第20話: 慣らしの薬
子どもに苦い薬を飲ませるとき、大人はたいてい同じことを言う。
「あなたのためよ」
たいていは本当だ。熱を下げるため、咳を止めるため、その子がまた外を走りまわれるようにするため。
けれど、ごくたまに、そうではない苦い薬がある。
昨日、セレナはそれを、八つの女の子の口から聞いた。
――もうすこし大きくなったら、おにいさまと同じ朝のお薬をいただくのよ。
エルデンの幼い王女エルザは、どこも悪くない。頬はふっくらして、よく笑い、よく転ぶ。その元気な子に、王家はいずれ、兄の王太子アロイスが毎朝飲んできたものと同じ白い粉を飲ませはじめる。
セレナは七年、その粉を量ってきた。三月と少し前に婚約を破棄されて国を出されるまで、毎朝、黒い匙で。
粉が何をしていたのかは、もう分かっている。治す薬ではない。切らせば体が壊れる薬だ。あの方はそれを失って、人前で倒れた。
分からないのは、なぜそんなものを王家が飲ませ続けるのか、だった。
あの子が最初のひと匙を飲む前に、それを突き止める。昨日、宰相たちが帰ったあとで、セレナはジェラルドにそう言った。
宰相ヴァルターが港に着いて、二日めの朝のことである。
公館の廊下は、朝から人の声で騒がしかった。
大広間の扉の向こうで、和睦の紙の書き直しが始まっている。エルデンの宰相とカルディアの重臣たちが、一つの文の言い回しで、もう半刻も揉めているらしい。
セレナはその前を、足音を立てずに通りすぎた。
廊下の突き当たりに、窓のない小さな部屋がある。奥の壁に鉄の扉が埋まっていて、鍵は二つ。そのうちの一つは、セレナの腰の紐に下がっている。
錠を回して、油紙の包みを取りだした。
カルディアに来てから、頭の中の七年分を書き直した覚え書きだ。この前は三晩かけて、意味を探しながら読んだ。
今日は、意味は探さない。数だけを拾う。
「……さて。朝から算術ですわね」
卓に灯りを寄せて、頁をめくった。
――白き粉、麦粒ほど二つ。
十四の秋、黒い匙を渡された年だ。あの方は十六だった。
――白き粉、麦粒ほど三つ。
四年目の春。
――白き粉、麦粒ほど四つと半。
王宮にいた、いちばん新しい春。
セレナは反故紙の端に、三つの数を並べて書いた。
二つから三つになるまでに、三年と半年かかっている。麦粒ひとつぶん増えるのに、三年半。
(では、逆にたどってみましょうか)
あの方が十六のとき、麦粒二つ。同じ歩みでさかのぼれば、一つ減るのに三年半、二つ減るのに七年。
十六から七つ引けば、九つになる。
セレナは筆を置いた。
九つの年に、あの方の匙は零だった。つまりその年に、最初のひと匙が始まったことになる。
もちろん大づかみだ。毎年きっちり同じだけ増えていたとは限らない。それに、おしまいの三年は増え方がずっと速い。三つから四つと半まで、たった三年で麦粒ひとつ半。
その速さが、セレナには気になった。
治す薬なら、体が良くなるほど減っていく。それが薬というものだ。
この粉は、年を追うごとに要る量が増えていく。しかも、だんだん速く。
(まるで、体のほうが粉に追いついていくみたいですわ。追いつかれるたびに、匙を足して……)
そこまで考えたとき、背中で扉がきしんだ。
「セレナ!」
振り向くより先に、明るい色の上着が飛びこんできた。
「まあ。エルザ様」
「やっぱりセレナだった。廊下の向こうに、セレナの髪が見えたの」
王女は卓の端に両手をかけて、つま先立ちになった。
「ヴァルターのお話、ながいの。ずっと同じところで止まってるのよ。『ゆえに』と『よって』のどっちにするかって」
「それは、ながくなりますわね」
「でしょう?」
エルザは、卓に広げた帳面をのぞきこんだ。
「これ、なあに。字がいっぱい」
「わたくしの日記のようなものですわ。毎晩、その日のことを書いておりますの」
「わたしも毎晩書いてるのよ。ばあやに言われて。でもすぐ眠くなっちゃうの」
「三行でよろしいのですわ。三行書けたら、えらいのですもの」
「ほんと?」
「ほんとうですわ。わたくしの師匠が、そうおっしゃっておりましたもの」
ハイルが本当にそう言ったかは怪しい。あの人は「書け」としか言わなかった。けれど三行でも、書かないよりはずっといい。
セレナは帳面をそっと閉じた。そして膝を折り、王女と目の高さを合わせた。
「エルザ様。ひとつ伺ってもよろしいかしら」
「なあに」
「お誕生日は、いつですの」
「春!」
迷わない返事だった。
「林檎の花が咲くころ。こんど九つになるの」
セレナは、笑顔を顔に残したまま聞いた。
「九つになったらね、朝のお薬なの。ばあやが言ってた。おにいさまも、九つの春からだったんですって」
「……そうでしたのね」
「おにいさま、すっごく泣いたんですって。苦くて。お椀をひっくり返して、ヴァルターに叱られたの。ばあや、見てたって」
エルザは、ないしょの話をする顔になった。
「そのときね、蜂蜜がなかったんだって」
七年前の秋に麦粒二つ。そこから七年さかのぼって、九つの春。
帳面の数と、王女の口から出た季節が、一つのところで重なった。
当たってほしくない計算ほど、よく当たる。
(……ずいぶんと、腹の立つ当たり方ですわね)
セレナは胸のうちでそう言ってから、その気持ちを脇へ置いた。いまこの子の前で、顔に出すものではない。
「だからね、セレナ」
エルザは、セレナの袖をつまんで引いた。
「わたしのときは、蜂蜜いれてね」
セレナは、すぐには答えなかった。
この子の朝の椀に、自分が蜂蜜を足す。粉の苦さが分からなくなるように、上手に。
中身を知らずに量った七年の上に、今度は甘さまでかぶせることになる。
それだけは、するつもりがなかった。
「エルザ様」
「うん」
「そのときはわたくし、蜂蜜よりいいものを持ってまいりますわ」
エルザの目が丸くなった。
「蜂蜜より? そんなの、あるの?」
「ございますわ。……ただし、春までのないしょですわよ」
「ないしょ!」
王女は両手で口を押さえて、くすくす笑った。ないしょという言葉そのものが、うれしいらしい。
廊下の向こうから、女の声が近づいてきた。姫さま、姫さま、と呼んでいる。公館の年かさの女官だ。
「あっ、見つかっちゃう」
「見つかってさしあげてくださいまし。あの方、さっきから同じ廊下を何度も往復していらっしゃいますわ」
「……はあい」
エルザは扉のところで振り返った。
「セレナ、ないしょよ」
「ええ。ないしょですわ」
小さな足音が遠ざかって、部屋はまた灯りの音だけになった。
セレナは帳面をもう一度開いて、反故紙の三つの数の下に、一行足した。
九つの春、零から。
それから、その下にもう一行。
林檎の花のころまで。
昼の鐘で、書き直しの卓はいったん閉じた。
ヴァルターが客間に戻ると、エルザは窓辺の長椅子で足をぶらぶらさせていた。
「ヴァルター。わたし、セレナに会ったの」
「存じております。女官どのが、廊下を行ったり来たりなさっていたそうですから」
「あのね、窓のないお部屋で分厚い帳面を読んでたのよ。字がいっぱいの」
ヴァルターは、外套を脱ぎかけた手をそのままにした。
探させていた紙は、王都の炉で灰になった。だから残るのはあの娘の頭ひとつだと、そう数えていた。
頭の中のものは、書き直せる。あの娘は、それをやったのだ。
窓のない部屋と言えば、この公館では金庫の間だろう。手を伸ばせば、国が国に手を伸ばすことになる場所だった。
「それでね、お誕生日を訊かれたの。春って言ったの」
「……そうですか」
「九つになったら朝のお薬なのって言ったらね、セレナが蜂蜜よりいいもの持ってきてくれるって」
「蜂蜜より、ですか」
「なにかしら。ヴァルター、知ってる?」
「さあ。私には分かりかねます」
それは嘘ではなかった。あの娘が何を持ってくるつもりなのか、ヴァルターには本当に分からない。
ただ、あの娘が何を数えたのかは分かった。
王女は「ないしょって言われたのに、言っちゃった」と、今になって口を押さえている。ヴァルターは、聞かなかったことにしますとだけ答えて、窓のほうを向いた。
十四年前の春のことを、彼は覚えている。
王宮の奥の、窓の小さな部屋だった。九つの王子は新しい上着を着せられて、朝から機嫌がよかった。大人の仲間入りなのだと、誰かに教えられていたのだろう。
椀を口に運んで、ひと口目で顔をゆがめた。それから椀を払いのけて、床に落とした。
泣き声は、廊下の端まで聞こえたはずだ。
あのころのヴァルターは、まだ宰相の席になかった。床に散った白いものを、這いつくばって拭いたのは彼だった。
「殿下のためです」
そう言って王子の肩を押さえ、二杯目を飲ませたのも彼だった。嘘ではなかった。全部でもなかった。
粉を量ったのは、調薬室の者ではなく宰相府づきの老薬師だった。彼は、その間ずっと黙っていた。誰の薬かを口にしなかった。口にしない者でなければ、あの部屋には入れなかった。
苦いものに蜂蜜を足すことを、あの部屋の誰ひとり思いつかなかった。苦いものは苦いまま飲ませるのが習いだと、誰もが思っていた。
それを変えたのは、のちに調薬室に入った娘だった。王子の椀ではなく、泣いて薬を嫌がる幼い王女の椀に、何の気なしに蜂蜜を足したのだ。
ヴァルターがそれを知ったのは、王女が廊下で口をとがらせて話したからだ。苦いお薬に蜂蜜を入れてくれたのは、セレナだけだった、と。
「ヴァルター?」
「はい」
「おなかすいた」
「昼餉を頼みましょう」
王女が女官を呼びに出ていくと、ヴァルターは客間の卓に紙を広げた。
宛名は、王都の宰相府。
中身は短かった。聖女さまの祈りの日取りのこと。それ以上は、宛てた者にだけ分かる書き方にした。
封をしてから、角に控えていた供を呼んだ。
「早馬で発ちなさい。国境の駅逓までの替え馬は、公館に頼んであります」
「船は、お使いになりませんので」
「船では遅い」
供が出ていったあと、ヴァルターは卓の上の封蝋の残りを指でつまんで、しばらく転がしていた。
あの娘は、九つの春を数えた。数えたなら、次は「なぜ九つなのか」を数えに行く。
急がなければならないのは、噂のほうだけではなくなった。
「先生、また寝てないでしょう」
夕方の調薬室で、テオが開口いちばんに言った。
「あら。今日は寝ましたわよ」
「何刻に?」
「リタと同じことをお訊きになるのね」
「だって目の下、青いですもん。俺、そういうの見るの得意なんで」
「それはわたくしの得意ですわ。真似なさらないで」
リタが笑って、湯気の立つ鍋を卓に置いた。豆と玉ねぎのスープだ。
「食べてから喋ってください。どうせ今日も、難しい話なんでしょう」
「難しくはございませんの。……ただ、少し癪にさわるお話ですわ」
セレナは匙を取って、スープを二口飲んだ。それから、棚の奥から布の包みを出して卓に置いた。
包みをひらくと、黒い匙があった。七年、毎朝あの粉を量った匙だ。
「コハク。いらっしゃい」
棚の上で丸くなっていたコハクが、琥珀色の尻尾をほどいて下りてきた。卓の上をとことこ歩いて、匙の前で止まる。
鼻先を、匙の柄の擦り減ったところへ寄せた。
寄せて、引いた。また寄せて、また引いた。毒を見つけたときのように毛を逆立てるのでもなく、蜂蜜を見つけたときのようにかじりつくのでもない。鼻先が、決めかねてこまかく震えている。
「……チビ、なんか困ってます?」
「困っておりますわね」
セレナはコハクの背を撫でた。
「この子、前にもこの困り方をしたことがありますのよ。エルデンが友好の証に持ってきた、あの金色の滋養酒の杯の前で」
テオが、スープの匙を宙で浮かせた。
「あの、先生が卓から下げさせたやつ」
「ええ。あれは、慣れた体には薬で、慣れていない体には毒でしたの。……あのとき、その先までは、どなたにも申しませんでしたけれど」
あのお酒を口にふくんだとき、セレナは知っている匂いだと思った。七年毎朝量ってきたものに、よく似ている、と。
コハクの鼻も、同じことを言っている。三月経って、匙の擦り減ったところに残っているほどの、かすかな匂いで。
「毒か薬か、決められないものですのよ。飲む人によって顔を変えますの」
「あたし、そこがいつも分からないんです」
リタが椀を置いた。
「同じものなのに、なんで人によって毒になったりならなかったりするんですか」
「それをね、今朝からずっと考えておりましたの」
セレナは反故紙を卓に広げた。三つの数と、その下の二行。
「あの方の匙は、七年でこれだけ増えましたの。治すお薬なら、減っていくはずですのに」
「体が、強くなってるってことですか?」
「強く、とは少し違いますわ。……慣れていく、のほうが近いかしら。慣れるたびに、もう少し多く要るようになる」
「あー」
テオが声を上げた。
「それ、蜂飼いの爺さんと同じだ」
「蜂飼い?」
「港の裏の丘で、蜂を飼ってる爺さんがいるんですよ。チビの蜂蜜、そこで分けてもらってるんですけど」
テオは、スープの匙で自分の腕をつつく真似をした。
「爺さん、刺されても腫れないんです。素手で巣箱開けるんですよ。最初の年は顔がパンパンに腫れて、目も開かなかったって。それが毎年刺されてるうちに、ちょっと赤くなるだけになったって」
「……テオさん」
「はい?」
「あなた、ときどき本当に役に立ちますのね」
「ときどきって言いました?」
リタがテオの肩をたたいて笑った。セレナも笑った。笑いながら、頭の中では一つの形ができあがっていた。
ほんの少しの毒を、毎日、体に入れる。体はそれに慣れていく。慣れたら、もう少し足す。九つの春から、何年も、何年も。
そうして育った体は、毒に負けない。
「あの方の体は、毒に慣らされておりましたのよ」
口に出すと、それはずいぶん平たい言葉になった。
「九つの春から毎朝、ひと匙ずつ。……あの粉は、慣らしのための毒ですわ」
リタが、椀を両手で包んだまま固まった。
「毒、って。毎朝、毒を飲ませてたんですか。王子様に」
「わたくしの手で、ですわね」
セレナは、匙を布の上に戻した。
「知らずに量っていたとはいえ、七年毎朝ですわ」
声に出してしまうと、胸の奥でまたイラッとしたものが立った。誰に、と訊かれれば、半分は自分にだ。もう半分は、それを一度も教えなかった人たちに。
(まあ。腹を立てるのは、あとでまとめていたしましょう)
戸口で、靴音がした。
ジェラルドだった。公館から、まっすぐ来たらしい。
「続けろ。途中から聞く」
彼は戸口に近い椅子に腰を下ろした。リタが黙って、もう一つ椀をよそった。
「王家の子は、九つの春から毒に慣らされておりますの」
セレナは、今朝からのことを手短に話した。帳面の数のこと。エルザの誕生日。蜂飼いの老人。
ジェラルドは最後まで口をはさまなかった。九つの春、のところで、手の中の椀を卓に置いた。そのあとは、もう持ち上げなかった。
聞き終えて、ひとこと言った。
「毒の効かない王か」
「ええ。杯に何を入れられても倒れない王様ですわ」
「王族なら、誰でも欲しがる体だな」
「ええ。……どなたがいつ始めたことなのかは、まだ分かりませんけれど」
セレナは頷いてから、指を一本立てた。
「それに、もう一つ説明がつきますの。あの滋養酒、『王家伝来』と申しておりましたでしょう。エルデンの王家では、あれは本当に体を養うお酒なのですわ」
「向こうの王家が飲めば、薬か」
「慣れておりますもの。毒になるのは、飲み慣れていない体だけですわ。……それを友好の証として、こちらの卓に載せてまいりましたのよ」
テオが、低く口笛を吹いた。
「えげつねえ」
「でも、そこまでなら」
リタが、首をかしげた。
「毒が効かないなら、いいことじゃないですか。なんで隠すんです。あたしだったら自慢しますよ。うちの王様に毒は効きませんよって。そしたら誰も盛らないでしょう」
「リタ。それ、とても大事なところですわ」
セレナは、卓の上の匙を指で示した。
「毒に慣れた体は、毒が切れると崩れますの。あの方がそうでしたでしょう。三月匙が来なかっただけで、自分のお名前も書けなくなりましたわ」
「……あ」
「自慢すれば、毒は盛られなくなりますわ。そのかわり、みんなが知ってしまいますの。この王家は毎朝の粉を止めれば倒れる、と」
ジェラルドが、短く言った。
「毒を盛る必要もなくなる。粉を止めればいい」
「ええ。毒から王を守る盾と王の喉を締める手が、同じひと匙なのですわ」
調薬室の中で、鍋の湯気だけが動いていた。
セレナは続けた。
「ですから、知る人を増やせませんの。一人知るたびに、王家の喉に手が一本かかりますもの」
「だから宰相は、答えないのか」
「それだけではございませんわ」
セレナは、反故紙の余白に小さく丸を一つ書いた。
「ザイデル様、覚えていらっしゃるでしょう。エルデンの宮廷薬師の。ここへ来る前に二十あまりの処方を組んで、ぜんぶ外しましたの。それから九日、このお部屋で帳面と首っぴきですわ」
「あの、眉間にしわの寄った薬師さんですよね」
「ええ、そのザイデル様。外れて当たり前でしたわ。粉を一度も渡されずに、粉の代わりを組まされていたのですもの」
セレナは、丸の横にもう一つ丸を書いた。
「宰相閣下は昨日、続けるためにわたくしの手で量ってほしいとおっしゃいましたわ。続ける手だては、閣下の側にちゃんとございますのよ。でなければ、ああは言えませんもの」
「なのに、王宮の薬師には渡さなかった」
「渡せば、ザイデル様が知りますわ。あの方は賢い方ですもの。粉を舐めて数を見て、きっとわたくしと同じところへたどり着きます」
ジェラルドの目が、少し細くなった。
「知る手を増やすより、王太子が細っていくほうを選んだ」
「ええ」
セレナは、反故紙から顔を上げた。
「閣下は、あの方より先に守るものを決めておられたのですわ。昨日に始まったことではございませんわね。この三月、ずっと」
そして、昨日わざわざ列に並んでまで、戻れと言いに来た。新しい手を一本も増やさずに、あの方の朝を戻せる人間は、この世に一人しかいないからだ。
七年、何も訊かずに量っていた手。
「……つまりわたくし、閣下にとってはとても都合のいい薬師でしたのね」
「先生」
テオが、めずらしく茶化さずに言った。
「その顔、怒ってます?」
「怒っておりますわ」
セレナは、はっきり答えた。
「それから、あの噂も。毒を盛った女がいる、という噂ですわ。閣下があれを否まなかった理由も、いまなら分かりますの」
「なんでです」
「『元婚約者が毒を盛った』という話なら、みんなは毒を探しますわ。誰も、『王家の体は毒がないと立てない』とは考えませんもの」
リタが、口を半分あけた。
「セレナ様が……ふた、ってことですか」
「ええ。わたくし、閣下の秘密にかぶせる蓋にされておりましたのよ」
セレナは、スープの残りをひと息に飲み干した。
「言い分がまっとうなぶん、余計に腹が立ちますわ」
鍋が空になるころには、窓の外が藍色になっていた。
リタが灯りを点けて、テオがコハクに干し果実を一切れやった。コハクはそれを抱えて、棚の上へ戻っていった。
「それで」
ジェラルドが言った。
「どうする」
「分かったのは、まだ半分ですわ」
セレナは指を折った。
「あの粉が、慣らしのための毒だということ。九つの春から始まること。閣下が、知る手を増やさないこと。……分からないのは、あの粉が何の草でできているか。それが分からなければ、減らしていく道が組めませんの」
「減らす」
「切らせば崩れますわ。でしたら、崩さないように少しずつ減らすしかございません。あの方の体からも、いずれはエルザ様の朝からも」
リタが顔を上げた。
「でも粉は、もうないんですよね。エルデンのお城にしか」
「ございませんわね」
「じゃあ、どうやって」
「舌で、ですわ」
セレナは、自分の唇を指先で軽くたたいた。
「七年、あれを量ってまいりましたのよ。量るたびに、舐めて確かめておりましたの。苦みの引き方も舌の奥に残る後味も、ちゃんと覚えておりますわ。……あとは、どの草がその味になるのかを一つずつ当てていくだけですわ」
「だけって、簡単に言いますね」
「簡単ではございませんわ。ですから明日、森へ参りますの」
リタが目をしばたたいた。
「森?」
「公都の裏の森ですわ。夏の今なら花も葉も根も、だいたいの草が一度に揃いますもの。あの味に近いものを、片っぱしから集めてまいりますわ」
「じゃあ俺、籠持ちですね」
テオが手を挙げた。言われる前に、もう諦めた顔をしている。
「テオ」
ジェラルドが言った。
「目を離すな」
「旦那、それ俺に言います? 先生に言ってくださいよ。毒草見つけたら頬ずりする人なんですから」
「いたしませんわ。……ときどきしか」
棚の上で、コハクが干し果実をかじる音がした。
ジェラルドが椅子から立った。戸口へ向かいかけて、そこで振り返った。
「言い忘れた」
「なんですの」
「昼過ぎに宰相の供が一人、早馬で国境へ向かった。替え馬の手配を、公館に頼んでいった」
セレナは、片づけかけていた反故紙を手に持ったまま、ジェラルドの顔を見た。
「積んでいたのは」
「手紙が一通だ。中身は分からん」
「……宰相閣下、昨日わたくしに『私は急ぎません』とおっしゃいましたのよ」
「そうか」
「船ではなく、早馬ですのね」
「そうだ」
ジェラルドが出ていって、戸が閉まった。
セレナは反故紙をたたんで、帳面と一緒に油紙に包んだ。明日の朝いちばんに、公館の鉄の扉の奥へ戻す。
昨日あの人は列に並んで頭を下げ、急がないと言った。
その人が今日、手紙一通のために早馬を出している。




