第2話: 雨の街道
人の不調はひと目で見抜けるのに、自分の腹の虫だけは後回しになる。
薬師というのは、つくづく損な生き物だ。
セレナ・フェアミルは、その損な生き物の見本のような顔で、雨の街道を歩いていた。
王宮を追われて、三日が過ぎている。
婚約破棄を申し渡されたあの日、彼女は荷物もまとめずに門を出た。
持って出られるものなど、もともと大してなかった。
覚え書きの帳面は、頭の中にある。薬の作り方も、そこに全部入っている。
身ひとつで歩けるのは、薬師の身軽さだ。
ただ、身軽すぎて、路銀まで軽かった。
はじめの二日は、乗合馬車に揺られて北へ向かった。
あてがあったわけではない。
ただ、エルデンにいても居場所はないと、それだけは分かっていた。
だから足は、自然と隣国の方角を選んだ。
北の隣国カルディアは、エルデンと長くにらみ合っている国だ。
仲のよくない国へ薬師がひとり流れ込んだところで、誰も気に留めはしないだろう。
むしろ、そういう国のほうが、技術ひとつで生きていけるかもしれない。
現場の腕を重んじる気風だと、噂には聞いていた。
そう算段したまではよかった。
三日目の朝、財布の底をはたいたら銅貨が二枚。
乗合馬車の御者は、それを見て気の毒そうに首を振った。
というわけで、ここからは徒歩である。
折あしく、昼前から雨が降りだした。
雨は、はじめ霧のように細かかった。
そのうち、遠慮というものを忘れて降ってきた。
外套の肩が湿り、布が肌に貼りつく。じわじわと体温が奪われていく。
濡れた体は、乾いた体より早く冷える。水は、熱をよく運ぶからだ。
そんなことは、薬師なら誰でも知っている。
知っているのに、肝心の自分は、外套一枚で雨に打たれている。
やはり、損な生き物だ。
道ばたに、白い小花の群れが揺れていた。
カモミールだ。
乾かして煎じれば、よく眠れて、腹にもやさしい薬になる。
いまは、煎じる鍋も火もないけれど。
セレナは一本だけ摘んで、花を指でつまんで匂いをかいだ。
りんごに似た、甘い匂いがした。
それだけで、ほんの少し腹が鳴った。
「……あら。お行儀の悪いこと」
誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいて、ひとりで笑った。
ふと、王宮の朝を思い出した。
いまごろ、あの方の朝はどうなっているのだろう。
毎朝のひと匙が途絶えて、もう三日になる。
目の下の青みと、爪の白さ。あの癖が出ていれば、寝起きはずいぶん辛いはずだ。
ざまあみろ、とまでは思わない。
ただ、ほんの少しだけ――
「……お困りでしょうねえ」
口に出すと、思ったより意地の悪い声が出た。
自分でおかしくなって、また笑った。
笑ったら、よけいに腹が減った。
雨脚が強くなった。
足が、だんだん前に出なくなってきた。
空腹と寒さは、足し算ではなく掛け算で効く。
頭では分かっているのに、体がついてこない。
視界の端が、白くにじみ始めた。
これは、まずい兆候だ。
自分の患者なら、すぐ横にならせて、温かいものを飲ませるところだ。
けれど、いまの患者は自分で、看てくれる者は誰もいない。
膝が、ぐらりと折れた。
冷たい泥が、頬に触れた。
ああ、こんなところで。
まだ、自分の名前で薬を一つも作っていないのに。
七年、ずっと誰かの名前の薬を、つくってきただけだった。
遠くで、馬の蹄の音がした。
それから、車輪の軋む音。
誰かが、すぐ近くで止まった気配がある。
泥に頬をつけたまま、セレナはぼんやり考えた。
馬の足音が、ずいぶん揃っている。
よく手入れされた、いい馬たちだ。
誰かが馬車から降りて、こちらへ歩いてくる。
足音に、無駄がなかった。
ぬかるみの中なのに、ほとんど水を撥ねていない。
大きな手が、セレナの肩に触れた。
乱暴なようで、力の入れ方は妙に正確だった。
「生きてるか」
低い声だった。
愛想は、欠片もない。
「……生きて、おりますわ。たぶん」
セレナは、泥の中からどうにか返事をした。
「『たぶん』は、生きてないやつの台詞だ」
「あら。手厳しいのね」
男は短く息を吐いて、外套を脱いだ。
それを、有無を言わさずセレナの背にかけた。
まだ男の体温が残っていて、ひどく温かかった。
「濡れている。死なれると寝覚めが悪い。乗れ」
「ご親切に。……でも、見ず知らずの女を拾って、よろしいの」
「拾わなきゃ、お前はここで死ぬ」
「それは、そうですけれど」
「なら、話は済んでる。立てるか」
立てなかった。
膝に力が入らない。
男は、ためらいもせずセレナを抱え上げた。
羽根でも持つような、危なげない持ち上げ方だった。
馬車の中は、外の雨が嘘のように暖かかった。
男は向かいに座った。セレナに、白湯の入った革袋を放ってよこす。
「飲め。一気に飲むな。少しずつだ」
「あら。お詳しいのね」
冷えきった体に、いきなり熱いものを流し込むのはよくない。かえって体に障る。
それを知っている人は、そう多くない。
白湯を、少しずつ口に含んだ。
温かさが、喉から胸へ、ゆっくり落ちていく。
生き返る、というのは、たぶんこういうことを言うのだろう。
「……おいしい」
「ただの白湯だ」
「ええ。世界で一番おいしい、ただの白湯ですわ」
男は、何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ、片方の眉が動いた。
白湯が、空っぽの胃に染みていく。
染みたとたん、腹の虫が、今度は遠慮なく鳴いた。
「……いまのは、聞かなかったことに」
「干し肉がある。やるから、少しずつ食え」
男は、布包みを放ってよこした。
「まあ。よろしいの」
「腹の音で、馬が驚く」
「失礼な馬ですこと」
(本当は、ひと包みぜんぶ、いってしまいたいところですけれど)
そこをこらえるのが、令嬢の意地というものですわ。……薬師の名は、とっくにすたっておりますけれど。
干し肉を、少しだけかじった。
塩の味が、舌の上でじんと広がる。
たったそれだけのことが、やけに胸にきた。
「……っ」
「泣くな」
「泣いてなどおりませんわ。これは、その……雨が、目に入っただけですもの」
「馬車の中だぞ」
「……あら。ほんとうですわね」
ごまかしきれず、セレナは小さく笑った。
「……この干し肉、蜂蜜を塗ると日持ちしますのよ」
「いまそれを言うか」
「あら。せっかくの豆知識ですもの。ただより、高くつきましてよ」
男は、また息を吐いた。
落ち着いてくると、いつもの癖が頭をもたげた。
つい、相手を薬師の目で見てしまう。
歳は、二十代の半ばくらい。
肩幅は広いが、無駄な力みがない。
長く剣を握ってきた手だ。けれど、指の動きは細やかだった。
目の下に、薄い疲れが滲んでいる。
ここ数日、ろくに眠っていない顔だ。
「あなた、眠れていませんわね。ここ三日ほど」
男の眉が、今度ははっきり動いた。
「……なぜ分かる」
「目の下を見れば分かりますもの。それと、瞬きが少し多いの」
「薬師ですから。つい、診てしまうんですの。悪い癖ですわ」
男は、しばらくセレナを見ていた。
値踏みするのとも、警戒するのとも違う。
ただ、少し珍しいものを見るような目だった。
「変わった女だな」
「よく言われますわ。命の恩人にそう言われるのは……ふふ、悪い気がしませんわね」
「お礼に、何かさせてくださいな。……といっても、いまのわたくし、道具もお金もありませんけれど」
「いらん」
「あら、つれない。では、せめて診て差し上げますわ」
「診る?」
「寝不足は、放っておくと判断が鈍りますのよ。薬師として、見過ごせませんわ」
「……薬師の押し売りか」
「ふふ。ええ、押し売りですわ。今回だけ、特別にお代はいただきませんことよ」
男は、呆れたように息を吐いた。
けれど、その息には、どこか笑いが混じっていた。
馬車の外で、男たちの声がした。
御者と、護衛らしい数人。
誰もが、向かいの男に話しかけるとき声を落とした。
ただの使者に向ける態度では、なかった。
セレナは、それに気づいたけれど、口には出さなかった。
いまは、詮索する元気もない。
男が身じろぎした拍子に、外套の合わせが、わずかに開いた。
その内側で、金属の何かが鈍く光った。
紋章のようにも、見えた。
けれど、すぐに合わせが閉じて、見えなくなった。
気のせいかもしれない。
疲れた目は、よく見間違える。
セレナは、それ以上は考えないことにした。
「……お名前を、伺ってもよろしいかしら」
尋ねると、男は少し間を置いて答えた。
「ジェラルドだ」
「ジェラルド様、ね。……家名は」
「いまは、ただのジェラルドでいい」
「あら。訳ありですの」
「お前もだろう」
「……違いない、ですわ」
セレナは、小さく笑った。
「どこへ行くつもりだった」
「カルディアへ。あてはありませんけれど」
「エルデンの女が、わざわざ仲の悪い国へか」
「ええ。あちらに、わたくしの居場所がなくなったものですから」
「追われたのか」
「振られた、のほうが近いかしら。……まあ、似たようなものですわ」
「男に、か」
「あら。意外と、お話しになるのね」
「……忘れろ。訊いた俺が悪かった」
男は、ばつが悪そうに目をそらした。
そらした代わりに、革袋の白湯を、もう一度こちらへ寄せてくれた。
「奇遇だな。俺も、そこへ帰る」
「まあ。では、終点までご一緒してもよろしいかしら」
「好きにしろ。……ただし、もう一度倒れるなよ」
「善処いたしますわ」
「『善処』は、やる気のないやつの台詞だ」
「あら。さっきの『たぶん』の、お返しですわ」
男は、ふい、と窓の外へ顔を向けた。
けれど、口元がほんの少しだけ、ゆるんでいた。
馬車が、ゆっくりと動きだした。
車輪が泥を噛んで、北へ向かう。
暖かさと安心とで、まぶたが重くなってきた。
眠ってはいけない、と思うそばから、意識が溶けていく。
最後に見えたのは、向かいの男の横顔だった。
こちらを見ないようにして、時々たしかめるように目を向けてくる。
不器用な人だ、と思った。
けれど、こういう人のいる国でなら、薬師がひとり、どうにかやっていけるかもしれない。
そう思ったら、強張っていた肩から、ふっと力が抜けた。
それきり、セレナは眠りに落ちた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。相川ことねです。
第二話は、セレナが雨の街道で行き倒れて、ぶっきらぼうな男に拾われるお話でした。前回のあとがきで予告したとおり、ついに「ぶっきらぼうな男」ジェラルドの登場です。
書いていて楽しいのは、やっぱりこの二人の温度差です。セレナはどんなに困っていても、つい軽口が出てしまう明るい子。対してジェラルドは、言葉が少なくて、不器用で、でも外套をかけたり白湯をくれたり、行動はちゃんと優しい。正反対のふたりが、馬車の中でぽつぽつ言葉を交わす――あの感じが、わたしはとても好きなんです。
それから、ジェラルドが本当は何者なのか。懐で鈍く光った「あれ」が何なのか。セレナはまだ気づいていません(気づいていても、いまは詮索する元気がないだけ、かもしれません)。その答えは、もう少し先のお楽しみに取っておきますね。
次回、セレナは見知らぬ国の、見知らぬ天井の下で目を覚まします。新しい街、新しい掛け合い、そして新しい仲間たち。捨てられた薬師の、二度目の人生がいよいよ動きだします。
どうぞ、続けてお付き合いくださいませ。
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