第18話: 読めない名前
人は、床が抜けてから床のことを考える。
毎朝そこにあったから、あるものだと思っていた。踏み抜いてはじめて、下には何もなかったのだと知る。
あの会談から、二十日め。
エルデン王国の王都で、二国の和睦の調印が行われる日だった。海を渡ってきたカルディアの使節が壇の下に並び、王宮の中庭には朝から民が入れられている。長い睨み合いをようやく畳む紙に、エルデンの王太子アロイスその人が名を書く。そう触れが出たのは、前の晩のことである。
アロイスは、目を開けた瞬間に胸の速さを数えた。近ごろは、それが起きるということだった。
喉が渇いている。口の中が苦い。指は握っても、すぐにほどける。
もう驚かない。三月ちかく、毎朝これだ。
「殿下。お支度を」
「うむ」
侍従が二人がかりで上体を起こした。それだけで息が上がった。
礼服は重かった。腕を上げていられなくて、途中で二度下ろした。
「……重いな、これは」
「昨年と同じものでございます」
「そうか」
去年は片手で袖を通した。そのことは言わなかった。
ミレーヌが入ってきて、枕元で祈りをはじめた。
白く長い言葉が続く。慈しみの主よ、この方の道に光を、朝に安らぎを――。
アロイスは天井の桟を数えた。
三本目を数えたところで、同じ一節がもう一度聞こえた。慈しみの主よ、この方の道に光を。
二本目まで数え直したところで、また同じ一節が来た。
「ミレーヌ」
「はい、殿下」
「その先は、なんと言うのだ」
答えはなかった。
「……忘れたのか」
「わたくしは、その、慈しみの――」
「もうよい」
怒鳴るつもりだった。息が足りなかっただけだ。
入れ替わるように、宰相が入ってきた。
「殿下」
「止めに来たか」
「いいえ」
アロイスは、そちらへ首を回した。回すのに一拍かかった。
「……いいえ、だと」
「壇の脇に椅子を置かせます。段は三つ。手すりは右でございます」
数だけを並べる声だった。
「四度、止めたな。お前は」
「四度、止めました」
「五度目は、止めぬのか」
「はい」
「……そうか」
悪くない気分だった。
この老人はいつも自分を子供のように扱う。その老人が、今日は止めない。ならば自分は、止めるまでもない体だということだ。
アロイスはそう考えて、少しだけ機嫌がよくなった。
人がいなくなってから、彼は椅子の背に手をかけて立ってみた。
十を数えるまでは保った。二十で膝が鳴った。三十で、背もたれに体をあずけた。
壇の上でしなければならないのは、歩いて、座って、名を書いて、立って、頭を下げる。それだけだ。
三十あれば足りる。
息を整えているとき、ふいに、ある音を思い出した。
匙が椀のふちに、二度あたる音だ。
朝のいちばん初めに、いつもその音がした。それから手のひらに椀が来て、飲むと、体が「今日」になった。
どんな味だったかは思い出せない。苦かった気もするし、何の味もしなかった気もする。
音だけが、はっきりしている。
……あれは、誰が鳴らしていたのだったか。
考えようとしたが、胸がまた速くなったので、やめた。
「殿下。お時間でございます」
「うむ」
立ち上がるとき、右手はもう椅子の肘を掴んでいた。掴んだまま、指が開かない。
左手でほどいた。
扉の前まで支えられて、そこで両脇の手を払った。
「ここからは、ひとりで行く」
大広間は、思っていたよりも広かった。
壇までの道に、人が二列。左がエルデンの貴族、右がカルディアの使節。中庭に面した扉は開け放たれていて、その向こうに民の頭が並んでいる。声はしない。誰もが、こちらを見ている。
一歩ごとに、床がすこしずつ柔らかくなる気がした。もちろん床は石だ。柔らかいのは自分の膝のほうだ。
十七歩で、壇の下に着いた。
段を上がるとき、右の手すりに体じゅうの重さを預けた。手すりがあってよかったと、生まれて初めて思った。
椅子に腰を下ろすと、広間から小さな音がした。息を吐く音だった。
座れたな、と皆が思ったのだ。
王太子が椅子に座れたことを、これほど多くの人間に喜ばれたことはない。
卓の上に、紙が二枚。式部の者が短く作法を告げ、筆が置かれた。
アロイスは手を伸ばした。
指が筆に触れた。触れたが、閉じない。親指と人差し指が、決められた形にならない。
三度めに、拳ごと掴んだ。子供が匙を握るのと同じ握り方だった。
書いた。
最初の一画が、思ったよりも下からはじまった。二画目は右へ流れた。手首を固めようとすると、腕ごと震えた。
震えが引くのを待って、また書いた。待っているあいだ、紙は待ってくれる。人は待ってくれない。
書き終えて、目を落とした。
そこにあるのは、自分の名前ではなかった。
形が崩れている。よく見れば読めるかもしれない。よく見なければ、読めない。二十三年、何千回と書いてきたはずのものが、そこでは知らない字になっていた。
広間の音が変わった。
ざわめきというより、息を吸う音がいっぺんに重なった感じだった。それが後ろへ、中庭のほうへ、波のように広がっていく。
「……もう一度、書く」
自分の声が遠かった。
筆を持ち直して、崩れた字の上をなぞった。なぞったところが太くなって、余計に読めなくなった。
その手を、誰かが上から押さえた。
「殿下。それで、結構でございます」
ヴァルターの声だった。
アロイスは立ち上がろうとした。
立ち上がったつもりだった。膝から下に、その話が伝わっていなかっただけだ。
天井が傾いた。石の冷たさが頬に来て、そこでようやく、自分が倒れたのだと分かった。
人の足がたくさん見えた。声が上から降ってくる。誰かが名を呼び、誰かが水を、と言った。
水ではない。
そう思ったが、なぜそう思ったのかが分からなかった。
右の手が、勝手に動いた。
手のひらを上に向けて、胸の高さに差し出す。ずっと、そうしてきた形だった。
毎朝、目を開けてこの形をつくると、そこに椀が来た。その前に必ず、匙が二度鳴った。
アロイスは、その音を待った。
いくら待っても、鳴らなかった。
「……まだか」
自分が何を待っているのか、彼には分からなかった。
ヴァルターは、壇の脇に立っていた。
王太子の手のひらが、上を向いている。
広間の誰も、それが何の形かを知らない。カルディアの使節も、エルデンの貴族も、中庭の民も。
知っている者は、ひとりだけそこにいた。言えない者が、ひとり。
左の手が、下から強く握られた。
八つの王女エルザだ。今日のために新しい靴を履かされて、朝からその靴の話ばかりしていた。
「ヴァルター」
「……はい」
「おにいさま、どうなさったの」
「お加減が、すぐれぬのです」
「けさ、おげんきだったのに」
子供は、そういうところをよく見ている。
王太子が運び出されていく。その脇で、ミレーヌが一歩さがったのを、ヴァルターは目の端に入れた。
聖女が病人から一歩さがるところを、中庭の民が残らず見た。
その中庭の声が、形を持ちはじめた。
最初は音だった。音が言葉になり、言葉が割れた。
毒だ、というのが一つ。
誰が、というのが、もう一つ。
三つめは、人垣のいちばん低いところから出た。
――聖女さまが、さがった。
ヴァルターは、その三つめだけを二度聞いた。
(……あれは、明日から高くつく)
文官が寄ってきた。若い男で、紙を持つ手が湿っている。
「閣下。市中へは、なんと」
「御不例と」
「……それでは、もちませぬ」
「なぜ」
「もう、外で名が出ております」
ヴァルターは、その先を言わせなかった。言われる前に分かっていたからだ。
海の向こうに、いちばん名のつけやすいものが座っている。エルンストが置いてきた札は、こちらへ戻ってから効いた。
「否みますか」
「……いいえ」
文官が顔を上げた。それだけですか、と目が訊いていた。
これで、あの娘は毒を盛った女になる。今日の夕方には市場で、明日には隣の町で。否まなければ、それでいい。手を下す必要すらない。
嘘をついたわけではない。ただ、否まなかっただけだ。
――そういう言い方を、自分はこれまでに何度したのだろう。
「ヴァルター」
「はい」
「おにいさま、なんのご病気なの」
ヴァルターは、王女の手を握り返した。
「悪いお薬を、召し上がったのです」
言ってから、この子の中に嘘が一つ置かれたのを感じた。この子はきっとこれを覚える。大人になっても覚えている。
それでいい。知らずにすむなら、それでいい。ずっとそうしてきた。
式部の者が、卓の紙へ手を伸ばした。伸ばしたきり、巻かずにいる。
「閣下」
「なんです」
「……お名が、読めませぬ」
ヴァルターは卓へ行った。
紙の上に、字の形をしたものがあった。だが誰の名でもない。上からなぞった墨が、それをさらに潰している。
少し離れたところから、カルディアの主席使者がこちらへ目を向けていた。
四度、止めた。五度目を止めなかったのは、欠席させれば宮廷が答えを一つに決めてしまうからだった。王太子はもう立てぬ、と。
立たせれば、その答えは出ない。そう踏んだ。
いま、その答えは紙に残っている。誰にでも読める形で――読めない、という形で。
「巻いて、しまいなさい」
「焼きますか」
「焼きません」
声が、自分でも意外なほど強く出た。
「……焼いたものは、戻りません」
エルザは、まだ手を離さない。
新しい靴の先が、石の上でわずかに内を向いていた。
その三日のち、カルディアの公都は晴れていた。
調薬室の卓の半分は、この数日、薬包ではなく布に占領されている。婚礼の支度の者が日に一度は顔を出すので、リタがすっかりその気になっているのだ。
「セレナ様。こっちの白のほうが絶対いいです」
「あら。そちらは裏地ですのよ」
「じゃあ裏地を表にしましょう」
「そんな婚礼、聞いたことがございませんわ」
棚の上では、コハクが布の端を前足で押さえて引っぱっている。引いては離し、また引く。
「コハク。それはあなたの寝床ではございませんのよ」
コハクは聞いていない顔で、もう半分ほど自分の下に敷き込んでいた。
卓のもう半分では、イレーネが紙を広げていた。
あの夕方から九日、彼女は毎日ここへ来ている。宿はとってあるらしいが、朝の早いうちに来て、日が暮れるまで帳面を突き合わせて帰る。
「フェアミル様」
「セレナで結構ですと申し上げましたわ」
「……セレナ。この八番目、量が合いません」
「合っておりますわ。その年の秋は、粉が湿っておりましたの」
「湿ると増やすんですか」
「増やしますわ。乾かしてから量ればよろしいのですけれど、朝は時間がございませんもの」
イレーネは、その一行を書き足した。書く速さだけは、この人のほうが上だ。
戸が開いた。
いつもなら、開く前に声がする。今日は足音のほうが先だった。
「先生」
テオだった。息が上がっている。
「エルデンの早馬が、さっき公館に入りました」
リタが布から顔を上げた。
「なんですって?」
「調印の日に……向こうの王太子が、人前で倒れたそうです」
イレーネの筆が、紙の上に転がった。
セレナは乳鉢のふちを指で押さえた。そうしていないと、立ち上がってしまいそうだった。
九日前の夕方、この部屋で聞いた言葉が、そのまま戻ってきた。
――殿下は、和睦の調印に出ると仰せです。
出たのだ。出て、倒れたのだ。
「テオさん」
「はい」
「いつのお話ですの」
「三日前です。早馬で三日ですから、ちょうど」
「……そう」
「先生。もうひとつあります」
テオが、めずらしく言いよどんだ。
「おっしゃって」
「向こうで、先生の名前が出てるそうです。……いいほうじゃなく」
リタが椅子を鳴らして立った。
「なんでそうなるんですか! 先生は海のこっちにいたんですよ」
「そうだよ。だから都合がいいんだ」
テオの言い方は、いつもより静かだった。
戸口には、順を待っていた女が二人立っていた。
ひとりが荷を持ち直して、一歩さがった。目が合うと、すまなそうに笑って、そのまま帰っていった。
もうひとりは残った。
「先生。あたしは、腰の薬をもらいに来たんですけども」
「ええ。すぐお包みいたしますわ」
包みながら、指がすこし冷たかった。
包み終えたところへ、公館の使いが来た。
公館の広間は、エルンスト卿を迎えたときと同じ卓だった。
ボルク卿が奥にいて、外務の文官が二人。端に式部官のロタールが座り、その手に、まだ紐の跡のついた紙がある。ジェラルドは卓の向かいに立っていた。座らないまま、椅子の背に手をかけている。
「読め」
ボルク卿が短く言った。ロタールが紙を広げた。
「調印の当日、エルデン王太子アロイス殿下は御自らお歩きになって壇へお上がりでございました。段は三つ、手すりを頼まれた由」
「歩けたのか」
文官のひとりが漏らした。ロタールは目を上げずに続ける。
「和睦の紙に、御自らお名を書かれました。……その御名は、読めなかったとございます」
誰かが息を吸う音がして、それきり続かなかった。
「読めなかった、とは」
「字の形はあった。だが誰の名とも読めなかった。殿下は上からなぞられ、なぞったところがさらに潰れた。以上、そのままの文言でございます」
「……続けよ」
「そののち、殿下はお倒れになりました」
ロタールは一度だけ息を継いだ。
「倒れられたのち、殿下は右の手のひらを上に向けて胸の高さへ差し出しておいででした。何かをお待ちのようであったが、その意味の分かる者はその場にひとりもおりませなんだ」
セレナの肩が、ひとつ落ちた。
「そして、一度だけこう仰せられたとございます。――まだか、と」
広間の誰も、その続きを引き取らなかった。
「毒であろう」
文官が言った。
「毒でなければ、あの若さで倒れるか。中庭でもそう申す者が出たと書いてある」
「呪いという説も出ておるそうだ」
「聖女の祈りが解けたのだと」
「祈りで戻るなら、医者は要らぬわ」
声が重なった。
セレナの目に、卓の木目は入っていなかった。
そこにあったのは、七年分の朝だった。
冬も夏も、王太子は目を開けるとまず右の手のひらを上に向けた。胸の高さに。何も言わずに。
そこへ椀を置くのが自分の役目だったから、置いた。ただ置いた。あの形に名前をつけて考えたことなど、七年で一度もない。
当たり前だったのだ。差し出す人がいて、載せる人がいた。差し出す人だけになれば、それはただの、宙に浮いた手だ。
匙が二度鳴る音を、あの方は待っている。
「薬師どの」
ボルク卿の声が、こちらへ向いた。
「そなたなら、分かるか」
セレナは、卓の下で裾を握った。そこだけは、誰にも見えない。
分かる。全部分かる。なぜ倒れたのかも、あの手のひらが何を待っていたのかも、いま王都で何が始まりかけているのかも。
言えば、この卓の全員が、それを聞いた人になる。
「……ボルク卿」
「なんだ」
セレナは、そこで言葉を切ったままにした。
「答えられぬのか。それとも、答えぬのか」
「答えません」
迷う間を置かなかった。
「……なに」
「なぜ倒れたのかも、あの手のひらが何を待っていたのかも知っています」
広間が鳴った。文官が半分腰を浮かせ、ロタールの手が紙の端を押さえた。
「では、申せ」
「申しません」
セレナは裾から手を離し、卓の上でそれを重ねた。
「ここで申し上げれば、聞いた方は全員が知らなかったころへ戻れません。……戻れなくなった方から順に危なくなります」
「……それは、そんなものか」
「そんなものです」
ボルク卿の首が、襟の中でわずかに沈んだ。
この人は今日、わしはそなたを好かん、と言わなかった。三度も言った言葉を、今日は一度も出さない。
言われないほうが、よほど怖かった。
「娘」
「はい」
「では、こちらの立場も申しておく」
卿は身を起こした。
「紙に名がない。読めぬということは、無いのと同じだ。二国の和睦は、今日ただいま宙に浮いておる。そのうえ向こうの王太子が人前で倒れた。民は理由を欲しがる」
「……はい」
「そなたの名が出ておる。エルデンの市中で、な」
文官がうつむいた。
「わしはこの卓で、そなたを庇う理屈を組まねばならん。庇う理屈は、そなたが何も答えぬままでは組めん」
返す言葉は、どこにもなかった。卿の並べた順には、抜けられる隙間が一つもない。
セレナは、卓の上で重ねた手をほどかなかった。
「卿。組める材料なら、一つだけ置けます」
「言え」
「あれは、毒ではありません」
「誰かが何かを入れて、あの方がああなったのではありません。お体の中で起きたことです」
「証はあるか」
セレナは、まっすぐ卿を見た。見たまま、微笑んだ。
「ございませんわ」
広間から、音が引いた。
「……ないのか」
「一つも。……証を出そうといたしますと、さきほど申し上げなかったことを申し上げることになりますもの」
ボルク卿は、椅子の背に体をあずけた。
ジェラルドが、そこで初めて口を開いた。
「ボルク卿」
「なんだ、使者どの」
「和睦の紙は、書き直せる」
「……ほう」
「人は書き直せん。順番を間違えるな」
卿はしばらく黙って、それから「ふん」と鼻を鳴らした。
「使者どのは、いつもそこだけは早いな」
ジェラルドは答えなかった。かわりに腕を組んで、窓のほうへ体を向けた。
セレナは、その背中を見て、少しだけ息ができた。
夕方の調薬室は、いつもより荷が多かった。
イレーネの薬箱が卓の上にある。留め金の紐を、彼女はもう三度結び直していた。
「明日の朝いちばんの馬で発ちます」
「船まで三日、海が三日ですわね」
「はい」
「……間に合いませんわね」
「間に合いません」
イレーネの声から、抑揚が抜けていた。この人は動じると、そうなる。
「二十一番目は、置いてきました。組みかけのまま」
「そう」
「向こうへ着いたら、二十二番目を組みます。それも外します。二十三番目も外すでしょう」
紐が、また解けた。
セレナは棚の前へ行き、そこでいったん目を閉じた。
言えば、この人は書く。書いたものは宰相府へ行く。それは分かっている。分かったうえで、七年黙っていたことを一つ、卓に置くと決めた。
「ザイデル様」
「はい」
「あの白い粉、わたくしが作ったものではございませんの」
紐を持つ手が、そのまま宙に残った。
「……なんですって」
「作っておりませんわ。一度も」
セレナは椅子を引いて座った。
「毎朝、量っておりましたのは本当ですわ。お顔の色と脈を見て匙の加減を決めておりましたのも本当ですの。……ですけれど、あの粉そのものは荷で届いておりましたのよ」
「荷」
「ええ。三月に一度ほど、油紙に包まれて。薬師団の裏の口に置かれておりますの」
「……誰から」
「存じませんわ」
イレーネの目が、大きくなった。
「七年、一度も差出人を見たことがございません。訊いてはいけないのだとも言われませんでした。訊く相手が、どこにもいなかっただけですの」
「師匠は」
「わたくしの師も、教えられておりませんでしたわ。どなたの、何のお薬かも」
イレーネは、椅子に座った。座ったというより、脚が畳まれたのに近かった。
「……わたし、何を組んでいたんです」
「組めないものを、組んでいらしたのですわ」
「十九、外しました」
「外れて当たり前ですのよ」
「二十番目も外しました」
「当たり前ですわ」
「二十一番目も、外すつもりで組んでいました」
イレーネは、そこで初めて声を荒げた。
「なぜ、もっと早く言ってくださらないんです」
セレナは、まっすぐ受けた。
「申し訳ございませんでした」
謝られると思っていなかったのだろう。イレーネの言葉が、そこで途切れた。
「九日もこの卓でご一緒しておりましたのに、わたくしは言いませんでしたわ。言えば、あなたが書く。書けば、宰相閣下が読む。……そう考えて、九日のあいだ黙っておりましたの」
「今日は、いいんですか」
「いいえ」
セレナは、そこで笑った。うまく笑えたかどうかは分からなかった。
「ですから、ひとつお願いがございますの。……海を渡るのは、今日を最後にしてくださいまし」
「二十二番目は」
「組む前に、伺うことがございますでしょう」
イレーネは、袖から四つ折りの紙を出した。もうすっかり手擦れている。
「……書きます」
「ええ。一言ももらさず」
「宰相閣下は、これを読んで何を思うでしょう」
「わたくし、それを見たいのですわ」
セレナは、卓の上で指を組んだ。
「ザイデル様。書き添えていただけるかしら」
「なんと」
「――粉は、どこから来るのですか」
イレーネの筆が、そこで浮いた。
「それだけを、宰相閣下にお伺いしたいと。……七年お預かりしておいて一度も伺えませんでしたと、そうお書きになって」
しばらく、紙の上を走る音だけがした。
書き終えて、イレーネは紙を四つに折った。折ってから、顔を上げずに言った。
「セレナ」
「はい」
「あなたが、ずるいと思っていました。ずっと」
セレナは、卓の上で組んでいた指をほどいた。
「……ええ」
イレーネに答えたというより、自分の手元へ落とした声だった。
「ザイデル様。ずるいついでに、もうひとつ打ち明けてしまいますわ」
イレーネが、顔を上げた。
「七年、あなたと一度もお薬のお話をいたしませんでしたでしょう。……あれ、たまたまではございませんの」
「……どういう意味です」
「わたくしが避けておりましたのよ。……いつも同じ棚の前でお会いしましたでしょう。並んでお薬の話をいたしましたら、どちらが上かがその場で分かってしまいますもの」
四つに折った紙が、イレーネの手のなかで小さく鳴った。
「それが嫌でしたの。……七年ですわ。七年、話しかけずにあなたの横を通りましたの」
「……いまも、少し思っています」
「よろしいのですわ。それで」
イレーネは薬箱を持ち上げ、留め金の紐を、今度は一度で結んだ。
戸口で、彼女は振り返った。
「殿下は、あの手のひらで何を待っていたんですか」
セレナは答えなかった。
イレーネも、それ以上は訊かずに出ていった。
外はもう暗い。リタが灯りを二つ点けて、テオに引っぱられるようにして帰っていった。
卓の向こうに、ジェラルドが残った。
「ジェラルド様」
「なんだ」
「わたくし、今日ひとつ嘘をつきそうになりましたのよ」
「つかなかったんだろう」
「……ええ」
「なら、それでいい」
それだけだった。この人は、いつもそれだけしか言わない。
「怖いですわ」
「知っている」
「膝の裏が、また冷たいのですわ」
「見せろとは言わん」
セレナは吹き出した。笑ったのは、今日が初めてだった。
「お帰りになって。明日も早いのでしょう」
「戸には錠をかけろ」
「かけますわ」
戸が閉まってから、セレナは棚のいちばん奥に手を伸ばした。
布に包んだものを出して、卓の上でひらく。
黒い匙だった。
十四の秋に渡されて、七年、毎朝これで量った。柄の先が、ほんの少し擦り減っている。毎日ひとつのことをしていると、金物でも減るのだ。
親指の腹で、その減ったところをなぞった。
なぞっているうちに、七年分の順番が指のほうから始まった。持ち替えて、匙先を下へ向けて、手首をわずかに返す。考えなくても、そこまでは進む。
卓の隅に、リタが置いていった湯冷ましの椀がある。そのふちに、匙の先が二度あたった。
乾いた小さな音だった。
七年、毎朝この音を鳴らしてから椀を差し出した。鳴らせば、手のひらが来た。
セレナは、匙を持った手を宙に置いたままにした。
音は、いつもどおりに鳴った。
飲む人が、いない。
この匙は、七年のあいだ、自分の作らなかったものを量り続けていた。
あの方の朝をつくっていたのは、自分ではない。自分は、置いていただけだ。誰かが送ってきたものを、量って、置いていた。
そして送ってくる側は、この三月、一度も送らなかった。
送れないのではない。送らなかったのだ。
――あれは、あの方のご病気ではございませんわ。
セレナは新しい紙をひらいて、いちばん上に一行だけ書いた。
白い粉は、どこから来たのか。
七年、毎朝それを量りながら、一度も訊かなかったことだった。
「……あなた、どこから来ましたの」
匙は、答えなかった。
窓の外では、壁の紙を読む声が、まだしていた。




