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婚約破棄された宮廷薬師ですが、隣国で溺愛されています 〜私を「薬係」としか見なかった王太子が寝込んでも、もう戻りませんわ〜  作者: 相川ことね


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第13話: 毒外交

 仲のよい人どうしは、贈り物に毒など仕込まない。


 だから外交というのは、きっと、友情とは別のものなのだ。


 二つの国が「これでどうか仲良くしましょう」と証の品を差し出しあう。その卓には、料理より先に毒見役が呼ばれる。差し出された友好の証に毒がまぎれていないか、まず舌で確かめる役だ。


 友情の卓に、毒見役が要る――それが、この世でいちばん行儀のいい、毒のやりとりだった。人はそれを毒外交と呼ぶ。


 その卓に、セレナはふたたび着いていた。


 エルデンとカルディアは長いこと睨みあってきた隣国どうしだ。その二国が政略結婚を橋にして、少しずつ仲直りを進めている。今日の小さな会談も、その一歩だった。


 ジェラルドがカルディア側の中心に座り、その斜め後ろに毒見役のセレナが控える。壁ぎわには供のテオ。エルデンからは、身なりのいい使者が数人。


 刻限を待つあいだ、そのテオがそっとかがみ込んできた。いつもの軽い顔つきの奥が、めずらしく醒めている。


「先生。ちょいと耳に入れときたいことが」


「テオさんが神妙だと、雨でも降りそうですわね」


「茶化さないでくださいよ。……港と宿場を回ってきたんですがね」


 テオは街の噂と人の出入りを掬いあげるのが得意だった。動物を手懐けるのと同じ手つきで、市井の話を集めてくる。


「今度のエルデンの一行、妙なんです。従者が解毒の薬を一切仕入れてない。毒卓に来るってのに、ですよ。ふつうは万一にそなえて、自分たちのぶんくらい抱えてくるもんです」


「ふふ。ずいぶんな自信家さんね」


「それと――例の友好の証。あれ、いつもの贈答役を通ってないんです。宰相府から封をしたまま、まっすぐ届いたそうで」


 宰相府。その一語だけが、卓のざわめきから浮き上がって聞こえた。


 (……宰相さまの、じきじきのお品)


「テオさん。よく調べてくださったこと」


「まあ、これでも顔は広いんで」テオは肩をすくめた。「なんにも起きなきゃ、それがいちばんです。頼みますよ、先生」


 解毒を持たない一行。毒見を恐れない使者。宰相の封。ばらばらの符牒が、頭の隅で静かに一列に並びかける。けれど、まだ何も並んではいない。ただの符牒だ。


 斜め前のジェラルドが、前を見たまま口だけを動かした。


「テオが妙だと言うなら、妙なんだろう」


「テオさんのこと、よほど信じておいでなのね」


「あいつは、軽いが目はいい。……お前も、いつもの倍は舐めろ」


「毒見役に酌をさせておいて、ずいぶんなおっしゃりようですわ」


 ジェラルドの口の端が、少しだけ持ち上がった。それきり、二人とも口をつぐむ。上座の扉が、開いたからだ。


 入ってきたのは、エルデンの主席使者だった。エルンスト卿と名乗る。銀髪をきれいに撫でつけた、柔らかな物腰の紳士だ。声も所作も角がない。角がなさすぎて、どこにも掴みどころがなかった。


「本日は、両国のあらたな縁を寿ぎに参りました。つきましては、我が王家よりささやかな友好の証を」


 従者がうやうやしく卓に運んだのは、細長い硝子の瓶だった。中の酒は、蜂蜜を溶かしたような淡い金色をしている。


「王家伝来の滋養酒にございます」


 滋養酒。セレナは胸のうちでその言葉をほどいた。滋養、つまり体を養う。酒の顔をした、薬のようなもの。飲めば血のめぐりがよくなり、疲れが取れ、冬の寒さにも負けなくなる――そう謳われる、上等な養命の酒だ。


「エルデンの王家が代々、体を養うために召し上がってきた品にございます。これを両国の要人が分かちあえば、なによりの友誼のしるしと」


 卓の空気が、ふっとゆるんだ。仲直りの席に、体に良い酒。文句のつけようがない。


「これはこれは、ご丁重に」カルディアの老臣が、笑みで応じた。「王家伝来のお品とあれば、なおのことありがたく」


「なに、両国の末永い健やかさを願う品にございます。どうぞ、ご遠慮なく」


 エルンスト卿の柔らかな笑みが、そつなく一同を撫でていく。


「では、まずは儀礼どおり」


 主席の毒見役が進み出た。白い髭の老人だ。バルト――カルディア一と名高い、三十年毒を見落としたことのない毒見役。前の毒卓でセレナに命を救われた仲でもある。


 バルトは瓶を検め、栓の匂いを嗅ぎ、硝子の小皿に一滴落として、それを舌の先にのせた。しばらく口の中で転がしてから、まぶたを伏せる。それから、静かに開いた。


「……滞りは、ございませぬ」


 言いながら、バルトの目がセレナのほうへ動いた。


「薬師どの。念のため、あなたの舌も」


「あら。バルト様が滞りなしとおっしゃるものを、わたくしが検めるだなんて」


「三十年、毒を見落としたことはない。……だが一度だけ、この老いぼれの見落としを掬ってくれた娘がいる」バルトは、白い髭の奥でわずかに笑った。「あなたの舌なら、もう一枚重ねておきたいのですよ」


「まあ。それは光栄ですこと」


 前の毒卓で救った命が、いまこうして自分の舌を信じてくれている。小さく礼をして、セレナは杯を受け取った。金色の酒を、ほんのひとくち、口にふくむ。




 甘い。


 蜂蜜と、干した果実。喉の奥に、薬草のほのかな苦みが遅れて追いかけてくる。舌ざわりはなめらかで、たしかに体が温まりそうな、良い酒だった。


 毒の鋭さはない。


 トリカブトのように喉を灼く刺も、鈴蘭のように舌を刺す独特の苦みも、どこにも立っていない。あからさまに人を殺す毒の、あの尖った気配がまるでない。


 バルトが滞りなしと通したのも当然だった。ひと舐めで見つかるものは、この酒の中に一つも入っていない。


 ――だからこそ、セレナは杯を置く手を止めた。


 (……なにも、ないわけがない)


 もう一度だけ、ほんの少し口にふくむ。今度は急がず、苦みの引いていく速さを頬の内側でゆっくりと測った。


 甘さの裏に隠れて、細い糸のような後味が、いつまでも消えずに残っている。心の臓をそっと励ますような後味。ひと匙なら薬になり、続ければ薬でなくなる、あの種類の草の後味だった。


 襟元のコハクが、そわそわと身を起こした。杯へ伸ばしかけた鼻先を、迷うように引っこめる。あからさまな毒なら、とうに牙を剝いて騒ぐはずだった。それがない。近づけては引き、また近づけ、鼻先が、決めかねて細かく震えた。


 毒でもあり、薬でもある。コハクの鼻が困っている。


 (そうよね。あなたにも、決められないのよね)


 セレナには、決められた。


 牙は、ひどくゆっくり届く。滋養の名を借りて体になじみ、なじみきったころにそっと裏を返す。今日ひと口では、なにも起きない。明日も、明後日も。


 友誼のしるしにと月に幾度か酌み交わすうち、半年もすれば飲んだ者の心の臓は理由もわからぬまま弱っていく。医者は老いだと言い、寿命だと言うだろう。誰も、この上等な友好の証を疑いはしない。


 マレナ夫人を蝕んだ妙薬と、同じ仕組み。それを国の要人まるごとにかける。


 そこまでは、まだいい。恐ろしいのはその先だった。


 この酒は、誰にでも同じように効くのではない。金色を舌にのせた瞬間、セレナの奥を通り抜けたのは、まぎれもない既視の感覚だった。この匂い。この後味。この、体をあやすような効き方。


 ――知っている。


 毎朝、七年。あの方のために、これによく似たものを、自分の手でつくり続けてきた。


 慣れた体には、なにほどのこともない薬。慣れておらぬ体には、毎日少しずつの毒。同じ一杯が、飲む相手によって顔を変える。そういう仕込みを組める者は、この世にほとんどいない。飲む側の体の奥の奥まで知り尽くした、ごくひと握りの者にしか。


 (……こんなものを、どなたが)


 考えかけて、セレナは思考の手をぴたりと止めた。


 その先に踏み込んではいけない。いま、ここで。




 顔を上げると、エルンスト卿の柔らかな目がこちらを見ていた。


 毒見役が長く杯を離さずにいる。それを卿はただ静かに眺めている。急かしもせず、案じもせず。まるで、何を見つけてもあなたには何もできまい、と知っているように。


 その落ち着きが答えだった。この人はこれが何かを知っている。知ったうえで、堂々と卓にのせている。


 セレナの喉が、小さく動いた。


 (……言えない)


 これは毒です――その一言を、舌の先で押しとどめた。


 口にした瞬間、問われる。なぜ、ただの毒見役に王家伝来の酒の中身が読めるのか。


 答えれば、自分がエルデン王家の体の奥まで知る者だと露見してしまう。追放された身が、隣国の卓で他国の王家の秘密を握っていると明かすようなもの。


 その先を思うだけで、指の先が冷えた。命が危ない。


 それに、証拠がひとつもない。舌にのせて分かるものなら、三十年の毒見役がとうに見つけている。


 ここで毒だと叫べば、エルンスト卿は柔らかく微笑んでこう返すだけだろう。「王家の友好の証を毒と申されるか。我が国への侮辱にございますな」と。


 その一言で、仲直りの卓はひっくり返る。ようやく架かりかけた橋が折れ、二国はまた睨みあう。会談は決裂し、下手をすれば戦の火種にさえなる。


 毒だと分かっている。なのに、毒だと言えない。言えば負ける。


 分かるのに、動けない。


 セレナは金色の残る杯を、そっと卓に戻した。


 (毒と呼ばずに、この一杯を卓から下げる)


 顔を上げたとき、その口元にはいつもの明るい笑みが戻っていた。


「エルンスト卿。よい香りのお酒ですこと」


「お気に召しましたかな」


「ええ、とても。……ただ」


 セレナはいかにも申し訳なさそうに眉を寄せてみせた。毒見役が貴い賓客に苦言を呈するときの、そういう顔を。


「薬師として、ひとつだけ申し上げなくてはなりませんの。差し出がましいことを、どうぞお許しくださいまし」


「……ほう」


「これは滋養酒、つまりお薬でございましょう。お薬というのは体を選びますの。ある人には効いても、べつの人には障る。夏の湿った時季に良いお薬が、冬には毒になることさえございますのよ」


 卓の使者たちが顔を見合わせた。エルンスト卿の眉が、ほんのわずかに動く。


「今宵のカルディアは、ごらんのとおり初夏の湿りが強うございます。そのうえ、これをお召しになるのは公王家の方々。お体の質も土地の気候も、エルデンの王家の方々とは少しずつ違いますでしょう」


 セレナは金色の瓶をやわらかく指し示した。


「良いお薬ほど、合わぬ体には強く障りますの。せっかくの友好の証を、そのようなことで台無しにしては両国のためになりません。……今宵のところはこの一杯を下げさせていただいて、別の酒で杯を交わしていただけますかしら。エルデンの尊いお志は、たしかに頂戴いたしましたわ」


 これは告発ではなかった。毒だとはひと言も言っていない。ただ、薬師が体と季節を案じて、上等な薬を今日は控えましょうと勧めている。それだけだ。誰も恥をかかない。エルデンの面目もつぶれない。それでいて、毒の杯は確実に卓から下りる。


 場が迷った。毒見役の言い分は筋が通っている。だが、賓客の献じた品を下げるのは、なかなかに大事だった。


「――彼女がそう言うなら、そうしよう」


 腕を組んだまま、ジェラルドが前を見て言った。声は低く、けれど揺るがない。たったそれだけで、卓に揺れていた迷いがすっと凪いだ。


「エルンスト卿。せっかくのお志だが、我が国の薬師が障ると申すものを公王家の卓にはのせられぬ。志は確かに受け取った。今宵は別の一杯で、友誼を結ばせていただこう」


 ただの使者の一言で、カルディアの重臣たちが次々とうなずいた。エルデンの使者たちも、それ以上は押せない。


 (……相変わらず、不思議な御方)


 ただの使者が、なぜこうも場を動かせるのか。その引っかかりも、今日はひとまず脇へ寄せておく。金色の瓶が、従者の手でしずしずと下げられていく。


 その瓶が卓を離れる間際、セレナはエルンスト卿の前に進み、深々と一礼した。そして顔を上げ、卿だけに聞こえる声で、穏やかに言い添える。


「よいお薬を、ありがとう存じます」


 微笑んだまま、続けた。


「国を傾けるほどの毒でも、ひと晩では効かないものですのね。友好の顔をして……滋養の顔をして……毎日ほんのひと匙ずつ、体になじんでいって。気づいたときには、もう立てなくなっておりますのよ。……よく効くお薬ほど、扱いを違えれば毒と見分けがつきませんもの。卿は、きっとよくご存じですわね」


 エルンスト卿の、柔らかな笑みが凍った。


 撫でつけた銀髪の下で、血の気が音もなく引いていく。角のない顔から掴みどころのなさが剥がれ落ちて、その下から、見抜かれた者の素顔がのぞいた。


「……薬師どのは」卿はかすれかけた声を、辛うじて整えた。「ずいぶんと、博識でいらっしゃる」


 そう言われても、セレナはすぐに口を開かなかった。


 ここで「とんでもない」と笑って受け流せば、それで済む。素性を伏せたまま勝ち逃げするのが、いちばん賢いやり方だ。


 (……この一言で命が危ういことくらい、分かっているわ)


 それでも、黙ってはいられなかった。


 薬は、人を癒すためのものだ。マレナ夫人の鈴蘭も、あのケシの一件も、匙加減ひとつで人を殺しもする。けれど、あれは誰かの不注意だった。今日のこの一杯は、違う。誰かが、薬の親切な顔をわざわざ選んで、人を殺すために組んだのだ。その遣り口だけは、どうしても許せなかった。


 ――だから、この人にだけは思い知らせずにいられなかった。あなたのその手の内は、ちゃんと見えている、と。


「いいえ。七年、毎晩……舐めて覚えただけですわ」


 笑みは、崩さないままだった。令嬢らしい、あたたかな笑みだ。


 その笑みの前で、三十年の毒見役バルトが、白い髭の奥で小さく息を呑んだ。それに気づいたのはセレナだけだった。何が起きたのかは分からない。だが、この娘がいまここで、目に見えぬ何かを卓から払い落としたのだ、と。老毒見役の勘が、そう告げていた。バルトはほんの少し、頭を下げた。


 エルンスト卿は、ほどなく柔らかな笑みを取り戻した。けれど、その下にあったはずの掴みどころのなさは、もう戻ってこなかった。かわりにあったのは、ひとりの薬師の顔を深く刻みつける目だった。


 この人は今夜のことを、洗いざらい持ち帰るだろう――この一杯を寄越した、遠い宰相府の誰かのもとへ。


 自分の手で、いちばん危ない糸口を渡してしまった。それでも、指の先は、もう震えていなかった。


 その夜の会談は、別の酒で滞りなく結ばれた。友好の証は丁重に礼を述べられ、丁重に持ち帰られていった。


 表向きは、なにひとつ起きなかった。




 その晩、エルデンの宰相府。


 ヴァルターは暮れかけた執務室の窓辺に立っていた。国境へ延びる街道の先に、カルディアがある。あの友好の証は、もう卓に着いたころだろうか。


 友好の証、と胸のうちで繰り返して、ヴァルターは細く息を吐いた。


 あれは、王家が長く隠し持ってきたものだ。慣れた体にはなにほどのこともない。ただ――慣れておらぬ体には、話が違う。それを今度は、逆さに使うだけのこと。


 誰も気づきはしない。あれを毒と読める者は、この世に数えるほどしかいない。そしてその数えるほどの者は、みなこの宰相府の側にいる――はずだった。


「……許せ」


 顔も知らぬカルディアの要人たちに、ヴァルターは低くつぶやいた。私利ではない。私怨でもない。カルディアは長く、隙あらばエルデンを呑もうとしてきた大国だ。その中枢がゆるやかに衰えていけばいい。こちらへ牙を剝く力を失えば、二国の均衡は保たれる。幼い継承者たちは戦を知らずに育ち、民は血を見ずにすむ。……それでいい。一人の善良な者の秤を、私は王国の秤より重くはできない。


 それが、長く重いものをひとりで背負ってきた男の、揺るがぬ前提だった。


 窓辺を離れて机に戻る。そこには薬師団の古い名簿が開かれたままになっていた。線で消された、一人の名。


 ヴァルターの指が、その線をなぞる。あの晩、洗い直せと命じてから、もう幾日が過ぎたろう。


 だが、放った者たちからは、まだ何も返ってこない。あの娘の覚え書き――そこにこそ、王家がいちばん触れられたくないものが、そのまま書いてある。あれが野に落ちたまま、というのがいちばん恐ろしい。


「……どこへ隠したものか」


 執務室には、その問いを受け取る者がいない。窓の外では、街道の先がもう夜に沈んでいた。カルディアが客分に迎えたことまでは、とうに掴んでいる。だが、その娘が今宵あの卓に着いていたとまでは、まだ届いていなかった。


 まさか、消えた薬師がたったいま、自分の送った一杯を卓から下げたばかりだとは――ヴァルターは、知る由もなかった。




 公館の帰り道は、初夏の夜気がしっとりと重かった。


 馬車を待つあいだ、テオが大きく背伸びをして、息を吐いた。


「いやあ、生きた心地がしませんでしたよ。何が起きたのか、俺にはさっぱりでしたけど……先生、あの酒はなんかあったんでしょ」


「ええ。ありましたわ」


「なんです?」


「……秘密ですわ」


「ええー。俺があんなに走り回って集めた話が、秘密で片付くんですか」


「ふふ。テオさんのお手柄は、ちゃんと覚え書きに書いておきますわよ。いちばん大きな字で」


「そこは大きな字より、大きな駄賃がいいなあ」


「あら。では、いちばん大きな飴玉をあとでひとつ」


「飴玉って。俺、これでも一人前の男なんですけどねえ」


「ふふ。一人前の殿方は、お駄賃をねだったりなさいませんでしょう?」


「……先生、口ではかないませんね」


「あら、負けを認めるのはまだ早うございますよ」


 軽口を返しながらも、セレナの胸はまだ静かに冷えたままだった。


 言えるはずがなかった。あれが何なのか。なぜ自分に読めたのか。あの金色の一杯が、遠い王宮であの方のためにつくり続けたものと、同じ匂いをしていたことも。


 この舌と、この覚え書きだけが、あの酒を読めた。それは誇っていいことのはずだった。なのに、なぜだろう。読めてしまったことが、こんなにも重い。


「セレナ」


 馬車の脇に立ったジェラルドが、低い声で呼んだ。


「顔色が悪い。……無理をさせたな」


「あら。毒見役は、無理をするのがお仕事ですもの」


「そうじゃない」


 ジェラルドはめずらしく言葉を探すように黙り、それから、ぶっきらぼうに言った。


「今日のあれは、毒だったんだろう。お前が言わないなら、俺は聞かん。……だが、ひとりで抱えきれなくなる前に言え。相手は、俺でいい」


 セレナは目を見開いた。


 この人はいつもそうだ。腕のことも、家柄のことも、たいして見ていない。ただ、彼女がいま何かを重たそうに抱えていることだけを、まっすぐに見ている。


「……はい。抱えきれなくなったら、いちばんに」


 語尾の飾りが、そこだけ落ちた。


 胸元でコハクが身をよじって、慰めるように鼻先を頬へすり寄せてくる。セレナはその琥珀色のあたたかさに、こわばっていた肩の力を少しだけ抜いた。


 その夜、調薬室に戻ると、まず手が伸びたのは覚え書きだった。


 いつもなら、その日に読んだ薬のことをすぐ書きつける。けれど今夜は、頁をひらく前に手が止まった。


 慣れた体には薬、慣れぬ体には毒。飲む相手を選ぶ一杯。それを組める者は、飲む側の体を隅から隅まで知っている。書けば、この一冊はまた一つ、王家のいちばん柔らかいところを写し取ってしまう。


 (……この子は、いつのまにか、ずいぶん危ないものになってしまったのね)


 セレナは筆を持たなかった。かわりに覚え書きを油紙で包み、薬棚のいちばん奥、乾いたトリカブトの束の裏へそっと押し込んだ。毒草の陰なら、誰も好んで手は伸ばさない。


 棚の縁で、コハクが耳をぴんと立てて、こちらをうかがっている。セレナは指の腹で、その小さな鼻先をつついてやった。


「大丈夫。ただ、しまい場所を変えただけよ」


 コハクは得心したように、まるくなって尻尾を巻いた。


 今日いちど、金色の一杯は卓から下りた。けれど、あれを送った誰かは、まだ椅子に座ったままだ。失ったものは、なにひとつない。薬の顔をしたものは、退けても退けても、また別の顔をして卓に戻ってくる。


 次にどんな顔をして来ても、卓から下げてみせる。


 セレナは新しい紙を一枚だけ引き出して、短く書きつけた。――金色。甘い。後味が長い。王家のことは、ひと言も書かない。


 紙を折って懐にしまうと、灯りをひとつ、細くした。

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