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婚約破棄された宮廷薬師ですが、隣国で溺愛されています 〜私を「薬係」としか見なかった王太子が寝込んでも、もう戻りませんわ〜  作者: 相川ことね


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第20.5話: 薬草採取の一日

 森の草は、名札を下げていない。


 薬になる草も、人を殺す草も、同じ土から同じような顔で生えている。それでも見分けのつく人間がいるのは、その前で何千回もかがんだからだ。


 かがみすぎて、スカートの膝に土の跡がつかない日のない娘が、公都にひとりいた。




 公都の裏手の森は、夏のさかりだった。


 下草にはまだ朝露が残っていて、踏むたびに靴の先が濡れる。頭の上ではブナの葉が幾重にも重なり、木漏れ日が地面にまだらを落としていた。


「先生ー。待ってくださいよー」


 後ろから、情けない声が追いかけてくる。


 テオだった。背中に大きな籠、腰に水筒、片腕には昼の包み。見た目だけなら絵になる二枚目が、荷物に半分埋もれている。


「籠持ちを買って出たのは、テオさんですわよ」


「買って出たっていうか、言われる前に諦めたっていうか……」


 セレナの襟元からは、コハクが顔だけ出していた。調薬室では棚の上で一日じゅう丸くなっているくせに、土の匂いをかいだとたん目つきが違う。もとは森の獣なのだ。


 セレナは歩きながら、右へ左へと目を走らせた。


「あそこの日陰、葉の縁がぎざぎざしているのはオドリコソウ。あちらの倒木の脇はシダばかりですわね。……あら。あの白い花の群れは、ずいぶん育ちがよろしいこと」


「ちょっと待ってください。先生、あれ見えてるんですか。俺には全部、緑の草なんですけど」


「見えておりますわよ」


「なんで分かるんです。近づいてもいないのに」


「葉の形と生えている場所と、それから匂いですわ」


 セレナは足を止めずに答えた。


「見ただけで分かるわけではございませんの。かがんだ数ですわ」


「かがんだ数」


「十四の夏に、師匠から籠ひとつ持たされて森へ放り込まれましたの。言われたのは『書け』のひと言だけ。一種類ずつ一本摘んで帰って、帳面に写しましたわ」


 その年の帳面の最初に、セレナは自分で決まりを一行だけ書いた。


 ――名前の言えない草は、籠に入れるな。


「名前の言えなかった草は、その場で捨てられましたの。最初のひと月で、籠に残ったのは三本でしたわ」


「三本!」


「残りは全部、師匠の足もとの屑籠ですわね」


「先生にもそんな頃があったんだ……」


「ございましたわよ。それから毎年森へ通って、かがんで写して」


 セレナは振り返って、にっこり笑った。


「ですから今日はテオさんも、たくさんかがんでくださいましね」


「籠持ちって、そういう仕事でしたっけ」




 森の奥へ少し入ると、沢の音が聞こえてきた。


 水べりに、細長い葉をさげた木が何本も並んでいる。セレナは迷わずその一本に歩み寄ると、小刀で枝の皮を指一本ぶんだけ削いだ。


 そして、それを口に入れた。


「ちょ、先生!」


 テオが籠を揺らして駆け寄ってくる。


「食べました? いま、木を食べました?」


「かじっただけですわ。柳ですのよ。この皮は、熱冷ましと節々の痛みに効きますの」


 セレナはしばらく口を動かしてから、皮を沢へ吐き出した。水筒の水で、丁寧に口をすすぐ。


「……ちがいますわね」


「ちがうって、何と」


「あの粉の味と、ですわ」


 テオが、ああ、と籠を背負い直した。


「そっか。今日はそれを探しに来たんでしたね」


「ええ。苦いもの、舌の奥に残るもの。あの味に近い草を、片っぱしから試してまいりますの」


「片っぱしから……」


 テオの顔色が、目に見えて悪くなった。


「旦那に、目を離すなって言われてるんですけど。これ、俺が見てる前で先生がばたばた倒れていくやつじゃないですよね」


「倒れませんわよ。量を守っておりますもの」


 セレナは指先で、自分の舌のあたりを示した。


「ほんの少しだけ口に入れて、味を見たら吐いてすすぐ。飲みこんではいけませんの。それに、名前の分かっている草しか舐めませんわ」


「名前の分からないやつは」


「籠にも入れませんわ。師匠の決まりですもの」




 昼前に、ちょっとした騒ぎがあった。


 沢へ下りる斜面の、木の間がひらけた湿った草地に、背の高い草がひとむら立っていた。茎の先に、深い青の花がいくつもぶらさがっている。どれも、小さな兜をかぶったような形をしていた。


「お、きれいだな」


 テオが籠を下ろして、その一本に手を伸ばした。


「先生、一輪どうです。籠持ちからの心づけってことで」


 その瞬間、セレナの襟元でコハクが跳ねた。


 小さな体が硬くなり、鼻先がぐいと花から背けられる。立て続けにくしゃみが二つ。琥珀色の毛が、背中から尻尾まで逆立った。


「テオさん、お触りにならないで!」


 セレナは、伸びかけたテオの手首をつかんでいた。


「……え?」


「トリカブトですわ」


 テオの指が、花の手前で宙に浮いたままになった。


「トリカブトって、あの」


「ええ。あの晩、ジェラルド様の杯に入っていたのと同じ草ですわ。いちばん毒が強いのは根ですけれど、葉にも花にもございますの。手で摘んだだけで、指がしびれる方もいらっしゃいますのよ」


 テオは自分の手をまじまじと見て、それからそろそろと引っ込めた。


「花をあげようとしただけなのに」


「お気持ちだけ、ありがたく頂戴しますわ」


 セレナはコハクの背を撫でた。逆立った毛が、指の下で少しずつ寝ていく。


「いい鼻ですわね、コハク。あの晩とそっくり同じお顔」


 コハクはまだ花のほうを見ないようにしながら、セレナの襟の奥へもぐりこんだ。


「……先生。これも舐めるんですか」


「これは舐めませんわ」


「お、先生にも舐めない草があるんだ」


「森の中では、ですわ。手当ての道具がございませんもの。調薬室で炭と吐き薬をそろえてほんのひとかけらなら、また話は別ですけれど」


「別なんだ……」


 テオは花の群れから二歩下がって、籠を背負い直した。それから、わざとらしく咳払いをした。


「ええと。じゃあ心づけは、あとで蜂蜜でも」


「あら。それは喜んで」




 昼は、沢の上の倒木に並んで腰かけた。


 テオの包みから、黒パンとチーズと腸詰めが出てくる。宿場の女将が持たせてくれたのだという。


「この腸詰め、うまいんですよ。女将さんのとこの自家製で」


 テオはそう言って、腸詰めを膝の上の布に置き、パンをちぎった。


 ちぎって、顔を上げて、膝を見下ろした。


 布の上には、何もなかった。


「……あれ?」


 倒木の向こう側で、琥珀色の尻尾がひらりと消えた。


「チビ!」


 テオが立ち上がって倒木をまたぐ。セレナもパンを持ったまま、のぞきこんだ。


 大きなブナの根もとに、大人の拳がやっと入るほどの洞があいている。コハクはその前で、何くわぬ顔で前足をなめていた。口のまわりに、腸詰めの脂が光っている。


「お前なあ。食べたんならまだしも」


「食べておりませんわよ、その子」


 セレナは笑いながら、洞を指さした。


「イタチの仲間には、食べきれないものを隠しておく癖がございますの。あとでゆっくり頂くつもりですわね」


「俺の昼飯を、貯金するな」


 テオは腕まくりをして洞に手を入れた。


 まず出てきたのは、腸詰め。土はついていたが、まだ形を保っている。


 次に出てきたのは、色の褪せた紐だった。


「あら」


 セレナは目を丸くした。


「それ、わたくしの薬包の紐ですわ。先週、どこを探してもなかったものですのに」


「先生のもあるじゃないですか」


 さらに、木のボタンがひとつ。


「……これ、俺の上着のやつだ」


 二人は顔を見合わせた。


 コハクはもう洞にも腸詰めにも興味をなくした顔で、セレナの靴の上に座り、尻尾を巻いている。


「この子、調薬室から森までずっと持ち歩いていたのかしら」


「いや、さっき俺が籠を下ろした隙に潜りこんだんですよ。籠の底でごそごそしてたんで」


「では今朝ここへ来てから、ちゃっかりお引っ越しを」


「手際がいいなあ、チビは」


 テオは土を払った腸詰めをしばらく眺めていたが、やがて端を小刀で切り落として、コハクの前に置いた。


「ほら。お前の取り分」


 コハクは迷わずそれをくわえ、また洞の前へ運んでいった。


「……また貯金した」


「ふふ。几帳面な子ですこと」




 午後になって、そのコハクが沢べりの湿った土を掘りはじめた。


 前足が目にもとまらない速さで動き、泥が後ろへ飛ぶ。テオが慌てて籠をよけた。


「うわ、なんか出てきた」


 土の中から現れたのは、ひげのように細い根が束になった塊だった。


 とたんに、むっとする匂いが立ちのぼった。


「くさっ!」


 テオが鼻をつまんでのけぞった。


「先生。これ、足の匂いがします。三日履いた靴下の匂いです」


「ええ、そういう匂いの根ですの」


 セレナは平気な顔でしゃがみこみ、根を丁寧に土から抜いた。


「カノコソウですわ。この根を干して煎じると、よく眠れるお薬になりますの。眠れない方、気の立った方にお出しするものですわ」


「この匂いで?」


「匂いは干すともう少しましになりますわ。少しだけ、ですけれど」


「少しだけかあ」


「猫がこの匂いを大好きですのよ。コハクもきっと、それで掘り当てたのね」


 コハクは泥だらけの前足のまま、根の束に鼻をこすりつけている。


「いい根を見つけましたわね、コハク。今日いちばんの手柄ですわ」


 セレナは根を布にくるんで、籠のいちばん上にそっと載せた。


 籠の中は、もう半分以上埋まっていた。苦い皮、苦い葉、苦い根。どれも夕方には調薬室の乾燥棚に並ぶ。


 けれど、そのうちのどれも、あの粉の味ではなかった。


「先生。今日、いくつ舐めました?」


「十二、ですわね」


「で、当たりは」


「ございませんでしたわ」


 テオが、なんとも言えない顔をした。


「……空振りってやつですか」


「あら。十二、ちがうと分かりましたのよ」


 セレナは泥のついた指を沢で洗いながら、からりと言った。


「明日は、その十二を舐めなくてすみますもの」




 帰り道、テオの提案で、港の裏の丘をまわることになった。


「チビの蜂蜜、ちょうど切れてるでしょ。爺さんとこ、帰り道ですから」


 丘の南の斜面に、藁で編んだ釣鐘のような巣箱が十ばかり並んでいた。夏の蜂は忙しい。巣箱の口を出入りする羽音が、近づくにつれて低く重なっていく。


 巣箱のあいだで、白いひげの老人が煙をくゆらせていた。手に持った壺の中で、乾いた草がくすぶっている。


「おう、テオか。今日はべっぴんさんを連れてきたな」


「グスタフ爺さん、こちら薬師の先生。チビの飼い主」


「まあ。いつもコハクがお世話になっております」


 老人は、セレナの襟元から顔を出したコハクを見て笑った。


「ああ、蜂蜜泥棒の親分か」


 グスタフは藁の巣箱のひとつを、素手でひょいと持ち上げて傾けた。蜂が何匹か、その手の甲に止まった。一匹が、ちくりと刺した。


 老人は顔色ひとつ変えず、爪の先で針をすっと払い落とした。


「つまむと、毒袋を押しちまうからな。こうして横に払うんだ」


 刺されたところには、小さな赤い点がひとつ浮いただけだった。


「本当に、腫れませんのね」


「テオから聞いたか。最初の年はひどかったぞ。顔が焼きたてのパンみたいに膨れてな。三日は目が開かなかった」


 セレナは、少し考えてから訊いた。


「冬のあいだは、刺されませんでしょう。巣箱を開けませんもの」


「開けんな」


「では、春の最初の一刺しは?」


 老人は、おや、という顔をした。


「よく分かったな。腫れるんだよ、ちょっとだけ。ひと冬のあいだに、体が少し忘れるんだな」


 グスタフは蜂蜜の壺に蓋をしながら、続けた。


「いっぺん、腰を痛めて三年ばかり蜂から離れたことがある。戻った最初の日は、また最初の年の顔に逆戻りだ。……体ってのは、覚えるのもゆっくりなら忘れるのもゆっくりなんだよ」


 セレナは受け取った壺を抱えたまま、すぐには礼を言わなかった。


 ゆっくり忘れる。


 急に取り上げれば、体は崩れる。あの方がそうだった。けれど、ゆっくりなら。


(……そう。体のほうにも、忘れる道がございますのね)


 まだ、何の草かも分からない。けれど、減らす速さの目安だけは見えた。ひと冬かけて、少しずつ。体が忘れるのに追いつける速さで。


「ありがとう存じます、グスタフさん」


「なに、蜂蜜の礼なら泥棒の親分に言わせな」


 コハクは壺の匂いに鼻を伸ばして、セレナの肩の上で落ち着かなく足踏みをしている。




 丘のてっぺんから、公都が見下ろせた。


 港には帆柱が並び、公館の屋根がその奥に光っている。宰相たちは、今日もあの大広間で文の言い回しを揉めているのだろう。


 テオが、東のほうを指さした。


「あっちの街道。国境の駅逓まで、替え馬で三つ」


 畑のあいだを、白っぽい道がまっすぐ延びている。


「昨日の早馬なら、今ごろ二つ目は過ぎてますね。国境を越えるのは今夜ってとこかな」


「よくご存じですこと」


「駅逓の馬番、飲み友だちなんで」


 セレナはしばらく、その道を眺めていた。


「あちらは、ずいぶんお急ぎですのね」


「先生は?」


 テオが、籠を背負ったまま横目でこちらを見た。


「先生は、急がないんですか」


「急ぎませんわ」


 セレナは、蜂蜜の壺を胸に抱え直した。


「急いで減らしたら、体が崩れますもの。昨日、申しましたでしょう」


「ああ、昨日の」


 テオはそれ以上は訊かなかった。訊かずに待つのが、この人のやり方だった。


 丘の斜面では、まだ蜂の羽音が続いている。


 東の道の上を、土埃がひとすじ、国境のほうへ流れていった。

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