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婚約破棄された宮廷薬師ですが、隣国で溺愛されています 〜私を「薬係」としか見なかった王太子が寝込んでも、もう戻りませんわ〜  作者: 相川ことね


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第26話: 使者の正体

 迎えの馬車の扉には、紋章がひとつ打ちつけてあった。


 盾の形の中で、二本の鍵が交差している。朝の光を受けて、金具が鈍く光っていた。


 セレナは、この光り方を前にも見たことがある。


 雨の街道で、自分を拾ってくれた男の懐にだ。上着の合わせがわずかに開いた一瞬のことで、見間違いかもしれないと思いながら、帳面の一行にだけ残しておいた。


 その一行が、いま扉に打ってある。


 会談から五十五日め。安息日の明けた朝である。


 二日前、ジェラルドは調薬室に来てこう言った。安息日が明けたら城へ来てくれ。会わせたい人がいる。そこで全部話す、と。


 セレナが縁組の書付の家名の欄のことを、ジェラルドに初めて訊いた朝だった。自分がどこの家に入るのか。そこだけが、ずっと空いたままになっている。


 その「全部」の迎えが、いま調薬室の戸口に止まっていた。




「セレナ様、これ」


 リタが、布でくるんだ壺を差し出してきた。ゆうべ戸口のいちばん近くの棚に置いた、菩提樹の花の蜜だ。


「置いていったら、取りに戻れませんよ。あのお馬車じゃ」


 リタの目は壺にばかり向いていて、扉の金具のほうは見てもいなかった。


「忘れませんわよ。ゆうべから三度、確かめましたもの」


「四度めは、あたしが確かめておきました」


 リタは、壺の包みをセレナの腕に押しつけた。


 足もとでは、コハクが馬車の踏み段に前足をかけていた。ひげを震わせて、扉の金具のにおいを嗅いでいる。


「コハクちゃんは、だめ」


 リタが両手ですくい上げると、コハクは不満そうにきゅっと鳴いた。


「お土産を持って帰りますわね」


 セレナはコハクの鼻先を指でつついて、踏み段に足をかけた。


 馬車の中には、先客がいた。


 痩せた指を膝の上でそろえた、糊のきいた老人である。式部官のロタールだった。


「ロタール様。わざわざお迎えに?」


「本日は、何も申し上げぬよう言いつかっております」


 ロタールは、それだけ言って深く頭を下げた。


「どなたに?」


 老人は、もう一段深く頭を下げた。


 セレナは、ふふ、と笑って向かいに座った。この人は嘘をつけない。だから、黙ることにしたのだろう。


 馬車が動き出した。港へ下りる坂とは逆に、公都の北の丘へ上っていく。


 膝の上には、引っかかりを書きためてきた古いほうの帳面を一冊のせていた。


 セレナは、それを開かなかった。開けば、最後の一行に何か書いてしまいそうだったからだ。


 (数えるのは、ここまでにしておきますわ)


 窓の外で、丘の上の城の塔が少しずつ大きくなっていった。




 城の門をくぐると、テオが待っていた。


 いつもの着古した上着ではない。襟の高い紺の上着に、髪まできちんとなでつけている。


「先生。おはようございます」


 テオは、まっすぐな姿勢で頭を下げた。


「まあ、テオさん。どなたかと思いましたわ」


「俺もです。朝から首が苦しくて」


 テオは襟に指を入れて、情けない顔をした。それから、少しだけ声を落とした。


「旦那は、奥でお待ちです。俺は、ここから先はしゃべっちゃいけないことになってるんで」


「ロタール様と同じですのね」


「あの人と一緒にされるのは、ちょっと」


 ロタールが、後ろで小さく咳払いをした。


 通されたのは、東の端の小さな間だった。窓が一つあって、丘の下に公都の屋根と港が見える。


 ジェラルドは、その窓のそばに立っていた。


 セレナは、戸口で足を止めた。


 ジェラルドも、いつもの外套を着ていなかった。濃い色の上着の胸に、糸で紋章が縫いとってある。盾の中で交差する、二本の鍵。


 懐に隠れていたものが、今日は胸の上にあった。


「テオ。外せ」


「はい」


 テオは一礼して出ていった。扉が閉まる。


「座ってくれ」


 セレナは、卓の前の椅子に腰を下ろした。ジェラルドは向かいの椅子を引いて、座りかけ、そのまま立っていた。


 それから、やっと座った。


「先に言っておく。うまくは話せん。テオにも言われた」


 セレナは、うなずいた。口は開かなかった。


 ゆうべ、最後まで聞いて差し上げると決めたのだ。


「俺の名は、ジェラルド・カルディアだ」


 ジェラルドは、セレナの顔を見たまま言った。


「父は、この国の公王だ。俺はその跡を継ぐことになっている」


 窓の外で、鳥が一羽鳴いた。


「お前を拾った日、俺はエルデンから戻る途中だった。向こうの王宮がどう回っているのか、自分の目で見てこいと父に言われた。名を出せば、誰も本当のところは見せん。だから、ただのジェラルドで行った」


 ジェラルドは、卓の上で指を組んだ。


「名乗らなかったのは、最初は役目だったからだ」


「……」


「途中からは、違う。言えば、お前の口の利き方が変わると思った」


 彼は、少しだけ目をそらした。


「お前は、俺の顔を見るなり寝不足だの肩が張っているだのと言う。それがなくなるのが嫌だった」


 セレナは、膝の上で帳面の角を握った。何か言いたくて、唇の内側を噛んだ。


 (いけませんわ。最後まで、と決めたんですもの)


「それから、空いた欄のことだ」


 ジェラルドは、組んでいた指をほどいた。


「あれは父がまだ埋めていない。お前を公王家の帳面に書くか、よその家に入れてから嫁がせるか。今日、お前に会ってから決めると言っている」


「……」


「どっちになっても、お前をめとる気は変えん」


 ジェラルドは、そこで一度言葉を切った。


「以上だ」


 部屋が、しんとした。


 セレナは、しばらく待ってから口を開いた。


「もう、お口を挟んでもよろしくて?」


「……ああ」


「最後まで、ひとことも挟みませんでしたわ。あとでテオさんに伝えてくださいまし」


 ジェラルドの口もとが、わずかにゆるんだ。


「伝えておく」




「その前に、これを見ていただけます?」


 セレナは、膝の上の帳面を開いた。


 いちばん後ろの頁だ。調合の覚え書きとは別に、引っかかったことだけを書きためてきた頁だった。


 セレナは、帳面の向きを変えて卓の上に置いた。


 細く右へ少し傾いた字が、上から並んでいる。


  雨の街道。懐で光った金具。護衛の方々が声を落とす。

  テオさん「なんてったって旦――」

  毒卓。「待て」の一言で止まった衛兵。

  ただの使者が、身分を「与える」と言う口ぶり。

  モーリッツ様「若……」

  取り次ぎの方「ただいま陛下の――」

  御裁可、三日半。先例は三十年前の公王陛下の御婚礼。鐘は十二打。

  テオさん「ジェラ――旦那の隣に立つ役」

  ロタール様「御前におられます」

  テオさん「ジェラ……旦那の」

  答え。


 最後の行は、そこで終わっていた。答え、のあとに何も書いていない。


 ジェラルドは、帳面を上から下まで読んだ。もう一度、読んだ。


「……全部、書いてあるな」


「数えてはおりましたもの」


「テオのが三つある」


 扉の向こうで、何かが壁にぶつかる音がした。


「三つも!?」


 くぐもった声だった。


 ジェラルドは扉のほうを見もせずに言った。


「あとで話す」


 扉の向こうが、急に黙った。


 セレナは、こらえきれずに笑った。笑いながら、帳面の最後の行を指でたたいた。


「答えだけは、書かずにおきましたの」


「なぜだ」


「あなたのお口から伺うと、決めておりましたもの。わたくしの字で書いたら、ただの当て推量になってしまいますわ」


 セレナは、卓の上の筆立てから筆を一本取って、ジェラルドのほうへ差し出した。


「書いていただけます?」


 ジェラルドは、筆を受け取った。


 筆先を墨につけて、空いた行の上で一度だけ止める。それから、書いた。


 ジェラルド・カルディア。


 太くて角ばった字だった。途中で一度も止まらずに、最後まで書き終えた。


 セレナは、その名前をしばらく見ていた。


 雨の街道で「いまは、ただのジェラルドでいい」と言った人の、本当の名前だ。


「……まあ」


 やっと出た声は、自分でも思っていたより明るかった。


「いちばん大きなお家ですわね」


「家?」


「盾の話ですわ」


 セレナは、帳面の名前を指でなぞった。


「エルザ様の朝のための盾は、入るお家が大きいほど広く組めますの。公王家なら、いちばん広く組めますわ」


 ジェラルドは、しばらく黙ってセレナを見ていた。


 それから、片手で顔の下半分を覆った。肩が、小さく揺れた。


「……そこか」


「そこですわよ。大事なところですもの」


「ほかに、言うことはないのか」


「ございますわよ。ございますけれど」


 セレナは、帳面を閉じかけてやめた。名前の頁を開いたまま、膝の上に戻す。


「では、これからは殿下とお呼びしなくてはいけませんわね」


 ジェラルドの眉が、わずかに寄った。


「呼びたいように呼べ。だが」


 彼は、椅子に座り直した。声が一段低くなった。


「黙っていて、悪かった」


 セレナは、口を閉じた。


「だが、お前が惚れたのは使者の俺だ。それは、変わらない」


 小さな間に、その声だけが残った。


 セレナは、膝の上の帳面に目を落とした。開いたままの頁の、いちばん上の行。


  雨の街道。懐で光った金具。護衛の方々が声を落とす。


 その行の上に、指を一本置いた。


「では、そちらのほうも伺いますわ。ずっと前に済んでいる、とおっしゃいましたわね。いつからかは、言うとわたくしが調子に乗るから、言わないと」


 ジェラルドは、窓の外を見た。


「雨の街道だ」


「……え」


「お前は泥だらけで腹を空かせていて、その晩どこで寝るかも決まっていなかった。それで白湯と干し肉でひと息ついたかと思えば、人の寝不足を言い当てた。礼はいらんと言ったら、お代はいただきません、ときた」


 ジェラルドは、窓からセレナへ目を戻した。


「あの日、俺はお前が何者か知らなかった。薬師の腕がどれほどかもだ」


「……」


「それで、済んだ」


 セレナは、指の下の行を見た。


 朝が好きになったのはいつだと訊かれて、自分もそう答えたのだ。雨の街道、と。


 泥に頬をつけて倒れていた、あのひどい晩だった。


「……わたくしも、同じ日ですわ」


「知っている。お前が先に言った」


「では、どうしてあのとき」


「言うと、お前が調子に乗る」


 セレナは、行の上から指を離した。


「乗りますわよ。今日は、乗らせていただきますわ」


 それから、帳面を閉じた。


「それと、わたくしの番がまだですの」


 ジェラルドが、目だけこちらへ向けた。


「さっきの『いちばん大きなお家ですわね』は、取り消しますわ。わたくし、お家でお選びしたのではございませんもの」


 ジェラルドは、顔を窓のほうへ戻した。


 彼は、卓の上を指で一度だけ叩いた。


「なら、いい」


 扉の向こうで、誰かが鼻をすする音がした。




 セレナは帳面を脇に挟み、布の包みを抱えて、ジェラルドのあとについて廊下を歩いた。


 公王の書斎は城の奥にあって、思っていたより狭い部屋だった。


 壁一面に棚があって、巻いた地図が何本も差してある。卓の向こうで、一人の男が書きものをしていた。


 髪は半分ほど白い。顎の線が、ジェラルドとよく似ていた。


 男は、セレナたちが入ってきても顔を上げなかった。一行を最後まで書いてから、筆を置いた。


 卓の脇には、いつの間に先回りしたのか、ロタールが紙の束を抱えて立っていた。


「父上。連れてきました」


 ジェラルドが言った。


 男が、顔を上げた。


「そなたが、薬師セレナか」


 低く、静かな声だった。


 セレナは膝を折って、深く礼をした。


「セレナ・フェアミルにございます。お初にお目にかかります、陛下」


 公王ラインハルトは、セレナの頭のてっぺんから靴の先までを、ゆっくり眺めた。値踏みをする目だった。隠しもしない。


「面を上げよ」


 セレナは顔を上げて、布の包みを両手で差し出した。


「ささやかですけれど、菩提樹の花の蜜でございます。癖がございませんので、苦いお薬にも合いますの」


 ロタールが包みを受け取って、卓の端に置いた。公王はそれを横目で見た。


「余に、蜜か」


「はい。それと、陛下」


 セレナは、公王の目の下を見た。


「ゆうべは、あまりお休みになれませんでしたでしょう?」


 ジェラルドが、横で口を引き結んだ。


 公王の眉が、ほんの少し上がった。


「息子から聞いたとおりだな。挨拶より先に、人の寝不足を言う」


 セレナは、ちらりとジェラルドを見た。ジェラルドは、棚の地図を見ていた。


 (わたくしのこと、お父上にお話しになっていたのね)


「余も言うことを先に言おう」


 公王は、ロタールから紙の束を受け取った。縁組の書付だった。二枚めをめくって、卓の上でセレナのほうへ向ける。


 指の幅ほどの空白が、まだそこにあった。


「この欄は余が空けさせた」


「はい」


「毒卓で、跡継ぎの杯を払い落としたのはそなただ。跡継ぎの杯を見張れる者を、よその家に取られては困る。それで縁組を決めた」


 セレナは、息を止めた。


 あの日、トリカブトを仕込まれていた杯。自分がとっさに払い落としたのは、一介の使者の杯ではなかったのだ。


「だが、欄を空けさせたあとで、そなたは毒女と呼ばれた。毒女を公王家の帳面に書けば、エルデンとの揉めごとはそのまま公王家の揉めごとになる。よその家に入れてから嫁がせれば、揉めごとはその家で止まる」


 公王は、淡々と言った。


「だから、空けたまま置いておいた。今日、そなたを見て決める」


「承知いたしました」


「ひとつ訊く」


 公王の声は、少しも高くならなかった。


「エルデンは、なぜそなたを返せと言う。あちらの王太子の病について、そなたは何を知っている」


 書斎が、静かになった。


 セレナは、卓の上の空白を見た。それから、公王の顔を見た。


「申し上げられません」


「余はこの国の王だ。息子の妻になる者に訊いている」


「存じております。それでも、申し上げられません」


 セレナは、膝の前で手を重ねた。


「わたくしがお預かりしているものは、わたくしのものではございませんので」


 公王は、しばらく何も言わなかった。


 ロタールが、胸の前で手を組んだまま固まっている。


 やがて公王は、背もたれに体を預けた。


「息子と同じことを言う」


「……え」


「余は二度訊いた。二度とも、こやつは口を閉じた」


 公王は、顎でジェラルドを指した。


「父親にもだ」


 セレナは、ジェラルドを見た。


 ジェラルドは腕を組んで、窓のほうを向いていた。こちらを、見ようとしない。


 九つの春の話を、この人は調薬室の椅子で最後まで聞いていた。手の中の椀を卓に置いて、そのあとは一度も持ち上げなかった。


 あの話を、この人はお父上にさえ渡さなかったのだ。


 膝の前で重ねていた手を、セレナはぎゅっと握り合わせた。


「王に訊かれて口を閉じる女なら、公王家の内のことも外へは漏らすまい」


 公王は、筆を取った。


「余にとっては、それがいちばんの利だ」


 筆先が、空白の上に下りた。


 カルディア公王家。


 迷いのない、硬い字だった。ジェラルドの字と、どこか似ていた。


 セレナは、脇の帳面をそっと開いた。さっきの太くて角ばった字がある。ジェラルド・カルディア。


「ロタール」


「はっ」


「写しを一枚とって、今日のうちにエルデンの宰相へ届けよ。次の卓を待たずにだ」


「今日のうちに、でございますか」


「使節がまた口を開く前に、知らせておけ。公王家に入る者を毒女と呼べば、それはカルディアの公王家を呼んだことになる。向こうが口にする前に、どれだけ重い言葉か分からせておけ」


 ロタールが、深く頭を下げた。


 セレナは、一歩前に出た。


「陛下。ひとつだけ、お願いしてもよろしいでしょうか」


「言うだけ言え」


「春までに、盾をひとつ組みます。組めましたら、陛下の卓で見ていただきたいのです」


「何を守る盾だ」


「それも、いまは申し上げられませんわ」


 セレナは、にっこり笑った。


 公王は、黙ってセレナを見た。それから、口の端だけがわずかに動いた。笑ったのだと分かるまで、少しかかった。息子と同じだった。


「見るだけだ。買うかどうかは、余が決める」


「はい。お値打ちのほうは、春にご覧に入れますわ」


 公王は、もう書きものに戻っていた。


 セレナたちが戸口まで下がったとき、背中のほうで低い声がした。


「……蜜は、もらっておく」




 同じ日の夕方。カルディア公館の、エルデン客間。


 ヴァルターは、届いた紙を二度読んだ。


 縁組の書付の写しだった。式部官ロタールの添え状がついている。婚礼の触れには、嫁ぐ先の家名が書いていなかった。その欠けていたところに、今日の日付で字が入っている。


 カルディア公王家。婿は、ジェラルド。


 ヴァルターは紙を卓に置き、手袋の指で自分の顎をなぞった。


 調薬室の戸口で、柱に肩をつけて立っていた男の顔を思い出す。あのときひと呼吸ぶん長く見たのは、どこかで見た顎の線だったからだ。


 三十年前、エルデンの使節の末席から、若い公王の婚礼の杯を見たことがある。あの顎の線の息子なら、公太子だ。


 確かめはしなかった。確かめても、打てる手は増えなかった。


 問いの場で、彼は薬師を「海の向こうの公家に嫁ぐ方」と呼んだ。


 その公家が、今日から公王家になった。


 返せと言えるのは、相手がどこかの家の薬師であるうちだけだった。公太子妃を返せと言える国は、ない。


 取り返す道は、今日閉じた。王女殿下の九つの春は、こちらが何を書こうと近づいてくる。


 残った道は、一つしかなかった。あの娘が春までに組むと言ったものを、見ることだ。


 ヴァルターは、新しい紙を一枚引き寄せた。宛名を書く。


 宛名の一語のところで、筆が一度止まった。指の腹が、また少し鈍かった。それでも最後まで書き終えて、彼は封をした。




 調薬室に戻ったのは、日が傾きかけたころだった。


 戸を開けたとたん、リタが奥の作業台の向こうから飛び出してきた。


「おかえりなさい! で、ご両親へのご挨拶はどうでした!」


「お父上だけでしたわ」


「お父さん、どんな人でした?」


「公王陛下でしたわ」


 リタが、ぴたりと止まった。


 肩の上に、コハクがするすると登ってくる。セレナの手もとを嗅いで、壺がないと分かると、ひげを下げてセレナの襟もとに顔をうずめた。


「……え」


「蜂蜜は、陛下がもらっておくと」


「え、待ってください。公王さまって、あの公王さま? この国のいちばん上の?」


「ええ。そのお方ですわ」


「じゃあ、旦那様って」


 セレナは、帳面を開いて、いちばん後ろの頁をリタに見せた。


 リタは、引っかかりの行を上から読んでいった。読みながら、何度か「あっ」と言った。


 最後の行で、指が止まった。


「ジェラルド、カルディア」


 リタは、ゆっくり顔を上げた。


「カルディアって、この国の名前じゃないですか」


「そうですわね」


「そうですわね、じゃないですよ!」


 リタは帳面を両手で持ったまま、くるりと一回転した。


「セレナ様、それってお妃さまってことですよね? えっ。あたし、お妃さまの助手?」


「まだ婚礼の前ですわ」


「まだ、って!」


 コハクが、リタの声に驚いて棚の上へ逃げた。


 そのとき、戸が叩かれた。


 開けると、公館の若い使いが立っていた。手に、封をした文を一通持っている。


「エルデンの宰相閣下から、薬師さまへと」


 セレナは文を受け取った。


 封蝋はエルデンの宰相府のものだった。宛名の字は細く、少しだけ震えていた。


 カルディア公太子妃となられる、セレナ・フェアミル殿。


 セレナは、封を切った。


 用向きは、三行だった。


「セレナ様?」


 リタが、帳面を抱えたままのぞきこんでくる。


「何て書いてあるんです」


「閣下らしいことが書いてありますわ」


 セレナは文をたたみかけて、手を止めた。いちばん下の一行に、もう一度目を戻す。


 ――扉は、開けておきます。

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