第17話: 綱の言い分
人ひとりを取り合う話になると、その人の意思はたいてい、いちばん最後に訊かれる。
訊かれるだけましだ、という考え方もある。綱引きの綱に、どちらへ行きたいのかを尋ねる者はいない。
あの会談から、十一日。婚約破棄の日から数えれば、二月と半月ばかり。
公都じゅうの壁に婚礼の触れが貼り出された、その翌日のことである。エルデンの使者から公館へ申し入れがあった。薬師セレナに、直にお目にかかりたい――と。
朝の調薬室は、いつになく混んでいた。
戸口の外に三人、板間に二人。そのうちのひとりは薬を買いに来たのではなく、ただ顔を見に来たらしかった。
「先生。おめでとうございます」
「まあ。ありがとう存じます」
「うちの人が、壁の紙の前で三回読み直したんですよ。薬師セレナって、あの先生かって」
「三回も。……よほど信じられなかったのですわね」
「そりゃあ、信じませんよ。だってねえ」
言いかけて、その女房は自分で笑い出し、結局最後まで言わずに帰っていった。
リタが薬包を数えながら、鼻をふくらませている。
「セレナ様。今朝からこれで六人目です」
「数えていらしたの?」
「数えますよ。あたし、昨日から嬉しくて夜中に二回起きました」
「まあ。それは寝不足ですわね。あとで甘草のお茶を淹れて差し上げましょうか」
「甘いやつですか」
「甘いですわ。とても」
「じゃあ二杯ください」
棚の上では、コハクが朝からずっと落ち着かない。いつもは昼まで丸くなっているのに、今日は棚の端から端まで往復して、そのたび客の頭を上から眺めている。
「あの子、人が多いと機嫌がいいんですかね」
「悪いのだと思いますわ。……ほら、あんなに尻尾が太くなって」
コハクは往復をやめて、干した薬草の束の裏へ入り込んだ。ちょうど体ひとつ分の隙間があって、そこから鼻先だけが出ている。
「隠れましたね」
「隠れてはおりませんわ。あれは、見張っておりますのよ」
最後の客を送り出したところで、戸が勢いよく開いた。
「先生! 生きてます?」
「テオさん。それ、この間もおっしゃいましたわ」
「言いましたっけ」
「おっしゃいましたわね。……で、今日は何をお持ちですの?」
テオは両手を広げてみせた。何も持っていない。
「今日は話だけです」
「あら。それがいちばん高うございますのよ」
「分かってるじゃないですか」
テオは板間の端に腰を下ろし、めずらしくすぐには喋らなかった。膝の上で指を組んで、それから顔を上げた。
「エルデンの使節、宿場のいちばん上の部屋を三つ押さえてます。和睦の段取りを詰めに来てるやつらです」
「ええ。伺っておりますわ」
「昨日の夕方、触れが出たでしょう。あれの写しを、三枚買ってます」
セレナは薬研に伸ばした手を止めなかった。石をひと回しして、それから訊いた。
「買える紙ですの、あれ」
「買えます。書役に銭を握らせりゃ、いくらでも」
「まあ。ずいぶん商売上手でいらっしゃること」
「で、そのうち一枚が昨日の夕方の早馬に乗りました」
石の音が、ひとつ分だけ遅れた。
「……早馬」
「エルデン行きです。三日で着きますよ」
「三日」
「三日です」
セレナは薬研の柄から手を離して、指先で卓の縁をなぞった。
三日後、あの方の卓の上に、自分の名前の入った紙が置かれる。それは昨日、自分で決めたことだ。決めたときにちゃんと怖かったし、いまも同じ場所が同じくらい冷たい。
「テオさん。それだけ?」
「いや、まだあります。……あいつら、昨日の夜から公館へ人を出してます。何度も」
「何度も」
「三度です。夕方と夜に一度ずつ。今朝も来てます」
そこで戸口に影が差した。公館の使いだった。若い男が、上着の襟を正しながら頭を下げる。
「薬師どのに。お迎えの馬車を仕立ててございます」
「あら。今日は、どなたがお待ちですの?」
使いは、ほんの少し言いよどんだ。
「……エルデンの、エルンスト卿でございます」
リタが薬包を取り落とした。テオの膝の上の指が、ほどけた。
「ジェラルド様は」
「今朝より、お城へ上がっておられます。お戻りは夕でございましょう」
「まあ」
セレナは一度だけ天井を見上げて、それから、いつもの調子で言った。
「では、髪をきちんといたしませんとね」
「セレナ様!」
リタが立ち上がった。
「あの、あの人でしょう。会談の。セレナ様が何かした人」
「わたくし、何もしておりませんわよ」
「してました。帰ってきた日、顔が真っ白でしたもん」
「あれは、寝不足ですわ」
「うそ」
セレナは笑って、指で前髪を耳のうしろへ送った。それから鏡も見ずに襟を直して、鑑札の入った懐を上から押さえた。
「テオさん」
「はい」
「ひとつ、お願いしてよろしいかしら」
「駄賃は?」
「あとで、いちばん大きなお魚を焼いて差し上げますわ」
「乗った」
「お城へ行ってくださいまし。ジェラルド様に、公館へエルデンの使者が来たとだけ」
テオが立ち上がりながら、ちらりとこちらを見た。
「……呼び戻さなくていいんですか」
「呼び戻したら、間に合ってしまいますでしょう」
「間に合ったほうがよくないですか、ふつう」
「よくございませんの」
セレナは戸口へ歩きながら、振り返らずに続けた。
「わたくしを返せというお話ですわ。あの方が横にいらっしゃると、わたくしは守られている人になりますのよ。……守られている人は、卓では品物ですの」
テオが何か言いかけて、やめた。それから、めずらしく低い声で言った。
「……分かりました。伝えるだけにします」
「ありがとう存じます」
馬車に乗る間際、リタが袖をつかんだ。
「セレナ様」
「なあに」
「あの、負けないでください」
セレナは目をまるくして、それから吹き出した。
「まあ、リタ。勝ち負けのお話ではございませんのよ」
「でも、負けないでください」
「……ええ。負けませんわ」
言ってしまってから、自分の声が思ったよりまっすぐだったことに気づいた。
公館の広間には、長い卓がひとつ据えられていた。
カルディア側は四人。奥に古参のボルク卿、その隣に外務を扱う文官が二人、そして端に式部官のロタールが羊皮紙を広げて控えている。記録を取るために呼ばれたらしい。
エルデン側は二人。従者をひとり従えて、銀の髪を一筋も乱していない紳士が立ち上がった。
「薬師どの。またお目にかかれるとは」
エルンスト卿は、あの晩とまったく同じ柔らかさで笑った。ただ、笑みの下の掴みどころのなさは戻っていない。かわりにそこにあるのは、値段を知ったうえで品物を見る目だった。
「ご機嫌よう、卿。お元気そうで何よりですわ」
「おかげさまで。あれから、よく眠れております」
「あら。それはようございました」
「ええ。……眠れぬ夜というのは、たいてい一度きりのものでございますな」
卿は椅子を勧め、セレナは腰を下ろした。ボルク卿がでっぷりした腹を卓に押しつけるようにして身を乗り出す。この人はセレナを好いていない。以前この公館で痛風を言い当てられて以来、顔を合わせるたびに眉を寄せる。
「使者どの。話を始められよ」
「では」
エルンスト卿は懐から一枚の紙を出して、卓の真ん中に置いた。
昨日、公都じゅうの壁に貼られた触れの写しだった。
「これを、拝見しました」
「わたくしも拝見しましたわ。よくできておりますでしょう?」
「たいへんに。……ただ、ひとつ足りませぬ」
「あら。何が」
「家の名でございます」
卿の指が、文面の一行を軽く叩いた。
「公家の婚礼の触れで家の名を読まぬものを、わたくしは存じませぬ」
ロタールの羽根が、羊皮紙の上でわずかに止まった。四十年この役を務めた老人にとっても、そこは同じ引っかかりだったのだろう。
「そして、もうひとつ」
卿は指をずらした。指の先には、薬師セレナ、と刷られている。
「この方は、エルデンの伯爵家の娘でございます」
広間の空気が、そこで一段沈んだ。
「セレナ・フェアミル。フェアミル伯爵家の御息女。……いまも、でございます」
「まあ」
セレナは軽く目を見張ってみせた。
「わたくし、追い出されましたのよ」
「殿下のご沙汰は、たしかに下りました」
「では」
「ですが、紙になっておりませぬ」
卿は、あくまで穏やかに続けた。
「あの朝、宮の広間でお言葉がございました。それだけでございます。臣籍を抜いた記録も家から除いた記録も、我が国のどの帳にもございません。フェアミル伯爵家は、いまもエルデンの家。あなたはいまも、その家の娘でございます」
「……それで?」
「エルデンの伯爵家の娘が他国の公家へ嫁ぐには、本国の許しが要ります」
卿は、一拍だけ置いた。
「その許しを、我が国は出しませぬ」
文官のひとりが、細く息を吸う音を立てた。
セレナは椅子の上で背をまっすぐに直し、それからゆっくりと口を開いた。
「卿。ひとつだけ、確かめさせてくださいまし」
「なんなりと」
「お言葉ひとつで、わたくしを国境の外まで追い出せましたのね」
「……さようでございます」
「でしたら、お言葉ひとつで戻せてもよろしいのではなくて?」
「戻せます。殿下がそう仰せになれば」
「ではもう、お戻りになれとおっしゃっているのと同じですわ。……なのにこちらの紙のときだけ、紙がないから足りないとおっしゃるの」
セレナは触れの写しを指先で軽く押した。
「追い出すときは紙が要らなくて、出ていくときだけ紙が要る。ずいぶん都合のよろしい紙ですこと」
卿の目尻が、ほんの少し動いた。だが崩れはしなかった。この人は準備してきている。
「都合がよいのではございません。国というものが、そういう形をしているだけでございます」
「まあ。ずいぶん不便な形ですわね」
「不便でございます」
そこは認めて、卿は先へ進んだ。
「そして、これは薬師どのおひとりのお話ではございませぬ」
彼は卓の全員を見渡した。
「両国はいま、長い睨み合いをようやく畳もうとしております。橋の板は、まだ一枚ずつ渡している最中でございます。……その最中に、我が国が許しを出さぬ婚礼が行われたとなれば」
「和睦の話は、白紙に戻る」
ボルク卿が、低く言った。
「さようでございます」
「……使者どの。それは、脅しか」
「事実の見通しでございます。脅しとお取りになるかは、そちら様の御自由に」
ボルク卿が、椅子の背にどしんと体を預けた。羊皮紙の上を走るロタールの羽根の音だけが、広間に残った。
「薬師どの」
その太い声が、こちらへ向いた。
「わしは、そなたを好かん」
「存じておりますわ」
「即答するな」
「まあ。ごめんあそばせ」
「……だが、好かんことと筋が通るかどうかは別だ」
ボルク卿は太い指で卓を掻いた。
「二国の橋を、娘ひとりで賭けるのか。それを訊いておるのだ」
いい質問だ、とセレナは思った。この人は嫌な人だが、馬鹿ではない。
「ボルク卿。わたくしからも、ひとつ伺ってもよろしいかしら」
「なんだ」
「和睦は、どなたのためのものですの?」
「……なに」
「戦が起きれば血を流すのは、卿でもわたくしでもございませんでしょう。畑の人と荷を担ぐ人と、その子供ですわ。……その方たちのためのお話ですのよね」
「当たり前だ」
「では、わたくしも同じ側でお話しいたしますわ」
セレナはエルンスト卿へ向き直った。
「卿。あなたがわたくしを連れ帰りたいのは、殿下のお体のためですわね」
柔らかな笑みが、ほんのわずかに動いた。
「さようでございます」
「よろしゅうございますわ」
セレナは、はっきりと言った。
「では、こういたしましょう。わたくしの覚え書きの写しを、お作りいたします」
広間が、ざわりと鳴った。
ボルク卿が「おい」と言いかけ、文官が身を乗り出す。エルンスト卿の指が、卓の上でわずかに開いた。この人がいちばん欲しかったものが、いま卓に乗ったのだ。
「七年分。日付も匙の量も、その日のお顔の色も全部でございますわ。三十日ばかりいただければ写せます」
「……ほう」
「ただし、条件がふたつ」
セレナは指を二本立てた。
「ひとつ。お渡しする先は、宰相府ではございませんの」
エルンスト卿の指が、開いた形のまま宙に浮いた。
「いま殿下のお体を診ておいでの薬師の、その方の手に直接お渡しくださいまし。宮廷薬師の席におられる方ですわ。名前は存じませんけれど、必ずどなたかがおいででしょう」
「……薬師の手に」
「ええ。読める方に読んでいただかないと、あれはただの紙ですもの」
セレナは指をもう一本折った。
「ふたつ。写しの表に、名前を入れてくださいまし。薬師セレナ、と。誰が書いたものか分かるように」
文官が小声で「なんのために」と漏らした。セレナはそちらへ微笑んだ。
「読んでいて分からないことが出てまいりますでしょう。そのとき、誰に訊けばよいのかが分からないと困りますもの。……わたくし、ちゃんとお返事いたしますわ」
広間が、静かになった。
エルンスト卿は、微笑んだまま口を開かなかった。
セレナは待った。待つのは得意だった。七年、朝いちばんに脈を数えて過ごしてきた。人が答えを探しているときの間の長さくらい、指で測れる。
――長い。
「卿」
「……は」
「殿下のお体のためでしたら、どちらの手にお渡ししても同じはずですわ」
言葉は柔らかかった。柔らかいほど、通りがいい。
「宰相府でも薬師でも、殿下がお元気になればよろしいのでしょう?」
「……もちろんでございます」
「では、どちらになさいます?」
エルンスト卿は、そこで初めて視線を落とした。
「……本国の下知を、仰がねばなりませぬ」
その一言が落ちたとき、広間の何かが動いた。
ボルク卿が、ぐいと身を起こした。
「使者どの」
「は」
「いまのは、返答でござるか」
「本国の意向を確かめませぬことには」
「殿下のお体のためと申されたな。ならば薬師に渡すのに、なぜ宰相府の許しが要る」
ボルク卿の声は、たぶん本人が思っているより大きかった。文官のひとりが目を伏せた。広間の隅で、誰かが咳をひとつした。
「和睦を白紙にすると申されるほどの、火急のお話であろう。火急の話に、三日の早馬を往復させるのか」
「……卿」
「わしは、この娘を好かん」
ボルク卿は繰り返した。今度は、卓の全員に聞かせるように。
「好かんが、いまの筋は通っておらん。それだけは、はっきりしておる」
文官が二人とも、小さくうなずいた。
セレナは、膝の上で指をひとつ握った。
これで、この卓はもう「薬師ひとりか、和睦か」の話ではなくなった。エルデンの言い分から、殿下のお体という看板が半分だけ剥がれ落ちた。剥がしたのは自分ではない。剥がれるところに立っていただけだ。
エルンスト卿は、卓の木目へ目を落としたまま動かなかった。
それから、実に静かに笑った。
「みごとでございます」
「あら。褒めていただくようなことは、何も」
「いいえ。……あなたは、こちらの言葉をひとつも否まなかった。ただ、その言葉のとおりに扱われただけでございます。これがいちばん、返しようがない」
卿は立ち上がり、上着の裾を軽く整えた。
「本日は、持ち帰らせていただきます」
「お気をつけて」
「薬師どの」
その声が、少しだけ低くなった。
「ひとつだけ、申し上げてよろしゅうございますか」
「どうぞ」
「殿下がお倒れになった日」
卿は、まっすぐこちらを見た。
「エルデンの民は、理由を知りたがります」
広間の空気が、すっと冷えた。
「病であれば、病でよろしゅうございます。ですが、病ではないとしたら。医者が誰ひとり名をつけられぬとしたら。……民は、名のつくものを探します。人は、名のないものを長く恐れていられませぬゆえ」
「……」
「そのとき、いちばん名のつけやすいものが海のこちらに座っております」
セレナの指先が、膝の上で冷えた。
「殿下を七年支えた薬師が、隣国の公家に囲われた。返せと申したが返らなかった。――理屈は、それだけで十分でございます。誰も帳を確かめませぬ。確かめる者がいたとしても、そのころには声のほうが早うございます」
「使者どの!」
ボルク卿が卓を叩いた。エルンスト卿は動じない。
「これは脅しではございませぬ。わたくしが起こすことでもございませぬ。……起きることを、申し上げているだけでございます」
その通りだ、とセレナは思った。
だから返せなかった。
わたくしが戻っても、あの方は良くなりません――喉まで出かかって、そこで止まった。言えば必ず訊かれる。なぜ分かるのか、と。答えれば、自分が何を知っている人間なのかを、この卓の全員の前で白状することになる。
それに、たとえ許されて全部を喋ったとしても、その先がない。あの一服が何をしていたかは分かった。なぜあの方の体がそうなっていたのかは、七年分のどこにも書いていない。分からないものは、直せない。
言えないことと、知らないことが、二つ並んで喉を塞いでいた。
セレナは椅子から立ち上がった。
「卿」
「は」
「理由が要るとおっしゃいましたわね」
「さようでございます」
「では、ひとつ差し上げますわ」
セレナは、まっすぐに立ったまま言った。声は張らなかった。それでも卓の端まで届いた。
「――誰も、確かめなかった」
エルンスト卿の顎が、わずかに上がった。
「殿下のお薬を七年のあいだ、誰も確かめませんでしたの。どなたがお作りになったのか。何が入っているのか。切らしたらどうなるのか。……誰ひとり、ご自分の舌でお確かめにならなかった」
令嬢らしい語尾は、途中から一つも出てこなかった。出てこないままにした。
「これは病ではございません。名前ならございます。ずっと前から、そこにありましたわ。誰も読まなかっただけです」
広間は、しんとしていた。
ボルク卿も文官も、何の話をしているのか半分も分かっていない顔をしている。それでいい。分かってもらう必要はない。この言葉を正確に受け取れる人間は、この広間にひとりしかいない。
エルンスト卿は、笑おうとした。
口の端がわずかに動いて、それきりだった。柔らかな笑みは、最後まで戻らなかった。
「……たしかに、承りました」
卿は深く頭を下げ、従者を伴って広間を出ていった。
扉が閉まってから、ボルク卿がひとつ大きく息を吐いた。
「……娘」
「はい」
「最後のは、何の話だ」
「お薬のお話ですわ」
「そうは聞こえんかった」
「薬師の話は、たいてい薬師にしか聞こえませんのよ」
ボルク卿は太い眉を寄せたままだったが、やがて「ふん」と鼻を鳴らして立ち上がった。
「わしは、そなたを好かん」
「三度目ですわね」
「……三度も言えば、そのうち本当になるかもしれん」
言い捨てて、卿は足を引きずりながら出ていった。
残ったロタールが、羽根を置いて頭を下げた。
「薬師どの」
「はい」
「本日の記録は、一言ももらさず残しましてございます」
「まあ。それは、心強いこと」
「四十年、そのためだけにこの役をしております」
老人は羊皮紙をきちんと巻いて紐をかけ、それを両手で抱えて出ていった。
広間にひとりになってから、セレナはようやく椅子の背に手をついた。
膝の裏が、少し笑っていた。
ジェラルドが公館へ戻ってきたのは、日が傾いてからだった。
上着の肩に埃をかぶっているのはいつものことだが、今日は歩き方が違った。廊下の突き当たりまで一息に来て、部屋の戸を押し開ける。
「無事か」
「あら。ご挨拶より先に、そこですのね」
「無事かと訊いている」
「無事ですわ。お茶を二杯いただきましたし、ボルク卿に三度嫌われましたし」
ジェラルドは戸を閉め、卓の向こうに立ったまま、指先で外套の留め金を外した。それから椅子を引き、腰を下ろすときに、ふっと肩の力を抜いた。
「聞いた。ロタールが全部書いて持ってきた」
「早うございますこと」
「あの爺さんは早い」
ジェラルドは腕を組んだ。組んだまま二つ三つ息をして、それから低く言った。
「……よくやった」
「まあ。それだけですの?」
「それだけだ」
「ふふ。では、大事に使わせていただきますわ」
「使うな」
セレナは笑った。笑ってから、まっすぐに訊いた。
「ジェラルド様。婚礼は、どうなりますの」
「動かさん」
即答だった。
「……日取りも?」
「日取りもだ。触れも下げん。壁に貼ったものを剥がすと、剥がしたことのほうが噂になる」
「では、和睦は」
そこで、彼の返事が一拍遅れた。
ジェラルドは腕をほどき、椅子の背から体を起こした。
「和睦は、俺の一存では決まらん」
正直な言い方だった。ごまかす気がまるでない。
「……そうですのね」
「だが、婚礼は俺が決める」
セレナは、その言葉の形をそっと確かめた。
一使者が、二国の和睦は決められない。それはいい。当たり前のことだ。けれど一使者が、公国の伯以上すべてと近隣三国を招く婚礼を「俺が決める」と言い切れるというのは、どういうことなのだろう。
辻褄の合わない話が、また一つ増えた。
(……今日も、数えるだけにしておきますわ)
どうせ数えたところで、この人はいまここにいる。それでいまは十分だった。
「ジェラルド様」
「なんだ」
「わたくし、ひとつも手が打てませんでしたのよ」
セレナは指を組んで、その上に顎を軽くのせた。
「最後に、あの方がおっしゃいましたの。殿下がお倒れになったら、民は理由を欲しがると。そのとき、いちばん都合のよい理由が海のこちらに座っていると」
「……」
「返せませんでしたわ」
「返す言葉があったのか」
「ございましたのよ。……ひとつだけ」
セレナは、指の腹で卓の木目をなぞった。
「わたくしが戻っても、あの方は良くなりません。それが本当のところですわ」
ジェラルドの目が、こちらへ動いた。
「言わなかったのか」
「言えませんの」
「なぜ」
「言えば、なぜ分かるのかと訊かれますでしょう。訊かれて答えれば、わたくしがどこまで知っている人間なのかをあの場の全員にお教えすることになりますわ」
「……ああ」
「それに」
セレナは、そこで小さく息をついた。
「答えたとしても、その先がございませんの」
「先」
「治す道ですわ」
セレナは顔を上げた。
「あの一服が何をしていたかは、三晩かけて分かりました。……ですけれど、なぜそれが要ったのかをわたくしは存じませんの。そこが分からないと道が組めませんのよ」
「分からないままなのか」
「分からないままですわ」
声にしてみると、その一言はひどく味気なかった。
「薬師にとって、これはいちばん恥ずかしいことですのよ。分かっているふりもできませんし、分からないと言えば誰も頼ってくださらない。……どちらにしても、患者は良くなりませんわ」
ジェラルドは何も言わなかった。ただ、椅子を少しだけ卓のほうへ引き寄せた。
それから、声を一段落とした。
「セレナ」
「はい」
「逃げたいなら、逃がす」
セレナは、彼の顔をまともに見返した。
「……いま、なんとおっしゃいましたの」
「逃がすと言った」
ジェラルドは、こちらを見たまま続けた。
「南へ下れば、公国の外だ。港をひとつ挟めば、名前を知る者はいない。船も家も用意できる。……どこへでもだ。俺が連れていく」
「まあ」
「笑うな」
「笑っておりませんわ」
笑っていなかった。笑うどころか、鼻の奥が急に熱くなって困った。
この人は、いま自分の婚礼を捨てると言ったのだ。触れも、鐘十二打も、伯以上すべての家も、近隣三国も、全部置いて。しかも一言の飾りもつけずに。
「ジェラルド様」
「なんだ」
「わたくし、今朝ちょっとだけ考えましたのよ」
セレナは正直に言った。
「逃げたほうがいいのかしら、と」
「……そうか」
「初めてでしたわ。前にリタが逃げましょうと言ったときには、一度も思いつきませんでしたのに」
「なら」
「でも、やめましたの」
セレナは首を横に振った。
「昨日、壁に名前を貼っていただきましたでしょう」
「貼った」
「あれを見て、今朝は六人も来てくださいましたのよ。三回読み直した方までいらしたのですって」
セレナは指を折るようにして続けた。
「その方たちに、明日わたくしがいないとこうなりますわ。――ああ、あの先生は逃げたんだ。それだけですの。理由は誰も訊きませんわ」
「……」
「名前を貼るというのは、そういうことでしたのよ。貼っていただいてから、やっと分かりましたわ」
ジェラルドは、すぐには口をひらかなかった。
「怖くはないのか」
「怖うございますわ」
セレナはあっさり言った。
「今日、卓に着いたときから膝の裏がずっと冷たいままですのよ。いまも冷たいですわ」
ジェラルドが浮かせかけた腰を、そのまま止めた。
「……見せろ」
「まあ! そういうことではございませんわよ」
「そういうことでないなら、どういうことだ」
「怖いまま、そこにいるということですわ」
セレナは笑った。今度はちゃんと笑えた。
「わたくし、七年ずっと怖い場所におりましたのよ。匙をひとつ間違えれば人が死ぬところで、毎朝ひとりで匙を持っておりましたの。怖くなくなったことなんて、一度もございませんわ」
ジェラルドは腰を下ろし直した。
「……それで、続けたのか」
「続けましたわ」
「なぜだ」
「わたくしがやめたら、明日の朝が来ない方がいらっしゃいましたもの」
セレナはそこで、少しだけ肩をすくめてみせた。
「もっとも、その方はそれをご存じありませんでしたけれど」
窓の外で、鳥がひと声鳴いた。日はもう、屋根の向こうへ落ちかけている。
「セレナ」
「はい」
「逃げないと言うなら、それでいい」
ジェラルドは、卓の上の手をいちど握って開いた。
「だが、覚えておけ。逃げるという道は、いつまでも開けておく」
「……はい」
「お前が選ばなかっただけだ。無かったことにはさせん」
セレナは、うつむいた。
この人はいつもこうだ。押しつけない。取り上げない。選ばせたうえで、選ばなかったほうの道を勝手に閉めたりしない。
「ジェラルド様」
「なんだ」
「あなた、ずるうございますわ」
「またそれか」
「またですわ」
セレナは顔を上げて、それから、いつもの調子に戻した。
「では、そのお約束の代わりにひとつ伺ってもよろしいかしら」
「なんだ」
「ここ二日、お眠りになれてます?」
ジェラルドは天井を見上げ、それから、めずらしく素直に答えた。
「……眠れていない」
「あら。正直におっしゃいましたわね」
「言わないと、どうせ当てられる」
「ふふ。よくお分かりになりましたこと」
二日のち、エルデンの宰相府に早馬が入った。
届いたのは書状ではなく、一枚の刷り物だった。カルディア公国の触れの写し。文面は短く、貼り紙のための大きな字で刷られている。
ヴァルターは、それを受け取った場所で読みはじめ、途中でやめて、歩き出した。
どこへ行くかは決めていなかった。足が勝手に運んだ先は、薬師団の建物の奥の、炉の間だった。
朝のうちに火は落とされていて、炉の口は冷えている。灰はもうさらわれたあとで、底に薄く白いものが残っているだけだ。壁の煤は、拭いても取れないところまで染みている。
誰もいなかった。
ヴァルターは炉の縁に写しを置き、腰をかがめて、続きを読んだ。
――ジェラルド様、ならびに薬師セレナ。両名の婚礼の儀は――
薬師セレナ。
その名を、老宰相は三度読み返した。
海を渡ってまで探しに来た名前が、貼り紙の字で、そこにあった。
人を出し、宿を替えさせ、薬種屋を一軒ずつ潰させ、三日ごとに封をした便を受け取り、さらに薬師をひとり船に乗せた。半月かかると数えて、間に合うと自分に言い聞かせた。
その全部が、この一枚で片づいた。
ヴァルターは、喉の奥で短く息を鳴らした。笑ったわけではない。笑いに似た形の何かが、通り道を間違えて出てきただけだ。
見つけるのと、届くのとは、違う。
あの娘は見つかった。同時に、手の届かないところへ入った。公家の婚礼の触れに名が載るというのは、そういうことだ。あれはもう、追放された流れ者ではない。あれに手を出せば、国が国に手を出したことになる。
(……先に紙にされたか)
それから、ヴァルターはもう一度、文面の頭のほうへ目を戻した。
家の名が、ない。
公家の婚礼の触れで、婿の家名を読まない。あり得ぬことだ。少なくとも、四十年儀礼を見てきた人間なら誰でもそう言う。
家名を読まない理由は、二つしかない。読ませたくないか、まだ決まっていないか。
そして、決まっていない婚礼の触れを、公国は伯以上のすべてと近隣三国へ回している。決まっていないのに、鐘の数だけは決まっている。
(……あの使者は、何者だ)
考えかけて、ヴァルターはその問いを脇へ置いた。いま解いても、打てる手が増えるわけではない。老いてから覚えたことのひとつが、これだった。答えの出る問いから先に片づける。
打てる手は、多くない。
力ずくは、もう使えない。あの娘に指一本かければ、話は薬師の去就から国と国の争いへ移る。そうなれば、なぜ一人の薬師にそこまでするのかと世間が問いはじめる。問いはじめられては困るのだ。それを避けるためにこそ、ここまで静かにやってきた。
残るのは、正面から要求することだけだ。
ヴァルターは炉の間を出て、執務の卓につき、羽根を取った。
カルディアの主席使者へ。婚礼の中止を求める。セレナ・フェアミルの身柄の返還を求める。応じられぬ場合、和睦の話は――。
そこまで書いて、手が止まった。
なぜ要るのか、が書けない。
あの娘の頭と紙に何が入っているのかを書けば、それはそのまま、この国が二百年隠してきたものを他国の卓へ差し出すことになる。書けないものを理由にした要求は、外から見ればただの言いがかりだ。相手はそう扱うだろうし、そう扱われても文句が言えない。
ヴァルターは、それを承知で書き終えた。
書けない要求を、書けないまま出す。それが今日、この手にある一番強い札だった。
封をして、使いを呼ぶ。
――そのとき、戸口に別の者が立った。侍従長だった。
「閣下。殿下のことでございます」
「は」
「和睦の調印には、必ず出ると仰せでございます。……本日で、五度目でございます」
ヴァルターは、封蝋の上に置いた指をそのままにした。
四度、止めた。叙任式を三度、参内をひとつ。そのたびに理由を並べ、そのたびにあの若い主は不機嫌になり、そして従った。
五度目は、調印だ。
二国が長い睨み合いを畳む、その紙に王太子が名を書く。それを欠席すれば、宮廷は答えを一つに決めるだろう。王太子はもう立てぬ、と。弟宮を立てよという声は、いまでも廊下と厨で鳴っている。欠席が確かめられれば、その声は声でなくなる。
国が割れる。割れた国の隣には、大国がある。
「閣下?」
「……止めません」
自分の声が、他人のもののように聞こえた。
「殿下がお出になります。そのように、支度を」
「よろしいのでございますか」
「よくはありません」
ヴァルターは、そこだけは正直に言った。
「よくはありませんが、ほかにありません」
侍従長が退がってから、老宰相はしばらく卓の前に座っていた。
あの若い主は、いま、人の手を借りねば座った形も保てない。その体で、二国の目の前に立つ。立たせるのは自分だ。
守るために嘘をつく。嘘の上に秩序を置く。秩序の上に、まだ何も知らずにいる子供たちの明日を置く。ずっとそうやってきた。今日もそうする。
ただ今日は、その秩序の上へ、あの若い主の体を一枚、敷くことになる。
立ち上がるとき、手のひらに違和感があった。
見ると、指の腹が黒く汚れていた。さっき、炉の縁に手をついたときのものだ。
ヴァルターは布を出して、それを丁寧に拭った。何度拭いても、爪のあいだの黒は残った。
次の日の昼過ぎ、カルディア公都の港に、エルデンから来た帆船が着いた。
板を渡ってくる客の中に、宮廷薬師団の平服の女がひとりいた。荷は薬箱ひとつきりで、髪はきつく後ろでまとめている。
イレーネ・ザイデルは、六日ぶりに動かない地面に足をつけて、そこで少しよろけた。
船で三日。港でひと晩休んで、馬で三日。宰相の言ったとおりの日数だった。あの老人は、他人の体が何日でどうなるかを、ずいぶん正確に見積もる。
港から公都の門までは、荷馬車に乗せてもらった。
道すがら、御者に訊いた。
「この街に、薬種屋はいくつあるの」
「さあ。数えたことはねえなあ。二十はあるんじゃねえかね」
「二十」
「そんなもんでしょ。……あんた、薬を買いに来たのかい」
「人を探しているの」
「そりゃ、名前を言ったほうが早いよ」
イレーネは黙った。名前は言えない。言わないほうがいいと自分で決めていた。追い出された前任者を訊ね歩く宮廷薬師というのは、どこから見てもきな臭い。
――薬学の見聞。
あの名目で来た以上、まずは古い薬草の書を持つ店を回り、そのついでに人の話を拾う。三日か、四日か。それくらいはかかると踏んでいた。
門を入って、広場へ出た。
市が立っている時分で、人が多かった。井戸の周りに水を汲む列ができていて、その向こうの石壁に、新しい紙が貼られている。
貼り紙の前に、人が三人ほど立っていた。
イレーネは、なんとなくそちらへ寄った。旅の癖だ。知らない街では、まず貼り紙を読む。物の値と、決まりごとと、誰が偉いかが分かる。
大きな字が、目に入った。
――ジェラルド様、ならびに薬師セレナ。
イレーネは、そこから動かなくなった。
読み違いではない。字は大きく、間違えようがない。婚礼の触れだった。日取りが書いてあり、鐘の数が書いてあり、招く先が書いてある。
薬師セレナ。
(……終わった)
三日か四日はかかると踏んだ探し物が、門をくぐって百歩で終わった。
立ちつくしているうちに、腹の底から妙なものがせり上がってきた。笑いに近かった。宰相はこれを知らずに自分を船に乗せた。あの人が半月と数えたものは、貼り紙一枚だった。
笑いは、途中で別のものに変わった。
石壁に、あの人の名前が貼ってある。
この街の誰もが通る道の、いちばん目につく高さに。読める者は読み、読めない者は誰かに読ませて、それで名前を覚えるのだ。
――わたしの名前は、どこの壁にも貼られたことがない。
七年、同じ薬師団にいた。同じ年に下働きに入って、同じ草を同じだけ覚えて、同じ夜に灯りをつけて紙に書いた。腕は競れた。競れていた。競れていたはずだ。
それでも、名前を呼ばれるのはいつも向こうだった。いまは、貼り出されるのも向こうだ。
イレーネは、指で袖の内側を握った。四つに折った書きつけが、まだそこにある。
(……いい加減にしなさい)
自分に言い聞かせて、貼り紙から離れた。
水汲みの列の、いちばん後ろの女に声をかける。
「ものを尋ねます。この、薬師セレナという人は」
「先生かい?」
女は、桶を持ち直しながらこともなげに答えた。
「川のこっち側の、ボーデさんとこの調薬室だよ。角を三つ曲がって、薬草の匂いのするほうへ行きゃ分かる」
「……ありがとう」
「あんたも診てもらうのかい。並ぶよ、あそこ」
並ぶ、とイレーネは胸のうちで繰り返した。
王宮の調薬室には、行列はできない。呼ばれて行くだけだ。
角を三つ曲がるあいだにも、二度、同じ名前を聞いた。パン屋の前で子供が「セレナ先生の飴」と言い、荷を担いだ男が連れに「あの先生が診たなら大丈夫だ」と言っていた。
どこにでもある名前になっていた。
薬草の匂いは、四つ目の角から先で急に濃くなった。
乾いた葉と、樹皮と、蜜蝋。それに少しだけ、煎じすぎた根の匂い。イレーネの足は、そこから先はもう迷わなかった。この道は、鼻で歩ける。
戸の前に、男がふたり立っていた。腰に剣を下げている。見張りだ。
イレーネは足を止め、薬箱を持ち直した。
(……何を言うつもりだったかしら)
六日、船と馬の上でずっと考えていた。考えれば考えるほど、言葉は増えて、増えるほど薄くなった。
嘘は、下手だ。昔から。取り繕おうとすると、たいてい相手に見抜かれる。
だから、と彼女は決めた。
いちばん先に、いちばん都合の悪いことを言う。そのあとで、いちばん訊きたいことを訊く。
順番は、それだけでいい。
その日の夕方、調薬室は薬草の熱でむっとしていた。
リタが窓を開け放ち、セレナは煎じ終えた鍋を火から下ろしたところだった。棚の上でコハクが伸びをして、干した束のあいだに顔を突っ込んでいる。
「セレナ様。今日の分、あと二つで終わりです」
「まあ、早いこと。あなた、ずいぶん手が速くなりましたわね」
「そりゃもう、ふた月やってますから」
「では、そろそろお給金を上げませんとね」
「もらってません」
「あら」
「一度も、もらってませんよ!」
笑い声のところへ、戸口の外で声がした。見張りの男のものだった。
「――どちらさまで」
「エルデンの薬師です」
セレナの手が、鍋の柄から離れた。
リタが振り向く。窓の外の風が、干した葉をひとしきり鳴らした。
「お名前を伺っても」
「イレーネ・ザイデル。宮廷薬師です」
その名前を、セレナは知っていた。
七年、同じ建物にいた。廊下ですれ違い、薬棚の前で背中合わせになり、同じ日に同じ草を検めたこともある。挨拶は交わした。それだけだった。
(……ザイデル様が)
次に浮かんだのは、驚きではなかった。もっと単純で、もっと嫌な形をしたものだ。
なぜ、いま。
なぜ、ここに。
「セレナ様?」
「――お通しして」
自分の声が、思ったより落ち着いていた。
「リタ。悪いのだけれど、今日はここまでにいたしましょう。お家に帰ってくださいまし」
「え。でも」
「大丈夫ですわ。外にあの方たちがいらっしゃいますもの」
リタは口をとがらせて、それから素直に前掛けを外した。出ていきぎわに、小さく「なにかあったら叫んでくださいね」と言い残していった。
戸が開いた。
入ってきたのは、記憶よりも少しだけ痩せた女だった。薬師団の平服のまま、髪をきつく後ろでまとめ、薬箱をひとつ提げている。旅の埃をかぶっているのに、それを払おうともしていない。
「……ザイデル様」
イレーネは、戸口で一度だけ足を止めた。
「フェアミル様」
「あら」
セレナは、思わず笑った。
「その呼び方をなさるのは、ずいぶん久しぶりに聞きましたわ」
「壁には、別のふうに書いてありましたけれど」
「ええ。そちらが本当ですのよ」
イレーネの目が、ほんの一瞬だけ細くなった。棘のある目だった。だが、そこから先へは行かなかった。
彼女は薬箱を床に置き、まっすぐに立った。
「先に、言っておくことがあります」
「はい」
「わたしは、宰相閣下に命じられてここへ来ました」
セレナは、口を開かなかった。
「名目は、薬学の見聞です。ですが、本当はあなたに会わせるために乗せられました。……訊き出せとは言われていません。薬師の話をしなさい、と言われました」
イレーネは、そこで一度だけ息を継いだ。
「聞こえたことをそのまま書いて、寄越せと。判じるのは自分の仕事だから、と」
棚の上で、コハクが身を起こした。
琥珀色の小さな体が、そろりと棚の縁まで来る。鼻先が、床に置かれた薬箱のほうへ伸びた。ひくひくと動いて、それきり毛は逆立たない。ひとしきり嗅いでから、コハクは棚の上へ戻り、そこで丸くなった。
――薬師の匂いがしたのだ、とセレナは思った。
「ザイデル様」
「はい」
「いま、ご自分から全部おっしゃいましたわね」
「はい」
「なぜ」
「嘘が下手だからです」
イレーネの答えは短かった。
「隠したまま話してあとで気づかれるくらいなら、先に言ったほうが早い。……それに、隠してもあなたには気づかれるでしょう」
「まあ。買いかぶってくださいますこと」
「買いかぶってはいません」
その言い方に、飾りはひとつもなかった。
セレナは、卓の上を布で拭いて、椅子を一つ引いた。
「お座りになって」
「けっこうです」
「六日、船と馬でいらしたのでしょう」
「……はい」
「では、お座りになって。立ったままの人と話すと、こちらの首が疲れますの」
イレーネは、少しのあいだ迷ってから、腰を下ろした。座ってみて初めて、自分の脚がどれだけ重かったかに気づいた顔をした。
「お茶をお淹れいたしますわ。カモミールでよろしいかしら」
「なんでも」
「船酔いのあとには、それがいちばんですのよ」
「……酔ってはいません」
「そう。では、匂いを楽しむだけになさって」
湯を注ぐ音が、しばらく部屋を埋めた。
湯気の立つ椀を卓に置いたとき、イレーネが口を開いた。
「フェアミル様」
「セレナで結構ですわ。壁にもそう書いてございましたし」
「……では、そう呼びます」
彼女は椀に手を触れず、まっすぐに顔を上げた。
「訊きます」
「どうぞ」
「殿下の毎朝の一服は、何でしたか」
部屋の外で、荷車が石畳を鳴らして通り過ぎた。その音が遠くなるまで、セレナは椀の湯気を見ていた。
いつか誰かに訊かれると思っていた。訊かれる相手が、まさかこの人だとは思っていなかった。
「ザイデル様」
「はい」
「お答えしても、殿下は良くなりませんわ」
イレーネの喉が、ひとつ動いた。
「……どういう意味です」
「そのままの意味ですの」
セレナは、椀を両手で包んだ。
「あの一服が何をしていたのかは、わたくしにも分かっております。ですけれど、なぜあの方の体がそうなっていたのかは存じませんの。……知らないところから先は、道が組めませんわ」
「あなたが、知らない」
「知りませんわ」
「七年、あの方に出していたのに」
「出しておりましたけれど、教えてはいただけませんでしたのよ」
イレーネは、しばらく黙っていた。
その沈黙は、疑っている沈黙ではなかった。同じ場所へ辿り着いた者が、そこに壁があることを自分の手で確かめている沈黙だった。
「……わたしも、そこで止まりました」
ぽつりと、彼女は言った。
「熱を下げれば脈が走ります。脈を静めれば、今度は一睡もなさらない。片方を直せば片方が崩れる。……体のどこかに余計な板が一枚挟まっていて、その板だけがどうしても見えないんです」
セレナは、椀を置いた。
(……この方は、ちゃんと同じところまで来ていらっしゃる)
七年、同じ薬師団にいた。一度も薬の話をしたことがなかった。そのあいだに、この人は自分と同じ壁の前に立って、同じ形の壁だと確かめていたのだ。
「ザイデル様。おいくつ、外されましたの」
「二十です」
「二十」
「二十一番目を組みかけて、船に乗りました」
「……二十番目まで、書いていらっしゃる?」
イレーネの手が、初めて動いた。袖の内側から、四つに折った紙を出す。それを卓の上で開いた。
細かい字で、ぎっしりと埋まっていた。番号、日付、量、そして結果。効いたか、効かなかったか。何が起きたか。
「外した薬の帳面です」
「……まあ」
セレナは、その紙をのぞき込んだ。
のぞき込んだきり、すぐには顔を上げられなかった。
効かなかった薬を、番号をつけて、日付を入れて、順に並べてある。誰も読まない。誰も褒めない。書いても得は何もない。それでも書く人間が、この世にもうひとりいた。
「ザイデル様」
「なんですか」
「これ、どなたに言われて書いておりますの」
「誰にも」
イレーネは、紙を指で押さえた。
「頭の中にあるだけでは、次にこの席へ座る人が同じ二十をもう一度なぞることになりますから」
セレナは、口をおさえた。
笑ったのではない。喉の奥から何か出そうになって、それを止めるためだった。
――才なんぞより、書いたものが、いつかお前を助ける。
黒い匙を渡してくれた人は、そう言った。あの流儀を持っているのは自分ひとりだと、どこかで思い込んでいた。うぬぼれだ。
「セレナ」
「はい」
「答えないのですね」
「答えないのではございませんの。答えても届かないと申し上げているだけですわ」
「届かなくても、教えてください」
イレーネの声が、そこで初めて硬くなった。
「わたしは十九外して、二十外しました。二十一番目も、たぶん外します。それでも組みます。組まなければ、明日の朝が来ないので」
セレナは、息を止めた。
明日の朝。
七年、自分がつくり続けていたものの名前を、この人はいま何気なく口にした。
「……ザイデル様」
「はい」
「なぜ、そこまでなさいますの」
セレナは、まっすぐに訊いた。
「あなた、宰相閣下に使い潰されておいでですわね。ご自分でもお分かりでしょう。名前を貸すために座らされておいでですのよ」
「分かっています」
「では、なぜ」
イレーネは、椀のふちを指でなぞった。それから、初めて目を伏せた。
「……あなたが出ていってから、あの方は日に日に落ちました」
「はい」
「ひと月で寝台を降りられなくなって、二月で座った形が保てなくなりました。わたしが宮を出る朝は、侍従が二人がかりで支えていました」
セレナは、卓の縁を握った。
覚え書きの中の、四日分の雛形。あれが、そのまま伸びている。
「そのお体で」
イレーネは顔を上げた。
「殿下は、和睦の調印に出ると仰せです」
部屋の音が、そこで消えた。
窓の外の風も、棚の上のコハクの寝息も、通りの荷車も、全部が一枚向こうへ行ってしまった。
「……調印」
「二国の和睦の、あの調印です。両国の使いが並ぶ席で、殿下ご自身が壇に立って名を書かれる」
「宰相閣下は」
「四度、お止めになりました」
イレーネは、そこで一度言葉を切った。
「五度目のことは、わたしは知りません。船に乗りましたから」
セレナは、椅子の背から体を離した。
――立てない。
あの方は、立てない。
人の手で座らせても形が保てないのだ。それは、支えれば座っていられるということではない。支えていないと崩れるということだ。壇に上がって、名を書くあいだ、誰が支える。誰も支えない。人の前に立つというのは、そういうことだ。
しかも、あの体はもう二月半、切らしたままでいる。
覚え書きにあった雛形は、四日分だった。四日でも、胸が鳴り、喉が渇き、口が苦くなり、指が震えた。二月半のあいだ、それがずっと積み上がっている。
あの日、七年ぶんの朝を取り上げたのは自分だ。取り上げたのではない、置いていった。置いていけば崩れると知っていて、それでも置いていった。
――明日の朝は、ぜひご自分で淹れてごらんになって。
あれは、正しかった。正しくて、そして、いま二国の卓の真ん中に立とうとしている。
「セレナ」
イレーネの声が、遠くから戻ってきた。
「顔が白いですよ」
「……あら。ザイデル様も、人の顔をご覧になりますのね」
「薬師ですから」
「ええ。そうですわね」
セレナは、卓に手をついて立った。
膝の裏はまだ冷たかった。冷たいまま、手のほうが先に動いた。棚から新しい紙を一束下ろし、燭台を引き寄せ、火を移す。灯りがひとつ、卓の上に増えた。
「ザイデル様」
「はい」
「その帳面、見せてくださいまし」
「……見せます。ただ」
「ええ。書いてお送りになるのでしょう。かまいませんわ」
セレナは、二つ目の燭台に火を入れた。
「わたくしの言うことは、一言ももらさず写してくださって結構ですのよ。……そのかわり、こちらも一言ももらさず伺いますから」
イレーネは、まじまじとこちらを見た。
「あなた、それでいいんですか」
「よくはございませんわ」
セレナは正直に答えた。
「よくはございませんけれど、あなたが二十一番目を外すのを黙って見ているほうがもっとよくございませんもの」
板間の隅から椅子をもうひとつ引いてきて、卓の向こう側へ置く。
七年、同じ薬師団にいて、一度も並んで座らなかった椅子だった。




