第16話: いちばん大事なところ
紙は、人の気持ちより足が速い。
誰かが「そうしたい」と口に出すより先に、紙は書かれ、封じられ、人の手から人の手へ渡っていく。気持ちのほうはまだ、言葉にすらなっていないのに。
セレナ・フェアミルの縁談は、いまちょうど、その速さで進みはじめていた。
あの会談から、八日。婚約破棄の日から数えれば、二月あまり。
三日前の夕方、セレナは自分から公館へ出向いて、縁談の話をもう一度きちんと伺いたいと申し出た。そのとき彼女が並べた理屈は、こうだ。追放された流れ者の紙なら、夜に戸を破って持っていけばそれで済む。けれどカルディアの家に入った女の持ち物を取るのは、国が国に手を出すことになる。だから、身を守るために婚礼を挙げたい。
筋は通っていた。通っていたのに、言ったそばから寒くなった。
だから今日、セレナはその理屈を取り下げるつもりで朝を迎えた。
調薬室の板間には、毛布がひと組たたまれていた。三晩めの朝である。
「セレナ様。あたし、昨日はちゃんと真っ直ぐ寝てましたよね」
「ええ。真っ直ぐ、わたくしの脛のほうへ」
「うそ」
「三晩とも同じ向きでしたわ。あなたの寝相には、ずいぶん律儀なところがございますのね」
リタは毛布を抱えたまま真っ赤になって、それから思い出したように顔を上げた。
「あ。表の人、今朝も二人立ってます」
「そのようね。お茶をお出ししたいのですけれど、断られてしまいますのよ」
「お仕事中だからですよ」
「ええ。ですから、湯冷ましだけ置いておきましたわ。あれなら受け取ってくださいますもの」
セレナは卓の上を布で拭いて、油紙の包みをその真ん中に置いた。三晩、この上に開かれていたものだ。
「セレナ様。それ、まだ読むんですか」
「いいえ。読み終わりましたのよ」
リタが毛布を落とした。
「ぜんぶ? 七年分?」
「ぜんぶ。昨夜、最後の頁までまいりましたわ」
「三晩で?」
「三晩で。……ですから今朝はこのとおり、目が二つとも半分しか開いておりませんの」
「開いてないです。半分も」
リタは毛布を拾ってから、卓の向かいに腰を下ろした。手が勝手に薬包の紙を畳みはじめる。この子は座ると手が動きだす。
「で。なにか分かったんですか」
「分かりましたわ。たくさん」
「じゃあ、あの偉い宰相さんをやり込められますね!」
「それが、できませんの」
リタの手が薬包の折り目のところで浮いた。
「なんでですか。ぜんぶ分かったのに」
「ぜんぶではございませんのよ。……リタ、お薬を組むときには順番がございますの」
セレナは指を一本立てた。
「まず、なぜそうなっているのかを知りますわ。それから、どう戻すかを考えますの。この二つは、いつもこの順ですのよ」
「はい」
「わたくしが分かりましたのは、あの一服が何をしていたかというところまでですわ」
「じゅうぶんじゃないですか」
「まだ半分も行っておりませんの」
セレナは油紙の端を指でならした。
「あの粉が、あの方の体を良くしていたのではないこと。切らせばどうなるかということ。増えていって、一度も減らなかったこと。……そこまでは、この中に書いてございました」
「その先が、ないんですか」
「一頁もございませんわ」
セレナは肩をすくめてみせた。
「なぜあの方の体がそうなっていたのか。生まれつきなのか、途中で何かがあったのか。……そこは、わたくしの見たものの外ですのよ。わたくしは調薬室の中の人ですもの。戸の外のことは、書けませんわ」
「じゃあ……」
「ですから、治す道が一行も組めませんの」
言ってしまうと、思ったより苦い味がした。
「わたくし、この三晩ずっと考えておりましたのよ。もし今すぐあの方の枕元に立てたとして、何を出すのかしらって」
「出せないんですか」
「出せませんわ。何も」
リタが薬包を置いた。
「量を戻せばいいんじゃないんですか。減らして悪くなったなら、足せば」
「まあ。リタ、それはとても筋の通ったお話ですわ」
「でしょう?」
「ですけれど、それを七年やりましたのがわたくしですのよ」
セレナは笑った。笑いながら、卓の木目を見た。
「足して、また足して七年で二倍以上になりましたの。足すのは、戻すことではございませんわ。……あの帳面がそう教えてくれましたのよ。三晩かけて、それを教えられましたわ」
「……なんか、ちょっと悔しいですね」
「ええ。ずいぶん悔しゅうございますわね」
棚の上で、琥珀色がむくりと起き上がった。
コハクは前足で棚板を二度掻き、身をよじって卓へ降りると、油紙の包みへまっすぐ鼻を伸ばした。
「あら。あなた、それは食べ物ではございませんのよ」
「その子、昨日から油紙が気になってしょうがないみたいで」
「三晩も卓の真ん中を占領されて、腹が立っておりますのね」
コハクは包みの角を一度だけかじり、思ったような味でなかったらしく、鼻の頭にしわを寄せた。それからくるりと向きを変え、リタの畳んだ薬包の山にどしんと座った。
「あー! それ、朝から数えたのに!」
戸が鳴ったのは、リタが山を掘り返しているときだった。公館の使いだという若い男が、上着の襟を直しながら頭を下げた。
「薬師どのに、お迎えの馬車を仕立ててございます。式部官のロタール様が、お待ちでございます」
リタが、薬包の山から顔を上げた。
「ロタールって……あの、お作法のおじいさんですか」
「そのお方ですわね」
「セレナ様、あの人って前に『客分ふぜい』って言った人じゃ」
「ふふ。あとで詫びてくださいましたのよ」
セレナは立ち上がって、髪をひとつ撫でつけた。眠りの足りない顔だが、こういう日に化粧で誤魔化すのは性に合わない。
「行ってまいりますわ。……お留守番、お願いいたしますね」
「はい。あ、セレナ様」
「なあに」
「その包み、どうします」
セレナは卓の上の油紙を見た。三晩ぶん、彼女の指の跡がついている。
「持ってまいりますわ」
少し考えて、こう足した。
「今日、行き先が決まりますのよ」
公館の小広間には、卓が一つ足されていた。
足された理由は、卓に上がっていた。羊皮紙と紙の束が、山になって三つ並んでいる。いちばん高い山は、セレナの腰の高さまであった。
「これは……」
「縁組の書付でございます」
式部官ロタールが、痩せた指を揃えて頭を下げた。四十年この役を務めているという白髪の老人だ。婚礼の作法を延々と講義された日には、この人はセレナを「客分ふぜい」と呼んで手当てを止めようとした。今日は入り口で待っていて、セレナが入るより先に礼をした。
「まず、こちらが縁組の書付。二通ございます。次にこちらが婚礼の次第書。そしてこちらが」
ロタールは、いちばん高い山に手を置いた。
「列席の名簿でございます」
「まあ」
セレナは山の高さを目で測った。
「ロタール様。この街には、そんなに人が住んでおりますの?」
「この街には収まりませぬ」
老人は、真顔で答えた。
「公国のうち、伯より上のお家はことごとく。加えて、近隣の三国から使いをお招きいたします」
セレナは、束の背をそっと押した。押した指の下で、紙が固く詰まっている音がした。
「三つの国から」
「三つの国から」
「……一介の使者の婚礼に?」
ロタールは答えなかった。答えないというより、そこは自分の受け持ちではないという顔をした。
テオが、壁ぎわの椅子から声を上げた。今日はなぜか呼ばれていて、暇そうに脚を組んでいる。
「先生。俺、名簿の写しを手伝わされたんですけど」
「ご苦労さまですこと」
「あれ、一晩で書けるやつじゃないですよ。書役が六人つきました」
「六人」
「六人。しかも徹夜です」
セレナは息を吐いて、次第書のほうを引き寄せた。ロタールが横から頁をめくってくれる。
「まず鐘でございます。当日は聖堂の鐘を十二打。六打では足りませぬ」
「六打では、どなたの婚礼になりますの」
「伯家でございます」
「……なるほど」
「履物は白。裾は床から指二本ぶん。杯は右手でお受けになり、お返しは両手。三歩さがってから、お顔を上げられます」
「杯は右手、お返しは両手」
「さようでございます。左でお受けになりますと、公国では『返す気がない』という意になりますゆえ」
「まあ。怖いこと」
「怖いのでございます」
ロタールは大真面目にうなずいた。この人は冗談を言っていない。冗談を言う機能が備わっていないのだと、セレナは前回で学んでいた。
「テオさん」
「はい」
「杯は?」
「右です」
「お返しは?」
「両手」
「よくできましたこと」
「これ三日で覚えさせられたんですよ。ジェラ――旦那の隣に立つ役なんで」
テオは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「俺、婚礼で緊張して杯を落としたら国交がどうなるんですかね」
「わたくしが解毒いたしますわ」
「毒じゃないでしょ、それ」
ロタールが咳払いをした。笑いが起きるのを許さない咳払いだった。
「続けてよろしゅうございますか」
「どうぞ」
「日取りでございます。御裁可はすでに下りております」
セレナは、次第書から目を上げた。
「もう?」
「もう、でございます」
「わたくしが申し上げましたのは、三日前の夕方ですわ」
「三日と、半日でございます」
ロタールは羊皮紙を一枚めくり、そこに押された印を指で示した。
「わたくしはこの役を四十年務めてまいりました。公国の婚礼のうち、御裁可がこの速さで下りたものを一度も存じませぬ」
「異例、ということですのね」
「異例、という言葉で足りますかどうか」
老人はそこで、めずらしく言葉を選ぶような間をあけた。
「……それどころか、先例を探すのに二晩かかりました」
「先例」
「近いものが、一つきりございました。三十年ほど前でございます」
セレナは待った。
「公王陛下ご自身の、御婚礼でございます」
小広間が静かになった。
テオが天井から目を下ろして、それから、何も見なかったような顔で窓のほうを向いた。
(……三十年前の、公王陛下の御婚礼)
セレナは、名簿の束の背を指の腹でなぞった。妙な話は、これで幾つになるだろう。
雨の街道で見た、懐の金属の光。武装した衛兵を「待て」の一言で止めた手。ただの使者が身分を「与える」と言った口。朦朧とした老家令の「若」という呼び方。そして三日前、取り次ぎの侍が言いかけて飲み込んだ半分の言葉。
数えるほどに、答えのほうは一つに寄っていく。寄っていくのが分かるから、セレナは今日もその戸に手をかけないことにした。
いま開けても、得るものがない。得るものがないうちに開けた戸は、たいてい閉まらなくなる。
「ロタール様。ひとつだけ、先に伺わせてくださいまし」
「なんなりと」
「わたくしは、どちらの家に入りますの?」
ロタールの手が羊皮紙の上で浮いた。
それから彼は、いちばん薄い山――縁組の書付を引き寄せ、二枚めをめくって、卓の上でセレナのほうへ向けた。
書付の文面は、丁寧な字でびっしり埋まっていた。ただ一行、真ん中あたりに、指の幅ほどの空白があった。
「そこは、まだ空けてございます」
「空けて」
「御裁可を待っております」
セレナは空白を見た。鐘は十二打と決まっている。履物の色も、裾の長さも、下がる歩数も決まっている。
名前だけが、決まっていない。
「あら」
セレナは、明るく言った。
「お名前が決まらないうちに、鐘の数はもう決まっておりますのね」
ロタールは、深く頭を下げた。
「仰せのとおりでございます」
「ロタール様は、その空白に何が入るかご存じ?」
「存じませぬ」
「本当に?」
「本当に、存じませぬ」
この老人は嘘をつけない。四十年儀礼だけを守ってきた人の背骨は、たいてい嘘に向いていない。セレナはそう見て、それ以上訊かなかった。
「ジェラルド様は、今日はどちらに?」
「御前におられます」
あっさりした答えだった。ロタールは次の頁をめくりながら、なんの気負いもなく続けた。
「夕にはお戻りでございましょう」
「……御前、とおっしゃいますと」
ロタールの指が、頁の上でとまった。それから彼は、めくる手を再開した。
「夕には、お戻りでございましょう」
同じことを二度言われた。二度言うのは、答えない人の作法だ。
セレナは微笑んで、次第書の続きへ目を移した。
「では、裾の話に戻りましょうか。指二本ぶん、でしたわね」
「指二本ぶんでございます。三本では長すぎ、一本では短うございます」
「厳しいこと。……ああ、『厳しいのでございます』とおっしゃるのでしょう」
「厳しいのでございます」
ロタールは、まったく同じ顔で言った。
ロタールが羊皮紙を並べ替えているあいだ、テオが椅子ごとにじり寄ってきて、声を落とした。
「先生。水夫のほうは、まだ何も出てきません」
「あら。三日も通ってくださいましたのに」
「王太子が寝込んでるって話ばっかりです。それはもう国じゅうが知ってますからね。……あとは、聖女様がどこそこで祈ったとか。うちの叔母が救われたとか。そういう景気のいい話ばっかりです」
「肝心のほうは」
「薬師団の話は、誰も知りません。あそこ、口が固いみたいで」
「ええ。固うございますわね」
セレナは、少しだけ笑った。自分がその口の一枚だったのだから、よく分かる。
「テオさん。無駄足を踏ませましたわね」
「無駄じゃないですよ。俺、宿場の女将から干し杏をひと袋もらいました」
「それは、お駄賃と申し上げてよろしいのかしら」
「駄賃は別でお願いします」
海の向こう、エルデンの港。
朝の桟橋には、荷を積み終えた帆船が一隻、舫いを残して待っていた。潮が引きはじめる前に出るという。
宰相ヴァルター・ゲーレンは、その舫いのそばに立っていた。供は一人だけ連れている。宰相が港まで人を見送るのは、この十年で二度めだった。
「六日でございますね」
板を渡ろうとしていた女が、振り向かずにそう言った。宮廷薬師イレーネ・ザイデル。手荷物は薬箱ひとつきりで、着るものは薬師団の平服のままだった。
「六日です。船で三日、それから馬で三日」
「早馬なら三日と伺いました」
「早馬は公用の急使が使うものです。宮廷薬師が学びに参るのに、急ぐ理由がありますか」
「……ございませんね」
「ですから、六日でお行きなさい」
イレーネは薬箱を持ち直した。
「名目は、なんと」
「薬学の見聞です」
ヴァルターは、いつもの静かな声で答えた。
「カルディアには古い薬草の書が多く残っています。エルデンの宮廷薬師が学びに行く。なんの不思議もない」
「向こうが、そう受け取りますか」
「受け取ります。両国はいま、仲直りの最中ですから」
自分の口から出た言葉に、ヴァルターは胸のうちで小さく笑った。仲直りの最中である。それは本当だ。本当だから、使い勝手がいい。
「閣下」
「はい」
「わたしに、何をさせるおつもりです」
イレーネは初めて振り向いた。棘のある目だった。前室で上申を断られてから、この娘の目は前より正直になっている。
「あの人に会わせるおつもりでしょう。追い出された前任者に」
「そう申し上げた覚えはありません」
「ほかに、わたしがカルディアへ行く理由がありますか」
「ありませんね」
ヴァルターは、あっさり認めた。隠すほうが、この娘には効かない。
「ザイデル。あなたに訊き出せとは申しません」
「では、何を」
「薬師の話をなさい」
潮の匂いを含んだ風が、桟橋の板の上を渡っていった。
「あなたは薬師です。あの娘も薬師です。同じ薬師団に七年おられた。……向こうで会えば、話すことは山ほどあるでしょう」
「あの人が、わたしに何か話すと思いますか」
「話しますよ」
「なぜ」
「あの娘は、薬の話になると止まらない」
イレーネの眉が、わずかに動いた。
「……七年、同じ薬師団におりました」
彼女は薬箱の把手を握り直した。
「わたしは一度も、あの人と薬の話をしたことがありません」
「では、今度なさい」
ヴァルターは、それだけ言った。
「聞こえたことを書いて寄越してください。あなたが分かったことでなくてかまいません。あの娘が何をどう言ったかを、そのまま」
「……写せ、と」
「写しなさい。判じるのは私の仕事です」
イレーネはしばらく板を見ていた。それから、頭を下げるでもなく、ただ言った。
「わたしは、あの人が嫌いです」
「知っています」
「それでも、行きます」
「ええ」
「仕事ですから」
この娘は、二度めも同じ言葉で受けた。ヴァルターはそれをきちんと聞いて、記憶に置いた。使い潰す相手の言葉を覚えておくのは、せめてもの礼儀だと思っている。礼儀を守ったからといって、潰すのをやめるわけではないが。
板が引かれ、舫いが解かれた。
水夫たちの声が上がり、帆がゆっくり張って、船体が桟橋から離れていく。ヴァルターは、それが港の口を出るまでその場に立っていた。
六日。行きに六日で、帰りの便に六日。往復で半月。
半月は長い。だが、ほかに打てる手がない。力で娘を押さえれば外交の話になり、外交の話になれば、この国が隠しているものへ人の目が寄る。それがいちばんまずい。
だから、薬師には薬師を当てる。それが今日打てるいちばん静かな手だった。
(……間に合う)
老宰相は、そう数えた。
その半月のあいだに海の向こうで何が紙になり、その紙が何を守ることになるのかを、ヴァルターはまだ知らなかった。
夕方の公館は、昼より静かだった。
セレナが通されたのは、廊下の突き当たりの、窓のない小さな部屋だった。奥の壁に、鉄の扉が一つ埋まっている。金庫だ。
馬の匂いをさせて入ってきたジェラルドは、上着の肩に薄く埃をかぶっていた。一日どこかへ出ていて、そのまま帰ってきたのだろう。
「待たせたな」
「いいえ。名簿を数えて遊んでおりましたわ」
「数えたのか」
「三つめの山の途中で諦めましたの。……あれ、生きている方の名簿ですのね? ずいぶん亡くなった方も混ざっているような気がしましたわ」
「混ざってる。ロタールが三十年前の写しを下敷きにしたからだ」
「まあ」
「あとで直させる」
ジェラルドは卓の向こうに立ったまま、セレナの手元を見た。膝の上に、油紙の包みがある。
「それを持ってきたのか」
「ええ」
セレナは立って、卓の上にそれを置いた。
「金庫へ、お預けしますわ」
ジェラルドは、すぐには手を出さなかった。
「三日前は、手元に置くと言った」
「申しましたわ」
「読み終わったのか」
「昨夜、最後の頁まで」
「三晩でか」
「三晩で。……ですから今日は、あくびを七度こらえましたのよ」
「こらえきれてなかったぞ、昼に」
「あら。見ておいででしたの?」
「ロタールが名簿を三つ並べたあたりだ」
セレナは口をおさえた。ジェラルドはそれ以上追及せず、包みに手を伸ばして、重さを確かめるように持ち上げた。
「なぜ、いまだ」
「三日前に申し上げた理屈を、取り下げに参りましたの」
ジェラルドの手が、包みを持ったまま卓の上でとまった。
「……取り下げる」
「はい」
セレナは、順番を決めてきた。今日は歩きながらではなく、三晩かけて決めた。
「わたくしはあのとき、こう申し上げましたわ。立場が薄いままだと、この一冊を守れませんと。守れないものを抱えて座っているのは、ただの怠けですと」
「言ったな」
「筋は通っておりますでしょう?」
「通っている」
「ですから、通したままにしておきたくなかったのですわ」
セレナは、卓の上の包みを指で示した。
「その紙が金庫に入りますと、わたくしが婚礼を挙げる理由がひとつ消えますの」
ジェラルドが、目を上げた。
「守るものが守られてしまえば、身を守るために嫁ぐという理屈はもう使えませんわ。使えなくなったうえで、それでもこのお話を進めたいのなら――」
「駒の話ではなくなる」
「ええ」
セレナはうなずいた。
「わたくし、駒として運ばれるのは七年やりましたのよ。もう十分ですわ」
ジェラルドは、包みを卓に置いた。それから鉄の扉のところへ行って、腰の輪から鍵を外し、錠を回した。
扉の中は、思ったより浅かった。彼は包みを奥へ入れ、扉を閉め、錠を確かめてから、こちらへ戻ってきた。
そして卓の上に、鍵を二つ置いた。
「……二つ、ございますのね」
「二つある。ひとつは持っていろ」
「わたくしが?」
「お前の物だ」
ジェラルドは、それだけ言って椅子を引いた。
「金庫に入れたからといって、俺の物になるわけじゃない」
セレナは、卓の上の小さな鉄を見た。冷たそうな見た目をしていて、手に取ると人の手の温かさが残っていた。
こういうところなのだ、と思う。
この人はいつも、こういうところで人の胸をおかしくする。取り上げない。値切らない。預かるとは言うが、自分の物にすると言わない。
「……ありがとう存じます」
「礼はいい」
ジェラルドは腰を下ろし、腕を組んだ。
「理屈は下がった。……それで?」
「はい」
「本題を聞かせろ」
セレナは椅子に座り直して、膝の上で手を重ねた。
三晩考えた。考えたのに、いざとなると喉のあたりで言葉が団子になっている。
「ジェラルド様。わたくし、七年のあいだずっと人の朝ばかりつくっておりましたの」
「……朝」
「ええ、朝ですわ」
セレナは指を折るようにして続けた。
「まだ暗いうちに起きますでしょう。湯を沸かして水を替えて、匙を量って。あの方が目を覚ますまでに全部済ませておきますの」
「毎日か」
「毎日。七年で欠けたのは二度きりですわ」
「……」
「それが済むと、自分の朝はもうどこにもございませんの。日が昇るころには、次の支度が始まっておりますもの」
ジェラルドは答えなかった。ただ、そのまま少し前へ体を傾けた。
「三晩かけて、七年分を読み返しましたのよ。十四の自分の下手な字から、いちばん新しい春まで」
「見つけたか」
「見つけましたわ。……あの帳面の中に、朝が来るのを楽しみにしていた日は一日もございませんでした」
セレナは、そこで少し笑った。笑うつもりだったのに、うまく笑えなかった。
「一日も、ですのよ。千を超える朝がありましたのに、一日も」
「……」
「変ですでしょう? わたくし、七年ずっと朝をつくっておりましたのに朝が好きだったことが一度もございませんの」
窓のない部屋なので、外の音が遠かった。廊下のほうで人が通って、その足音が消えた。
「それが変わったのは、いつだ」
ジェラルドの声は、低かった。
「雨の街道ですわ」
彼が顔を上げた。
「……あの日、お前は死にかけてたぞ」
「ええ。ずぶ濡れのまま干し肉をいただいて、そのうえ人様の寝不足を勝手に診て差し上げましたわ」
「診てくれと頼んでいない」
「頼まれておりませんわね」
セレナはうなずいて、それから、まっすぐ彼を見た。
「あの晩、馬車の隅で毛布にくるまって明日はどこまで行けるかしらと考えましたの。……そうしたら、眠れませんでしたのよ」
「不安でか」
「楽しみで」
ジェラルドが、口をひらいて、閉じた。
「おかしいでしょう。路銀も家名もございませんでしたのに」
「おかしい」
「ええ、おかしいのですわ」
セレナは膝の上の手を、いちど握り直した。
「あなたは、わたくしがお役に立つかどうかを一度も量りませんでしたわ」
「量りようがないだろう。何も知らなかった」
「そこですのよ」
セレナは身を乗り出した。
「何もご存じない相手に、あなたは外套をお貸しになりましたの。腕の話をお聞きになったのは、そのずっとあとですわ。……わたくし、七年ずっと量られておりましたのよ」
「量られる」
「役に立つあいだは、席がございますの。立たなくなれば、誰でもできることになりますわ。あの日、あの方はそうおっしゃいました」
ジェラルドの顎に、力が入った。
セレナは、それを見て少しだけ声を落とした。
「怒ってくださらなくてよろしいのよ。もう済んだお話ですもの」
「済んでいない」
「ふふ。済ませていただかないと、こちらが困りますわ」
セレナは息を吸って、背筋を伸ばした。
ここから先は、飾りをつけずに言おうと決めていた。三晩のうちの三晩めに、そう決めた。
「……あなたと、婚礼を挙げたいと思います」
部屋が静かになった。
「紙のためではありません。立場のためでもありません。わたくしが、そうしたいからです」
自分の声が、いつもより低いのが分かった。令嬢らしい語尾が、どこかへ落ちていた。落ちたままにしておいた。
ジェラルドは、卓の上に置いた手をいちど握って、開いた。
それから、もう一方の鍵を取り上げて、意味もなく手のなかで裏返した。裏返して、また戻した。
「……そうか」
「はい」
「なら、こっちも言っておく」
「はい」
「俺のほうは、ずっと前に済んでる」
セレナは、まじまじと彼を見た。
「……いつですの」
「言わん」
「まあ! そこは言うところですわ」
「言うと、お前が調子に乗る」
「乗りませんわよ」
「乗るだろう」
「乗りませんったら」
ジェラルドは鍵を卓に置いて、ふっと息を吐いた。笑ったのだと分かるまで、少しかかった。
「……いつか言う」
「いつか」
「縁談は逃げんと言ったろう。俺も逃げん」
セレナは何か言い返そうとして、言葉が見つからなくて、それで頬が熱くなるのを止められなかった。三日前に見なかったことにした熱が、今日は隠せない。
「あら。ずるいこと」
「そうだな」
「そうだな、って」
「日取りだ」
「まあ! いま話をお変えになりましたわね」
「変えた」
ジェラルドはさっさと次第書のほうへ手を伸ばし、それきりセレナの顔を見なかった。
その耳の縁が赤かったかどうかは、確かめずにおいた。こちらも同じ色をしている自信があったからだ。
「ジェラルド様。もうひとつ、お願いがございますの」
「まだあるのか」
「これでおしまいですわ」
セレナは、卓の上の次第書のいちばん上の頁を指した。婚礼の触れの文案だった。公国の街々に貼り出す、あの短い文である。
「ここに、わたくしの名前を入れてくださいまし」
ジェラルドの手が、頁の上で浮いた。
「名前」
「薬師セレナ、と。それだけで結構ですわ」
彼は羊皮紙を卓に戻して、それを見下ろしたまま言った。
「エルデンに知られるぞ」
「ええ。知られますわ」
「触れが出れば、三日で早馬が着く」
「三日で着きますわね」
「宰相の卓に、お前の名が載る」
「載りますわ」
セレナは、そこで一度うなずいた。
「ですから、入れてくださいまし」
ジェラルドは、椅子の背に体を預けた。
「理屈を聞こう」
「二つございますの」
セレナは指を二本立てた。
「一つめ。隠れたまま婚礼を挙げますと、わたくしはこの先ずっと隠された女ですわ。どなたかの奥方の欄に入って、自分の名前は書かれないままになりますの」
「……」
「わたくし、それを七年やりましたのよ」
ジェラルドは黙っていた。
「エルデンで紙に載る自分の名前は、いつも何かの添え物でしたわ。王太子付きの薬師係か、フェアミル家の娘か。それだけですの」
セレナは懐に手を入れて、いつも持ち歩いている一枚を出した。カルディアの印の押された、厚みのある紙だ。
「ここには、薬師セレナとだけ書いてございますの」
「鑑札だな」
「ええ。生まれて初めて、わたくしの名前だけで立った紙ですのよ」
セレナは、その紙を卓に置いた。
「これを懐に入れたまま名前を隠して婚礼を挙げるくらいなら、わたくしは婚礼をやめますわ」
ジェラルドは、鑑札とセレナの顔を順に見た。
「……二つめは」
「二つめは、そろばんのお話ですわ」
セレナは指をひとつ折った。
「名前のない女は、夜に戸を破って終わりですのよ。誰も騒ぎませんし、国も動きません。……ですけれど、公国じゅうの街に名前が貼り出された女は違いますわ」
「そうだな」
「その女に何かございましたら、そのときはもう必ず国の話になりますでしょう? 鐘が十二打鳴る婚礼の、名前を知られたお相手ですもの」
「……危ないのは変わらん」
「変わりませんわね」
セレナは、あっさり認めた。
「変わりませんけれど、隠れて危ないのと名乗って危ないのとではずいぶん違いますのよ。隠れておりますと、こちらは何も手が打てませんわ。名乗ってしまえば、向こうが手を選ばなくてはいけなくなりますの」
ジェラルドは、その顔から目を逸らさなかった。逸らさないまま、指で卓を一度だけ叩いた。
それから、次第書を引き寄せて、頁の余白に短く何かを書いた。書いてから、羽根を置いた。
「明日、ロタールに直させる」
「ありがとう存じます」
「……お前は、いつもそうだ」
「あら。どういう意味ですの」
「褒めた」
「ずいぶん短い褒め言葉ですこと」
「長いのは苦手だ」
「存じておりますわ」
二日のあと、公都の広場に触れが立った。
夕方だった。市が引けたあとの広場に人が集まりはじめて、公館の書役が台の上に登った。パン屋の女房が前列を取り、荷馬車の男たちが車輪を止め、子供が大人の脚のあいだにもぐり込んでいく。
セレナは、人垣のいちばん後ろに立っていた。頭巾をかぶっている。リタが「絶対かぶってください」と言って聞かなかったからだ。
「触れである!」
書役の声が、石壁に跳ね返った。
「ジェラルド様、ならびに薬師セレナ。両名の婚礼の儀は来月の――」
家の名は、読まれなかった。
次第書の欄が空いていたのだから、読めるはずもない。それでも、公家の婚礼で家名を読まない触れなど聞いたことがない。書役は当たり前の顔で先へ進んでいく。
そこから先は、聞こえなかった。
広場が、いちどにざわめいたからだ。
「薬師?」
「薬師って言ったぞ、いま」
「セレナって、あの先生じゃないのか。下町の」
「うちの子の熱、あの人が診てくれた」
「ヨナス爺さんのとこもだ。肝が悪いって当てられて、それで薬もらって」
「マレナ様の屋敷にも来たろう。あれで生きたって話だ」
声が、あっちからこっちへ渡っていく。書役が二度も咳払いをして、それでも収まらなかった。
「セレナ様」
隣で、リタの声が濡れていた。
「あの人たち、セレナ様の名前、ちゃんと知ってました」
「そうね」
「知ってましたよ。ぜんぶ」
「ええ」
「あたし、なんで泣いてるんでしょう」
「わたくしにも分かりませんわ。診て差し上げましょうか」
「診なくていいです!」
リタは頭巾の端で顔を拭って、それからセレナの袖を握った。握ったまま、書役の声のほうへ向き直る。
セレナは、人垣の後ろから聞いていた。
七年、名前を呼ばれたことがなかった。王宮の廊下では「薬師」で、書類の上では「王太子付き」で、社交の場では「フェアミル家の」だった。あの朝、七年ぶんを「誰でもできる」と言われた日にも、自分の名前は誰の口にも上らなかった。
それが、いま。石畳の上で、知らない人たちの口から、次から次へ出てくる。
(……あら。案外、恥ずかしいものですのね)
頭巾の下で、耳が熱かった。セレナは軽く咳をして、それから、まっすぐ台の上を見た。
この触れは、公国じゅうの街に立つ。公都の門にも、宿場にも、東の石橋の普請場にも。
川向こうの、安い木賃宿の壁にも。
あの二人は今日のうちにこれを読むだろう。読んで、写して、封をして、便に載せる。三日あれば、その封は海を渡って宰相府の卓に届く。
そうしてあの方は、探していた女の名前を、公国の触れの文面で知ることになる。
怖くないと言えば、嘘になる。膝の裏のあたりが、さっきから少し冷たい。
それでも、隠れて震えているよりはいい。隠れているうちは、こちらから何ひとつ差し出せない。
セレナは、人垣の後ろで小さく息を吸った。
「……どうぞ、お読みくださいまし」
その声は、袖を握っているリタにも届かないほど小さかった。




