第25話: 通じない祈り
毒ではない。
その一言が、早馬に乗ってエルデンの王都リューンに着いたのは、会談から五十二日めの夕方だった。
言ったのは、宰相ヴァルターである。海の向こうのカルディアで、和睦の紙を書き直す卓についたまま、自分の口でそう言った。王太子殿下のお体は、毒ではない。王家の病だ、と。
卓に並んでいたエルデンの使節は、その日のうちに国へ早馬を出した。
知らせはまず宰相府に入り、次の朝には宮廷の廊下に出た。そのまた次の朝には、王都じゅうが知っていた。
宰相府の門には、十日あまり前から一枚の書付が貼ってある。
――王太子殿下の御不例は、外より入りしものの障りによる。
門の前を通る人は、これまでずっと毒と読んできた。その同じ紙の前で、いまは誰もが足を止めて首をかしげる。
「毒じゃねえってんなら、聖女さまは石段で何を祓ったんだ」
答えられる者は、いなかった。
会談から五十四日め。安息日の朝である。
イレーネが寝室の扉を開けたとき、祈りの声はもう始まっていた。
朝の鐘が鳴って少しあとの、いつもの刻だ。粉を始めてから、今朝で三度めになる。後ろには、宰相府の次官がついてきていた。
寝台の脇の床に、白い衣が膝をついていた。
聖女ミレーヌだった。胸の前で指を組み、目を閉じ、よく通る声で祈りの言葉を唱えている。
枕元の小卓には、素焼きの小瓶がひとつ載っていた。口に白い布が詰めてある。大聖堂で聖水を持ち歩くときの瓶だ。
イレーネは、その小瓶から目を離さずに薬箱を下ろした。
「侍従どの。聖女さまは、いつから」
壁ぎわの侍従が、小さく答えた。
「夜明け前からでございます。鐘より、ずっと早く」
祈りの声が止まった。ミレーヌが目を開けて、こちらを振り向く。
「あら。お早いのね、宮廷薬師さま」
にっこりと笑った。白い頬に、寝不足の色はなかった。
「海を渡ったり、宰相府にお泊まりになったり。お忙しいこと」
泊まったのではない。錠を外から下ろされていたのだ。
イレーネは答えずに、寝台のほうへ回った。アロイスの手首を取る。
アロイスは、目を開けていた。天井のほうを見たまま、乾いた唇を動かす。
「胸が来た。それから喉だ。口も、さっきから苦い」
イレーネは、彼の手首に指を当てたまま顔を上げた。
訊く前に殿下のほうから言われたのは、覚えているかぎり初めてだった。それも、量りの紙に書いてある順のとおりに。
「指は、まだですね」
「まだだ」
脈は速い。けれど一昨日の朝ほど、跳ねてはいなかった。
「ねえ、宮廷薬師さま。お聞きになった?」
ミレーヌが、膝をついたまま声をかけてきた。
「宰相閣下が海の向こうで、毒ではないなんて仰ったんですって」
「聞きました」
「おかしなお話でしょう? でもね、わたくしには分かりますのよ」
ミレーヌは、立ち上がって衣の裾を払った。
「セレナさま、向こうの公家にお嫁入りなさるんですって。侍女たちが噂しておりましたわ。毒を盛った女だなんて、向こうの卓では口が裂けても言えませんもの。閣下は、和睦をまとめるためにお優しく言葉を選ばれただけ」
すらすらと出てきた。来る道で、何度もさらってきたような口ぶりだった。
「民の皆さまだって、ちゃんと分かっていらっしゃいますわ。ねえ、あなたはどう思って?」
「わたしは、殿下の脈を数えています」
イレーネは手首から指を外し、窓のそばの小卓の前に立った。
小卓には、昨日の乳鉢が残っていた。縁の欠けにちらりと目をやる。油紙の包みから小袋を出し、粉をほんの少しあけて乳棒で当たり直す。量りの紙を広げる。銀の匙で乳鉢の粉をすくい、紙の上の一行と見比べて、端を小刀の背で払う。もう一度見比べて、もう一度払う。
ミレーヌが、肩ごしにのぞきこんできた。甘い香油の匂いが近づく。
「そのお粉、何ですの」
答えたのは、寝台のアロイスだった。
「毎朝、飲んでいたものだそうだ」
ミレーヌの指が、衣の胸もとで止まった。
「……毎朝」
「ああ」
「それって、あの方の置いていったお薬なのね」
アロイスは何も言わなかった。イレーネも、何も言わなかった。
ミレーヌは、その沈黙を自分への答えに取ったらしかった。
「いけませんわ、殿下! 悪いものの元を、またお口に入れるおつもり?」
「聖女さま」
イレーネは匙を紙の上に置いた。
「三月前に、この粉が切れました。それから殿下はどうなりましたか」
「それは、毒の名残が抜けきらずに――」
「一昨日の朝、同じ粉を入れました。四半刻で、指の震えが狭まりました」
ミレーヌの唇が、半分ひらいたまま止まった。
「わたしに言えるのは、それだけです。毒かどうかは、分かりません」
「……たまたまですわ」
ミレーヌは、すぐに笑みを取り戻した。
「いいえ、たまたまでもないわね。石段の祈りが、十日あまりかけてやっと届いたのよ。大聖堂の石段から、ここまでは遠うございますもの」
イレーネは、湯冷ましを椀に注いだ。返事はしなかった。
祈りが届いたのなら、粉の切れていた三月のあいだにも届いていたはずだ。言えば言い返されるだけなので、口には出さなかった。
「今朝は、わたくしが祈りますわ。お粉なんて要りません」
ミレーヌは寝台の脇へ戻り、もう一度膝をついた。
「見ていらして、殿下」
祈りが始まった。さっきより大きな声だった。
イレーネは、粉を椀に落とした。匙は鳴らさなかった。今朝は、二度鳴らしてくれとは頼まれなかった。
椀を持って振り向いたとき、それが来た。
敷布の上のアロイスの右手で、指先が細かく震えはじめた。胸、喉、口、それから指。今朝も、紙のとおりの順だった。
祈りの声が、ほんの少し揺れた。
ミレーヌは祈りの言葉を続けたまま、両手を伸ばした。震えるアロイスの手を、上から包みこむ。白い指が、震えを指ごと覆い隠した。
「ご覧にならないで、殿下。見ると、お心が弱りますわ」
祈りの合間に、甘い声でささやく。
イレーネは、椀を持ったまま立ち止まった。壁ぎわの侍従が、その手から目をそらした。
止めているのではなかった。隠しているのだ。手のひらの下で、指はまだ震えている。
「……離せ」
アロイスが言った。
「殿下、いまは――」
「手を、見せろ」
アロイスは、自分の手をミレーヌの両手の下から引き抜いた。それだけで息が上がった。
敷布の上に、震える指が戻った。彼はそれを、まっすぐ見下ろした。
イレーネは寝台のそばへ寄り、彼の首の後ろを片手で支えた。椀を口もとへ運ぶ。アロイスは、指から目を離さないまま飲んだ。
祈りの声は、まだ続いていた。誰も、それを止めなかった。
四半刻を、アロイスは自分の手だけを見て過ごした。
イレーネはその手首に指を当てて、脈を数えた。ミレーヌは祈りを終えて、寝台の脇に立っていた。
やがて、震えの幅が狭まりはじめた。
震えは、まだ残っている。それでも、さっきまで敷布を擦っていた指先が、布の上で静かになっていく。
「ほら、殿下」
ミレーヌの声が明るくなった。
「お祈りが、届きましたわ」
アロイスは返事をしなかった。顔も上げなかった。
「殿下?」
「静かにしてくれ」
彼は、自分の指を見たまま言った。
「数えている」
ミレーヌは笑った顔のまま、何も言えなくなった。組んでいた指が、衣の胸もとをきつく握った。
イレーネは手首から指を離した。
この人は、一昨日の朝に見たことを、今朝は自分の目で確かめようとしている。殿下が自分の手をこんなふうに見るのを、イレーネは初めて見た。
「……狭まった」
しばらくして、アロイスが言った。
「はい」
「明日も、この刻に来い」
「参ります」
ミレーヌは何も言わなかった。枕元の小卓から素焼きの小瓶を取って、袖の中にしまった。誰にも頼まれていないのに、そうした。
それから、扉の脇に立っている次官のほうを向いた。声は、もういつもの甘さに戻っていた。
「次官さま。次の安息日には、また石段に立たせていただけるのでしょう? 今度は、わたくしの言葉で祈りますわ」
「閣下から、そのようなお指図は届いておりません」
「では、閣下にお伺いを立ててくださいな」
「早馬で三日、お返事が戻るのにまた三日かかります」
次官は、いつもと同じ顔で答えた。
「それなら、次の安息日には間に合いますわね」
「閣下がお返事をくださるなら、でございます」
ミレーヌの口もとから、笑みが引いた。
「……そう」
ミレーヌは窓のそばの小卓のほうへ向き直った。そこには、量りの紙が広げたままになっていた。
白い指が、紙をつまみ上げた。
「これは、なんですの」
「量りの紙です」
「胸の高鳴り、喉の渇き……まあ。まるで、殿下のことをずっと見ていたみたい」
ミレーヌは紙をひっくり返して、裏まで見た。
「どなたがお書きになったの。名前もないわね」
「薬師の字です」
「誰が書いたかも分からない紙で、殿下のお薬を量っていらっしゃるの?」
ミレーヌは、くすりと笑った。
「こういう出どころの知れないものは、不浄ですわ。炉で浄めていただきましょう。侍従、これを――」
イレーネは、ミレーヌの指から紙を抜き取った。
自分でも、思っていたより手が速かった。
「これは、焼かせません」
ミレーヌが、目をまるくした。
不浄。浄める。炉。
あの日の夕方にも、同じ言葉を聞いた。あの女の残したものは不浄だから、浄めよ。薬師団の炉の前で、イレーネは何も言わなかった。帳面が火の中で反っていくのを、黙って見ていた。
同じ言葉を、二度は聞き流せなかった。
「この紙がなければ、明日の量りができません。殿下のお体にかかわるものは、わたしの名で預かっています」
「まあ。ずいぶん怖いお顔」
ミレーヌは肩をすくめて、笑った。
「よろしいわ。そんな紙切れ一枚、わたくしは別に」
白い衣の裾をひるがえして、ミレーヌは寝室を出ていった。
アロイスは、閉まった扉を見なかった。敷布の上の自分の手を、まだ見ていた。
イレーネは紙を四つにたたみ、薬箱ではなく、胸もとの内側にしまった。
廊下に出ると、ミレーヌが待っていた。
柱の陰に立って、さっきとは別人のように声を落とす。次官は、まだ寝室の中にいた。
「ねえ。ザイデルさん、とおっしゃったわね」
「はい」
「さっきのお粉、ほんの一つまみ分けてくださらない?」
イレーネは足を止めた。
「何に、お使いに」
「わたくしの聖水に溶かすだけよ。ひとくち殿下に差し上げて、お祈りをするの。それで殿下が楽になれば、皆さま安心なさるでしょう?」
ミレーヌは、両手を胸の前で合わせた。
「あなたのお手柄を取ろうなんて思っていませんのよ。ただ、民の皆さまにお見せするものが要るの。分かってくださるでしょう?」
「お断りします」
「どうして」
「量を知らない人が入れれば、殿下はお命にかかわります」
ミレーヌの笑みが、一瞬だけ固まった。
けれど、すぐにまた甘くなった。
「怖いことをおっしゃるのね。……ねえ。宮廷の皆さまがあなたをなんと呼んでいるか、ご存じ? 毒女のお仲間、ですって。わたくしが一言とりなせば、そんなお噂すぐに消えますのに」
「もう、毒ではないそうですよ」
イレーネは言った。
「宰相閣下が、海の向こうの卓でそうおっしゃったのでしょう」
ミレーヌは答えなかった。
目だけが、廊下の窓のほうへ動いた。窓の向こうには、大聖堂の尖塔が見えていた。安息日の礼拝の鐘が、ちょうど鳴りはじめたところだった。
「……いいわ」
ミレーヌは、袖の中の小瓶を指でなぞった。
「お粉の出どころなんて、宰相府に訊けばすぐ分かりますもの」
そう言って、白い衣は廊下の角を曲がっていった。
イレーネは、その背中を見送った。
粉はどこから来るのか。イレーネも、それを宰相府に訊いた。答えの代わりに来たのは、名を入れよという書付だった。断ると、外から錠の下りる部屋に入れられた。
胸もとの紙に、服の上から手を当てる。
三月、あの人は殿下の枕元に通っていた。あの手を、何度も見ていたはずだ。胸が先で、指が最後。そんな順があることを、たぶん一度も考えなかった。
殿下の手を握る自分が、人の目にどう映るか。あの人は、たぶんそれだけを見ていたのだろう。
鐘は、まだ鳴っていた。
同じ安息日の朝。海の向こうの、カルディア公都。
港へ下りる坂の途中に、小さな聖堂がある。
「セレナ様、こっちです。真ん中の列は、お年寄りの席なんで」
リタに袖を引かれて、セレナは端の長椅子に腰を下ろした。
安息日には聖堂に行くのだと、リタは昨日の夕方に言った。安息日が明けたらお城なんですから、神様にも一言ご挨拶しといたほうがいいですよ、と。それで、朝ごはんの前に連れ出されたのだ。
コハクは、留守番である。出がけに戸の前で鼻を鳴らしていたから、帰ったらきっと拗ねている。
司祭の声は低く、のんびりしていた。港の水夫や、坂の上の洗濯屋のおかみさんや、まだ眠そうな子どもたちが、ぽつりぽつりと頭を下げている。
セレナも、手を組んで目を閉じた。
少しのあいだ、そのままでいた。
聖堂を出ると、坂の下から潮の匂いが上がってきた。朝の光が石段の上に白く溜まっている。
「セレナ様も、ちゃんとお祈りするんですね」
「あら。わたくし、そんなに罰当たりに見えまして?」
「だって、お薬の人じゃないですか。祈ってる暇があったら煎じろ、とか言いそう」
セレナは、ふふ、と笑った。
「祈りは、お薬の代わりにはなりませんわ。でも、待っているあいだの手のやり場にはなりますの」
「手のやり場」
「ええ。手が空いていると、つい余計なことまで考えてしまいますでしょう?」
「セレナ様の場合、余計なことのほうが多そうですもんね」
リタは、きっぱりうなずいた。
「で、何をお祈りしたんです?」
セレナは、少し考えた。
「量りの紙が、ザイデル様の手もとに届いていますように、と」
リタが、まばたきをした。
「届いてないかもしれないんですか」
「分かりませんの。閣下のお返事は『考えます』でしたもの。向こうの話が船で来るのも、どうしたって何日も先ですわ」
問いの場から、今日で六日。量りの紙は宰相の懐に入ったきり、そのあとのことは何ひとつ聞こえてこない。
「分からないことは、お祈りするしかございませんわ」
「なんか、セレナ様がそう言うとちょっと怖いです」
「どうしてですの」
「いつも、分からないことなんかないって顔してるから」
セレナは、返す言葉を探して、見つからなかった。
リタは、坂の下の海のほうを見た。
「向こうの聖女さまも、今朝はお祈りしてるんですかね」
「していらっしゃるでしょうね。どなたよりも大きなお声で」
「でも宰相さん、卓で毒じゃないって言ったんですよね。それが向こうに届いたら、聖女さま困るでしょうね。石段で何を祓ったんだって」
「困っていらっしゃるでしょうね」
「分かりませんって言えば済むんじゃないですか。あたしだったら、そう言いますけど」
セレナは、首を横に振った。
「あの方は、分かりませんとだけは言えない方ですもの」
「なんでです」
「言ったら、聖女さまではなくなってしまいますのよ」
分かりませんと言えるのは、自分で量って確かめられる人だけだ。聖女さまは、自分では何ひとつ量れない。
セレナには、そこが少しだけ気の毒だった。ほんの少しだけ。
(それでも、殿下のお口に何を入れるかを口先で決められては、困りますけれど)
そのとき、坂の下から声がした。
「先生ー! リタちゃんもー!」
テオだった。籠をひとつ抱えて、石段を一段飛ばしで上がってくる。籠の中で、赤紫の李がころころ転がっていた。
「港のマイス親方からです。安息日だから、水夫の口に入る前に持ってけって」
「まあ、きれいな李。テオさん、お祈りは?」
「俺はほら、港で潮風に祈ってきたんで」
リタが、あきれ顔で李を一つ取って、かじった。
昼過ぎの調薬室は、李の甘い匂いでいっぱいになった。
コハクは案の定、拗ねていた。棚のいちばん上で背中を向けたまま、セレナが李を半分に割って差し出しても振り向かない。三度めで、やっと尻尾だけがこちらへ揺れた。
「お許しいただけまして?」
コハクは李をくわえて、棚の奥へ引っこんだ。それで許してくれたらしい。
テオは窓辺の椅子に陣取って、李の種を手のひらで転がしていた。帰るそぶりがない。
「テオさん。今日はずいぶん、ゆっくりなさいますのね」
「いやいや。安息日ですから」
「巡回は?」
「安息日ですから」
リタが、干し棚の向こうから顔を出した。
「明日のお城って、テオさんも行くんですか」
「そりゃあ、ジェラ……旦那の」
テオが、李の種を取り落とした。種は床を転がって、セレナの靴の先で止まった。
「旦那の、お供ってやつで。ええ」
セレナは種を拾って、卓の上に置いた。
「テオさん」
「はい」
「明日のことは、ひとことも言わないでくださいまし」
テオが、口をあけたまま止まった。
「全部話すとおっしゃったのは、ジェラルド様ですもの。ほかの方のお口から先に聞いてしまったら、あの方がお話しになる楽しみが減ってしまいますわ」
「……減りますかね」
「減りますわ。お料理だって、つまみ食いをされたらお皿が寂しくなりますでしょう?」
「先生のたとえ、いつも腹が減るやつだ」
テオは笑った。けれど、その笑い方は、いつもより少しだけ短かった。
リタが、干し棚の陰から出てきた。手を前掛けで拭きながら、セレナの隣に腰を下ろす。
「でも、セレナ様。ほんとに気にならないんですか、お家の名前」
「気になりますわよ。盾を組むのに要りますもの」
「盾、ですか」
「エルザ様の朝のための盾ですわ」
セレナは、卓の上の帳面を指でたたいた。一行目しか埋まっていない、あの帳面だ。
「わたくしが入るお家が大きければ、その盾で守れる卓も広くなりますの。小さければ、小さいなりの組み方を考えます。どちらにしても、知らないままでは線一本も引けませんもの」
「じゃあ、盾のためだけなんですか」
リタは、ずいぶんまっすぐに訊いてきた。
セレナは、すぐには答えなかった。
政略のお話を受けると決めた日のことを、思い出していた。あの日は迷った。腕と立場で手を組むのだと、自分に言い聞かせてから返事をした。家の名前で相手を選ぶつもりがなくなったのは、いつからだったろう。
「最初は、腕と立場の取引のつもりでしたのよ。でも、お家の名で選ぶ気は、いつのまにかなくなっておりましたの」
「え」
「何もご存じない相手に外套をお貸しになった方ですもの。それで、十分でしたわ」
リタが、前掛けの端を握ったまま固まった。
窓辺で、テオが李の種をもう一度取り落とした。今度は拾わなかった。
「セレナ様、それ」
「なんですの」
「それ、ご本人に言ってあげてくださいよ」
「言いませんわ」
セレナは、すました顔で帳面を閉じた。
「明日は、あちらがお話しになる番ですもの。わたくしの番は、そのあとですわ」
テオが、窓の外を向いて小さく咳払いをした。耳の先が、なぜか赤かった。
夕方、テオがやっと腰を上げた。
「明日の朝は、迎えをよこすそうです。先生は、待ってるだけでいいんで」
「あら。待つのは得意ではございませんのに」
「知ってます」
テオとリタが、同時に言った。
セレナは棚の前に立って、蜂蜜の壺を一つずつ手に取っていた。夏のさかりに港の丘の蜂飼いを訪ねてから、何度か通って分けてもらった。色の濃いものから薄いものまで、全部で五つある。
「先生、それ何してるんです」
「手土産を選んでおりますの。会わせたい方がいらっしゃるのでしょう?」
「お城に、蜂蜜持ってくんですか」
リタが、ぱちぱちと瞬いた。
「初めてお会いする方には、甘いものからですわ」
セレナは、いちばん色の薄い壺を光にかざした。菩提樹の花の蜜だ。癖がなくて、苦い薬にも、お茶にも合う。
「どなたにお会いするのか存じませんけれど。甘いものがお嫌いな方には、まだ一度もお会いしたことがございませんもの」
テオが、戸口で振り返った。
何か言いかけて、口を閉じた。それから、もう一度だけ口をひらいた。
「先生。明日、旦那が何を言っても」
「ええ」
「一回だけ、最後まで聞いてやってください。あの人、しゃべるのが下手なんで」
セレナは、壺を胸に抱えたまま首をかしげた。
「わたくし、人のお話を途中で遮ったことがございまして?」
テオは答えずに笑って、戸を閉めた。
干し棚の陰で、リタが小さく言った。
「けっこうありますよ」
「リタ」
「はーい」
セレナは、菩提樹の蜜の壺を布でくるみはじめた。結び目を作りかけて、手が止まる。
(明日は、最後までひとことも挟まずに聞いて差し上げますわ)
(……たぶん)
セレナは結び目をきゅっと締めて、壺を戸口のいちばん近くの棚に置いた。明日の朝、いちばん先に手に取れるように。




