第22話: 明かせない
扉に鍵をかける理由は、たいてい二つしかない。
中のものを盗られないためか、中の人を外へ出さないためだ。
どちらの扉も、外から見ればまったく同じ形をしている。錠前の大きさも、蝶番の軋みも変わらない。違うのは、鍵を持っているのが内側の人か外側の人か、それだけだった。
エルデンの王都で聖女が石段に立った安息日の、次の朝。宰相府の奥で、扉がひとつ閉まった。
鍵は、外側にあった。
宰相府の奥の小部屋には、窓がひとつしかなかった。
高いところに細く切ってあって、背伸びをしても空しか見えない。イレーネは、窓を見上げるのをすぐにやめた。窓の形を覚えても、薬は組めない。
卓の向こうで、次官が紙を一枚広げた。
「王太子殿下の、御容体の書付でございます」
宰相府の次官だった。宰相が海を渡って留守の宰相府で、いつもと同じ顔をして立っている。
「明朝、宰相府の門に貼り出します。宮廷薬師の名で」
「わたしの名で、ですか」
「殿下のお体のことは一切、あなたの名で出すお約束でしたので」
イレーネは紙に目を落とした。
昨日、聖女ミレーヌは大聖堂の石段のいちばん上で祈った。宰相府の用意した言葉を、途中でつっかえながら読み上げた。広場は人で埋まったという。
殿下は、起きなかった。
昨夜イレーネが寝室を下がるとき、殿下が口にしたのは白湯が三口だけだった。脈は速く、喉が渇くと言い、匙を持たせようとすると指先が震えて取り落とした。
紙には、こう書いてあった。
――王太子殿下の御不例は、外より入りしものの障りによる。御快癒、いまだ遠し。
イレーネは、その一行を二度読んだ。
「外から入ったもの」
「はい」
「これは、毒という意味ですか」
「書いてあるとおりの意味でございます」
次官は、表情を変えずに答えた。
イレーネは、紙の端を指で押さえた。
嘘ではない。殿下の毎朝の白い粉は、三月に一度、油紙に包まれて薬師団の裏の口に届いていた。差出人の分からない荷として。あの人がカルディアの調薬室でそう言ったのを、イレーネはこの耳で聞いている。
外から入ったもの。その粉が来なくなったから、殿下は崩れている。
字のとおりに読めば、嘘はひとつも書いていない。
けれど、門の前でこれを読む人は誰ひとり、そうは読まない。毒と読む。昨日の祈りでも祓えなかった、強い毒と。
「……嘘ではないんですね」
「はい」
「だから、たちが悪い」
次官は何も言わなかった。
イレーネは、紙を卓の上に置き直した。
「お断りします」
「理由を伺っても」
「わたしの名で書けるのは、わたしが診て分かったことだけです」
イレーネは、卓の端の筆を取った。次官が止めるより先に、一行目の下に線を引き、その下に書いた。
――障りの元、いまだ知れず。宮廷薬師イレーネ・ザイデル。
筆を置いて、紙を次官のほうへ押し返した。
「これなら、名を入れます」
「これは、閣下のお望みの書付ではございません」
「でしょうね」
次官は紙を受け取って、たたまずに脇へ置いた。それから懐から別の一枚を出した。宰相の文の写しらしかった。
「では、閣下のお指図の二つめを申し上げます。書付をお断りになった場合は、しばらく宰相府にお留まりいただくようにと」
イレーネは、その紙を見た。それから次官の顔を見た。
「最初から、両方書いてあったんですね」
「はい」
「書けば、わたしの名で毒だと言うことになる。書かなければ、ここから出られない」
「左様でございます」
「わたしが断ったら、この書付はどうなるんですか」
「名を入れずに、貼り出します」
イレーネは、少しのあいだ黙った。
名前のない「外より入りしもの」の一行が門に貼られ、その同じ日に、宮廷薬師が宰相府から出てこない。門の前の人が二つを結びつけるのに、手間はかからない。
十日あまり前、カルディアから戻った晩に、イレーネは宰相府へ書きものを一通出した。向こうで聞こえたことを、判じずにそのまま写したものだ。末尾に一行、自分の問いを書き添えた。
――粉は、どこから来るのか。
返事は来なかった。来たのは、この部屋だった。
訊いてはいけないことを訊いた。そういうことなのだろう。
殿下の体があの粉なしでは立たないと知っている薬師は、たぶんいまこの王都に自分ひとりだ。そして、粉の出どころを知っている人たちは、自分の問いには答えず、自分をこの部屋に入れた。
どの道を選んでも、最後に「誰かの名前が要る」ときに出てくるのは、自分の名前だ。
宰相は前に、そう言っていた。言われたとおりになっただけだった。
「もうひとつ」
次官が、イレーネの膝の上の帳面に目をやった。
「そちらの帳面も宰相府でお預かりするように、と」
外した薬の帳面だった。一番目から二十五番目まで、殿下に組んで、外した処方をすべて書いてある。何を入れ、どれだけ量り、翌朝お顔の色がどう変わり、どこで外れたか。
イレーネは、帳面を膝から持ち上げた。
「焼くんですか」
「閣下は、焼けとは書いておられません」
「そうですか」
イレーネは帳面を卓に置き、次官のほうへ滑らせた。
「どうぞ。どうせ誰も読みません」
次官は帳面を手に取った。表紙の角をそろえるように撫でて、小脇に抱えた。
イレーネは、その手つきを見ないようにした。
あの人の帳面が薬師団の炉にくべられた夕方、自分は炉の前に立っていた。少しだけ、いい気味だと思った。
順番が回ってきただけだ。
七年、薬師団で書いてきた。下働きの日の覚え書きも、宮廷薬師になってからの処方の控えも。それを読んだ人は、これまで一人もいない。名前を呼ばれるのは、いつもあの人のほうだった。
「次官どの」
戸口へ向かいかけた背中に、イレーネは声をかけた。
「紙を一枚と、筆と墨を置いていってください」
「何にお使いに」
「書きものです。薬師ですから」
次官は少し考えて、それから卓の上に紙を一束置いた。一枚ではなかった。
扉が閉まって、外から錠の下りる音がした。
イレーネは筆を取り、紙のいちばん上に書いた。
――一番目。
あの人が出ていった月に組んだ処方だ。煎じて四半刻、朝に一椀。翌朝、殿下の頬に少しだけ色が戻って、昼にはもう消えていた。量った匙の重さまで、まだ指が覚えている。
取り上げられた帳面も、頭に残っているぶんは書き直せる。帳面を炉で焼かれたあの人も、きっと海の向こうでそうしているはずだ。
そう思った自分に、少し腹が立った。
安息日から六日め、エルデンの船が二艘、カルディアの港に入った。
セレナは夜明けと同時に、リタを連れて港へ下りていた。
「セレナ様。こういうのは、テオさんに任せればいいんじゃないですか」
「テオさんは今朝、ジェラルド様のお使いで公館ですのよ」
「だったら、昼まで待てば」
「待てませんの。わたくし、待つのはあまり得意ではございませんのよ」
リタは呆れた顔をしたが、それ以上は言わなかった。肩の上のコハクだけが、潮風に鼻をひくひくさせている。
桟橋の脇の屋台では、荷を下ろし終えた水夫たちが朝の粥をすすっていた。エルデンの言葉と、カルディアの言葉が混ざっている。
セレナは粥の椀をひとつ買って、水夫たちの隣の樽に腰かけた。
話は、聞こうとしなくても耳に入ってきた。
「聖女さま、石段のてっぺんで二度つっかえたってよ」
「祈りの言葉を?」
「紙を読んでたんだと。で、殿下はやっぱり起きねえ」
「そりゃあ、祈っても祓えねえほどの毒だ。盛った女は、よっぽどの腕だな」
樽の上で、セレナは匙を椀のふちに置いた。
(よっぽどの腕、ですって)
褒められたのか、そうでないのか。どちらにしても、あまりうれしくない言われようだった。
「殿下はどうなんだ」
「重湯も喉を通らねえって、宮廷の下働きが言ってた。夏を越せるかどうかってよ」
リタが、セレナの袖をそっと引いた。セレナは粥をひと口すすって、聞き続けた。
重湯が通らない。粉を断たれてから、もう三月を越えている。七年の覚え書きにあった順番どおりなら、喉の渇き、口の苦み、指の震え――その先は、覚え書きのどこにも書いていない。七年のあいだ、そこまで行かせたことは一度もなかったからだ。
「それと、宮廷の薬師の女が一人宰相府に連れてかれたってさ」
セレナは、水夫たちのほうへ向き直った。
「女の薬師?」
「ほら、毒女んとこに九日いたって女だよ。海を渡って会いに行ってたんだと。で、戻ってきてから殿下の薬を作ってたのもそいつだ」
「そりゃあ、仲間だ」
「みんなそう言ってる。毒女は海の向こうで手が出せねえ。だから、手の届くほうから――」
水夫は、自分の首の前で指を一本、横に引いてみせた。仲間たちが笑った。
リタの手が、袖をきつく握った。
セレナは椀を樽の上に置いた。粥は、まだ半分残っていた。
「姐さん、こっちの人だろ。毒女、こっちにいるんだろう」
隣の水夫が、セレナに気づいて言った。人のよさそうな赤ら顔だった。
「顔、見たことあるかい。おっかねえ女なんだろうな」
リタが、口を開きかけた。
セレナは、その前に笑った。
「わたくしも、ぜひ一度お会いしてみたいですわ」
水夫たちは、また笑った。
調薬室に戻ると、ジェラルドが先に来て待っていた。
梁には、舐め分けの済んだ根が、印の紐をつけてまた何本か増えている。当たりは、まだない。ジェラルドは戸口の脇の椅子に座って、腕を膝に置いていた。テオも一緒だった。いつもなら真っ先に冗談を言う男が、今日は黙ってコハクに干し果実を差し出した。
「港へ行ったと聞いた」
「行ってまいりましたわ。お粥をいただきながら、毒女の評判を」
「……聞いたか」
「聞きました。ザイデル様のことも」
ジェラルドは、短くうなずいた。
「公館にも同じ報せが来た。エルデンの文官が、卓の前の廊下でわざと聞こえるように話していた」
「卓は、いつですの」
「明日の昼だ。宰相は、こちらが港の噂を聞き終わる日を待っていた」
リタが、湯を沸かす手を止めずに言った。
「それで、明日の卓では何を決めるんですか」
「七年携わった者を問いの場に立たせろ。あの一行を飲むか、断るかだ」
ジェラルドは、セレナのほうを見た。
「ボルク卿は、こう言っている。毒でないなら、何なのかを示せ。示せないなら一行を飲んでも文句は言えん、と」
「ボルク卿らしいですわね」
「卓にはほかにも、知りたがっている者がいる」
ジェラルドは、言葉を選ぶように少し間を置いた。
「エルデンの王太子の病が毒でないなら、何なのか。それが分かれば、こちらの手札になる。……そう考える者は、ボルクだけじゃない」
セレナは黙って、椅子に腰を下ろした。
明日の卓で、知っていることを話す。そうすれば、毒女の話は今日で終わる。
けれど、その代わりに、カルディアの重臣たちが知ることになる。エルデンの王家は、毎朝の粉を止めれば立てなくなる。王家の子は九つの春から、その粉を飲まされる。
知った国は、それを使いたくなる。使われると分かった国は、知った国の口を塞ぎに来る。和睦の卓は、別の卓に変わる。
そして来年の春には、林檎の花のころに、九つになる女の子がいる。
「宰相閣下のおっしゃることは、正しいのですわ」
セレナは言った。
「知る人を増やせば、エルザ様の春が危うくなる。閣下は最初から、それだけを申しておられますもの」
「なら、黙るか」
「黙れば、あの方が死にますわ」
「重湯も通らないのでしたら、もう長くは保ちません。それに」
セレナは、手もとの乳鉢を脇へ寄せた。
「ザイデル様は、毒女の仲間ということになっておりますの。殿下がお亡くなりになったら、毒を盛った者がいなければ話が終わりませんわ。わたくしは海の向こうで手が届かない。……手の届くほうが、罪を負わされますの」
テオが、コハクを撫でていた手を膝に下ろした。
「首、ですか」
「王太子殿下に毒を盛った者ですもの」
調薬室が静まった。鍋の湯が、ふつふつと音を立てはじめた。
「俺が卓で断る。匿っていると言われても構わん」
「ありがとうございます。でも、断っても同じ道に出ますのよ」
セレナが首を横に振ると、ジェラルドは何も言い返さなかった。
リタが、湯を注いだ椀をセレナの前に置いた。
「セレナ様。令嬢様の顔、しなくていいですよ」
「……していますかしら」
「さっき港で笑ってたときから、ずっと」
セレナは椀を両手で包んだ。手のひらが熱かった。
港で水夫が指を横に引いたとき、笑っていたのは顔だけだった。分かっている。リタに言われるまでもなかった。
「あの方に宰相府への問いを持たせたのは、わたくしですのよ」
セレナは、椀の湯気を見ながら言った。
「粉は、どこから来るのか。……海を渡るのは今日を最後にしてくださいましと言って、その問いだけ持たせて帰しましたの」
知る手を増やしたくない人のところへ、知りたがる手を一本、自分で送りこんだ。
(ほんとうに、何をしておりますの。わたくし)
イラッとした。今度ばかりは、腹を立てる相手を外に探しようがなかった。
腹を立てて済ませるのは、ここまでにする。セレナは椀の湯を一息に飲んだ。
「ジェラルド様。今夜ひと晩、考えさせてくださいまし。明日の朝までに、お返事の文をお渡しします」
「書けるのか」
「分かりません」
セレナは、正直に言った。
「でも黙っているあいだに考えるのは、わたくし得意ですのよ。七年、そればかりしてまいりましたもの」
夜の調薬室で、セレナは手紙を書いていた。
卓への返事ではない。そちらは、まだ一行も書けていなかった。先に書きはじめたのは、海の向こうの宰相府の奥にいる人への手紙だった。
――イレーネ様。
書いて、すぐに線を引いた。そんなふうに呼んだことは、宮廷で一度もない。
――ザイデル様。
これも、なんだか他人行儀な気がした。けれど、ほかに呼びようもない。セレナはそのまま次の行へ進んだ。
――わたくし、あなたにお手紙を差し上げるのは初めてですわね。同じ廊下に七年もおりましたのに。
三行目で、筆が進まなくなった。
謝る、と書きかけて、やめた。あの人は謝られるのが嫌いだろう。謝られたら、かえって棘が増す人だ。
書き損じの紙を丸めて卓の端に置くと、コハクがそれを前足で転がしはじめた。床まで落として、また棚の上から飛び下りて追いかける。
「コハク。それはわたくしの、いちばん恥ずかしい紙ですのよ」
コハクは丸めた紙をくわえて、得意そうに戻ってきた。
リタが、奥の寝台から顔を出した。
「まだ寝ないんですか」
「もう少しですわ。……リタ、あの方に手紙を書くとしたら何と書きますかしら。ずっと、わたくしのことをずるいと思っていらした方に」
「ずるいって言われたなら、ずるいまんまでいいんじゃないですか」
リタは、あくびまじりに言った。
「下手に好かれようとすると、余計に嫌われますよ。そういう人は」
セレナは、少し笑った。
「あなた、宮廷の誰より人を見ておりますのね」
「寝ぼけてるだけです。おやすみなさい」
リタは寝台に引っこんだ。
セレナは新しい紙を出して、書き直した。
――ザイデル様。
――わたくし、あなたにお手紙を差し上げるのは初めてですわね。同じ廊下に七年もおりましたのに。
――先日の問いは、わたくしがお願いしたものです。あなたは、もうお持ちにならなくてよろしいわ。
――それから、外した薬の帳面を捨てないでくださいまし。あなたの処方が外れたのは、あなたの腕のせいではございません。帰ってから組んだぶんも、いつか、わたくしに読ませてくださいまし。
――わたくしのことは、ずるいと思ったままで結構ですわ。
――セレナ・フェアミル
読み返して、セレナはまた最初の行に目を戻した。
同じ廊下に、七年。
あの人も十四で下働きに入り、七年かけていまの席に上がった。自分とまったく同じ年月を、同じ場所で過ごしている。
七年。
セレナは、卓の隅に置いた写しを引き寄せた。ジェラルドが覚えてきた、エルデンの一行だ。
――王太子の御薬に七年携わった者を、エルデンの問いの場に立たせること。
七年、という字を指でなぞった。
紙の上で読めば、これはセレナのことだ。王太子の御薬に七年携わったのは、セレナしかいない。
けれど、噂は紙ほど細かく読まない。
七年、宮廷薬師団にいた女。毒女のところに九日いた女。戻ってきてから殿下の薬を作っていた女。今朝の水夫たちの言い方を、一つずつ一行に重ねてみる。七年。殿下の薬。どれも、ぴたりと合った。名前の書いていない一行は、手の届くほうに落ちる。
(名前を書かないのは、手が鈍らないためだけではございませんでしたのね)
セレナでもザイデル様でも、どちらにも当てはまるように。
セレナは筆を握ったまま、一行をもう一度読んだ。
名前がない。だから、当てはまる者には誰にでも当てはまる。
では、ほかに当てはまる者は――。
セレナは顔を上げた。
――おにいさま、すっごく泣いたんですって。お椀をひっくり返して、ヴァルターに叱られたの。
エルザの声が、耳の奥でした。
王子の九つの春。黒い匙もセレナもまだいなかった、いちばん最初の朝。あの部屋に、ヴァルターはもういた。
いまの殿下は二十三。九つの春から数えて、十四年。
それからセレナが十六で師の席を継いだ日には、調薬室まで来て「切らしてはなりません」と言った。粉を続ける手だても、閣下の側にある。
王太子の御薬に、七年携わった者。
この王国で、その一行にいちばんぴたりと当てはまるのは、セレナではなかった。
「……あら」
声が出た。コハクが、丸めた紙をくわえたまま顔を上げた。
セレナは、反故紙を一枚引き寄せた。
名前のない一行には、誰の名前でも書きこめる。
だったら、自分で書けばいい。
七年携わった者として、まず自分の名前。その次の行に、同じく七年携わった者として、もう一つ。二つめの名前を書くとき、筆先がほんの少し震えた。怖かったのではない。おかしくて、笑いそうになったのだ。
今度は、筆が紙の上を最後まで走った。
書き上げた返事を脇へ置いて、セレナはもう一度、手紙を引き寄せた。問いの行のあとに、一文だけ書き足す。
――あの問いの答えは、わたくしが宰相閣下から直に伺います。
「封は、いたしませんの」
丸めた紙をくわえたままのコハクに、セレナは言った。
「明日、ジェラルド様に閣下の手から渡していただきますわ。閣下に読まれて困ることは、一行も書いておりませんもの」
翌日の夕方、ジェラルドは公館から調薬室へまっすぐ来た。
戸を開けるなり、彼は言った。
「宰相が受けた」
セレナは、薬研を回す手を休めた。
「……そうですの」
「宰相は、二度読んだ。羽根ペンを取ろうとして、取らずに置いた。それから、異存はありません、とだけ言った」
セレナは、何も言わなかった。
「ボルク卿は、読み終わってから笑った。腹を抱えてな。卿も扉の外になりますぞと文官が言ったら、宰相のあの顔が見られたなら釣りが来る、と返していた。卓で笑ったのを、俺は初めて見た」
テオが、戸口の外から顔だけ出した。
「旦那、あの文を最初から読んでくださいよ。俺、廊下で半分しか聞こえなかったんですから」
ジェラルドは懐から写しを出して、卓に置いた。セレナが今朝渡した返事の写しだった。
――カルディアは、この一行を受ける。
――王太子の御薬に七年携わった者として、セレナ・フェアミルが問いの場に立つ。
――同じく七年携わった者として、エルデン宰相ヴァルター閣下にも、問いの場にお立ちいただく。
――エルデンの問いの場とは、エルデンの宰相閣下がお座りになる卓と心得る。よって場所は、公館のエルデン客間とする。
――扉は閉める。立ち会うのは、七年携わった者のみとする。
――問いが済むまで、エルデンにおいても、この件で他の何人も問われぬこと。
テオが、写しを覗きこんで口笛を吹いた。
「先生、宰相の首に宰相の縄をかけましたね」
「縄だなんて。わたくしはただ、閣下のお書きになったとおりに読んだだけですわ」
セレナは、薬研を脇に寄せた。
「名前がなかったのですもの。当てはまる方には、みなさまお立ちいただかないと」
「宰相は、断れなかったのか」
テオが訊いた。ジェラルドが答えた。
「断るなら、自分は七年携わっていないと卓の前で言わねばならん。言えばその場で、では誰が殿下の御薬に携わっていたのかと訊かれる」
「受ければ?」
「扉の内側には、もう知っている者しかいない」
セレナは、うなずいた。
「知る人は、ひとりも増えませんわ。閣下のおっしゃることが正しいのでしたら、わたくしはその正しさの中でお話しするだけですの」
リタが、奥から顔を出した。
「それで、最後の一行は? 他の誰も問われないって」
「ザイデル様のことですわ」
セレナは、写しのいちばん下の行を指でなぞった。
「宰相閣下は、受けるとおっしゃったのでしょう。でしたら閣下は、問いが済むまであの方に何もできませんの」
「出してはもらえないんですか」
「そこまでは書けませんでしたわ」
セレナは、少し肩を落とした。
「……今日のところは、あの方の首がつながっている。それだけですの」
ジェラルドが、卓の上の写しを見下ろしたまま言った。
「手紙も渡した。お前が言ったとおり、封をせずに」
「閣下は、なんと」
「その場で読んだ。読み終わって、たたんで、懐に入れた。お預かりします、とだけ言った」
セレナは、ほっと息をついた。
宰相府の奥へ届くまで、早馬に載れば三日。届いたあの人が、どんな顔で読むのかは分からない。たぶん、眉間のしわが一本増える。
「明日の昼だ」
ジェラルドが言った。
「宰相の客間で。扉は閉める、と」
「ええ」
「俺は、扉の外にいる」
「七年、携わっておりませんものね」
セレナが言うと、テオが吹き出した。ジェラルドは笑わなかった。何か言いかけて、口を閉じ、写しを懐に戻した。
「それから、もうひとつある」
「卓を立つとき、宰相が俺に言った。お伝えください、と」
「何を、ですの」
「セレナ・フェアミル殿に明日お待ちしております、と」
調薬室の空気が、少しだけ動いた。
セレナは、ジェラルドの顔を見た。
「……お名前で、ですの」
「ああ。初めて聞いた」
五年前、師の席を継いだ日に名乗った。閣下はそれきり、その名前を口にしなかった。名を覚えると、切るときに手が鈍るから。海を渡ってきた日には「覚えておきます」とだけ言って、やはり呼ばなかった。
その人が、セレナの名前を言った。
手が鈍ることを、受け入れたのか。それとも、もう鈍っても構わないところまで来たのか。どちらなのかは、明日の扉の内側でしか分からない。
セレナは、棚から黒い匙の包みを下ろした。
「明日、これを持ってまいりますわ」
「何に使う」
「お話の種に、ですわ」
セレナは包みを膝に置いて、ゆっくり紐を結び直した。
明日閉める扉の鍵は、内側にある。
(わたくしの七年と、閣下の十四年で、閉めますのよ)




