第23話: 王家の隠し病
薬を一服つくるのに、手は何本要るだろう。
草を育てる手、掘る手、干す手、挽く手、量る手。
セレナは七年、そのうちの一本だった。量る手だ。毎朝、王太子アロイスの椀に白い粉をひと匙量って入れた。
ほかの手が誰のものなのかは、一度も見たことがない。粉はいつも、差出人の名前のない油紙の包みで届いた。
会談から四十八日め。カルディア公館の、エルデン客間。
昼の鐘が鳴りおわると、その部屋の扉が閉まる。中に入るのは、王太子の御薬の中身に携わった者だけだ。セレナと、エルデンの宰相ヴァルターの二人。そう書いた返事を、宰相は昨日の和睦の卓で受けた。幼い王女エルザは、廊下の奥の控えの間で、供の者と待たされている。
海の向こうでは、王太子が重湯も喉を通らずに寝ている。宮廷薬師イレーネは、宰相府に連れていかれたまま戻らない。
どちらにも、この扉が開くまでは誰の手も届かなかった。
公館の長い廊下を、セレナは黒い匙の包みを抱えて歩いた。
隣をジェラルドが歩いている。扉の前までは来てよい、と宰相は言ったそうだ。扉の前まで、だ。
「刃物は持っているか」
「持っておりませんわ。持っているのは、この匙だけですの」
「宰相のほうだ」
「閣下が?」
セレナは、吹き出した。
「あの方は、刃物より紙をお使いになる方ですわ。刃物を持っていらしたら、わたくしかえって安心いたしますわね」
ジェラルドは笑わなかった。けれど、歩幅をほんの少しだけ縮めた。セレナの足の速さに合わせたのだと分かった。
「一刻たっても出てこなければ、扉を叩く」
「叩かなくて結構ですわ。たぶん、二刻はかかりますもの」
「なら、二刻たったら叩く」
「そのころには、わたくしお腹がすいておりますわね。リタのスープが冷めないうちに出てまいります」
客間の扉の前に、エルデンの供が一人立っていた。セレナを見ると、黙って一歩よけた。
ジェラルドは、扉の脇の壁に背をつけた。そこから動く気はないらしい。
「ジェラルド様。座っていらしてもよろしいのよ。椅子、あそこにございますわ」
「座ると、叩くのが遅れる」
セレナは、今度こそ声を立てて笑った。笑ったら、包みを抱える指から少し力が抜けた。
扉を開けて、中に入った。
それから、自分の手で閉めた。
エルデン客間は、思っていたより狭かった。
窓がひとつと、卓がひとつ。椅子は二つきりだった。卓の上には湯気の立つ茶器が一揃いと、何も書いていない紙が一枚。
宰相ヴァルターは、窓のそばに立っていた。黒い上着に、黒い革の手袋をはめている。
「セレナ・フェアミル殿。お掛けください」
この人の口から、じかに自分の名前を聞くのは初めてだった。昨日のは、ジェラルドの口を通して聞いただけだ。
「お名前、言いにくくはございません?」
「思っていたより、舌が回りません」
宰相は真顔で答えて、向かいの椅子に腰を下ろした。冗談なのかどうか、セレナには分からなかった。
宰相が茶を注いで、椀を差し出した。セレナは受け取る前に、つい湯気へ鼻を寄せてしまった。
「入っておりません」
「存じておりますわ。癖ですの。カルディアでは、毒見のお役目もいただいておりますのよ」
「伺っています。あの金色の酒を、卓から下げた方だと」
宰相は自分の椀を取って、先にひと口飲んだ。手袋はしたままだった。
セレナは椀を置いて、膝の上の包みを卓に載せた。紐をほどく。
黒い匙が出てきた。
「お話の種に、持ってまいりましたの」
宰相は、匙を見た。手は伸ばさなかった。ずいぶん長いあいだ、ただ見ていた。
「柄が、また減りましたね」
セレナは、顔を上げた。
「また、とおっしゃいました?」
「十四年前の春の朝も、その匙でした」
宰相の声は、いつもと同じ高さだった。
「九つの殿下の、最初のひと匙です。量ったのは、宰相府づきの年寄りの薬師でした。その人が亡くなって匙はハイルどのに渡り、ハイルどのからあなたに渡った。それより前のことは、宰相府の記録でしか知りません」
「それより、前」
「二百年、同じ匙です」
セレナは、匙の柄の擦り減ったところを見た。親指の腹がちょうど収まる、浅いくぼみ。
この匙が師の古い品なのは知っていた。それでも柄のくぼみは、七年かけて自分の指がつけたのだと思っていた。
(わたくしの七年なんて、このくぼみのほんの最後のひと削りですのね)
腹は立たなかった。かわりに、背筋が少し寒くなった。この匙を握った手が、自分の前に何本あったのだろう。誰も、何ひとつ知らされないまま。
「閣下。わたくし、お手紙に書きましたわね。あの問いの答えは、閣下から直に伺いますと」
「読みました」
「では、伺いますわ。粉は、どこから来るのですか」
宰相は返事のかわりに、右の手袋の指先をつまんだ。一本ずつ、ゆっくり引いて外す。左も外して、二つ重ねて卓の端に置いた。
それから両手を、卓の上に出した。手のひらを上に向けて。
調印の壇で倒れたあの方も、手のひらを上に向けていたと聞いた。毎朝そこに椀が来るのを、待つ形だった。
セレナは、その手を見た。
見たとたん、薬師の目が勝手に読みはじめた。
親指のつけ根が、ほかより硬く盛り上がっている。人さし指の内側にも、同じたこがある。乳棒を握って、何年も回し続けた手にだけできるたこだ。
指の腹は白っぽく乾いて、細かくひび割れていた。右の手首は、左より少しだけ太い。古い傷をかばってきた太さだった。
セレナは、膝の上で自分の右手をひらいた。
親指のつけ根と、人さし指の内側。同じところが硬い。
「……閣下が、挽いていらしたのですね」
「宰相府の奥で挽いて三月に一度、油紙に包んで薬師団の裏の口へ」
「お名前は」
「書きません。書けば包みを受け取る者が一人、私の名を知ります」
調薬室の列に宰相が並んだ日、セレナはこの人の目の下と唇と肩を読んだ。手は見ていなかった。見ようとも、しなかった。
(七年、人の手を読むのが仕事でしたのに。いちばん肝心な手を、見落としておりましたわ)
「三年前の春」
セレナは言った。
「荷が四日、遅れましたわ。粉が足りなくなって、わたくし四日落としましたの」
「右の手首を傷めました。左では、細かく挽けなかった」
宰相は右の手首を、左の指で押さえた。
「四日目の晩に包帯を外して、挽きました」
セレナの喉の奥で、何かがつかえた。
あの四日のあとの朝。殿下の指は震え、喉が渇いて口が苦いと言った。セレナは覚え書きに書いた。夜更かしのお疲れ、と。
同じ四日を、この人は宰相府の奥で、手首を押さえて過ごしていたのだ。
「草は、どこから」
「宰相府の奥の庭に、壁で囲った一畝があります。そこからです」
「草の名は」
「私は知りません」
セレナが目を上げると、宰相は小さく首を振った。
「私は薬師ではありません。二十年あまり挽いてきましたが、前の宰相から教わったのは、根を掘る日と塩で晒す日数と干す日数、それに挽く細かさだけです。名は、教わりませんでした」
セレナは、思わず長い息を吐いた。
森を何日歩いても、当たらないはずだった。二百年、壁の内側だけで育った草だ。おまけに塩で晒して、干して、味を変えてある。
調薬室の梁に吊るした根の束が、目に浮かんだ。どれも、半分だけ似ていた。半分しか似ていなくて、当たり前だったのだ。
「名前は、わたくしが舐めて当てますわ。いずれ」
「でしょうね」
セレナは、卓の上の匙を指先で少しだけ宰相のほうへ押した。
「なぜ、九つなのですか」
宰相は、上を向けていた手を伏せた。
「二百年前の十年のあいだに、エルデンの王の杯へ七度毒が入りました」
静かな声だった。帳面を読み上げるような声だった。
「七度とも、王は命を取りとめました。けれど、そのたびに体は弱っていった。盛ったのは、王家の縁者です。次の王位に近い者たちでした。八度めを待つ前に、王が決めたのです。王家の子には、毒の効かない体を持たせると」
「それが、九つの春の」
「王位継承の儀、と記録にはあります。最初は、七つで始めたそうです」
宰相は、そこで言葉を切った。
「その子は、ひと月で亡くなりました。記録には、一行しかありません。それから九つになりました。九つなら、体がもちます」
セレナは、膝の上で手を握った。
一行。小さな子の命が、宰相府の記録に一行。
「それから二百年」
宰相は、続けた。
「エルデンの王は、一度も杯で倒れておりません」
卓の上で、茶の湯気がまっすぐ上っていた。
「あの金色のお酒も、そこから来たものですのね」
「王家にとっては、いまでも体を養う酒です」
「それを、飲み慣れていない国の卓にお載せになった」
「載せました」
宰相は、否まなかった。この人は、いつも否まない。
「どなたが、ご存じなのですか」
「王位に就いた方と、宰相です。殿下は、まだご存じありません。王位に就かれる日に、私からお話しすることになっていました」
「量る者は」
「何も知らせません。腕がよくて、口の重い薬師を選びます。ハイルどのにも、何も申し上げませんでした」
――わしにも、教えられておらん。
十四の秋に聞いた、師の声がした。
あれは隠しごとではなかった。本当に、何も知らされていなかったのだ。知らされないように、最初から作られていた。
「わたくしが七年、何も知らずに量れたのも」
「そう作ってあったからです」
宰相は、まっすぐセレナを見た。
「あなたは、何も知らないまま量る最後の薬師になるはずでした」
セレナは、すぐには返事ができなかった。
最後の、と言った。
「……どういう意味ですの」
宰相は答えるかわりに、伏せていた右手をもう一度ひらいた。指の腹と腹を、ゆっくり擦り合わせる。乾いた音がした。
「この冬あたりから、粉の細かさが指で分からなくなりました。挽き終えたつもりでも、袋の底に粗い粒が残る。目で見て、やり直します。ひと晩で済んでいたものが、三晩かかる」
「指先が、鈍っていらっしゃるのですわね」
「私が倒れれば、次の包みは届きません。次の宰相に教えるには時が要りますし、知る者を一人増やすことにもなる」
「それで、わたくしに戻れと」
「量る手として、ではありません」
宰相は、手のひらを上にしたまま言った。
「挽くほうも、あなたにお渡しするつもりでした。量る手と挽く手を、二百年で初めて同じ人の手にするつもりでした」
調薬室で、この人は言った。エルデンに戻れば、何もかもお見せします、と。
何もかも、とはこれのことだったのだ。
「わたくしに、閣下と同じ夜を過ごせとおっしゃいますのね。この先ずっと、誰にも言えない粉をひとりで挽く夜を」
「そうです」
「……お返事が、短すぎますわ」
セレナは、椀の茶をひと口飲んだ。冷めかけていたが、苦くはなかった。
「閣下。わたくしのほうの考えも、申し上げてよろしいかしら」
「どうぞ」
「まず、殿下ですわ」
「三月も粉が切れておりますの。お体はもう、粉のことを少し忘れておりますわ。港の丘の蜂飼いのお爺さんも、最初の年は顔が腫れたそうですもの。何年か刺されずにいたら、きっとまた腫れるようになりますわ」
「……蜂」
「ええ、蜂ですわ。ですから、いちばん新しい量の四つと半をそのまま差し上げてはいけませんの。あの方は、たぶんひと晩で亡くなりますわ」
宰相の指が、卓の上で止まった。
「麦粒ひとつから、始め直します。毎朝お顔の色と脈を見て、上げるか待つかを決めますの。それができる薬師が、いまのエルデンに一人だけおりますわ」
「ザイデル」
「ええ。ザイデル様です」
「あれは、宰相府の奥におります」
宰相は、少し間を置いた。
「殿下の書付に名を入れるのを、断りました。自分で一行書き直して、それなら名を入れると」
セレナは、胸の奥がふっとゆるむのを感じた。
あの人らしい。眉間にしわを寄せて、筆を取って、さっさと書き直したのだろう。
「なんと、書き直しましたの」
「障りの元、いまだ知れず」
セレナは、笑ってしまった。
「嘘は、ひとつもございませんわね」
「ございません」
「閣下と同じですわ」
宰相は、何も言わなかった。
「あの方は、もう半分ご存じですの。粉が外から来ていたことも、粉なしでは殿下が立てないことも。残りの半分と粉をお渡しすれば、殿下は助かりますわ」
「知る者が、一人増えます」
「宰相府の奥にいらっしゃる方ですわ。増えるのは、閣下の目の届くところの一人だけです」
宰相は、答えなかった。
「それから」
セレナは、椀の縁に指を添えた。
「殿下のお匙は、そこから少しずつ減らしますの。ひと冬に麦粒ひとつずつ、お体が忘れるのに追いつける速さで。何年かかっても、いつか零にいたしますわ」
「零になった殿下は、毒の効く王になります」
「ええ。普通の王様に」
「普通の王は、杯で倒れます。二百年前のように」
「でしたら、杯のほうを見張ればよろしいのですわ」
「カルディアには、三十年卓の毒見をしてきた方がいらっしゃいますの。わたくしも、その隣に座らせていただいております。体に毒を覚えさせるかわりに、人の舌で杯を見張る。二百年前のエルデンには、それがございませんでしたの?」
「ありました」
宰相の声は、少しも揺れなかった。
「七度の杯にも、毒見役はついておりました。七度とも、王の口に入ってから分かったのです。人の舌は、見落とします。体は、見落としません」
セレナは、言い返せなかった。
バルトでさえ、見落としたことがある。あの毒卓で杯を検めて、そのまま倒れた。最初に気づいたのはコハクの鼻だった。人の舌ではなかった。
「それに、減らすには何年もかかります」
宰相は続けた。
「そのあいだ、量る者は何を量っているのかを知っていなければならない。知る者は、年ごとに増えます」
「……ええ」
「そしてあなたは、カルディアの公家にお入りになる方です」
宰相は、まっすぐセレナを見た。
「海の向こうの公家に嫁ぐ方の頭に、エルデン王家の毎朝の秘密を預けろと。あなたは私に、そう仰るのですか」
セレナは、すぐには答えられなかった。
縁組の書付の、空いたままの家名の欄が目に浮かんだ。自分がどこの、どんな家に入るのか。セレナ自身も、まだ知らないのだ。
「わたくし、何かを預かりたいのではございませんの」
やっと、言った。
セレナは、卓の上の匙に目を落とした。
「閣下。三年前の春に四日落としたあとの朝のことを、ご存じ?」
「……いいえ」
「殿下の指が、震えておりましたの。わたくし、それを覚え書きに夜更かしのお疲れと書きましたわ」
宰相の左の指が、右の手首のほうへ行きかけて、止まった。
「閣下が包帯を外して挽いていらした晩の、あくる朝ですわ。七年量ってわたくしが紙に書けた本当のことは、そのくらいでしたのよ」
セレナは、顔を上げた。
「ですから次に九つになる方には、取り違えた一行ではなく本当のことを書いてさしあげたいのですわ。毎朝、何を飲んでいるのか。なぜ、飲むのか」
「フェアミル殿」
宰相は、言った。
「あなたの言う真実は、正しい。正しいから、危険なのです」
宰相は、卓の上の白い紙に指を置いた。何も書いていない紙だった。
「それを紙に書けば、終わりに書いた者の名が入ります。海の向こうの公家に入る方の名が、エルデン王家の朝の椀の中身を知る者として。いちばん読ませたくない者が最初に探すのは、粉ではありません。その名です」
セレナは、宰相の指の下の紙を見た。
昨日の卓に載った、自分の返事を思い出した。名前のない一行に、名前を書き入れた紙だ。あれも、正しかったから効いた。そしてあの紙にも、まず自分の名前が書いてある。
それでも、とセレナは思った。
「では、閣下に伺いますわ」
セレナは、椀を脇へ寄せた。
「さきほど、手のひらを上にしてお見せになりましたわね」
宰相の指が、紙の上で止まった。
「殿下も壇の上で、同じ形をなさったそうですわ。倒れたまま、椀を待って」
セレナは、宰相の顔を見たまま言った。
「あれが、ほんとうに守られている方の手ですの?」
窓の外で、どこかの鳥が鳴いた。
「……守っていたのは、王位です」
低い声だった。
「殿下では、ありません」
セレナは、息を止めた。
嘘をつかない人だ。だから、これも本当なのだ。この人は二十年あまり三月ごとに粉を挽いて、王位を守ってきた。そこに座る人ではなく、椅子のほうを。
「エルザ様は」
声が、少しかすれた。
「エルザ様も、同じですの」
「同じです」
宰相は、黙って見返した。
「王家の子は、みな九つの春に椀を飲みます。来年の春の林檎の花のころに、あの子も飲む。殿下にもしものことがあれば、王位はあの子の肩に載ります。そのとき毒の効かない体は、あの子を守るただ一枚の盾です」
セレナは、膝の上で手を組んだ。指先が冷たかった。
この人は、悪い人ではない。悪い人なら、話はもっと簡単だった。
あの子の顔を、セレナも知っている。前掛けを両手でつかんで、蜂蜜ありがとう、と言った顔だ。この人はその子の手を引いて海を渡り、桟橋で転びかけたのを袖ごと引き上げた。
その同じ手で、九つの春の椀をあの子の口もとへ運ぶつもりなのだ。
「閣下」
「はい」
「わたくし、エルザ様とお約束しましたの。九つの朝に、蜂蜜よりいいものを持っていくと」
「伺いました。私には分かりかねる、とお答えしました」
「お教えしますわ」
セレナは、宰相の手を見た。ひび割れた、硬い手を。
「蜂蜜よりいいもの、というのは……飲まなくていい朝のことですわ」
宰相の手が、卓の上でゆっくりと握られた。
長いあいだ、どちらも口をきかなかった。茶はもう、湯気を立てていなかった。
「春まで」
やがて、宰相が言った。
「春までに、毒見よりましな盾を組んで私にお見せなさい」
「……春まで」
「見せられなければ、あの子は九つの朝に椀を飲みます」
宰相は、卓の端の手袋を取った。
「私が、飲ませます」
セレナは、手袋を取ったその手を見た。
「組みます」
令嬢らしい言葉は、どこからも出てこなかった。出てこなくていいと思った。
「それから、殿下のことは」
「ザイデルに、粉を渡せと」
「麦粒ひとつから。閣下のお書きになる文に、わたくしの量りを添えてくださいまし。あとは、ザイデル様の目にお任せしますわ。わたくしと同じ廊下で、同じ七年を過ごした方ですもの」
セレナは、白い紙を引き寄せた。さっき宰相が指を置いていた紙だ。
筆を取って、書いた。始めの量。上げる目安と、待つ目安。危ない兆しの出る順番。七年の覚え書きのいちばん大事なところを、紙一枚に。
最後に自分の名前を書きかけて、筆を止めた。
書かずに、紙を宰相のほうへ滑らせた。
宰相は紙を取って、読んだ。それから、たたんだ。
「考えます」
「考えていらっしゃるあいだにも、あの方は細っていきますわ」
「存じております」
宰相は紙を懐に入れた。昨日、セレナの手紙を入れたのと同じところだった。
「明日の卓のことも、ひとつだけ」
セレナは言った。
「閣下のお口で、あれは毒ではないとおっしゃってくださいまし。閣下は、嘘をおつきにならない方ですもの。本当のことを、ひとつだけ」
宰相は、少し考えた。
「……それは、言えます」
「ボルク卿は、では何なのかとお訊きになりますわよ」
「王家の病です、と申します。それも、嘘ではありません」
宰相は立ち上がって、手袋をはめた。右、左。指を一本ずつ、奥まで入れる。
はめ終わると、あの手はもう見えなかった。
扉が閉まると、客間は急に広くなった。
ヴァルターは、懐から紙を出して卓に広げた。
薬師の字だった。始めの量は、麦粒ひとつ。四つと半の、四分の一にも満たない。
あの娘が言わなければ、自分は王都へ、包みの減り方から割り出した量を書き送るつもりでいた。粉を断たれた体に、断たれる前の量を。
ひと晩で、という言葉が耳に残っている。
ヴァルターは手袋を外して、筆を取った。
宰相府の次官に宛てて、短く書く。奥の棚の油紙の包みを、宮廷薬師に渡すこと。添えた量りのとおりに始めること。
宮廷薬師、と書いて、筆が止まった。
宮廷薬師は、ほかにもいる。名を書かなければ、誰のことか分からない文だった。
名を覚えた者は、切り捨てるときに手が鈍る。
ヴァルターは、その下に名を書いた。イレーネ・ザイデル。指の腹がよく利かないせいで、字の終わりが少しだけ流れた。
鈍るも何も、とっくに鈍っている手だった。
宰相府の古い記録なら、いまでもそらで言える。十年で七度の杯。七つで始めて、ひと月でいなくなった子の一行。
その一行を、二百年、二行にしなかった。それが宰相の仕事だった。
あの娘は、杯を見張ればいいと言った。春までに組んでみせると言った。
組めはしないだろう。二百年、誰も組まなかったものだ。
それでも、春までは待つと答えたのは自分だった。
廊下のずっと奥で、軽い足音がした。
「宰相! おはなし、おわった?」
エルザの声だった。供の者が止める声が、あとから追いかけてくる。
ヴァルターは文に封をした。それから、手袋をはめた。
この子の手を引くときは、そうするのだろう。
廊下に出ると、ジェラルドは扉の脇の壁に背をつけたまま立っていた。
二刻、そこから一歩も動かなかったと、エルデンの供があきれた顔で教えてくれた。
「叩かなかったぞ」
「ありがとうございます。……叩いてくださっても、よかったのに」
セレナは笑おうとした。うまくいかなかった。
ジェラルドは、何も訊かなかった。黙って、セレナの腕から黒い匙の包みを取った。
包みがなくなると、自分の手が細かく震えているのが見えた。
「話せることだけでいい」
「話せないことのほうが、多うございますわ」
「なら、先に何か腹に入れろ」
「ええ。リタのスープ、たぶんもう冷めておりますわね」
二人で廊下を歩きだして、いくらも行かないうちに、後ろで扉の開く音がした。
エルデン客間から、宰相が出てきた。廊下の角で供の者に止められていたエルザが駆けてきて、その手袋の手をつかんだ。エルザは何か一生懸命しゃべっていて、宰相は前を向いたまま、ときどきうなずいていた。
エルザが、こちらに気づいた。
宰相の手を握ったまま、空いたほうの手の人さし指を、ぴんと唇に当てる。
ないしょ、だ。
セレナも、同じように指を唇に当ててみせた。エルザは満足そうに笑って、宰相に手を引かれて角を曲がっていった。
粉を挽いてきた手が、次に粉を飲む子の手を引いていく。
あいだにあるのは、手袋一枚の厚さだけだった。
林檎の花が咲くまでの月を、指で一つずつ数えた。
ジェラルドが、包みを片腕に抱えたまま、もう片方の手を差し出した。
セレナは、その手に自分の手を載せた。
大きくて、温かい手だった。手袋は、はめていなかった。




