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第1話: 誰がつくった朝

 世の中には、本人も気づかないまま続いている「当たり前」がある。


 朝、目が覚めて寝台からすんなり起き上がれること。


 手が震えないこと。匙をちゃんと持てること。


 王太子アロイス・エルデンの健やかな朝も、そのひとつだった。


 それを毎朝つくっていたのが婚約者の宮廷薬師セレナだと、誰も気づいていなかった。当のアロイス本人でさえ。


 その朝も、セレナは調薬室で一服を仕上げていた。


 淡い琥珀色の薬湯だ。


 匂いはほとんどなく、苦みもごく薄い。


 何の変哲もない、ただのお茶のように見える。見えるように、わざとそう仕立ててあった。


 七年。来る日も来る日も、彼女はこれを欠かさなかった。


 使いの侍従が駆け込んできたのは、ちょうどその匙を盆に載せたときだった。


「フェアミル様、大広間へ。殿下がお呼びです」


「あら。朝のお薬の前に、ですの」


 セレナは小首をかしげた。アロイスが支度より先に人を呼ぶのは珍しい。


 けれど侍従は答えず、気まずそうに目を伏せた。


 その伏せ方で、彼女はなんとなく察した。今日はいつもと違う日になるのだ、と。


 察したからといって、薬をそのままにする薬師はいない。


 セレナは一服に蓋をして、冷めないように湯の近くへ寄せた。


 それから、覚え書きの帳面を引き出しの奥にしまった。


 毎晩つけてきた帳面だ。どの薬を、どれだけ、どんな順で。誰の体にどんな兆しが出たか。


 七年分が、そこにある。


 大広間に上がると、玉座の段の前にアロイスが立っていた。


 そのかたわらに、見慣れない令嬢がひとり寄り添っている。


 白い祭服。胸元には聖女の徽章。


 教会が「治癒の奇跡を起こす証」として認めた者だけが、それを身につけられる。


 淑やかに目を伏せている。けれど唇の端だけが、どこか得意げに上がっていた。


「セレナ」


 アロイスの声は、妙に芝居がかっていた。


「私は、お前との婚約を破棄する」


 広間の貴族たちがざわついた。


 セレナは、ざわつかなかった。


「……理由を、お聞きしてもよろしいかしら」


「ミレーヌだ」


 アロイスは、かたわらの令嬢を手で示した。


「彼女は聖女だ。祈りで人を癒す。お前の苦い薬と違って、心まで軽くしてくれる」


「私はようやく気づいたのだ。本物の癒しというものに」


「お前の薬など、いつも苦いだけで、なんの効き目もありはしなかった」


 ミレーヌと呼ばれた令嬢が、しずしずと一歩進み出た。


「まあ、フェアミル様。そんなにお気を落とされませんように」


「あら。落としてなんて、おりませんわ」


 セレナがあっさり返すと、ミレーヌの睫毛がわずかに揺れた。


「……まあ。お強いこと」


「ご心配ありがとうございます。それより聖女様、ひとつ伺ってもよろしいかしら」


「なんでございましょう」


「殿下の朝のお薬。あれは明日から、どなたがお淹れになるの?」


 ミレーヌの笑みが、ほんの一拍だけ止まった。


「お薬だなんて。殿下にはもう、わたくしの祈りがございますもの」


「まあ、祈りで。それは心強いこと」


「ええ。聖女の祈りは、どんな薬にも勝りますわ」


「まあ、頼もしいこと。では殿下のお身体は、もうすっかりお任せできますのね」


「……ええ。もちろんですわ」


「では、ひとつだけ。祈れば、殿下の明日の朝はちゃんと来ますの?」


 ミレーヌが、言葉に詰まった。


「……どういう、意味でしょう」


「いいえ、なんでも。ふふ、お気になさらないで」


 セレナは、それ以上は言わなかった。


 言ったところで、この場の誰にも通じない。それを、彼女はよく知っていた。


 アロイスが、追い打ちをかけるように言った。


「お前のしていたことなど、誰にでもできる」


「毎朝、茶のようなものを淹れて運ぶ。それだけだろう」


「薬なんて、誰が淹れても同じだ。お前でなくても、私は困らん」


「……まあ。お困りにならないのなら、よろしいですわね」


「当然だ。茶を淹れる者の代わりなど、いくらでもいる」


「ふふ。よいお代わりが見つかると、よろしいですこと」


 口では、そう言っておく。


 ――誰でもできる。


 その一言が、胸のどこかを、つん、と突いた。


 悲しい、とは少し違う。どちらかといえば、しゃくだった。


 七年だ。一日も欠かさなかった。風邪をひいた朝も、指がかじかむ冬も。


 それを誰にでもできると言われるのは、さすがに少しばかり腹が立つ。


 けれどセレナは、長く落ち込む質ではない。


(……まあ、いいですわ)


 つんとした痛みを、彼女は呆れのほうへ流すことにした。


 怒ったところで、この方の頭の中身が急に良くなるわけでもない。


 それより、これからどこへ行こうかということのほうが、よほど考える値打ちがある。


 ふと、昔のことを思い出した。


 彼女に薬を仕込んでくれた、老いた師ハイルのことだ。


 下働きの見習いだった頃、彼はいつも同じことを言った。


『薬に名は要らん。効けば、それでいい。お前さんは、すぐ名前を欲しがるな』


 それから、こうも。


『書け。毎晩、書け。才なんぞより、書いたものがいつかお前を助ける』


 ハイルはもういない。名も残さず、覚え書きの束だけを残して逝った。


 その束を、セレナは七年かけて読み解いた。


 彼が果たせなかった古い処方を、独りで継いで仕上げた。


 だから彼女の腕は、才能ではない。亡き師のノートと、自分のノートを積み上げただけのものだ。


 名は要らないと教わった。だから今日まで、自分の名のついた薬など、ひとつもつくってこなかった。


「……わかりました」


 セレナは、令嬢の礼をひとつ取った。


 取り乱しもしなければ、すがりもしない。


 その毅然とした様子に、広間のざわめきが、かえって戸惑ったように静まった。


「殿下のご決断ですもの。わたくしが申し上げることは、ございませんわ」


 アロイスは、肩透かしを食らったような顔をした。


 泣いてすがると思っていたのだろう。


 ミレーヌの笑みも、わずかにこわばっている。


 セレナは気づかないふりをして、ひとつだけ付け足した。


「ただ、差し出がましいようですけれど。ひとつだけ、よろしいかしら」


「……なんだ」


「殿下。今朝のお薬は、もうお飲みになりませんのね」


「当然だ。お前の薬など、もう要らん」


「さようでございますか」


 セレナは、アロイスの顔を、ほんの一瞬だけ、薬師の目で見た。


 目の下の、うっすらとした青み。爪の生え際の、わずかな白さ。


 さっきから左の指先を、親指で擦っている無意識の癖。


 どれも、ひとつなら何でもない。


 けれど七年、毎朝この方を見てきた者には、それが何の前触れか、嫌でもわかる。


 わかってしまうのは、才ではない。誰よりも長く、注意して見てきただけのことだ。


 ――このまま朝の一服が途絶えれば、ひと月もつかどうか。


 けれど、それをいま言ってやる義理はない。


「では、ひとつだけ覚えておいてくださいまし」


 セレナは、にっこりと笑った。明るく、品よく、ほんの少しいたずらっぽく。


「薬なんて誰でも、とおっしゃいましたわね」


「では殿下。明日の朝は、ぜひご自分で淹れてごらんになって」


「……どういう意味だ」


「さあ?」


 セレナは、もう答えなかった。


「わたくしの覚え書きは、わたくしの頭の中ですもの。燃やしても、無駄ですわ」


 それだけ言って、彼女は背を向けた。


 大広間の扉が、ゆっくりと閉まる。


 背中で貴族たちのざわめきを聞きながら、セレナは長い廊下を歩いた。


 追放、ということになるのだろう。


 婚約者でなくなった薬師に、この王宮に居場所はない。


 荷物も大して持っていない。帳面なら、頭の中だ。


 廊下の窓の外は、よく晴れていた。


 不思議と、足取りは軽かった。


 しゃくな気持ちは、もうほとんど残っていない。


 代わりに胸にあるのは、少しの好奇心のようなものだった。


(さて。これから、どこで薬をつくりましょうか。……いえ、その前にお昼ですわね)


 名もなく淹れてきた七年が、今日で終わる。


 それはたぶん、終わりというより、始まりに近い何かだった。


 王宮の門を出ても、誰も見送らなかった。


 彼女がいなくなって、明日からこの王宮の朝がどう変わるか。


 それを知っている者は、この国にたったひとりしかいない。


 その、たったひとりが、いま、門を出ていくところだった。




 その夜のことである。


 王太子の寝室で、アロイスは寝つけずにいた。


 妙に体がだるい。指先が冷たく、寝返りを打つたびに左の手がぴくりと跳ねる。


 気のせいだ、と思った。


 あの女が去ったくらいで、自分の体に何かが起こるはずがない。


 薬なんて誰が淹れても同じだ。そう言ったのは、自分なのだから。


 寝台脇の卓に、小さな茶器が置かれている。


 侍従が「念のため」にと、新しい薬師に淹れさせたありふれた薬湯だ。


 ひと口、含んでみる。


 苦かった。ただ苦いだけで、何も変わらない。


 喉を通り、胃に落ちて、それきりだった。


 いつもの一服が、するりと体に馴染んでいくあの感じが、どこにもなかった。


 夜半過ぎ。


 アロイスは、突然、寝台の上で身を起こした。


 起こした、というより、跳ね起きた。


 心臓が内側から拳で叩かれているように、めちゃくちゃに脈を打っている。


 手が震える。匙を持つどころではない。


 喉がひどく渇いて、けれど水を呑む手元すら定まらなかった。


 暗がりのなか、彼はようやく、ひとつのことを思い出した。


 毎朝、当たり前に飲んでいた、淡い琥珀色の一服。


 あれを、誰がつくっていたのか。誰が、自分の朝を。


「……だれだ」


 誰もいない寝室で、王太子はかすれた声でつぶやいた。


「誰が、私の朝を、つくっていた」


 その問いに答えられる者は、もう、この王宮にはいなかった。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。相川ことねです。


第一話の主人公セレナは「天才薬師」ですが、生まれつきの天才ではありません。下働きから始めて、毎晩こつこつ覚え書きをつけて、ここまで来た人です。だから彼女の腕は、才能というより「七年分のノート」なんですね。捨てた側の「薬なんて誰でも同じ」が、いちばん的外れな一言になるように、と思いながら書きました。


そして、わたしが書いていていちばん好きなのは、セレナが泣かないところです。理不尽な目に遭っても、しょんぼり沈むより先に「……まあ、いいですわ」と切り替えて、次のことを考えはじめる。からっと明るくて、ちょっと食えない令嬢が、わたしはとても好きです。


苦いお薬に蜂蜜を入れてくれるような物語を、これから書いていきます。次回、雨の街道で、彼女はある「ぶっきらぼうな男」に拾われます。どうぞ、続けてお付き合いくださいませ。


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