リタが、吹き出しかけて、あわてて口を押さえた。
次官は、話を続けた。
「殿下は持ちこたえられたあとで聖女さまにお訊きになりました。祈れば明日の朝は来るのか、と」
セレナの笑みが、止まった。
「……殿下が、それを」
「はい。あの日の広間で、あなたが聖女さまにお訊きになった言葉だと」
セレナは、卓の縁に置いた手を見た。
あの広間で訊いたことは、誰にも通じないと思っていた。言ったところで、この場の誰にも届かない。そう思って、それ以上は言わずに出てきたのだ。
届くのに、三月かかった。
「聖女さまは、なんとお答えに」
「分かりません、と」
調薬室の中で、コハクだけが棚の上で身じろぎをした。
リタが、ゆっくりセレナを見た。
「セレナ様、前に言ってましたよね。あの人は、分かりませんとだけは言えないって」
「ええ」
「言っちゃったんですか」
「おっしゃったのね」
セレナは、小瓶の白い布を指でなでた。
「では、もう聖女さまではいられませんわね」
次官は、そのあとのことも順に話した。扇の陰からもれた一語のことも、話した。
毒、と。
セレナは、何も言わなかった。
話し終えると、次官は宰相のほうへ向き直った。
「閣下。もうひとつ、お指図をいただきたいことがございます」
「言いなさい」
「殿下とザイデルどのと私のほかに、粉のことを聞いた者が五人おります」
宰相の手袋の指が、膝の上でわずかに動いた。
「殿下が毎朝お飲みになっているお粉、と聖女さまが皆さまの前でおっしゃいました。司祭どのと侍女のふたり、それに侍従が聞いております。……聖女さまご本人も」
「あとで聞きます」
「ですが閣下、王都では今ごろ――」
「あとで、と言いました」
次官は、それ以上は言わなかった。
セレナは、宰相の顔を見た。
「閣下。あとで、何をお聞きになるの?」
宰相は、すぐには答えなかった。
この人は、自分の口では嘘をつかない。答えたくないことがあるときは、黙る人だった。
「どう黙っていただくかを、です」
「どうやって?」
「まだ、決めておりません」
黙っていただく。そこには、口を閉じていただくことも、二度と口を開けなくすることも入っている。宰相は、どちらとも言わなかった。
リタが、セレナの袖をつかんだ。指先に、力が入っていた。
セレナは、袖をつかまれたまま、宰相に言った。
「閣下は、名前を覚えた方は切りにくいのでしたわね。手が鈍るから、覚えないのだと」
宰相は、答えなかった。
「でしたら、決める前に覚えていっていただきますわ」
セレナは、次官のほうを向いた。
「次官様。その五人の方のお名前、ご存じ?」
「……存じております。あの場の者の名は、すべて覚えてまいりました」
「では、おひとりずつ」
次官は、宰相を見た。宰相は、止めなかった。
「大聖堂の、ベネディクト司祭」
「ベネディクト様」
セレナは、宰相の顔を見たまま、その名をくり返した。
宰相の手袋の指が、一本、内側へ折れた。
「侍女の、アンナ」
「アンナ様」
もう一本、折れた。
「侍女の、ゾフィー」
「ゾフィー様」
「殿下の侍従の、ヨアヒム」
「ヨアヒム様」
指が、四本折れていた。残っているのは、親指だけだった。
次官が、そこで言葉を止めた。
「それと……」
リタが、セレナの袖を引いた。
「セレナ様。聖女さまの名前まで、言うんですか」
「言いますわ」
セレナは、リタのほうを見ずに答えた。
「あの方には生きて、ちゃんと恥をかいていただかないと」
「……こわ」
リタが、小さく言った。
セレナは、宰相に向き直った。
「ミレーヌ・ラセル様」
宰相の親指が、ゆっくりと折れた。
手袋の手は、握り拳の形になった。宰相は、それを膝の上に置いたまま、しばらく動かなかった。
やがて、立ち上がった。
「……覚えるのは、苦手なのですが」
それだけ言って、宰相は戸口へ向かった。次官があとに続いた。
戸が閉まる前に、セレナは見た。
通りを遠ざかっていく宰相の右手は、まだ拳のままだった。
(せいぜい、鈍ってくださいまし)




