第15話: 覚え書きが鍵
世の中には、書いた本人にも読めない文章がある。
昔の自分が書いたものだ。字は間違いなく自分の字で、日付も自分がつけた。それなのに、何を言いたいのかがまるで分からない。
セレナの七年分の覚え書きは、そういう文章の宝庫だった。
そして、いま。その読めない文章が、二つの国のあいだでいちばん値のつくものになっている。
あの会談から、五日。婚約破棄の日から数えれば、二月あまり。カルディアの公都には、エルデンから来た男が二人だけ残って、若い女の薬師を探して薬種屋を一軒ずつ当たっている。
その男たちの探し物は、彼女の頭ではなく紙のほうらしい――と、セレナが見当をつけたのは昨夜のことだ。それから今朝まで、彼女はほとんど眠っていない。
戸が開いたのは、朝の日が窓枠の下まで下りてきたころだった。
「セレナ様。おはようございま――」
リタは言い終わらなかった。卓の上を見て、それからセレナの顔を見た。
「……その顔、寝てませんね」
「あら。ちゃんと横になりましたわよ」
「何刻に?」
「たしか、鳥が鳴きはじめたあたり」
「それ、朝です!」
リタは籠を卓の端に置き、燃え尽きた蝋の残りを指でつまみ上げた。四本目だった。
「灯りを四本も使って、何をしてたんですか」
「読書ですわ」
「読書」
「ええ。とびきり面白くない本を」
セレナは首をまわして、こきりと鳴らした。棚の上でコハクが片目だけ開け、また閉じる。夜のあいだ、この子だけは律儀に付き合ってくれた。付き合うといっても、ずっと寝ていたけれど。
リタが籠の布をめくると、白い湯気が立った。
「パン、焼き立てです。あと、豆のスープ」
「まあ。リタ、あなた本当にいい人ですこと」
「食べながら聞きますから、何を読んでたか話してください」
セレナは笑って、パンをちぎった。指先が思ったより冷えていて、湯気があたたかかった。
「わたくしの、覚え書きですわ。七年分の」
「あの、探されてる帳面ですか」
「探されているのがこちらだとすれば、そうですわね」
リタはスープの椀を差し出しながら、少し口をとがらせた。
「あたし、ずっと思ってたんですけど」
「はい」
「セレナ様、全部頭に入ってるんでしょう? だったらその紙、燃やしちゃえばいいじゃないですか。無くなれば誰も取りに来ませんよ」
セレナは息を吸いかけて、そのまま吸うのをやめた。
パンを口へ運ぶ手も、宙で置きどころを失っている。リタが「あ、変なこと言いました?」と首を縮めた。
「いいえ。……リタ、それはとても賢いお話ですわ」
「でしょう?」
「ですけれど、できませんの」
セレナはパンを口に入れ、ゆっくり噛んでから続けた。
「頭に居つきますのは、意味の分かったことばかりですのよ。分からなかったものは書いたその晩を最後に、どこかへ行ってしまいますの」
「……えっと。つまり?」
「七年のあいだ、わたくしは分からないことも全部書きましたの。その日のお顔の色も匙の量もご様子も。意味が取れないものも、取れないまま並べておきましたわ」
「意味が分からないのに、書くんですか」
「師匠がそうしろとおっしゃったのよ」
黒い匙と、しわの寄った手を思い出す。あの人はいつも、褒めもせず叱りもせず、ただ短く言った。
――書け。毎晩、書け。才なんぞより、書いたものが、いつかお前を助ける。
「で、助かったんですか」
リタが真面目な顔で訊いた。セレナはスープをひとくち飲んで、椀を置いた。
「今日、助かるかどうかというところですわね」
リタが薬草の買い出しに出ていくと、調薬室は急に静かになった。
セレナは椀と皿を隅へ寄せ、卓の上を空けた。そこに、油紙から出した一冊を置く。
本物の帳面は、王宮の調薬室の引き出しに残してある。あの日は、抱えて逃げようとも思わなかった。七年ぶんは残らず頭にあるのだから、置いていっても損はしない――そう踏んでいた。
この一冊は、カルディアに来てから書き直したものだ。癖のようなもので、筆を持たずに寝るとどこか落ち着かない。
その癖が、七年ぶんを紙の上に呼び戻していた。
まず彼女がしたのは、頁をめくって数を拾うことだった。
あの方の毎朝のひと匙には、白い粉が入る。名前は師匠から聞いていない。ただ「これを毎朝、必ず」と渡された。
七年前の秋の記述には、こうある。あの黒い匙を初めて渡された年だ。
――白き粉、麦粒ほど二つ。
四年目の春を開く。
――白き粉、麦粒ほど三つ。
最後の春。彼女が王宮にいた、いちばん新しい春。
――白き粉、麦粒ほど四つと半。
セレナは頁のあいだに指を挟んだまま、おなじ行をもう一度読んだ。
増えている。
しかも、増やしたのは自分である。年に一度か二度、あの方の顔色と脈を見て、ほんのわずかずつ足した。足したときは必ず書いた。今日から麦粒の半分だけ増やす、と。
減らした記述は、七年で二度きりだった。
一度目は五年前の冬。セレナが高い熱を出して三日寝込み、量りを年下の見習いに任せたときだ。その三日ぶんは、あとで聞き取って書いた。控えの量に落ちていた。
二度目は三年前の春。粉が足りず、次の荷が着くまでの四日をやむなく落とした。
その二つを、彼女は頁をめくって並べた。
減らした翌朝の記述は、こうだ。
――殿下、朝より胸の高鳴りを訴えらる。喉の渇き。口中に苦み。指先の震え。風邪の前ぶれか。
三年前のほうは、こう。
――殿下、朝より胸の高鳴り。喉の渇き。口の中が苦いと。指の震え。夜更かしのお疲れか。
書いた本人が、二度とも取り違えている。一度目は風邪、二度目は夜更かし。
症状は、同じだった。順番まで同じだった。そして二度とも、匙を落とした翌朝に出ている。
セレナは背筋を伸ばして、天井のほうを見た。
(……ああ。そういうことでしたのね)
胸の高鳴り。喉の渇き。口の苦み。指の震え。
それは、いまエルデンで起きていることの、ずっと小さな形だ。ベルガー卿が語り、特使が海を渡ってまで頭を下げに来たあの衰弱の、たった四日ぶんの雛形。
あの一服は、あの方の体を良くしていたのではない。
良くしていたのなら、七年で量が減っていくはずだった。悪いところが治まれば、薬は減る。それが薬というものだ。減らずに増え続けるものは、治しているのではない。
切らさないためのものだった。切れば、こうなる。だから毎朝、一日も欠かさず、量を守って渡し続けた。
「……治すための、お薬ではなかった」
声に出してみると、令嬢らしい飾りがひとつも乗らなかった。
七年、毎朝。彼女はそれを、体を養う薬だと思って淹れていた。誰もそうでないとは言わなかった。訊いても答えは返らなかった。
十四の秋のことだ。
薬師団の下働きに入って半年ばかり経った日、師匠のハイルが彼女を奥の棚へ呼んだ。柄の短い黒い匙を渡され、白い粉の壺の蓋を開けてみせられた。
「これは毎朝、必ずだ。一日も欠かすな」
「どなたの、お薬ですか」
「言えん」
「……何のお薬ですか」
「それも言えん」
ハイルは壺の蓋を閉め、それから、めずらしく手を止めた。
「わしにも、教えられておらん」
あの人はそういう嘘をつく人ではなかった。だから本当だったのだろう。国に二人といない腕を持った先代の宮廷薬師が、自分の量る粉が何かを知らないまま、生涯それを量っていた。
十六の春、ハイルは死んだ。看取ったのはセレナひとりだった。
その席を継いだ日の夕方、調薬室に人が来た。ひとりだった。侍従も供も連れず、静かに入ってきて、棚の前で足を止めた。
「あなたが、後の者ですか」
宰相ヴァルター・ゲーレン。当時から白いものの多い髪をきれいに整えて、声を荒げたところを誰も見たことがない人だった。彼はセレナの名を訊かなかった。
「はい。セレナ・フェアミルと申します」
「切らしてはなりません」
それだけ言って、彼は出ていった。
なぜとは言わなかった。何のためとも言わなかった。ただ、切らすな、と。
そして黒い匙を受けてから七年めの春、切らせたのは彼女ではなかった。
セレナは頁を戻して、いちばん最初の一枚をひらいた。十四のころの字は、線が硬くて、はらいが縮んでいる。
(……ここまでは、分かりましたわ)
あの一服が何をしていたか。それは分かった。
分からないのは、その先だ。
なぜ、あの方の体はそうなっていたのか。生まれつきなのか、途中で何かがあったのか。王家の血を引く方はみなそうなのか、あの方ひとりの話なのか。
頁をめくった。めくって、また戻して、めくった。
どこにも書いていない。
書いてあるはずがなかった。この一冊にあるのは、彼女が見たものだけだ。彼女は毎朝、脈を診て顔色を見て匙を量った。それより奥は、調薬室の戸の外だ。
「……分かりましたのは、あの一服が何をしていたか」
誰もいない部屋で、セレナは指を折るように言った。
「分かりませんのは、なぜそれが要ったのか」
棚の上のコハクが、眠たげに尻尾を動かした。
昼を過ぎて、戸が鳴った。
「先生! 生きてますー?」
テオだった。今日は荷を両手にぶら下げている。昨日手ぶらで来たときとは、まるで顔つきが違う。
「あら、テオさん。ずいぶんご機嫌ですのね」
「機嫌はいいですよ。仕事が進んだんで」
彼は包みを卓に並べた。塩漬けの魚と、干し杏と、小さな蜜蝋の塊。
「で、川向こうの二人ですけどね」
テオは板張りに腰を下ろし、あぐらをかいた。
「買い物が増えました」
「何をお買いに?」
「紙と墨、封蝋です」
セレナは薬研を引きながら、目だけを上げた。
「まあ」
「先生の言い方を借りますとね。紙と墨と封蝋を買うやつは、書くやつです。しかも、封をして人に出すやつだ」
「ええ」
「で、飛脚の若いのに聞きました。あそこの二人、三日に一度きっちり便を出してます」
テオは指を立てた。
「宛て名は、エルデン。宰相府」
薬研の石が、セレナの手の下でことりと横に倒れた。
彼女はそれを起こさなかった。石に手をのせたまま、しばらく卓の木目を見ていた。
「……テオさん。よくそこまで拾ってくださいましたわね」
「もうひとつあります。年上のほうの右手、中指の関節に硬い節がありました。筆胼胝です。あれは剣を握る手じゃない。役所で紙を握ってきた手ですよ」
「書役ですわね」
「たぶん。それも、そこそこ上の」
テオは干し杏の袋に手を突っこんでひとつ齧り、それから、めずらしく声を落とした。
「あいつら、探してるってより報せてるんです。どこをどこまで潰したかを、いちいち。……上のやつが、よほど急かしてる」
セレナは薬研から手を離し、卓に両手をついた。
符牒が、勝手に一列に並んでいく。
五日前、あの卓に上がった金色の一杯は、いつもの贈答役を通らず、宰相府から封をしたまままっすぐ届いた。テオが港と宿場を歩いて掴んできた話だ。そして今、この街から宰相府へ、封をした便が三日ごとに帰っている。
封をして出て、封をして戻る。同じ手だ。
それに、あの一杯を組める人間の数は、そもそも限られていた。あの金色は、口にする相手によって薬にも毒にも化けた。そういう仕掛けを組めるのは、王家の体の内側を知り抜いた、ほんの数人にかぎられる。
――切らしてはなりません。
白いものの多い髪と、荒げたことのない声。名も訊かずに出ていったあの背中を、セレナは今でも覚えている。
「先生?」
「テオさん」
「はい」
「わたくしに、切らすなとおっしゃった方がおりますの」
「何を」
「あの方の、毎朝のお薬を」
セレナは顔を上げた。
「エルデンの宰相閣下ですわ。ヴァルター・ゲーレン様」
干し杏を噛む音が、途切れた。
「……宰相って。あれでしょう、エルデンで王様の次に偉い」
「王様よりお忙しい方ですわね」
「その爺さんが、うちの街に人を出してるってことですか」
「そう考えるほうが、辻褄が合いますの」
テオは杏を飲み込んで、後ろ手をついた。天井を見上げて、長く息を吐く。
「うわ。話が急に大きくなりましたね」
「ええ。わたくしも、そう思っておりますわ」
「でも、変じゃないですか」テオが体を起こした。「あんな偉いのが、なんで紙なんです。先生を攫って喋らせるほうが早いでしょう。……あ、いや、変なこと言いました」
「いいえ。それ、いちばん大事なところですわ」
セレナは薬棚の奥へ目を向けた。乾いたトリカブトの束の裏に押し込んでいたものが、昨夜から卓の上に出たままになっている。
「わたくしの頭の中にあるものは、誰にもお見せできませんの」
「まあ、そうですね」
「見せたとしても、追放された女がひとりで喋っているだけですわ。誰が信じてくださるかしら」
「……信じませんね。俺でも疑います」
「でも、七年分の日付が入った紙は違いますのよ」
テオの目が、すっと細くなった。この男は軽薄な顔をして、話の芯を掴むのが早い。
「証拠になる」
「ええ」
セレナは静かに言った。
「この世に一つきりの、証ですわ」
しばらく、誰も何も言わなかった。窓の外で荷馬車が石畳を鳴らして通り過ぎ、その音が遠くなった。
「じゃあ」
テオが、板張りを指で叩いた。
「渡しちゃえば終わりですね。紙を持ってけって。先生の頭は誰も信じないんだから、紙が無くなればあいつらの用は済む」
「……そうですと、よろしいのですけれど」
セレナの声から、飾りが落ちた。
テオが、顔を上げた。
「先生」
「なんでもございませんわ」
「なんでもない顔じゃなかったですよ、いま」
「あら。テオさんは人の顔ばかり見ていらっしゃるのね。わたくしの商売ですのに」
セレナは笑ってみせた。笑ってみせながら、口に出さなかったことを胸の内に置いておく。
紙だけが欲しいのなら、紙を手に入れたあと、その紙を書いた者が生きて喋っていては困る。それは薬学の話ではなく、ただの算段だ。誰にでもできる算段だから、あちらもきっと済ませている。
言えば、リタが泣く。テオも困った顔をするだろう。だから、いま言うことではない。
「テオさん。もうひとつだけ、こちらから訊かせてくださいまし」
「どうぞ」
「わたくし、ひとつ分からないことがございますの」
セレナは卓の一冊に手をのせた。
「王宮を出るとき、本物の帳面は引き出しに置いてまいりましたのよ。中身は頭にございましたし、抱えて逃げるほどのものとも思いませんでしたから」
「え。置いてきたんですか」
「置いてきましたわ。鍵もかけておりません」
「……じゃあ、本物はまだ王宮にあるってことでしょう」
「そうなりますわね」
セレナは指先で、頁の端をとんと叩いた。
「あちらの引き出しを開ければ済むお話を、なぜ海を渡ってまで」
テオが、うっと唸った。
「……たしかに。おかしいですね」
「ええ。おかしいのですよ」
「向こうで、なんかあったんですかね」
「たぶん、何かございましたのね」
セレナは息を吐いた。
「それが何かは、わたくしには分かりませんの」
そこから先は、海の向こうの話だった。彼女の目は届かない。届かないところを勝手に埋めて、当たった気になるのがいちばん危ない。師匠はそれを、いちばん強く叱った人だった。
「じゃあ、当たってきますよ」
テオが、あっさり立ち上がった。
「無理ですわ。船で三日、それから馬で三日ですのよ」
「行きませんよ、俺は。でも、エルデンから来た船の水夫は毎日この港に降りるんです。王宮の噂話くらい、酒に混ざって落ちてきます」
「……テオさん」
「なんです」
「あなた、ずいぶん頼りになりますこと」
テオはにやりとして、それから、わざとらしく肩を落とした。
「そこは駄賃を上げるところですけどねえ」
「あら。ではお魚を焼いて差し上げましょうか」
「それ、俺が持ってきたやつじゃないですか!」
海の向こうの、エルデンの王宮。
その朝、宰相府の前室で、ひとりの女が長椅子の端に腰を下ろしていた。
宮廷薬師イレーネ・ザイデルは、朝の鐘が鳴る前から待っていた。膝の上に、上申の書きつけを一枚のせている。二十番目の処方は三日で外れた。いま組みかけているのは二十一番目だ。
待つあいだに、書きつけの文面へ目を落とした。ひどく短い。
――殿下のお体について、宰相府が存じておられることを、すべてお示しいただきたい。
それだけだった。飾る言葉を思いつかなかったし、飾ったところで通るものでもないと思った。
昼近くになって、ヴァルターが前室を通り抜けようとして足を止めた。
「ザイデル。上申は読みました」
「では、お答えを」
「お断りします」
早かった。考えたそぶりすら見せなかった。
「理由を伺っても」
「私が存じていることは、あなたが存じる必要のないことです」
「必要はございます」
イレーネは立ち上がった。
「殿下のお体を預かっているのは、いまわたしです。閣下のお名前ではなく、わたしの名前で処方が出ております」
「そのとおりです」
「では」
「だから、あなたに預けたのです」
その一言の意味を、イレーネは半呼吸で理解した。
理解して、腹の底が冷えた。知らせないために任せたのだ。何も知らない者が組んだ処方なら、そこに何が書かれていようと、肝心なところは一行も紙に出てこない。自分の名前は、隠すための蓋だった。
「……よく分かりました」
「では」
「閣下」
行こうとした背に、イレーネは声をかけた。
「ひとつだけ。……あれは、治るご病気ですか」
ヴァルターの手が、戸口の枠にかかった。そのまま、少しのあいだ動かなかった。
答えは、返ってこなかった。老宰相は振り向きもせず、そのまま廊下へ出ていった。
イレーネは前室に立ったまま、上申の書きつけを二つに折った。それから四つに折って、袖に入れた。
(治らないのではない。治すつもりが、ないのだ)
薬師団の帳場に戻ると、若い書役が墨を磨っていた。イレーネは空いている卓の端を借りて、新しい紙の束を広げた。
書きはじめたのは、二十一番目ではなかった。
一番目から十九番目まで。何を、どれだけ、いつ出したか。どんなふうに効かなかったか。効かないどころか、何が起きたか。
この二月のあいだに外したものは、全部頭に入っている。だが頭の中にあるだけでは、次にこの席へ座る誰かが、同じ十九をもう一度なぞることになる。
「ザイデル様。それ、なんの帳面ですか」
書役が首を伸ばしてきた。
「外した薬の帳面」
「……そんなもの、つけるんですか」
「つけるのよ」
イレーネは顔を上げずに答えた。
「効いた薬より、効かなかった薬のほうがずっと数が多いの」
その日の夕方、セレナは公館へ出向いた。
いつもは向こうから来る。それがなんだか申し訳ないような、それでいて少し気楽なような、妙な心持ちで石段を上がった。
「ジェラルド様にお目にかかりたいのです」
取り次ぎの若い侍は、名を聞くと背筋を伸ばした。
「ただいま陛下の――」
言いかけて、口を閉じた。
「……少々、お待ちを」
(あら。またですわね)
セレナは廊下の壁の織物を眺めるふりをした。一介の使者が、公王陛下のところから呼ばれてくる。妙な話だ。妙な話はもう三つも四つも数えているけれど、今日は数えるだけにしておく。
通されたのは、日の暮れかかった小さな部屋だった。ジェラルドはすぐに来た。上着の襟が少し乱れていて、たぶん走ったのだろうと思った。
「どうした」
「あら。今日はわたくしからお訪ねしましたのに、そこから入りますのね」
「無駄口はあとだ」
「まあ。昨日と、そっくり同じ台詞ですわね」
セレナは椅子を勧められる前に、自分で腰を下ろした。
「抱えきれなくなったら、いちばんに。……そう申し上げましたでしょう」
ジェラルドの目の色が変わった。彼は卓を回り込んで、セレナの正面に腰を下ろした。
「……早いな」
「ええ。わたくしも、もう少し粘れると思っておりましたのよ」
セレナは膝の上で手を重ねた。
どこまで言えるか。歩きながら順番を決めてきた。言えるものは全部言う。言えないものは、言えないと言う。それが、彼女の思いつくかぎりで一番まっすぐな筋だった。
「探されているのは、わたくしの書いたものですわ。これは昨日申し上げましたわね」
「聞いた」
「探させていらっしゃるのが、どなたかも分かりましたの」
ジェラルドの眉が、片方だけ上がった。
「エルデンの宰相府ですわ。三日に一度、あの二人がそこへ便を出しております。……封蝋を買っておいででしたの」
ジェラルドはすぐには答えなかった。それから短く言った。
「あの酒と、同じ場所だな」
「はい」
「宰相が、直に動いているのか」
「そう考えるほかにございませんの」
セレナは、そこで息をひとつ置いた。
「ジェラルド様。ここから先に、申し上げられないことがございます」
言ってしまうと、思ったより喉が渇いた。
「あの紙に何が書いてあるのか。なぜ宰相閣下がそれを欲しがるのか。……わたくしには見当がついております。ですけれど、申し上げられませんの」
「言えんのか」
「言えませんわ」
「なぜ」
「わたくしが口にした瞬間に、それはあなたの荷物になりますでしょう」
セレナはまっすぐ彼を見た。
「わたくしひとりで抱えているうちは、危ないのはわたくしだけですのよ」
ジェラルドは、ゆっくりと背もたれに体を預けた。窓の外で、鳥がひと声鳴いた。
「……お前は、抱えきれなくなったら言うと約束したんだが」
「ええ。ですから、こうして参りましたの」
「言えないと言うために来たのか」
「はい」
セレナはうなずいた。
「言えないことがあるということだけは、お伝えしておこうと思いまして。……黙っているのと、言えないと申し上げるのとではずいぶん違うと思いましたのよ」
ジェラルドは腕を組んで、しばらく口をきかなかった。
叱られるかしら、とセレナは思った。無駄足を踏ませたと言われるかもしれない。
やがて、彼は言った。
「それでいい」
「……よろしいの?」
「言えることだけ言え。あとは俺が埋める」
セレナは口を開いて、それから、閉じた。
この人は、いつもこういう返し方をする。訊かないと言ったら訊かない。埋めると言ったら埋める。腕がどうとか家がどうとか、そのあたりを一度も量ろうとしない。
胸の奥が、ふいにあたたかくなって、少し困った。
「……ありがとう存じます」
「礼はいい。それより、紙だ」
ジェラルドは身を起こした。
「公館の金庫へ入れろ。あそこなら、戸を破られて終わりということはない」
「いえ。手元に置きますわ」
「なぜ」
「まだ、読み終わっておりませんの」
セレナは苦笑した。
「わたくしが書いたものですのに、半分も読めておりませんのよ。読めば読めるようになるものですから、そばに置いておかないと困りますの」
「読めば読めるようになるのか」
「なりますわ。……たぶん」
「たぶんか」
「たぶんですわね」
ジェラルドは呆れた顔をして、それから短く息をついた。
「……見張りを二人増やす。夜は、リタを泊まらせろ」
「あの子、寝相が悪いのですけれど」
「知らん」
セレナは笑った。笑って、そこでいちど手のひらを膝の上で握り直した。
言いに来たことが、もうひとつある。
「ジェラルド様」
「まだあるか」
「……縁談のお話を、もう一度きちんと伺いたく存じます」
腰を浮かせかけた形のまま、ジェラルドはセレナを見ていた。ずいぶん長いあいだ、そうしていた。
「……いま、か」
「ええ、いまですわ」
「お前は」
彼は一度言葉を切って、それから座り直した。声が、少し低くなった。
「先に理屈を言ってみろ」
「はい」
セレナはうなずいた。ここは、ごまかしても仕方のないところだ。
「追放された流れ者の薬師が持っている紙は、いくらでも取れますの。夜に戸を破って、それでおしまいですわ。誰も騒ぎません。国も動きません」
「……そうだな」
「ですけれど、カルディアの家に入った女なら話が違いますわ。その持ち物を取るのは、国が国に手を出すことになりますでしょう?」
言いながら、自分の声がずいぶん平らなことに気がついた。
「わたくしの立場が薄いままだと、この一冊は守れませんの。守れないものを抱えて座っているのは、ただの怠けですわ」
ジェラルドは長いあいだ黙っていた。それから、低くぼそりと言った。
「……身を守るために、俺と婚礼を挙げると言うのか」
「そう聞こえますでしょうね」
「聞こえるな」
「ふふ。ずいぶん失礼な女ですこと」
セレナは笑った。笑ったのに、二つ目の音が出てこなかった。
出てこなかったことに、自分でも驚いた。理屈は通っている。通っているのに、口にした自分の言葉が、なんだかひどく寒い。
「……いえ。ごめんなさい」
「なんだ」
「いま申し上げたことは、たぶんいちばん大事なところではございませんの」
セレナは膝の上の手を見た。
「わたくし、あなたと手を組むと決めたときにはこんな理屈を一つも考えておりませんでしたのよ。もっと違うことを考えておりましたわ。……ですけれど、そのいちばん大事なところがまだ自分でも上手に言えませんの」
部屋が静かになった。
ジェラルドは彼女の顔を見ていた。それから、卓の上に軽く手を置いた。
「なら、上手に言えるようになってから言え」
「……はい」
「縁談は、逃げん」
言ってから、彼はさっと立ち上がって窓の掛け金を確かめに行った。確かめる必要のない掛け金だった。
その耳のあたりが、夕日のせいではない色をしている。
セレナは、見なかったことにした。見なかったことにして、自分の頬も同じくらい熱いことに気づいて、そちらも見なかったことにした。
調薬室に帰ると、リタが本当に泊まる支度をして待っていた。上機嫌で、鍋を二つも持ち込んでいた。
その鍋を平らげ、リタが奥の板間で早々に寝息を立てはじめてから、セレナは燭台をひとつ卓に残した。
七年前の頁を、もう一度ひらく。
――白き粉、麦粒ほど二つ。
十四の自分の字だ。線が硬くて、はらいが震えている。どなたに差し上げるものかも聞かされないまま、朝いちばんに黒い匙を握って、この一行を書いた。
この子は、何も知らなかった。
知らないまま七年、毎朝、切らさずに続けた。そのおかげで海の向こうの誰かの朝が来ていて、そのことを誰も知らなかった。
セレナは筆を取った。
そして、十四の自分が書いた行の余白に、いまの字で一行書き足した。
――これは、治すためのお薬ではありません。
書いてから、日付を入れた。
十四の自分がこれを読むことは、絶対にない。読むはずのないものに返事を書くのは、ずいぶん間の抜けたおこないだった。
それでも書いた。書いておけば、いつか誰かが読むからだ。師匠がそう言った。分からないまま書け、と。あの人は、七年後の彼女がこの卓でこうしていることまで見越していたわけではないだろう。ただ、書けと言った。
「……先生。あなた、本当に人が悪いこと」
セレナは筆を置いて、大きく伸びをした。
書いてしまうと、急に腹が減った。
棚の上に、リタが残していったパンが半分ある。手を伸ばしてちぎり、片方を口に入れて、もう片方を棚の縁に置いた。
琥珀色が、寝たふりをやめて起き上がった。
「あなた、狸寝入りがお上手ですこと」
コハクは答えず、パンをくわえて棚の奥へ引っこんだ。
読み残しは、あと五年分ある。
セレナはパンの残りを口へ押し込み、指を舐めてから、筆を持ち直した。




