第12.5話: テオの情報網
世の中には、銀貨を出せば買えるものと、銀貨を出したとたんに遠のくものがある。
街の噂は、後のほうだ。
そしてその買えないほうを、抱えきれないほど持ち歩いている男が公都にひとりいた。見たかぎり、この街でいちばん働いていない男である。
初夏の朝の調薬室は、乾いた薬草の匂いでいっぱいだった。
セレナは天秤に分銅を乗せ、乳鉢の粉をひと匙ずつ量っている。傍らではリタが薬包の紙を几帳面に畳んでいた。棚の上ではコハクが、朝の日を浴びて長々と伸びをしている。
その静けさを、戸が蹴破った。
「先生ー! 差し入れですよー!」
テオだった。両腕に荷を抱えている。というより、荷に埋もれている。
「まあ、テオさん。今日はまた、ずいぶんな量ですこと」
「置きますよ、と。……これが港のマイス親方から、塩漬けの魚。こっちが宿場の女将さんとこの干し杏。それと、西門の外のグレーテ婆さんの豆です。作りすぎたから持ってけって」
卓の上に、包みが次々と並んでいく。リタが薬包を畳む手を止めて、じとりとした目を向けた。
「テオさん。それ、ぜんぶもらい物ですよね」
「もらい物だね」
「お仕事は」
「これが仕事みたいなもんだよ、リタちゃん」
「あたし、昼間から街をぶらぶらしてるテオさんを今月だけで三回見ましたけど」
「三回も見つけられるってことは、リタちゃんもだいぶ暇だな?」
「あたしはお使いです!」
セレナは笑いながら、干し杏の包みをほどいた。とたん、棚の上の琥珀色が跳ね起きる。
コハクは伸びをした姿勢のまま固まった。それから棚から肩へ、肩から卓へと一直線に降りてくる。
「チビ。お前は本当に、食い意地だけは一人前だなあ」
「テオさんに言われたくはないと思いますわよ」
セレナは干し杏をひとつちぎって、その小さな前足に持たせてやった。
「そうそう、先生。爺さん――モーリッツさん、あれからぴんぴんしてますよ」
「まあ、よろしゅうございました。お膝は?」
「まだ痛むみたいですけどね。先生に言われたとおり薬の量はきっちり守ってるそうです。そりゃもう自慢げでしたよ」
「それがいちばんですわ。お薬は、量が命ですもの」
セレナは分銅を戻しながら、小さく息を吐いた。
「……ところで。どなたか、炭のあてはございませんこと」
「炭?」リタが首をかしげる。「あの、火をおこす炭ですか」
「ええ。よく焼いて、細かく挽いたものを。悪いものを口にした方に含ませますの。体が毒を吸い込んでしまう前に、炭のほうが先に吸ってくれますのよ」
「へえ……炭が、毒を食べてくれるんですか」
「そういうことになりますわね。ですけれど、この半月はどこの薬種屋にも置いていませんの。困りましたこと」
「ああ、それ橋ですよ」
テオが干し杏をひとつ口に放り込みながら言った。
「橋?」
「東の石橋の普請が始まったでしょ。あれで炭焼きの荷が、まるごとそっちへ取られてるんです」
セレナは顔を上げた。
「……テオさん」
「でも西門の外のグレーテ婆さんとこなら、まだ二俵ばかり納屋に残ってますよ。去年の焼き置きですけど、湿気てないから使えます」
卓の上で、コハクが干し杏をくわえて満足げに丸まった。
セレナはしばらく、その軽薄な二枚目の顔をまじまじと眺めた。
「なぜ、そんなことをご存じですの」
「え? そりゃ、聞いたからですけど」
そういうわけで、セレナはその日の午後に街へ引っぱり出されることになった。
初夏の公都は賑やかだ。荷馬車の車輪が石畳を鳴らし、魚と焼きたてのパンの匂いが混ざって漂う。日差しはもう、うなじがじりじりするほど強い。
歩きだしてすぐ、セレナは妙なことに気がついた。
テオが、やたらと呼び止められるのだ。
「テオ! この間の膏薬、よく効いたよ!」
魚屋のおかみが濡れた手を振ってくる。
「そりゃよかった。効かなかったら先生に怒られるとこだった」
「おい、うちの葦毛がまた蹴るんだ」
通りの向こうから馬丁が声を張り上げる。
「夕方に見に行くよ。人参をひとつ用意しといて」
子供が三人ばかり、いつのまにか後ろにくっついて歩いていた。セレナの襟元では、コハクが人いきれに鼻をひくつかせている。
「テオさん」
「はい?」
「あなた、どなたにも何もお訊きになりませんのね」
テオはあっさりと言った。
「訊いたら教えてくれませんもん。向こうが喋りたいことを喋らせて、そのついでにこぼれてくるやつが本物です」
「……朝の炭のお話ですけれど。どこで誰が何を買ったか、そんなことまで頭に入っておりますの」
「入るっていうか、残るんですよ。人の買い物ってのは、けっこう喋るんで」
「喋る?」
「たとえば東通りの宿が、急に毛布を十枚も買い足したとするでしょ。じゃあ人が増えるな、遠くから誰か来るなって分かる。銭を出すってのはね、自分が何を欲しがってるかの白状なんですよ。……何を怖がってるかも、そこに出ます」
セレナは、思わず足を止めた。
「なんです、その顔」
「いえ。……薬師の見方と、そっくりでしたから」
「へえ?」
「わたくしどもも、同じことをいたしますの。眠り薬を買い置きなさる方は、眠れないことを怖がっていらっしゃる。……解毒の薬を買い置きなさる方は、毒を怖がっていらっしゃる」
「うわ、こわ。先生に薬棚を覗かれたら丸裸だ」
「あら。テオさんの薬棚には、肩の湿布しか入っておりませんでしょう」
「それはそれで丸裸なんですけど」
通りの真ん中を、覆いをかけた荷が列になって進んでいった。木箱がいくつも積まれ、その脇に役人が二人ついている。行き交う人が、自然と道を空けた。
「あれは?」
「公館に入る贈り物です。よそから来た品は、必ず贈答役の手を通るんですよ。ヴィルヘルムって爺さんが、ひとりで仕切ってる」
「贈答役」
「中をぜんぶあらためて目録を作って、それでやっと卓に出るんです。あの爺さん、几帳面すぎて有名でね。目録に載ってない品は、公王家の卓には指一本ぶんも近づけません」
「まあ。……毒見の前の、毒見のようなものですのね」
「うまいこと言うなあ、先生は」
それが起きたのは、蜂蜜売りの屋台の前だった。
甘い匂いが鼻先をかすめた次の瞬間、セレナの襟元から琥珀色が消えていた。
「コハク?! コハク、どこですの!」
人の脚と荷車の車輪と、放し飼いの犬。この雑踏で手のひら大の獣を見失うのが、どれほど恐ろしいことか。セレナは荷車の間へ踏み出しかけた。
その袖を、テオが横から掴んだ。
「先生。動かないで」
「でも、あの子――」
「追うと逃げます。生き物はみんなそうです」
テオはその場にしゃがみ込んだ。懐から干し杏をひとつ取り出して、石畳の上に置く。そして、ひょいとそっぽを向いた。
「……で、先生。さっきの毒見の話ですけどね」
「テオさん」
「いいから。喋っててください」
仕方なくセレナは、震えそうな声で毒見役の作法などを喋った。テオは相槌を打ちながら、屋台の屋根のあたりをぼんやり眺めている。
どこからか猫が二匹寄ってきて、テオの膝の脇に座った。次に痩せた犬が一匹。ついてきた子供たちが「テオ兄ちゃん、なにしてんの」としゃがみ込む。テオは笑って唇に指を当て、また明後日の方を向いた。
やがて通りの向こうの空樽の陰から、琥珀色の鼻先がそろりと突き出した。
コハクは首を伸ばしてあたりをうかがい、ちょんちょんと近づいてくる。干し杏をくわえた。それから、さも当然という顔でテオの膝によじ登った。
「な?」
テオが得意げに振り返る。
セレナは大きく息を吐いて、コハクを胸に抱き取った。小さな心の臓が、指の下でせわしなく打っている。
「まったく、この子は。……テオさん、ありがとう存じます」
「どういたしまして」
礼を言いながら、セレナはその手つきに引っかかった。さっきから同じものを見ていた気がする。
「……テオさん。あなた、人にも同じことをなさっていますのね」
「え?」
「追いかけないで待って、ひとつだけ差し出して、あとはよそを向いてお喋りをなさる。お魚屋さんのおかみさんにも、馬丁さんにも」
コハクの背を撫でていたテオの手が、一瞬だけ止まった。
それから、いつもの軽い顔に戻る。
「やだなあ先生。俺、女の子は追いかける派ですよ」
「あら。それで、捕まりまして?」
「……一度も」
「まあ」
帰り道、初夏の長い陽が屋根の向こうへゆっくり傾きはじめていた。
テオは、行きと同じ道を辿った。船着場で人足に手を上げ、宿場の女将に「変わりない?」と一声かけ、西門の門番のじいさんに豆の礼を言う。
セレナはそのたび足を止めて待った。三度目で、さすがに気づく。
「テオさん。この道順、行きとそっくり同じですわね」
「よく見てるなあ、先生は」
「順番まで同じでしたもの」
テオは、ばつが悪そうに首の後ろを掻いた。
「……三月ばかり、同じ順で回ってます。港と宿場、市場と門。ぐるっと一周です」
「毎日?」
「毎日。たいてい、なんにもないですけどね。船が着いて荷が下りて、酒場で誰かが殴り合って終わりです」
石畳を一つ蹴って、テオは続けた。
「なんにもなかったな、っていうのを毎日ちゃんと確かめとくのが俺の仕事なんで」
セレナは、しばらく黙って歩いた。
「……それ、わたくしが毎晩していることと同じですわ」
「え?」
「七年、毎晩欠かさず覚え書きをつけてまいりましたの。今日は誰がどんな顔色で何をお飲みになって、どうなったか。……そのほとんどは、なんにも起きなかった日の記録ですのよ」
「うへえ。それ、面白いですか」
「ぜんぜん」
「正直だな!」
「ふふ。でも、なんにも起きなかった日を千も積み上げますとね。何かが起きた日に、すぐ気づけますの」
へえ、とテオが長く息を吐いた。
それきり、めずらしく黙って歩く。ひと区画ぶんも黙っていただろうか。
「……俺、剣は駄目なんですよ」
ぽつりと落とすように言った。
「腕っぷしはからきしだし、頭だって先生みたいには回らない。旦那の隣に立つには、どう考えても足りてないんです」
夕日が、二枚目の横顔を赤く縁取っている。
「でも、耳と足ならまあ人並みよりは使えるでしょ。……それくらいしか、返せるものがないんで」
セレナは、その横顔を見た。いつもへらへらしている男の、笑っていない顔だった。
(あら。この方、ちゃんと考えていらっしゃるのね)
けれど、それも長くは続かなかった。
「あー、やだやだ。夕方って、こういうこと喋りたくなるんですよね。忘れてください」
「忘れませんわ」
「忘れてくださいってば」
テオは大げさに顔をしかめてから、ふと思い出したように指を立てた。
「あ、そうだ。ひとつ耳に入れときます。エルデンの一行、明後日には公都に入るそうですよ。宿場の女将が、上等の部屋を七つも押さえられたってぼやいてました」
セレナの足が、止まった。
ジェラルドが言っていた、あの小さな会談だ。また毒見を頼むかもしれない、と。
「テオさん。ひとつ、お願いしてもよろしいかしら」
「お、なんです」
「その方たちが、街で何をお買いになるか。……それだけ、見ていてくださいまし」
テオが、きょとんとした。
「買い物、ですか」
「ええ。何をお買いになるかと、何をお買いにならないか。……どちらも同じくらい、大事ですのよ」
しばらく間があって、それからテオの口の端がにっと持ち上がった。
「……先生。あんた、やっぱりちょっと怖い人だ」
「あら。褒め言葉として頂戴しておきますわ」
調薬室の戸口に、俵がふたつ置かれていた。
「あ、セレナ様! さっき西門のお婆さんが、荷車で運んできてくれたんです!」
リタが飛び出してくる。俵の口から覗いているのは、よく焼けた黒い炭だった。
「まあ。テオさん、いつのまに」
「行きがけに寄って、頼んどきました」テオはこともなげに言った。「で、お駄賃の話でしたっけ」
「まだ、ひと言も申し上げておりませんけれど」
セレナは笑って、棚から硝子の壺をひとつ取った。蓋を開けて、中の琥珀色の粒をひとつテオの手のひらに落とす。
「はい、どうぞ」
「……飴玉」
「蜂蜜を煮固めた、喉のお薬ですのよ。よくお喋りになる方に、いちばんよく効きますの」
「俺、二十五なんですけど」
「あら。では来年から、ふたつに増やして差し上げますわ」
「そこは銀貨に増やすところでしょ!」
文句を言いながら、テオはちゃっかりそれを口へ放り込んで帰っていった。
戸口の向こうで、飴玉を歯に当てるからりという音が遠ざかっていく。棚に飛び乗ったコハクが、残りの干し杏を抱えて丸くなった。
銀貨を出せば買えるものと、出したとたんに遠のくもの。
炭は、銀貨で買えた。けれど、その炭がどこに眠っているかを教えてくれるものは売っていない。
(……ずいぶん高いものを、飴玉ひとつで頂いてしまいましたわ)
セレナは笑って、乳鉢に向き直った。
明後日、エルデンの一行が公都に入る。その卓に何が運ばれてくるのかは、まだ誰も知らなかった。




