第14話: 効かぬ祈り
祈りは、よく効く薬である。
ただし効くのは、たいてい祈っているほうの心にだ。祈られている側の体には、なんの約束もしてくれない。
エルデンの王宮でも、そろそろ誰もがそのことに気づきはじめていた。
あの婚約破棄の日から、そろそろ二月になろうとしている。
王太子アロイスは、その朝も、目が覚めるより先に胸を叩き起こされた。
内側から拳で殴られるような動悸だった。喉が渇き、口の中に苦い味が広がる。指の先が、自分のものでないみたいに細かく震えはじめる。順番はいつも同じで、そのくせ日ごとに重くなっていく。
寝台の縁へ手を伸ばした。手はかかった。体は、ついてこなかった。
自分の力で起きられなくなって、もうひと月になる。それは、いまさら驚くことではない。
「殿下」
控えていた侍従が二人がかりで背に手を回した。抱え起こされ、枕を重ねられて、ようやく座った形になる。
その形が、保たなかった。
重ねた枕から背が滑って、体が右へ傾いていく。侍従があわてて肩へ手を添え直した。添えられているあいだだけ、人の形でいられる。手が離れれば、また傾く。
昨日の朝は、まだ違った。座らせてもらいさえすれば、支度が済むくらいは自分で座っていられた。
(……座っているだけのことに、人の手が要るのか)
二十三の男が、幼子のように人の手で座らされている。
枕元では、ミレーヌが今日も祈っていた。
胸の前で手を組み、目を閉じ、聞き取れないほど小さな声で言葉を繰り返している。もう何日、この光景を見ているだろう。
「ミレーヌ」
「なんでございましょう、殿下」
「その祈りは、いつ効く」
ミレーヌの唇が、止まった。
「……祈りは、お薬のように飲んですぐというものではございませんわ。神様のなさることには時というものがございますの」
「二月だ」
「殿下」
「お前の祈りを二月聞いた。私は、日に日に悪くなっている」
ミレーヌの喉が、こくりと動いた。
「あの薬屋あがりの女が、殿下のお体に毒を残していったのですわ。根が深うございますから、抜けきるまでには時がかかりますのよ」
「その毒とやらは、いつまで残る」
答えは、なかった。
ミレーヌの目が、アロイスの顔から逃げた。枕の縁へ落ちて、それから窓のほうへ流れる。祈りの言葉ならいくらでも出てくる口が、いまはひとつも音を出さない。
アロイスは、それを見た。
(……本当は、聞きたくなかったのかもしれん)
見てしまって、今日はもう、見なかったことにできなかった。
扉が開いたのは、そのときだった。
入ってきたのは、髪をきつく後ろでまとめた女だった。宮廷薬師のイレーネ・ザイデル。セレナが去ったあと何人か替わって、いまは彼女が王太子付きの席に座っている。歳はセレナと変わらない。笑いもしなければ、挨拶も短い。
「殿下。脈を」
返事も待たずに手首を取る。
「いま、わたくしが祈っておりますのに」
ミレーヌが咎めるように言った。イレーネは顔も上げなかった。
「祈りと脈は、同時にできます」
ミレーヌの頬が、かっと赤くなる。イレーネはもう聞いていない。指の腹で脈を数え、まぶたを押し上げて黒目を見て、爪の生え際を確かめる。手つきに迷いはなかった。ただ、そこに温かみもなかった。
「……ザイデル」
アロイスは、乾いた喉で言った。
「治せるのか」
イレーネは、数え終わってから手を離した。
「いいえ」
あまりにあっさりしていて、アロイスは言葉を失った。
「殿下には、ふつうのお薬が効きません。効かないというより、効き方が違うのです。わたしは十九の処方を試して十九とも外しました。今夜、二十番目を組みます。それだけです」
「治せぬと言いながら、薬をつくるのか」
「治せると申し上げるほうが罪でしょう」
その一言は、まっすぐミレーヌの背中に刺さった。白い背中が、すっと伸びた。
アロイスは怒鳴りたかった。無礼者、と。だが腹に力が入らなかった。怒鳴るという行いにも体力が要るのだと、この二月ではじめて知った。
イレーネは短く礼をして、さっさと出ていった。
扉が閉まると、ミレーヌが小さく笑った。
「まあ、恐ろしい方。あんなふうに殿下を脅かすなんて」
「脅かしたか」
「ええ。治せないだなんて、口にしてよいことではございませんわ。……大丈夫でございますよ、殿下。わたくしがおりますもの」
ミレーヌは掛布の襟を直し、そのまま指先で彼の額の髪を払った。その仕草だけは、いつもどおり滑らかだった。
「ミレーヌ」
「はい」
「あの女は、十九試したと言った」
「……はい?」
「お前は、何を試した」
ミレーヌの笑みが、貼りついたまま動かなくなった。
アロイスは答えを待たなかった。待つほどの気力もなかったし、待たなくても分かる気がした。
昼を過ぎたころ、宰相ヴァルターが来た。
「明後日の叙任式ですが、お控えください」
「……三度目だぞ」
「四度目でございます」
訂正の仕方が、いかにもこの男らしかった。
「私が出ぬままでは、宮廷が何と言うか」
「もう申しております」
ヴァルターは、言葉を飾らなかった。
「殿下は長くない、と。弟宮をお立てすべきだ、と。廊下でも厨でも、そう申しております」
アロイスの指が、掛布を握った。握ったつもりで、ろくに力が入っていない。
「宰相」
「は」
「私は、何の病だ」
「病では、ございません」
「では何だ! 医者どもも同じことを言う。病ではない、病ではないと。では、これは何なのだ」
ヴァルターは答えなかった。ただ、ほんの少し目を伏せた。
それは、知らない者の顔ではなかった。知っていて、言わないと決めた者の顔だった。
アロイスは、それ以上問えなかった。問えば、もっと恐ろしいものが出てくる気がした。
――三日前の夜のことだ。
侍従に肩を借りて寝台を降り、廊下でみなを下がらせた。あとは壁を伝って、アロイスはひとりで王宮の調薬室まで歩いた。階段のなかほどで二度、足を止めた。
棚には薬草が並んでいた。名札は読めた。だが、どれをどれだけ、どういう順で合わせるのかは、まるで分からなかった。
手当たりしだいに乳鉢へ放り込み、薬研を引いた。石の車が思うように転がらない。手もとが定まらず、粉が卓の上にこぼれた。
できあがったものを湯に溶いて飲んだ。土の味がした。飲んですぐ胃が跳ね上がって、全部戻した。
卓の縁にすがったまま、アロイスは笑ってしまった。笑いながら、涙が出た。
――明日の朝は、ぜひご自分で淹れてごらんになって。
あの女は、あの日そう言って笑った。恨みがましさなど、ひとかけらもない笑い方だった。
あれは、呪いでも脅しでもなかった。ただの事実を、まっすぐ置いていっただけだったのだ。
(誰が。……誰が、私の朝を、つくっていた)
乳鉢は、その夜、床に落ちて縁が欠けた。誰にも言っていない。侍従には猫が入ったと言った。
欠けた乳鉢のことを、アロイスは今朝も思い出している。
三日前は、まだ壁を伝って歩けた。今朝はもう、座らせてもらった形すら保てない。落ちていく速さのほうが、恐ろしかった。
枕元では、ミレーヌがまた祈りをはじめていた。伏せたまぶたの縁が、小さく引きつっている。
アロイスは、今度はそれを見なかった。
同じ日の、夜更け。
宮廷の調薬室には、灯りがひとつだけ残っていた。
イレーネ・ザイデルは天秤の前に座っている。分銅を乗せ、匙で粉を量り、書きつける。乗せて、量って、書く。もう何刻そうしているのか、自分でも分からなかった。
卓の端に、書き潰した紙が積み上がっている。二十番目の処方だ。
彼女は、無能ではなかった。
平民の生まれで、後ろ盾はひとつもない。それでも十四で薬師団の下働きに入り、七年かけて宮廷薬師の席まで這い上がった。古い医書は原文で読める。毒草は百を超えて見分けられる。腕を問われれば、薬師団の中で上から数えたほうが早い。
なのに、届かない。
王太子の体は、ふつうの物差しで測れなかった。
熱を鎮める薬を出せば脈が乱れる。心の臓を落ち着ける薬を出せば今度は眠れなくなる。まるで、体のどこかに一枚だけ余計な板が挟まっているようだった。その板が何なのかが、どうしても分からない。
(誰かが、この方の体の仕組みを知っている)
知っていて、その仕組みに合わせて毎朝、匙の加減を変えていた者がいた。
その者が誰かも、イレーネには分かっていた。
立ち上がって、部屋の隅の古い薬棚へ行く。いちばん下の引き出し。前の主が使っていたところだ。
引き出しは、空だった。
この二月で、もう十度は開けている。開けるたびに空で、それでもまた開けてしまう。
背後で戸が鳴った。
「ザイデル様。まだ起きていらしたんですか」
見習いの娘が、湯の桶を抱えて立っていた。
「置いて、下がりなさい」
「はい。……あの、ひとつ伺ってもいいですか」
「なに」
「前の先生の帳面、ほんとうにもう無いんですか。皆で探してるって聞きました」
イレーネの手が止まった。
「誰が探しているの」
「宰相府のお使いの方です。三日前にも来て、書庫をひっくり返していきました」
イレーネはしばらく黙ってから、桶を受け取った。
「……あれは、焼かれたわ」
「え」
「あの方が出ていった日の夕方に、聖女様が命じたの。あの女の残したものは不浄だから浄めよ、と。薬師団の炉で、まとめて」
見習いが、ぽかんと口を開けた。
「そんな。だって、七年分って」
「そう。七年分」
「……あの。ザイデル様は、前の先生とお親しかったんですか」
「いいえ」
「でも、同じ薬師団に七年も」
「同じ薬師団にいたって、話したことがなければ知らないでしょう」
見習いの唇が、半分だけ開いて止まった。何か言おうとして、言葉が見つからなかったらしい。それきり深く頭を下げて、逃げるように出ていく。戸の閉まる音が、いつもより大きく響いた。
イレーネは、その火を見ていた。
止めればよかったのだ。止めなかった。あの日、彼女は自分に言い訳をした。聖女様のご命令だから。自分が口を出す筋合いではないから。
――本当は、少しだけ、いい気味だと思った。
伯爵令嬢で、王太子の婚約者で、誰からも「セレナ様」と呼ばれていた女。同じ草を同じだけ知っていても、名前を呼ばれるのはいつもあちらだった。
三年前、ある侯爵夫人の長びく頭痛に薬を組んだのは、イレーネだ。三日で治まった。翌朝、夫人づきの侍女が礼を言いに調薬室へ来て、深々と頭を下げてこう言った。
「フェアミル様に、よしなにお伝えくださいまし」
イレーネは、はい、とだけ答えた。訂正はしなかった。しても、どうにもならないと分かっていた。
その女の七年が、赤い口の中でぱらぱらと崩れていく。あの夕方、イレーネは炉の前でそれを眺めながら、胸のどこかがすっとした。
二月経って、その灰の値打ちを、彼女は毎晩ひとりで思い知っている。
戸口に、足音がした。
振り向くと、宰相ヴァルターが立っていた。夜着ではない。まだ執務の格好のままだ。
「遅くまで、ご苦労です」
「……宰相閣下」
「明日づけで、殿下のお体のこと一切をあなたに任せます」
イレーネの指から、分銅がことりと落ちた。
「一切、と申しますと」
「処方も日々の記録も侍医への指図も、すべてあなたの名で出しなさい」
それは昇格だった。宮廷薬師にとって、これ以上ない席だ。
だが、イレーネは笑わなかった。
「閣下。わたしは十九、外しました」
「知っています」
「二十番目も、たぶん外します」
「でしょうな」
あまりに返事が速くて、イレーネは顔を上げた。
老宰相は、灯りの外に立ったままだった。表情はよく見えない。
「……わたしは代わりで構いません。代わりにすらなれないと、困るのはそちらでしょう」
ヴァルターは、否定しなかった。
「あなたの名で出す、というのはそういうことです。うまくいかなかったとき、誰かの名前が要る」
言い方に、ごまかしがなかった。それがかえって、たちが悪い。
「よく分かりました」
「恨んでくれてかまいません」
「恨みませんよ。仕事ですから」
ヴァルターは小さくうなずいて、それきり出ていった。
扉が閉まってから、イレーネはしばらく動かなかった。
それから、また分銅を乗せた。二十番目の処方の、続きだ。紙の隅に日付を書く。何刻に、何を、どれだけ。効いたか、効かなかったか。
誰も読まない記録だ。
(……わたしだって、書いていたのに。七年ぶん)
声には出さなかった。出したところで、この部屋には受け取る者がいない。
イレーネは灯りの芯を少しだけ伸ばし、匙を持ち直した。夜は、まだ長かった。
三日後の朝、宰相府に早馬が入った。
カルディアからだ。主席使者エルンスト卿の手による、封蝋の押された書状。ヴァルターは回廊の途中で受け取り、その場で封を切った。
書き出しは、いつもどおり丁重だった。丁重な文章というのは、たいてい悪い報せを包むためにある。
――友好の証は、卓に上がりませんでした。
ヴァルターの目が、その一行で止まった。
止めたのは、カルディア側の毒見役だという。若い女の薬師だ。
その娘は、毒だとはひと言も言わなかった。薬師の見立てとして、この品は土地の気候と公王家の方々のお体には障る、今宵は別の一杯を、と述べた。誰にも恥をかかせず、こちらの品だけを静かに卓から下ろした。
カルディアの重臣たちは、その言い分にそっくり従った。押し返す糸口がどこにもなかった、と卿は書いている。
(……見抜かれた)
あの一杯の裏を読める舌は、数えても片手で足りる。そしてその片手は、残らずこちらの宮廷の内側にあるはずだった。
書状は、続いていた。
――退がりぎわ、かの薬師はわたくしにだけ聞こえる声でこう申しました。よく効く薬ほど、扱いを違えれば毒と見分けがつかないもの。卿は、きっとよくご存じですわね、と。
――わたくしが、ずいぶん博識でいらっしゃると返しましたところ、娘はこう答えました。
――「七年、毎晩……舐めて覚えただけですわ」
ヴァルターは、書状を持つ手を下ろした。
回廊の石畳に、朝の光が斜めに落ちている。その光の帯を、老宰相はしばらく見ていた。
七年。
王太子の毎朝のひと匙を、下働きの小娘だったころから一日も欠かさず調えていた者がいる。その者が席を離れた日から、王家の朝が崩れた。
毎晩、舐めて覚えた。あれを舐めて覚えられる場所は、この世にひとつきりだ。
(……あの娘か)
消えた薬師と、カルディアの卓に着いていた女が、いま一本の線でつながった。
書状を持つ指から、力が抜けた。紙の端が、風もないのに小さく震えている。喉の奥で、笑いに似たものがひとつ鳴った。
自分の送った一杯が、自分の探していた娘を炙り出したのだ。これを間抜けと言わずに、なんと言えばいい。
執務室の前に、床へ膝をついて待っている者がいた。洗い直せと命じた者たちのひとりだ。
「ご報告に上がりました」
「帳面か」
「……ございませんでした」
「どこにも、か」
「調薬室の引き出しも薬師団の書庫もフェアミルの屋敷も当たりました。そのうえで、薬師団の下働きから聞き出しましてございます」
男は、言いにくそうに一度言葉を切った。
「あの娘が出ていった日の夕方に、聖女ミレーヌ様のご命令で炉にくべられたそうです。不浄な物を浄める、と」
ヴァルターは、何も言わなかった。
言葉が、すぐには出てこなかった。
代々この国が誰にも渡さずに抱えてきたものの、いちばん確かな控えが、一人の女の思いつきで灰になった。理由は、不浄だから。
――こういう者たちのために、私は嘘をつき続けているのか。
その考えを、ヴァルターは慣れた手つきで押し込めた。押し込めるのも、もう何十年になる。
「……閣下」
「聞こえています」
「いかがいたしましょう。聖女様に、お咎めを」
「咎めれば、灰が帳面に戻りますか」
「……いえ」
「では、捨て置きなさい」
男は返事に困ったような顔をして、それでも頭を下げた。
控えが消えたということは、残っているのはひとつきりだ。
あの娘の頭。
そしてその頭はいま、カルディアの卓の後ろにあって、こちらの手の内をひとつ読んでみせた。
扉に手をかけたところで、小さな足音に呼び止められた。
「宰相」
王女のエルザだった。八つになる。兄アロイスとは、ずいぶん歳が離れている。
朝の廊下は、高い窓から落ちる光で縞になっていた。その縞をひとつずつ踏んで、小さな靴が駆けてくる。侍女に手を引かれもせず、ひとりきりだ。息が上がっていた。
「お兄さまのお部屋、入れてもらえないの。うつるからって」
「うつる病では、ございませんよ」
「じゃあ、なんで」
ヴァルターは少し考えてから、膝を折った。この歳になると、しゃがむのもひと仕事だ。
「殿下はいま、お体を休めておいでです。にぎやかにすると、疲れてしまわれる」
「わたし、静かにできるもの」
「エルザ様は、いちばん静かにできないお方でございます」
「そんなことないもん」
王女はむくれて、それから思い出したように顔を上げた。
「……ねえ、宰相」
「はい」
「セレナは、どこへ行ったの」
ヴァルターの膝が、小さく軋んだ。
「わたし、まだお礼を言ってないの。苦いお薬に蜂蜜を入れてくれたのは、セレナだけだったのよ。お兄さまのお医者は入れてくれなかったもの」
「……遠くへ、参られました」
廊下の端を、朝の水を運ぶ桶の音が通り過ぎていく。それが聞こえなくなるまで、王女は待っていた。
「じゃあ、呼び戻して」
「エルザ様」
「だって宰相、なんでもできるでしょう」
子供の言うことだ。
ヴァルターはそれを頭では分かっていた。分かっていて、しばらく立ち上がれなかった。
この子には、まだ何も背負わせていない。宮廷の廊下でどんな噂が流れているかも、兄の体に何が起きているかも、この子は知らないままでいる。
知らないままでいさせたい。
そのためにいくつか嘘をつく。嘘の上に秩序が乗る。秩序の上に、この子の明日が乗る。
それでいい。ずっと、それでやってきた。
侍女がようやく追いついてきて、王女を連れていった。廊下の向こうで、叱られたエルザが笑い声を上げている。
ヴァルターは立ち上がり、待っていた男を振り返った。
「カルディアへ、人を出します」
「はっ」
「連れ戻すのではありません」
男が、顔を上げた。
「あの娘が持っているものを、こちらへ返してもらう。それだけです。……返してもらえぬときのことは、そのときに考えます」
自分の声が、ずいぶん平らに聞こえた。
執務室の扉を閉める。廊下の笑い声が、板一枚の向こうで小さくなった。
会談から、四日が過ぎた。
カルディアの調薬室には、朝から夏の日が斜めに差し込んでいた。窓辺に広げた乾かしかけの薬草が、日を受けて青くさい匂いを立てている。
「セレナ様、この壺はどこへ戻しますか」
「上から二段目の右の端ですわ。……あら、リタ。それ、ずいぶん軽くございません?」
「え。……あ、空です」
「まあ。どなたかが、蜂蜜をぜんぶ召し上がったのね」
棚の上のコハクが、聞こえないふりで顔を洗いはじめた。前足の先が、まだ蜂蜜で光っている。
「コハク! あなたね!」
リタが手を伸ばすより先に、琥珀色は棚の裏へするりと消えた。
「まったく、あの子ときたら。あとでお説教ですわ」
「セレナ様のお説教、ぜんぜん怖くないですもん」
「そんなことございませんわよ。わたくし、怒ると相当のものですのよ」
「見たことないです」
薬包を畳んでいたリタが、笑ったまま黙り込んだ。戸口に人影が立っていたからだ。
「テオさん」
テオだった。いつもの軽い調子で入ってくる。ただ、手ぶらだった。差し入れを抱えていないテオを見るのは、めずらしい。
「先生。ちょっといいですか」
「あら。今日はお駄賃のお話ではありませんの?」
「そっちは今度まとめてもらいます」
テオは戸を閉め、板張りに腰を下ろした。
「エルデンの一行、おとといの朝に発ちました」
「ええ。伺いましたわ」
「七人で来て、五人で帰ったんです」
セレナは、乳鉢に伸ばしかけた手を止めた。
「残った二人は宿を替えました。宿場から、川向こうの安い木賃宿へ。荷はもともとほとんど無かったそうです」
「……お買い物は、なさいまして?」
「そこですよ」
テオは指を一本立てた。
「まず、公都の地図を買いました。それから宿の女将に、この街の薬種屋を残らず書き出させてます。大きいのから小さいのまで、路地の店まで全部」
「まあ」
「あと、夜どおし灯りをともせる部屋にしてくれと。……ろうそくをひと月ぶんも買い込んでるそうです」
リタが、きょとんとした顔で二人を見比べた。
「あの……それの、どこがまずいんですか。お薬を探してるだけかもしれないじゃないですか」
「病人がいるなら、まず医者を探すのよ」
セレナは、静かに言った。
「お薬を探す方が、まずお医者を探さないというのはおかしいでしょう? それに、薬種屋を残らず書き出させる方は欲しいお薬が決まっていない方ですわ。決まっていないのに全部の店を知りたい。……つまり探しているのは、お薬ではありませんの」
「じゃあ、何を」
「人ですわね」
リタの顔から、みるみる血の気が引いた。
「言ったでしょ、リタちゃん。銭の使い道は白状なんです」テオが肩をすくめた。「あいつら、この街のどこかに薬師がいると思ってる。で、その薬師がどこの店に出入りしてるかを片っ端から潰して探すつもりです」
「セレナ様を、ですか」
「たぶん、名前までは掴んでませんよ。宿の女将にも『エルデンから来た若い女の薬師を知らないか』って、それだけ訊いたそうで」
セレナは指先で乳鉢の縁をなぞりながら、しばらく黙っていた。
驚きは、あまりなかった。
あの晩、自分で手渡したのだ。七年、毎晩、舐めて覚えただけですわ、と。あれは名乗ったのとほとんど変わらない。あの柔らかな笑みの人は、あれを一言一句たがえず持ち帰るだろうと、その場で分かっていた。
(それでも、言いたかったのですものね。……仕方ありませんわ)
胸のうちで、自分に小さく肩をすくめてみせる。悔いてはいなかった。悔いても指は動かないし、指が動かなければ薬はできない。
「セレナ様、逃げましょう! どこか遠くへ」
「あら。逃げませんわよ」
「でも」
「わたくし、この街で鑑札をいただいた薬師ですもの。明日も明後日も、お薬を待っている方がいらっしゃいますでしょう。二人ばかりの見張りのために、その方たちを放り出すわけには参りませんわ」
言いながら、セレナはようやく乳鉢を持ち上げた。
「それに、逃げたらいちばん困りますのはあちらですのよ」
「……どういうことですか」
「探し物が、逃げてしまいますもの」
テオが、口の端を持ち上げた。
「先生。あんた、やっぱりちょっと怖い人だ」
「あら。二度目ですわね、それ」
「一度目は、いつでしたっけ」
「エルデンの方たちのお買い物を見ていてほしいと、テオさんにお願いしたときですわ」
「ああ。あれか」テオは天井を仰いだ。「あの飴玉、俺まだ一個ぶんも働いてない気がするんですけどねえ」
「まあ。では、もうひとつ差し上げましょうか」
「そこは銀貨で頼みますって」
ジェラルドが来たのは、夕暮れどきだった。
供も連れず、いつもの調子で戸をくぐる。テオから話は聞いているらしかった。
「明日から、店の前に人を置く」
「まあ。ご挨拶もなしに、そこからですの」
「無駄口はあとだ。断るなよ」
「断りませんわ」
ジェラルドが、少し意外そうな顔をした。
「素直だな」
「わたくし、約束いたしましたもの。抱えきれなくなったらいちばんに、と」
ジェラルドは天井の梁のあたりへ目をやって、それきり黙った。首筋に、うっすらと色が差している。
「……で。抱えきれなくなったのか」
「まだですわ。ですけれど、ひとつだけお話ししておこうと思いまして」
セレナは薬棚のほうを見た。
「あの方たちが探していらっしゃるのは、たぶんわたくしではございませんの」
「何?」
「わたくしを探す方は、まっすぐ公館へいらっしゃいますわ。わたくしがどこの客分か、隠しておりませんもの」
それはそうだ、というふうにジェラルドが眉を寄せた。
「では何を探している」
「わたくしの、書いたものですわ」
言ってしまってから、セレナは自分の言葉に少しだけ驚いた。口に出すまで、そこまではっきりとは思っていなかったのだ。
ジェラルドは何も訊かなかった。訊かないと、あの晩に言ったとおりだった。
「戸には錠を足させる。夜は、ひとりで残るな」
「はい」
「……返事が短いと、かえって落ち着かん」
「あら。では長くいたしましょうか。かしこまりました、ジェラルド様。ご厚意まことにありがたく謹んで――」
「もういい」
ジェラルドが本気で嫌そうな顔をしたので、セレナは声を立てて笑った。
笑ってから、その顔をあらためて見る。
「ジェラルド様。こちらからも、ひとつ伺ってよろしいかしら」
「なんだ」
「ここ三日ほど、お眠りになれてます?」
「……なぜそう思う」
「まぶたの下が青うございますもの。それと、さっきから左の肩ばかり上げていらっしゃるわ。お疲れが出ると、いつもそちらが上がりますのよ。……お声も、少し掠れておいでですし」
「……お前は、初めて会った日からそればかりだな」
「ええ。雨の街道でも、同じことを申し上げましたわ」
あのときは、拾ってもらったほうが偉そうに人の寝不足を言い当てた。ジェラルドは何か言いかけて、結局やめて、戸口のほうへ歩いていく。
「錠は、明日の朝いちばんに付けさせる」
「はい。……ありがとう存じます」
背を向けたまま、彼は片手を上げただけだった。
その夜、みなが帰ったあとの調薬室は、しんとしていた。昼のあいだ籠もっていた薬草の熱が引いて、床のあたりから夜気が上がってくる。セレナは燭台をひとつだけ卓に残し、薬棚のいちばん奥に手を入れた。
乾いたトリカブトの束をどけて、油紙の包みを引き出す。四日前に、自分でそこへ押し込んだものだ。
卓の上で、油紙をひらく。
七年分の覚え書き。王宮を出るとき、帳面そのものは引き出しに置いてきた。持ち出す気にもならなかった。中身なら頭に入っているし、燃やされたところで痛くもかゆくもない――そう思っていた。
カルディアで筆と紙を買ったのは、ただの癖からだった。毎晩書かないと、一日が終わった気がしない。それで、思い出せるかぎりを片端から書き直しはじめた。七年前の春のぶんから、順に。
そうやってできあがったのが、この一冊だ。
(……なぜ、わたくしではなく、こちらなのかしら)
人ひとり攫うほうが、よほど手っ取り早い。わざわざ紙のほうを先に探すということは、紙にしかないものがあるということだ。
けれど、書いたのは自分である。自分の頭に無くて、この紙にだけあるものなど、あるはずが――。
そこで、セレナの指が止まった。
あるのだ。ひとつだけ。
覚えていることと、書き留めたこととは、同じではない。人はたいてい、意味の分かることだけを覚えている。意味の分からなかったことは、書いたきり、そのまま忘れてしまう。
七年、毎晩。彼女は分からないことも全部、そのまま書きつけてきた。今日は脈がこう沈んだ。今日は匙をひとつ減らしたら、こうなった。なぜそうなるのかは、当時の自分にも分かっていなかった。
――分からないまま書いたものが、この中には山ほどある。
セレナは燭台を引き寄せ、最初の頁をひらいた。
七年前の、まだ下手な字が並んでいる。十四の自分が、誰のための薬とも知らされないまま、毎朝ひと匙を量って書きつけていたころの字だ。
「……さて。わたくし、いったい何を書いたのかしら」
棚の上で、いつのまにか戻ってきたコハクがまるくなった。
窓の外が白みはじめても、頁をめくる音は、まだ続いていた。




