第21話: 聖女という駒
盤の上の駒には、口がない。
だから、どこへ動かされても文句を言わない。いちばん前へ押し出された駒などは、たいてい、自分がこの勝負の主役になったのだと思っている。
押し出した指のほうは盤の外にあって、誰の目にも映らない。
エルデンの王都に、そういう駒がひとつあった。白い衣を着て、祈りの言葉を唱える駒だ。
聖女ミレーヌ。王太子アロイスが、婚約者の宮廷薬師セレナを捨ててまで隣に置いた娘である。
十三日前、和睦の調印の壇で、王太子は人前で倒れた。王宮の中庭に入れられていた民は、その場で口々に言った。毒だ。誰が盛った。
それから、もうひとつ。倒れた王太子の脇で、聖女さまが一歩さがった、と。
宰相ヴァルターはいま、海の向こうのカルディアにいる。和睦の紙を書き直す卓についたまま、王都へ早馬で手紙を一通よこした。
その早馬が宰相府に着いたのは、この日の昼のことである。
ミレーヌが寝室に来たのは、八日ぶりだった。
扉が開くより先に、甘い香油の匂いが廊下から流れてきた。アロイスは、それで誰が来たのか分かった。
壇の上で倒れてから、寝台を降りたのは数えるほどしかない。医師は日に二度来て脈をとり、首をかしげて帰っていく。侍従たちは口数が減った。中庭で誰かが話していても、窓を開けさせると声はやむ。
ミレーヌだけが、来なくなっていた。理由は、誰も言わなかった。
「殿下!」
扉が開くなり、ミレーヌは寝台のそばまで小走りに来た。白い衣の裾が、床の上でふわりと広がる。
「お会いしとうございましたわ。ずっと、ずっと」
「……来なかったな」
「まあ。寂しがってくださいましたの?」
ミレーヌは嬉しそうに笑った。
寂しかったわけではない。この部屋が、静かすぎただけだ。
ミレーヌの後ろから、もう一人入ってきた。黒い上着の痩せた男だった。いつも宰相の半歩後ろに立っている顔で、宰相府の次官だと名乗った。
「宰相閣下より、早馬で文が参りました。殿下と聖女さまに、お伝えするようにと」
「宰相は、まだ海の向こうか」
「はい。和睦の紙の書き直しが続いております」
次官は、たたんだ紙を広げた。
「次の安息日、大聖堂の石段にて聖女ミレーヌさまに殿下のご快癒をお祈りいただく。民の立ち入りを許す。……以上が、表に出す触れでございます」
ミレーヌが、胸の前で両手を合わせた。
「民の前で? 大聖堂の、石段で?」
「はい」
「まあ。……まあ」
白い頬に、みるみる赤みがのぼっていく。
「宰相閣下が、わたくしを選んでくださったのね」
「閣下のお指図です」
「やっぱり。閣下は分かっていらしたのよ。あの日のことなんて、なんでもないって」
あの日、とアロイスは思った。
「あの日とは、なんだ」
「いいえ、なんでもございませんわ。殿下はお気になさらないで」
ミレーヌは、笑って手を振った。次官は何も言わなかった。
「では、お指図の残りを申し上げます」
次官は紙を一枚めくった。
「一つ。祈りの中で、誰の名も出さぬこと」
ミレーヌの笑みの端が固くなった。
「誰の名も、ですの」
「はい。お祈りいただくのは、殿下のご快癒と悪いものが抜けることです」
「悪いもの、と申しますのは」
「悪いもの、です」
次官は、それ以上は言わなかった。
ミレーヌは少し考えて、それからくすりと笑った。
「……そうね。名前なんて出さなくても、民の皆さまはちゃんとお分かりですもの。殿下に悪いお薬を盛ったのが、どなたなのか」
薬屋あがりの女だ、とアロイスは思った。
ミレーヌは何度もそう言った。中庭の者たちもそう言っているらしい。宰相は、それを否まない。
皆がそう言うのだから、そうなのだろう。
「二つ」
次官の声は、さっきと少しも変わらなかった。
「祈りの水や香油、そのほか殿下のお口とお体に触れるものは何ひとつ持ち込まぬこと」
「わたくしの聖水を?」
ミレーヌの声が跳ねた。
「あれは大聖堂の泉から汲んだ、清いお水ですのよ。悪いものを流すなら、あれがいちばん――」
「閣下のお指図です」
「殿下のお口に、ほんのひとくちだけでも」
「何ひとつ、と書いてございます」
次官は、紙のその行を指で示した。
アロイスは、枕から頭を少し持ち上げた。
「なぜだ」
「存じません。閣下は、理由をお書きになりませんでした」
「私の快癒の祈りだろう。私の口に何が入るかを、海の向こうの年寄りが決めるのか」
「左様でございます」
次官は、あっさりと答えた。
アロイスは何か言い返そうとした。けれど、言葉が出てくる前に息のほうが尽きた。枕に頭を戻すと、天蓋の房が揺れているのが見えた。
宰相がそう言うのなら、そうなのだろう。あの老人は、いつも正しいことしか言わない。
「三つ」
次官は、別の紙を一枚差し出した。今度はミレーヌにだった。
「祈りの言葉は、こちらでご用意したものをお読みいただくこと」
ミレーヌは受け取って、目を落とした。
「……わたくしの祈りは、わたくしの言葉で唱えるものですわ」
「聖女さまはお疲れであろうから、と閣下が」
ミレーヌは、紙を持ったまま黙った。
アロイスは、その横顔を見ていた。怒るかと思った。けれど、ミレーヌの目はもう紙の上になかった。窓のほうを見ていた。大聖堂の尖塔が見える窓だ。
「……分かりましたわ」
ミレーヌは紙を胸に当てて、にっこりした。
「それで、次官さま。石段は、いちばん上に立ってよろしいのでしょう?」
「と、申されますと」
「いちばん上なら、下からよく見えますもの。広場の端の方にも、ちゃんと届きますわ」
「よく見えるように、と閣下も」
「まあ。さすが閣下ね」
何を祈るかではなく、どこに立つかを訊いた。アロイスはそれに気づいたが、深くは考えなかった。考えるには、体がだるすぎた。
ミレーヌは寝台に向き直って、アロイスの手を両手で包んだ。
「殿下。安息日の朝には、きっとお体が軽くなっていますわ」
「……本当か」
「わたくしが祈るのですもの」
甘い匂いを残して、ミレーヌは出ていった。
次官は戸口で一礼してから、宰相の文をたたみ直した。紙にはまだ何行か残っていた。そこを、彼は一度も読み上げなかった。
「その残りは、なんだ」
「宰相府への用向きでございます」
扉が閉まった。
しばらくして、廊下の向こうからミレーヌの声が聞こえてきた。さっきの紙を、もう声に出して読んでいるらしい。よく通る、きれいな声だった。
一行目の終わりで、つっかえた。
セレナの舌は、この七日でずいぶん働いた。
調薬室の梁には、森から持ち帰った草が吊るしてある。根は根、葉は葉で束ねて、麻紐に札を下げてある。数えれば四十を少し越える。
セレナは乾いた根を一本、指で折った。断面を舌の先にのせる。
苦い。それから、喉の奥へ抜けていく渋み。
しばらく口の中で転がしてから、小鉢に吐いた。水で口をすすぎ、帳面に書きつける。
――似ている。後味が違う。
「それ、今朝から何本目ですか」
リタが、パンの籠を卓に置きながら訊いた。
「十一本目ですわ。舌が、そろそろ休ませてくださいと申しておりますの」
「舌が喋るんなら、休ませてあげてくださいよ」
「そうはまいりませんの。近いものは三つまで絞れましたのよ。でも、どれも半分だけ似ているのですわ」
白い粉の味は、七年ぶん舌の奥に残っている。けれど、それに近いものを一つずつ当てていくのは、目隠しで知り合いの声を探すような仕事だった。似た声ならいくらでもいる。本人の声は、まだ聞こえない。
棚の上で、コハクが紐の端をかじっていた。札の一枚が、くるくる回っている。
「コハク。それはおやつではございませんわよ」
コハクは紐を放して、琥珀色の尻尾を体に巻きつけた。返事のつもりらしい。
そこへ、戸が勢いよく開いた。
「先生! 港で、すごいの聞いてきました」
テオだった。朝の巡回の帰りらしく、腕に塩漬けの魚の包みを抱えている。コハクが、すぐさま棚から降りてきた。
「おはようございます、テオさん。お魚は、あとでいただきますわね」
「魚はいいんです。いや、よくないです、チビ、待て。……マイス親方のとこに、今朝エルデンの船が入って」
テオは包みを高く持ち上げてコハクから逃がしながら、早口で続けた。
「王都に触れが出たそうです。次の安息日に大聖堂の石段で、聖女さまが王太子殿下のご快癒を祈るって。民も入れるって」
セレナは、帳面に筆を置いた。
「次の安息日、ですのね」
「明後日です」
「触れが出たのは、いつかしら」
「水夫の話だと、船が出る前の晩だって。数えると、だいたい五日前ですね」
五日前。
宰相の供が早馬で国境へ向かったのは、宰相が港に着いて二日めの昼だった。ちょうど八日前になる。
早馬なら、カルディアの公都からエルデンの王都まで三日。
「……ぴったりですわね」
「何がです?」
「閣下の早馬が王都に着いた日と、触れが出た日ですわ」
テオが、魚の包みを持ち上げたまま止まった。コハクが、その脚をよじ登りはじめた。
「それと、先生。水夫の連中が、もうひとつ言ってたんですけど」
「なんですの」
「調印の日に殿下が倒れたとき、聖女さまが一歩さがったって」
リタが、パンをちぎる手を休めた。
「さがった?」
「倒れた殿下の横から、こう、すっと一歩。中庭の連中がみんな見てたらしいです。それで港じゃ、今度の祈りは聖女さまの名誉挽回だって話になってて。水夫たちが賭けてましたよ。治るほうと、治らないほうと」
「セレナ様なら、ぜったい治らないほうに賭けるでしょう」
リタが言った。
セレナは、ちょっと首をかしげた。
「賭けになりませんわ。祈りで朝が来るのでしたら、わたくし七年も早起きしておりませんもの」
テオが吹き出した。その隙に、コハクが魚の包みに前足をかけた。
魚の包みは、結局リタが戸棚にしまった。コハクは不満そうに、戸棚の前に座りこんでいる。
セレナはパンを一つ取って、半分にちぎった。
「あの、セレナ様」
リタが、卓に身を乗り出した。
「宰相が聖女さまに祈らせたってことですか。わざわざ早馬で」
「そうだと思いますわ」
「なんでです? 宰相って、聖女さまのこと好きなんですか」
セレナは、思わず笑った。
「お好きではないと思いますわよ。……リタ、この前のお話を覚えていて? 『毒を盛った女がいる』という噂は閣下の秘密にかぶせる蓋だ、と」
「覚えてます。セレナ様が、ふたにされてるって」
「その蓋に、ひびが入りましたの」
セレナは、ちぎったパンの片方を卓に置いた。
「倒れた殿下から、聖女さまが一歩さがった。それを、中庭の皆さまが見てしまった。聖女さまが怖がって逃げたのなら、皆さまはこう思いはじめますわ。祈りで治る病ではないのかもしれない。……では本当に毒なのかしら、と」
「あ」
「そこから先を考える方が出てきたら、閣下はお困りになりますの」
テオが、戸棚の前のコハクを抱き上げて椅子に座った。
「だから聖女さまを、もう一回高いとこに立たせるんですね。毒を祓いますよって」
「ええ。民の前で『悪いものを祓う』と祈れば、それだけで皆さまに伝わりますわ。これは外から入った毒です、と」
セレナは、もう片方のパンをかじった。
「名前を出さなくても、ですわね」
リタが、眉を寄せた。
「でも、それなら宰相が自分で言えばいいじゃないですか。『あれは毒です』って。宰相の言うことなら、みんな信じますよ」
「そこが、閣下のおもしろいところですの」
セレナは、パンを飲みこんでから続けた。
「閣下は、ご自分の口では嘘をおっしゃいませんのよ。噂を否まなかっただけ。『毒です』とは、一度もおっしゃっていないわ。わたくしに『戻っても治らない』と言われたときも、『存じております』と正直にお答えになりましたもの」
「正直な悪党って、いちばん厄介ですね」
テオが、コハクの耳の後ろを掻きながら言った。
「ええ。ですから、言ってくださる方が要りますの。それも、本気で信じて言ってくださる方が」
「それが聖女さま」
「聖女さまは、わたくしが毒を盛ったと信じていらっしゃいますわ。少なくとも、信じたいと思っていらっしゃる。本気で信じている方の口から出れば、それは嘘になりませんのよ。……閣下は、そういう方をちゃんとお選びになるのですわ」
リタは、しばらく口を開けたまま考えていた。
「じゃあ、聖女さまは知ってるんですか。自分が蓋の上に座らされてるって」
「ご存じないでしょうね」
セレナは、肩をすくめた。
「ご存じないから、きっと石段のいちばん上で胸を張っていらっしゃいますわ。いちばん目立つところで、いちばん大きなお声で」
婚約破棄の広間でも、あの人はそうだった。アロイスの隣のいちばん明るいところに立って、祈りはどんな薬にも勝ると言った。あのとき、セレナは訊いたのだ。祈れば殿下の明日の朝はちゃんと来ますの、と。
あの人は答えられなかった。それでも、次の朝もその次の朝も、同じ明るいところに立っていた。
「でも、セレナ様」
リタが言った。
「祈っても治らなかったら、どうなるんです。聖女さま、また恥かくだけじゃないですか」
「そのときは、もっと悪いことになりますわ」
「もっと?」
「聖女さまが祈っても祓えないほど、強い毒だった。皆さまは、そう思いますもの」
テオが、コハクの背から手を浮かせた。
「……治っても、治らなくても」
「ええ。どちらに転んでも、お話は毒のほうへ転がりますの。閣下が損をなさることは、ひとつもございませんわ」
「聖女さまのほうは?」
「治らなければ、聖女さまおひとりが損をなさいますわね」
調薬室が、少し静かになった。梁の上で、草の札がひとつ揺れた。
「それって、使い捨てじゃないですか」
テオが言った。いつもの軽い声ではなかった。
「閣下にとっては、たぶん」
セレナは、ミレーヌのことをかわいそうだと思ったわけではない。あの人に「薬屋あがり」と呼ばれた回数を数えたら、両手では足りない。
ただ、石段のいちばん上で胸を張る人の背中に、誰の手が添えられているのか。それを本人だけが知らないのは、見ていてあまり気持ちのいいものではなかった。
(……お気の毒、と申し上げるほど、わたくしは人間ができておりませんけれど)
セレナは小鉢を引き寄せて、十二本目の根を手に取った。
ジェラルドが調薬室に来たのは、夕方の鐘が鳴り終わったころだった。
公館から、まっすぐ歩いてきたらしい。外套の肩に、港からの風の湿り気が残っている。
「港の噂は聞いたか」
戸口で、彼は最初にそう言った。
「聞きましたわ。テオさんが、お魚と一緒に運んでくださいましたの」
「なら、話が早い」
ジェラルドは椅子を引いて座った。リタが、黙って湯を沸かしはじめた。
「今日の卓で、エルデンが一行足してきた」
「和睦の紙に、ですの」
「そうだ。宰相が、自分の口で読み上げた」
ジェラルドは、覚えてきた文句をそのまま言った。
「王太子の御薬に七年携わった者を、エルデンの問いの場に立たせること」
テオが、口笛を吹きかけてやめた。
セレナは、筆を持ったまま動かなかった。
「……卓は、なんと」
「ボルク卿が突っぱねた。誰のことか分かって言っているのか、と」
「閣下は、なんとお答えになりましたの」
「誰のことかは書いていない、と答えた。それから、返事は急がないと言った。次の卓で聞かせてくれればいい、とな」
「次の卓は、いつですの」
「安息日が明けてからだ。宰相がそう望んだ」
セレナは、ゆっくり筆を置いた。
安息日に、王都の石段で聖女が祈る。祈りのあとの王都の様子は、水夫と使いの口に乗って何日かのうちに海を渡ってくる。毒を祓う祈りがあったこと。それでも王太子が起きないこと。王都じゅうが、毒を盛った女の話をしていること。
その話が届いたころに、カルディアは返事をすることになる。
「急ぐのは噂のほう、と閣下はおっしゃいましたのよ」
セレナは言った。
「その噂を急がせていたのは、閣下ご自身でしたのね」
ジェラルドは答えなかった。答えの要らない話だと、分かっている顔だった。
「断ることはできる」
しばらくして、彼は言った。
「この一行を飲むかどうかは、カルディアが決める。だが断れば、エルデンの民はカルディアが毒を盛った女を匿っていると言う」
「そして飲めば、わたくしは海の向こうの問いの場に立つことになりますわね」
セレナは、指を一本立てた。
「問いの場は、エルデンですわ。閣下はわたくしを王都へ連れて帰る道を、もう一本お作りになったのよ」
もう一本、指を立てた。
「それに問いの場に立てば、皆さまがお訊きになることはひとつですわ。七年、毎朝あの方の椀に何を量っていたのか」
リタが、湯の鍋の前で振り返った。
「正直に言えばいいじゃないですか。毒じゃなくて、あの、慣らしの……」
そこまで言って、リタは口を押さえた。
この部屋の誰もが、もう知っている。それを口に出したらどうなるか。一人知るたびに、王家の喉に手が一本かかる。民の前で言えば、手は数えきれなくなる。
王家の喉には、春に九つになる女の子の喉も数に入っている。
「黙れば、わたくしは毒を盛った女ですわ」
セレナは、静かに言った。
「話せば、エルザ様の春が皆さまのものになりますの」
「宰相は、どちらだと思っている」
ジェラルドが訊いた。
「わたくしが黙るほうに、賭けていらっしゃると思いますわ。……わたくしが黙ると、ちゃんと知っていらっしゃるのよ」
あの人は、セレナの名前は覚えない。けれど、セレナがどういう人間かは、よく量っている。王女の朝の椀に蜂蜜を足した娘が、その王女の春を広場に放り出すはずがない、と。
ジェラルドが、卓の上の帳面に目を落とした。
「気づいたか」
「何に、ですの」
「宰相の一行には、名がなかった。『七年携わった者』とだけ書いてあった」
セレナは、少しのあいだ黙っていた。
それから、小さく笑った。
「……閣下は、まだわたくしの名前をお書きになりませんのね」
「何かあるのか」
「名前を覚えると、切るときに手が鈍るのですって。前に、そうおっしゃいましたの」
ジェラルドは何も言わずに、セレナの顔を見た。
名前の代わりに、七年と書く。それなら書く手は鈍らない。そして読む者は誰でも、それが誰のことか分かる。
聖女さまは、名を出すなと言われたら、きっと口をとがらせるだろう。出したくてたまらない名前を、喉の奥にしまって石段に立つ。
宰相閣下は違う。名前を出さないほうが深く刺さる場所を、最初から知っている。
同じ名を伏せるのでも、ずいぶん違う。片方は伏せさせられて、もう片方は自分で伏せている。
「わたくし、だんだん閣下のことが分かってまいりましたわ」
「嬉しそうだな」
「嬉しくはございません。腹が立っているだけですわ」
セレナは、小鉢を手もとに引き寄せた。
「腹が立つと、わたくし頭がよく回りますの」
七年、あの方の朝に名前はついていなかった。毎朝の椀は、誰が量ったものでもない顔をして寝台へ運ばれていった。師匠のハイルは、薬に名は要らないと言った。セレナも、ずっとそう思ってきた。
その七年に、いまになって紙の上で呼び名がついた。毒を盛った者の、呼び名として。
(お門違いも、いいところですわ)
セレナは梁から十三本目の根を下ろして、断面を舌にのせた。
苦い。けれど、これも違う。
安息日まで、あと二日あった。




