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婚約破棄された宮廷薬師ですが、隣国で溺愛されています 〜私を「薬係」としか見なかった王太子が寝込んでも、もう戻りませんわ〜  作者: 相川ことね


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第24話: 震える手

 王太子アロイスは、二十三年のあいだ、自分で湯を沸かしたことがない。


 椀に湯を注いだことも、匙で何かをかき混ぜたことも、たった一夜をのぞけば一度もない。王宮では、それで困ることは何もなかった。湯は呼べば来たし、椀は手を出せばそこに載った。


 薬なんて、誰が淹れても同じだろう。


 そう言って、彼は婚約者の宮廷薬師セレナとの婚約を破り、国から追い出した。淹れたことのない人間にしか、言えない言葉だった。


 会談から五十二日め。エルデンの王都リューン。


 海の向こうのカルディアから、宰相ヴァルターの早馬が宰相府に駆けこんだのは、前の日の昼だった。その日の夕方、宰相府の奥の小部屋の錠が、十日ぶりに外から開いた。


 中にいたのは、宮廷薬師イレーネだった。




 朝の鐘が鳴って少しして、寝室の扉が叩かれた。


 アロイスは、目だけをそちらへ動かした。首を回すと、天井が遅れてついてくる。この十日ほど、ずっとそうだった。


 入ってきたのは、宰相府の次官だった。黒い上着の、痩せた男だ。その後ろに、薬箱を提げた女が一人続いた。


 灰色の平服に、ひっつめた髪。目の下に、くまがある。


「……イレーネか」


「はい。殿下」


 十日あまり、この顔を見ていなかった。医師は朝と晩に来て、脈を診ては首を振って出ていった。この女だけが、来なくなっていた。


「どこにいた」


「宰相府におりました」


「なぜだ」


「書付に名を入れるのを、お断りしましたので」


 それだけ言って、イレーネは窓のそばの小卓に薬箱を置いた。次官は扉の内側に立ったまま、こちらへは来なかった。


「書付とは、なんだ」


「殿下のお体のことを書いて、宰相府の門に貼り出す紙です。外から入ったものの障り、と書いてありました」


「外から」


「門の前で読む人は、毒と読みます」


 アロイスは、枕の上で目を細めた。


「毒ではないのか」


「分かりません。分からないことは、わたしの名では書けません」


 イレーネは、それで話を切った。薬箱の留め金を外す音がした。


 毒だ、とミレーヌは何度も言った。薬屋あがりの女が盛った毒の名残だ、と。この女は、分からないと言う。どちらが正しいのか、アロイスには考える息が残っていなかった。


 イレーネは、薬箱から油紙の包みを出した。


 手のひらに載るほどの、小さな包みだった。紐の結び目が、きっちりと固い。


 その包みを見たとき、アロイスの胸がとんと一度だけ跳ねた。


 どこかで見た形だった。どこで見たのかは、思い出せない。


 イレーネは包みをほどいた。中から、白い粉を入れた小袋が出てきた。彼女は袋の口を開けて、指先をそっと底まで入れた。


 しばらく、そのまま動かなかった。


「……粗い粒が、残っていますね」


 誰に言うでもなく、つぶやいた。


「次官どの。調薬室から借りてきた乳鉢を」


 次官が、扉の脇に置いていた包みを持ってきた。布をほどくと、白い石の乳鉢が出てきた。


 縁が、ひとところ欠けていた。


 アロイスは、その欠けを見た。


「それは」


「調薬室の棚にあったものです。縁は欠けていますが、使えます」


 イレーネは、乳鉢を小卓に据えた。


「猫が落としたそうですよ。見習いがそう申していました」


 アロイスは、乳鉢から目をそらした。


 あれは猫ではない。あの夜、壁を伝って調薬室まで下りて、自分で薬をつくろうとした。手当たりしだいに草を放り込んで、飲んで、全部戻した。乳鉢はそのとき床に落とした。侍従には、猫が入ったと言った。


 イレーネは、その乳鉢に袋の粉をほんの少しあけて、乳棒を回しはじめた。


 ごり、ごり、と低い音がした。乳棒が、鉢の底で小さな円を描く。速くもなく、遅くもない。同じ速さで、何度も。


「何をしている」


「粒をそろえています」


「粉は、粉だろう」


「粗い粒がひとつ混じれば、麦粒ひとつが二つになります」


「……それで、何が違う」


「殿下のお体が、違います」


 アロイスは、その手を見ていた。


 自分があの夜に引いた薬研は、どこへ転がるかも分からなかった。この女の乳棒は、同じところを同じ速さで回り続けている。


 やがてイレーネは乳棒を置き、薬箱から一枚の紙を出して、小卓の上に広げた。


 それから、小さな銀の匙を取った。


 匙の先に、粉をほんの少しだけすくう。紙の上の何かと見比べて、端を小刀の背で払った。もう一度見比べて、もう一度払った。


 匙の上に残ったのは、目を凝らさないと見えないほどの白だった。


「……それだけか」


「麦粒ひとつぶんです」


「麦粒」


「はい。これより多くても、少なくてもいけません」


 イレーネは、椀に湯冷ましを注いだ。匙を椀の上で傾ける。粉は、音もなく湯に落ちた。


 アロイスは、待った。


 匙が椀のふちを二度叩く、あの音を。


 鳴らなかった。


 イレーネは匙を紙の上に置き、椀を持って寝台のそばへ来た。それで終わりだった。


 音がないまま、椀が来た。


 アロイスは、右の手のひらを上に向けようとした。指が、細かく震えている。椀を載せたら、こぼれる震え方だった。


「わたしが持ちます」


 イレーネは片手で彼の首の後ろを支え、もう片方の手で椀を口もとへ運んだ。


 ぬるい水だった。何の味もしなかった。


「……味が、せんな」


「味のするものでは、ありません」


「前のは、もう少し苦かった気がする」


「量が違います。前は、これよりずっと多かったはずです」


 飲み終えると、イレーネは椀を引いて、彼の顔を見た。手首に指を当てる。目を伏せて、何かを数えている。


「四半刻、このままでお待ちください」


 四半刻が、こんなに長いものだとは知らなかった。


 窓の外で、中庭の木が風に鳴った。夏の終わりの、乾いた音だった。侍従は壁ぎわで息を殺している。次官は扉の内側から動かない。


 イレーネだけが、ときどき彼の手を見た。


「宰相は、まだ戻らんのか」


「存じません。文は、昨日着きました」


「なんと書いてあった」


「包みを渡すこと。添えた紙の量りで始めること。わたしが伺ったのは、それだけです」


「それだけで、お前を出したのか」


「はい」


 あの男らしい、とアロイスは思った。宰相の文は、いつも短い。短くて、何も訊き返せない。


 そのうちに、アロイスは気づいた。


 敷布の上の右手。その指先の震えが、さっきより少しだけ狭い。


 なくなったのではない。粉が切れてから初めて、震えの幅が目で分かるほど小さくなっていた。


「……効いたのか」


「まだ分かりません。明日の朝、お顔と脈を見て決めます」


「何を飲ませた」


 イレーネは、少し黙った。


「殿下が毎朝召し上がっていたものと、同じ包みです」


「毎朝」


「はい」


 椀のふちで匙が二度鳴る。そのあとで手のひらに椀が載って、飲むと、その日が始まった。


 あれが、これだったのか。


「誰が、量れと言った」


 イレーネは、小卓の上の紙を取ってきて、彼の顔の前に広げた。


「これです」


 紙には、細かい字がびっしり並んでいた。


 初めの量。どうなったら量を上げ、どうなったら待つか。そのあとに、こう書いてあった。


 ――胸の高鳴り、喉の渇き、口の苦み、指の震え。翌朝この順に来るうちは、まだ足りない。量は上げず、一日待つこと。


 アロイスは、その一行を二度読んだ。


 胸の高鳴り。喉の渇き。口の苦み。指の震え。


 この三月、毎朝、目を開けるとその順に来た。胸が先に騒いで、それから喉が渇いて、口が苦くなって、最後に指が震えだす。誰にも話したことはない。医師にも、侍従にも、ミレーヌにも。順番があることは知っていた。だが、それが紙に書けるほど決まったものだとは、考えたこともなかった。


 それが、紙に書いてある。


 自分が言葉にするより先に、誰かがこの順を知っていた。


「誰の、字だ」


「名前は、書いてありません」


 イレーネは、紙のいちばん下を指で示した。最後の行のあとは、白いまま空いていた。


「お前は、この字を知っているのか」


「カルディアで九日、同じ卓で帳面を見せ合いました」


 アロイスは、紙の字をもう一度見た。


 細くて、右へ少し傾いた字だった。払いが短い。急いで書いたのに、一画も崩れていない。


 知らない字だった。


 婚約していた何年ものあいだに、あの女の書いたものを、一行でも読んだことがあったか。


 なかった。


 この女は、九日で覚えた。自分は、何年かけても覚えなかった。


「……セレナか」


 声が、自分でも驚くほどかすれていた。


「名前は、書いてありません」


 イレーネは、同じことを同じ声で言った。それから紙をたたんで、薬箱にしまった。




 その夜、アロイスは侍従を呼んだ。


「紙と、筆を持ってこい」


 侍従は一瞬、聞き違えたような顔をした。それから黙って出ていき、紙と筆と墨と、膝に載せる板を持って戻ってきた。


 侍従が背に枕を重ね、アロイスは寝台の上に半分だけ起きた。板を膝に置く。


「お手もとを、お支えいたしましょうか」


「いらん」


「では、墨だけ」


 侍従が硯を板の端に寄せた。アロイスは筆を、右の指で握った。


 握れた。


 調印の壇では、拳ごと掴まなければ持てなかった。今夜は、指で持てている。麦粒ひとつぶんの粉で、ここまで戻るのか。


 アロイスは、紙のいちばん上に、名前を書いた。


 セレナ。


 一画目が太くなった。二画目は揺れた。それでも、読めた。


 読める、と思ったら、次の行で止まった。


 何を書けばいいのか、分からなかった。


 筆を紙に下ろした。書きだしてから考えようとした。筆は、紙の上で勝手に揺れた。止めようとすると、もっと揺れた。


 二行目は、線が絡まって固まった黒い塊になった。


 アロイスは、その塊を見た。


 自分が何と書こうとしたのか、自分でも読めなかった。


 もう一度、書こうとした。今度は、何を書くかを先に決めようとした。


 決められなかった。


 来てくれ、とは書けない。戻れ、とも書けない。どちらも、追い出した者が書く言葉ではない。


 あの日、自分はあの女の薬を「誰でもできる」と言ったのだ。その口で、何を書けばいい。


 筆の先から、墨がひとしずく落ちた。名前の下に、丸い染みができた。


「……殿下」


 侍従が、遠慮がちに声をかけた。


「お捨ていたしますか」


 アロイスは、紙を見たまま首を振った。


「たたんで、引き出しに入れておけ」


「かしこまりました」


 侍従が紙をたたむとき、名前の行だけが、ちらりと外に見えた。


 一画目の太い、震えた字だった。




 翌朝、イレーネは昨日と同じ刻に来た。


 次官も、昨日と同じところに立った。


 イレーネは、まずアロイスの顔を見た。目の下、唇、それから右手。手首に指を当てて、目を伏せて数える。


「胸は、騒ぎましたか」


「騒いだ。昨日より、遅かった」


「喉は」


「渇いた」


「指は」


「……まだ来ておらん」


 イレーネは、少しだけ頷いた。


「今朝も、麦粒ひとつです。上げません」


 彼女は昨日と同じように、欠けた乳鉢で粉を当たり、匙で量り、小刀の背で端を払った。湯冷ましの椀を用意する。


 匙を椀の上へ持っていこうとしたとき、アロイスは言った。


「待て」


 イレーネが顔を上げた。


「私が、入れる」


「殿下」


「入れるだけだ。量ったのは、お前でいい」


「こぼせば、今朝のぶんはなくなります」


「また量ればいい」


「量れば、包みが減ります。包みがいつまでもつのか、わたしは知りません」


「……一度だけだ」


 イレーネは、次官のほうを見た。次官は、扉の脇で目を伏せた。


 イレーネは匙を持ったまま、しばらくアロイスを見ていた。それから椀を寝台の脇の台に置き、匙を彼の右手に持たせた。指を一本ずつ、柄に添えさせる。


「傾けるだけです。ゆっくり」


「分かっている」


 アロイスは、匙を椀の上へ運んだ。


 運んでいるあいだに、指が震えだした。昨日の夜より、ずっとひどい。匙の先の小さな白が、目の前で揺れている。


 椀の上まで来た。傾けようとした。


 匙の先が、椀のふちを叩いた。


 かちり。かちり、かち、かちかち。


 止まらなかった。叩くたびに、手首が跳ねた。跳ねた手首が、椀の縁を押した。


 椀が傾いて、台から敷布の上に倒れた。


 湯冷ましが、敷布に丸く広がっていった。匙は、もう空だった。粉がどこへ落ちたのかも分からない。


 寝室の中で、誰も動かなかった。


 アロイスは、空の匙を握ったまま、濡れた敷布を見ていた。


 九つの春にも、最初の椀をひっくり返したと聞いている。泣いて、蜂蜜もなくて、宰相に叱られたのだと。覚えているのは、宰相の声の低さだけだ。


 十四年たって、同じことをしている。


「……誰が淹れても、同じではないのか」


 自分の口から出た言葉を、アロイスは自分の耳で聞いた。


「同じではありません」


 イレーネは、それだけ言った。


「お手は、濡れていませんか」


「……濡れておらん」


「熱くもありませんね。湯冷ましですから」


 彼女はアロイスの指から空の匙を外し、侍従に敷布を替えるよう目で示した。それから小卓に戻って、乳鉢の粉をもう一度量りはじめた。


 小刀の背で、端を払う。見比べて、もう一度払う。昨日と、少しも変わらない手つきだった。


「粉は、まだありますので」


 責める声ではなかった。ただ、そう言った。


 新しい椀に、湯冷ましが注がれた。イレーネが匙を椀の上へ運んだとき、アロイスはもう一度口をひらいた。


「イレーネ」


「はい」


「入れる前に、匙をふちに二度当ててくれ」


 イレーネの手が、椀の上で止まった。


「なぜですか」


「……いつも、そうだった」


「それは、薬には要りません」


「分かっている」


 イレーネの目が、椀から彼の顔へ移った。それから匙を傾けて粉を落とし、空になった匙の先で、椀のふちを二度叩いた。


 かん、かん。


 高い音だった。


 アロイスは、目を閉じてその音を聞いた。


 違う。


 あの音は、もっと低かった。もっと短くて、乾いていた。匙が違うのか。椀が違うのか。それとも、叩く手が違うのか。


 毎朝、あの音のあとで、椀が手のひらに来た。


 その椀を持っていた手を、思い出そうとした。


 袖の色。指の形。爪の長さ。何ひとつ、出てこなかった。椀の縁の模様なら、目を閉じても描ける。匙の音なら、いまも耳の奥で鳴っている。


 手だけが、どこにもなかった。


「……違うな」


「わたしの匙ですから」


 イレーネは、椀を持って寝台のそばへ来た。


「フェアミル様は、二度鳴らしていたんですか」


 アロイスは、目を開けた。


「知らん」


 声が、喉の奥で引っかかった。


「鳴らしていたのが誰か、見たことがなかった」


 イレーネは小さく息を吐いて、昨日と同じように彼の首の後ろを片手で支えて、椀を口もとへ運んだ。


 ぬるい水だった。今日も、何の味もしなかった。


 飲み終えると、イレーネは椀を下げ、手首に指を当てて数え、それから薬箱を閉じた。乳鉢だけは、小卓の上に残していった。


「明日の朝も、参ります」


 扉が閉まった。


 アロイスは、小卓の上の乳鉢を見た。


 朝の光が、欠けた縁のところだけを白く照らしていた。


 猫ではなかった。


 自分で落としたのだ。




 同じ朝。カルディア公都の調薬室。


 セレナは、朝の鐘が鳴ると、つい手を止める。


 七年、この刻に匙を持ってきた。体のほうが先に覚えていて、鐘を聞くと指が勝手に棚の奥のほうへ行きかける。


 今朝も、行きかけて、止まった。


「セレナ様、また止まってますよ」


 リタが、窓辺の干し棚から振り返った。


「止まっておりませんわ。考えておりますの」


「止まりながら考えてるんですよ、それ」


 足もとで、コハクが干し杏の籠に鼻を突っ込もうとしていた。セレナは籠を棚の上に避けて、指を折った。


「何を数えてるんです」


「日にちですわ。問いの場が、五日前でしょう」


「はい」


「閣下があの紙をすぐ文にしてくださったなら、早馬で三日。おとといの昼に、向こうの王都に着きますの。その翌朝から始めたなら、今朝が二つめの朝ですわ」


「始めたなら、ですか」


「出してくださったなら、の話ですわね。閣下は『考えます』としかおっしゃいませんでしたもの」


 リタは、干し棚の薬草を裏返しながら首をかしげた。


「あの宰相さん、卓ではちゃんと言ったんですよね。毒じゃないって」


「ええ。王家の病だ、と。ジェラルド様が教えてくださいましたわ」


「ボルク卿が卓を叩いたって、テオさんが言ってました。病ならなぜ早くそう言わんって」


「閣下は、それにも嘘のないお返事だけをなさったそうですわ」


「嘘じゃないけど、全部でもないやつですね」


 セレナの肩が揺れた。笑いをこらえきれなかった。


「リタ。あなた、閣下とお話が合いそうですわね」


「やめてください。あの人、目が笑ってないんですもん」


 宰相は嘘をつかない。だから、言わないことは最後まで言わない。


 麦粒ひとつから始めたかどうかも、きっと向こうから教えてはくれないだろう。


 残るのは、ザイデル様の目だけだ。始まっているなら、今朝もザイデル様が殿下のお顔を見て量を決めている。そうであってほしい。


 (わたくしにできるのは、春までの宿題のほうですわね)


 毒見よりましな盾。エルデンが二百年かけて、一度も持てなかったもの。


 卓の上の新しい帳面は、まだ一行目しか埋まっていない。


 戸口で、足音が止まった。


 ジェラルドだった。朝のうちに来るのは珍しい。髪に、急いで馬を降りたあとの乱れが残っている。


「ジェラルド様。お早うございますわ。朝ごはんは、お済みですの?」


「まだだ」


「リタ、もう一つお椀を」


「はーい」


 ジェラルドは戸口の近くの椅子に腰を下ろした。リタが置いた椀には、手をつけなかった。


「何かございましたの? 朝からいらっしゃるなんて」


「何もない。通りがかっただけだ」


「公館からここは、通り道ではございませんわよ」


「……今日は、通り道だった」


 リタが、干し棚の陰で小さく吹き出した。


 セレナは、帳面を閉じた。


「ちょうどよろしかったわ。わたくし、ひとつ伺いたいことがございましたの」


「なんだ」


「わたくし、どちらのお家に入りますの?」


 ジェラルドの手が、膝の上で止まった。


 セレナは、ずっと訊かずにきた。縁組の書付の、家名の欄が空いていると知った日からだ。訊かなくても、嫁ぐ相手はこの人だった。それで足りていた。


 けれど、問いの場で宰相に言われたのだ。海の向こうの公家に入る人の頭に、エルデン王家の秘密は預けられない、と。


「盾を組むのに、自分の立っている場所が分からないのでは困りますの。お家の名前ひとつで、組める盾が変わりますもの」


 ジェラルドは、しばらく黙っていた。


 窓の外で、港へ下りる荷車の音がした。


「安息日が明けたら、城へ来てくれ」


「公館では、なくて?」


「城だ」


 ジェラルドは、セレナを見た。


「会わせたい人がいる。そこで、全部話す。お前がずっと訊かずにいてくれたことも、まとめてだ」


 セレナは、とっさに言葉が出なかった。


 この人が「全部」と言うのを、初めて聞いた。


「全部、ですの?」


「全部だ」


「長いお話になりそうですわね。お弁当が要るかしら」


「要らん。向こうで出る」


「出ますの?」


「……たぶんな」


「……分かりましたわ。安息日が明けたら、城へ」


「ああ」


 ジェラルドは立ち上がった。結局、椀には口をつけなかった。戸口で一度だけ振り返る。


「それと、お前の椀も冷めてるぞ。食え」


「ジェラルド様こそ」


「俺は、城で食う」


 戸が閉まった。


 しばらくして、リタが干し棚の陰から顔を出した。


「セレナ様。お城で、会わせたい人って」


「ええ」


「それって、ご両親へのご挨拶じゃないですか」


 セレナは、手に持っていた帳面を取り落としかけた。


「ま、まさか。だってあの方、お城に住んでいらっしゃるわけでは……」


 言いかけて、止まった。


 三日半で下りた御裁可。御前におられます、とだけ答える式部官。十二打の鐘。


 ジェラルドが、どこに住んでいるのか。セレナはそれも、一度も訊いたことがなかった。


 コハクが、棚の上の干し杏の籠をとうとう引っくり返した。

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