第27話: 自滅の連鎖
その朝、エルデンの使節のひとりが、他人の手紙を一通ふところに入れて和睦の卓に着いた。
ハーゲン伯という。エルデンでも指折りの古い家の当主で、セレナ・フェアミルの生家を、いまでも「薬屋あがり」と呼ぶ人である。フェアミル家が、三十年前に平民の医者から伯爵になった家だからだ。
手紙を書いたのは、海の向こうの聖女ミレーヌだった。三日前に書かれて、ハーゲン家の早馬で今朝の明けがたに公館に届いた。
伯は、これで卓がひっくり返ると信じていた。
ただ、その手紙が書かれたのは、ある欄に字が入る前のことだった。
会談から五十六日め。
縁組の書付には、セレナの入る家の名を書く欄がある。ずっと空いていたそこに、きのう、カルディアの公王が自分の手で字を入れた。カルディア公王家。婿は、公王の跡継ぎのジェラルドである。
写しは、その日のうちに公館のエルデン客間へ届けられた。公王家に入る者を毒女と呼べば、それはカルディアの公王家を呼んだことになる。公王はそう言って、写しを急がせたのだ。
伯のふところの手紙は、そのことを知らなかった。
伯のほうは、知っていた。ゆうべ宰相から聞かされ、写しも見せられている。それでも伯は、宰相の知らせより聖女さまの言葉のほうが重いと信じていた。
「でっ、殿下! おはようございます!」
リタが、調薬室の戸口で腰を直角に折った。
朝いちばんに顔を出したジェラルドは、戸口で足を止めた。胸に紋章を縫いとった、きのうの上着のままだ。
「……やめてくれ」
「だって、もう殿下なんでしょう? ゆうべ寝床で三十回くらい練習したんですよ」
「練習しなくていい」
セレナは乳鉢を置いて、前掛けで手を拭いた。
「おはようございます、殿下」
リタが、腰を折ったまま顔だけ上げた。
「セレナ様。それ、どっちの殿下です?」
「どっち、とは」
「セレナ様が殿下って言うとき、いつもエルデンの方のことじゃないですか。毎朝の匙の殿下」
セレナは、口を開けたまま考えた。
言われてみれば、そうだ。七年、殿下といえばあの方だった。この調薬室で口にした殿下も、たいていは海の向こうの寝台の上の人のことだ。
「……ややこしいですわね」
「ややこしいです」
「では、ジェラルド様はしばらくジェラルド様のままにいたしますわ」
「それでいい」
ジェラルドの返事は、ずいぶん早かった。
そのあいだに、棚の上のコハクが音もなく降りてきていた。ジェラルドの上着の裾から肩まで一気に駆けのぼり、胸の紋章に爪を立ててぶら下がる。
「あっ、コハクちゃん! そこ、公王家の!」
リタが悲鳴を上げた。ジェラルドはコハクを片手ですくって、爪を糸から一本ずつ外した。
「糸の一本くらい、どうということはない」
コハクは床に下ろされると、鼻を鳴らして棚の上へ戻っていった。セレナは笑いをこらえて、卓の引き出しから文を出した。
「ちょうどよかったですわ。これを、見ていただきたくて」
ゆうべ届いた、宰相の文である。細く、少しだけ震えた字が、用向きの三行と、結びのひと行を並べている。
公太子妃となられる方を、お返しくださいとは、もう申しません。
宰相府の門の書付は、外させます。
和睦の紙が書き上がるまで、私は公館の客間におります。
扉は、開けておきます。
ジェラルドは、上から下まで二度読んだ。
「門の書付というのは」
「エルデンの宰相府の門に貼ってある紙ですわ。テオさんが港で聞いてきてくださいましたの。殿下のお体の具合は外から入ったものの障り、と書いてあるそうですの」
リタが、干し棚の陰から顔を出した。
「外から入ったものって、なんです?」
「なんとでも読めますわね。でも、読む方はみんな毒と読みますの」
「あ」
「ですから、わたくしは毒女なんですのよ。宰相府の門に、そう読める紙が貼ってあるそうですもの。言う方も、あれが拠りどころになりますわ」
セレナは、文の二行めを指でなぞった。
「それを、外すとおっしゃっているの」
リタが、ぱっと顔を明るくした。
「じゃあ、セレナ様の悪口はもう終わりってことですね!」
「終わるかしら」
「え。終わらないんですか」
「口から出した言葉を引っこめるのが、お得意でない方もいらっしゃいますもの」
ジェラルドが、文から目を上げた。
「宰相は、今朝の卓でもこれを言うのか」
「おっしゃいますわよ。閣下は、書いたとおりになさる方ですもの」
セレナは文をたたんだ。それから、思い出したように付け足した。
「いちばん下のも、きっとほんとうに開けていらっしゃいますわ」
「扉か」
「ええ。あの方なら、手の幅ぶんくらいきっちり」
リタが、前掛けの端を握ったまま首をかしげた。
「でもセレナ様、腹は立たないんですか。ひと月も毒女って言われて」
「立ちますわよ。立ちますけれど」
セレナは、卓の上の帳面を開いた。エルザの朝のための盾の帳面だ。まだ一行目しか埋まっていない。
「腹を立てているあいだに線が一本でも引けるなら、いくらでも立てますわ。引けませんもの。もったいないですわ」
「……そういうとこですよね」
「どういうところですの」
「なんでもないです」
ジェラルドが、戸口のほうへ向き直った。
「行ってくる」
「いってらっしゃいませ。卓で何を言われても、お顔に出してはいけませんわよ」
「出さん」
リタとセレナは顔を見合わせた。どちらも、何も言わなかった。
公館の広間の卓は、いつもと同じ並びだった。
ひとつだけ違った。ジェラルドの椅子が、卓の端から真ん中へ移されていた。
朝のうちに、ロタールがそうしたらしい。きのうまで端に置いていた椅子を、誰にも訊かずに真ん中へ据えたのだ。当のロタールは、いつもの卓の端で羽根の筆を整えている。
カルディアの側は、ジェラルドとボルク卿、外務の文官が二人。
エルデンの側は、宰相ヴァルターと主席使者のエルンスト卿、それにハーゲン伯と、若い書記がひとり。
最初に口を開いたのは、エルンスト卿だった。
「公太子殿下には、このたびの御縁組まことにおめでとう存じます。本国に代わりまして、お祝いを申し上げます」
角のない、柔らかな声だった。宰相から言い含められてきたのだろう。
ジェラルドは、短くうなずいた。
隣で、ボルク卿が卓に肘をついた。
「殿下。……わしの舌が、まだ使者どのと言いたがっておりますでな。しばらくは大目に見てくだされ」
「好きに呼べ」
「では殿下で」
ボルク卿は、それきり前を向いた。
宰相が、手袋の手を卓の上で重ねた。
「本日は、和睦の紙の一行を書き直したく存じます。王太子殿下の御不例に触れた一行です」
宰相の声は、いつもどおり低く平らだった。
「その前に、ひとつお伝えしておきます。宰相府の門に貼らせておりました殿下の御容体の書付は、外させました。早馬は、ゆうべのうちに出してあります」
ジェラルドは、宰相の顔を見た。
今朝、調薬室で読んだ文の、二行めだった。書いたとおりになさる方、とセレナは言った。
「書き直す一行は、こういたします。王太子殿下の御不例は、王家の病による」
文官が、手もとの紙に書き留めた。ボルク卿は、腕組みをして黙っている。
「お待ちを」
声を上げたのは、ハーゲン伯だった。
白い口ひげをたくわえた、恰幅のいい男だ。ふところに手を入れて、封の切られた手紙を一通取り出した。
「その一行を書く前に、カルディアの方々にお聞かせしておくべきものがございます。わが家がお支えしてまいった聖女さまから、今朝届いたばかりの手紙でしてな」
エルンスト卿の笑みが、かすかに止まった。
「ハーゲン卿。それは、のちほど――」
「いや、いまでなくては」
伯は、手紙を広げた。
ジェラルドは、宰相を見た。宰相は止めなかった。手袋の手を重ねたまま、伯の手もとを見ているだけだった。
伯が、咽喉を整えて読みはじめた。
「宰相閣下が毒ではないと仰せになったのは、和睦をまとめるためのお優しい方便でございます」
伯は、ちらりと宰相のほうを見た。宰相は動かなかった。
「殿下のお体を蝕んだのは、あの薬屋あがりの女が盛っていた毒の名残。わたくしの祈りが、いまそれを祓っているところでございます」
ジェラルドは、膝の上で拳を握った。
卓の下だった。誰にも見えない。
「聞けば、あの毒女は海の向こうの公家に嫁ぐとか。どちらのお家かは存じませんが」
伯は、そこで少し声を張った。
「毒女を迎えた家は、いずれ杯に毒を盛られましょう。カルディアの方々にも、どうかそうお伝えくださいまし」
伯は手紙を下ろした。満足そうに、卓のこちらを見回した。
ジェラルドは、口を開かなかった。
きのう、小さな間で、セレナは自分の話を最後まで聞いた。ひとことも挟まずにだ。唇の内側を噛んでいたのも、ジェラルドは見ていた。
拳に、もう少し力を入れた。爪が、手のひらに食いこんだ。
最初に卓を叩いたのは、ボルク卿だった。
「わしは、あの娘を好かん!」
広間じゅうが、ボルク卿を見た。ハーゲン伯までもが、うなずきかけた。
「好かんがな。うちの公王家に入る娘を、よその国の者に毒女と呼ばせておけるか!」
伯の首が、途中で止まった。
ジェラルドは、卓の端へ顔を向けた。
「ロタール。いまの手紙は、書いたか」
「一字も、もらさず」
ロタールは、筆を止めずに答えた。
ハーゲン伯の顔から、少しずつ色が引いていった。
伯は、手紙と宰相の顔を見比べた。
「いや、これは聖女さまのお言葉でしてな。私の言葉ではござらん」
「ハーゲン卿」
手紙が読まれてから、宰相が口を開いたのはこれが最初だった。
「卓で読み上げた手紙は、読み上げた方の言葉です」
「なっ……」
「私は、ゆうべ卿にお伝えしたはずです。縁組の書付の欄に何と書かれたか。写しもお見せしました」
伯の口ひげが、震えた。
「それは伺いました。伺いましたが、閣下!」
伯は、手紙を卓に叩きつけた。
「毒女は、毒女でございましょう! エルデンの者なら、誰でもそう申しておりますぞ!」
ジェラルドは、拳をほどかなかった。
エルンスト卿が、椅子をわずかに引いた。伯から、指の幅ひとつぶん離れた。
宰相は、手袋の指を一本だけ持ち上げた。
「では、私が申し上げます。エルデンの宰相は、そうは申しておりません。門の書付も外させました。エルデンの者が誰でもそう申しているというのは、卿おひとりのお考えです」
「閣下こそ!」
伯は、立ち上がった。椅子が後ろへ倒れた。
「聞きましたぞ。閣下は海を渡ったその日に、あの娘の調薬室の列に並ばれたそうですな。王女殿下まで連れて。海の向こうで、いったい何を吹きこまれた!」
文官の筆が止まった。ボルク卿が、腕をほどいた。
宰相だけが、少しも顔色を変えなかった。
「並びました。いちばん後ろに」
それだけだった。言い訳も、言い返しもなかった。
宰相は、卓の端へ顔を向けた。
「ロタール殿。いまのも、お書きください」
「……承りました」
ロタールの筆が、また動きはじめた。
ハーゲン伯は、立ったまま口を開けていた。何か言おうとして、言葉が出てこないらしかった。
「ハーゲン卿には、今日の船でお帰りいただきます」
宰相は、倒れた椅子のほうを見もせずに言った。
「本日の卓の記録は、カルディアの式部官どのに写しをお願いいたします。その写しとこちらの手紙は、私の早馬で王都へ送ります」
伯の顔が、ひきつった。
「送る、とは……どちらへ」
「差出人に、お返しするだけです」
宰相は、卓の上の手紙を、手袋の指先で自分のほうへ引き寄せた。
若い書記が、倒れた椅子を起こした。ハーゲン伯は、それに座らなかった。誰の顔も見ないまま、広間を出ていった。扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
伯のあとを追って立つ者は、エルデンの側にひとりもいなかった。椅子を起こした書記は、伯の背中ではなく宰相の顔をうかがってから、自分の席に戻った。
エルンスト卿が、その書記に言った。声は低かったが、卓の向かいまで届いた。
「本国への今日の報せは、私の名で出す。ハーゲン卿の名は、使節の列から外しておきなさい」
書記は、黙って帳面に線を一本引いた。
エルンスト卿が、ジェラルドのほうへ向き直った。
「公太子殿下。本日の卿のお言葉は、エルデンの言葉ではございません。どうか、そのように」
「記録には、宰相の言葉も残っている」
ジェラルドは、それだけ言った。
宰相が、軽く頭を下げた。
「では、一行の書き直しに戻りましょう」
卓は、何もなかったように続いた。
ジェラルドは、卓の下で、ようやく拳を開いた。手のひらに、小さな半月の跡が四つ並んでいた。
隣で、ボルク卿が低く言った。
「使者どのなら、とうに卓を蹴っておったでしょうな」
「蹴らなかった」
「左様で」
ボルク卿は、ふん、と鼻を鳴らした。
「……公太子らしゅうなりおった」
ジェラルドは返事をしなかった。開いた手のひらの跡が、いまになって少し疼いた。
ジェラルドが調薬室に戻ってきたのは、夕方の鐘が鳴ってしばらくしてからだった。
リタは、市場へ買い出しに出ていた。コハクは窓辺で丸くなって、片目だけ開けてジェラルドを見た。
「おかえりなさいませ。卓は、いかがでした?」
「長かった」
ジェラルドは、いつもの椅子に腰を下ろした。卓の上に、ロタールの手による記録の写しを一枚置く。
セレナは、それを取ろうとして手を止めた。
ジェラルドの右手が、膝の上で軽く握られたままだった。指の間から、手のひらの赤いところがのぞいている。
「その手、見せてくださいまし」
「なんでもない」
「なんでもない手は、そんなふうに隠しませんわ」
ジェラルドは、少し黙ってから手を開いた。
小さな半月の形の跡が、四つ並んでいた。ひとつは、皮が薄くめくれている。
セレナは、棚から小さな壺を取ってきた。金盞花の花を油で煮て、蜜蝋で固めた軟膏だ。すり傷や、こういう小さな傷によく効く。
「卓の下で、ずっと握っていらしたのね」
「最後まで聞いた」
ジェラルドは、セレナの指が手のひらに軟膏をのばすのを、黙って見ていた。
「お前の真似だ」
セレナは、指を止めた。
それから、ふふ、と笑った。
「わたくしは、唇の内側でしたわ。手のひらのほうが、ずっと痛そうですわね」
「知っている。噛んでいた」
「……見ていらしたの」
「見ていた」
セレナは跡のひとつひとつに軟膏を置いてから、記録の写しを手に取った。
ロタールの、きちんとした字が並んでいる。
読み進めて、写された手紙の一行で目が止まった。
毒女を迎えた家は、いずれ杯に毒を盛られましょう。
「まあ」
セレナは、写しをジェラルドのほうへ向けた。
「わたくし、ジェラルド様のお杯は払い落とすほうですのに」
ジェラルドの口もとが、わずかにゆるんだ。
「父も、そこを買った」
「でしたら、この一行はずいぶん損な一行ですわね」
「ハーゲン伯は、今日の船で?」
「もう出た。手紙と記録の写しは、宰相の早馬で王都へ行く。差出人に返すそうだ」
セレナは、写しを卓に置いた。
海の向こうで、あの白い衣の人が自分の書いた手紙を受け取るところを、セレナは思い浮かべた。
「ハーゲン家は、もうあの方を支えませんわね」
「支えられんだろう」
「門の書付も外れて、宰相閣下も石段のお指図をお出しにならない。あの方の手もとには、もう何も残りませんの」
「自業自得だ」
窓辺のコハクが降りてきて、軟膏の壺に鼻を寄せた。セレナは壺に蓋をして、その鼻先を指で押し返した。コハクは不満そうに鼻を鳴らして、窓辺へ戻っていった。
「ええ。でも何も残っていないと、大きなことを言いたくなりますでしょう? 祈りで殿下を立たせてみせる、とか」
「言わせておけばいい」
「言うだけでしたら、それでよろしいの。でも、祈りで殿下を立たせると言ってしまったら、本当に立たせてみせる場がいりますわ」
セレナは、窓のほうを見た。窓の向こうに見えるのは、カルディアの夕方の屋根だけだ。
「見せる場所は、たぶんあちらの殿下の枕もとですわ」
ジェラルドは、しばらく黙っていた。
「……放っておけ、とは言わんのだな」
「言いませんわ。わたくし、あの方のために言っているのではありませんもの」
セレナは、盾の帳面の表紙に手を置いた。
「量りの紙が向こうに届いていれば、いまごろザイデル様が麦粒ひとつから組み直していらっしゃるはずですの。そこへ量を知らない方の手で何かが入ったら、組み直したものが全部無駄になりますわ。ザイデル様の朝も、わたくしの紙も」
それに、とセレナは言いかけて、やめた。
あの寝台の上の人も、まだ生きている。言わなくても、ジェラルドには分かるはずだった。
セレナは、椅子から立ち上がった。
「宰相閣下の早馬は、いつ出ますの」
「書付の便とは別に、手紙と写しの便は明日の明けがただと言っていた」
「では、今夜のうちですわね」
ジェラルドも立った。
「宰相のところへ、今からか」
「扉は開けておく、と書いてありましたもの」
セレナは、前掛けを外して椅子の背に掛けた。窓辺のコハクが、両目を開けた。
公館のエルデン客間は、廊下のいちばん奥にあった。
ジェラルドは、廊下の角で足を止めた。
「俺は、ここで待つ」
「よろしいの?」
「お前の話だ」
セレナはうなずいて、ひとりで廊下を進んだ。
扉は、開いていた。
ちょうど、手の幅ぶんだった。
セレナは、思わず小さく笑った。笑いを飲みこんでから、開いているところを指の背で二度叩いた。
「お入りください」
中から、低い声がした。
客間は、窓ひとつ、卓ひとつの、あの日と同じ部屋だった。違うのは、壁ぎわに運びこまれた長椅子に、小さな体が横になっていることだ。エルザが、大人の上着を掛けられて眠っていた。黒い上着だった。
宰相は、シャツの袖のまま卓に向かっていた。上着がどこへ行ったのかは、見ればわかった。手袋だけは、はめている。卓の上には、ロタールの記録の写しと、封の切られた手紙が一通並んでいた。
「夜分に失礼いたします、閣下」
「扉は、そのために開けてあります」
宰相は、筆を置かずに言った。
「ご用向きは」
「明日の早馬に、一行だけ書き足していただきたいのです」
セレナは、卓の前に立った。
「あちらの殿下のお口には、宮廷薬師の匙のほかは何ひとつ入れさせないでくださいまし。お水も、聖水も」
宰相の筆が、止まった。
宰相は、書きかけの紙をセレナのほうへ少しだけ向けた。次官に宛てた文だった。いちばん下の行に、もう字が入っている。
――殿下のお口と体に触れるものは、宮廷薬師の手を通ったもののほか、何ひとつ持ち込ませぬこと。
セレナは、その一行を読んだ。言おうとしていたことと、ほとんど同じだった。
「……書いてありましたのね」
「石段の祈りのときにも、同じことを書きました」
宰相は、紙を戻した。それから、卓の端の手紙を手袋の指で押しやった。
「書き足すまでもありません。ただ、こちらの日付をご覧ください」
セレナは、手紙の右上を見た。
丸みのある、きれいな字だった。日付は、三日前だった。
「これを書いた方は、三日前にもうこれだけのことを書いておられた」
宰相の声は、低く平らなままだった。
「そのあとの三日に何をなさったかは、私にも分かりません。この早馬が王都に着くのは、さらに三日のちです」
セレナは、手紙から目を上げた。
長椅子の上で、エルザが寝返りを打った。黒い上着の端が、床へ垂れた。
セレナは長椅子のそばにしゃがんで、垂れた上着の端を拾った。小さな肩まで、そっと掛け直す。宰相は筆を持ったまま、それを止めなかった。
海の向こうの三日と、これからの三日。そのどこにも、セレナの手は届かない。




