僕に付け入る隙など無い。そもそも実態などないのだから。
僕は猫又のゲートを通り、時空間を移動することに成功した。あの妖怪に捨てられた世界に必ず再訪する。僕はそう堅く誓って未来に足を進める。これから先のことは誰も覚えていないし知り得ないこと。故に何が起ころうと仕方ない。だから聞いてほしいこの僕の語りを。
ゲートを抜けて即1秒、僕は驚愕した。口は開き、目は見開き、声は出ない。右手にも左手にも力は入らず、ただ弛緩した両腕はだらんと垂れる。僕の目の前に広がっていたのは地獄絵図。そこに灼熱も罵声も存在しない。ただ静寂と死骸があった。静寂と死骸だ。畳に飛び散った血肉。障子を貫いた赤い腕。血塗られた法衣。僕は右腕を前に出す。何かを掴もうと。そして気づく。
「あの時の…天狗じゃないか…」
掴もうと前に出した右腕はそのまま虚空を仰いで垂れる。天狗が死んでいた。あの日僕を襲った天狗が目の前で死んでいた。もし今があの日の続きであるならば、この世界の僕はあの後何があった。天狗に襲われたはずの僕は、どこにいる。
「ココニイル。」
破けた障子の穴から風が吹き込む。血だらけの法衣はヒラヒラと揺れ、まだ乾いていない血溜まりは波紋を示した。その風が通り過ぎるのと同時に僕は言った。眉を顰めて、できるだけ小声で。
「天狗を殺したのは…僕。だろうか。」
小さく開いた口からそんな言葉が出ていった。向こう水に出ていったその言葉は激しく僕の心をかき乱す。
「僕は…なんて奴だ。」
これは独白ではない。そして懺悔でもない。けれど少なくとも罪悪感の針が僕の胸に刺さって苦しい…そんな気がする。和室に倒れた鴉天狗は白い目を向いて動かない。決して動かない彼らは、死んだ目で訴えていた。
憤怒を…恨みを…そして、償いをただ静かに、そう静かに…
僕のせいで、こんな惨状に…
心に針が刺さる…どんどん、次第に、急激に。僕の胸はひどく痛む。痛みを感じ、感じすぎる。ああ仕方ないし、故意じゃない。知らない人。いや、そもそも人でさえ…ない。ただの死んだ天狗。赤の他人。僕を襲った天狗。僕を蹴り飛ばした天狗。僕を殺そうとした天狗。
けれど、それでも。僕は、僕の行いに目を当てれない。そこで横たえている彼らの目を見ることはできない。決して見れなかった。
"目が合うのが怖いから"
再び風が通り過ぎる。今度は僕の髪を揺らして去っていく。畳の血溜まりでの波紋が静まるまで待ってから、僕は息を吐いた。それから深く吸った。この部屋の空気を。血生臭い臭気を。天狗の思いを。ようやくようやく落ち着いた。
心に刺さっていた針は抜けていく。自然に全ての針が取れる。それから僕は天狗の顔を見る。無念も怒りも含んだその顔を。そして目を見る。目を合わせる。僕と死んだ天狗は目を合わせた。だから、僕はそのまま眉間に皺を寄せて、まぶたから涙を出して、それから言った。言おうとした。
「そう騒ぐでない。」
僕の声ではない。ハリのある、女の声だった。
「さっきから驚いたり怖がったり泣いたり。小童か、お前は。畜生が。」
強い口調。そこしれぬ深み。どこかで聞いた覚えのあるそんな気がした。
「非力なうえに泣き虫だと。悲惨な事この上ないな。畜生が。人間でも限度があろうよ。」
後ろからだ。僕の背中から聞こえる。密室であろうこの和室で僕はずっと見られていたのだろうか。考えるだけでも背筋が冷える。けれど僕は悪鬼だ。悪鬼であるはずだ。あの猫又にそう言ってもらったのだから。ハリのあるその声はまたも轟いた。
「お前は人間だ。悪鬼なはずがない。お前ほど人間らしいのはいねぇよ。どの世界にもな。」
でも…猫又は。僕を悪鬼だと言ってくれた。
「妖怪の言葉なんか信じてはいけねぇよ。お前は私と同じ人間だ。」
僕は声の主を確かめようと振り向く。すると僕の後ろ、死角になっていた壁に背を預ける影がそこにはあった。大人の女。見た目は人間。そして僕を凝視していた。これ以上ないくらいに睨んでいた。
「畜生が。はぁやっぱり原始帝の命令はめんどくせぇ。こんなやつを助けろだって。おい、畜生が。早くこっち来い。」
彼女は右手で手招きをする。どうやら畜生とは僕のことのようであった。そして勘づいているのに僕は質問する。聞き覚えのあるハリのある声の持ち主に。
「お前、一体誰だ。」
女は首を回しながら顎を上げて僕を睨みながら言う。攻撃性があって、攻撃性しかない姿勢で言う。
「名は封怪だ。原始帝の命でお前を迎えに来た。いわば私はお前の救世主。」
ふうかい。コイツの名前。そして救世主か。馬鹿らしい。本当に馬よりも鹿よりも馬鹿らしいな。
僕は右拳に入れていた力をさらに強めて封怪に言う。これ以上ないくらい睨んで。準備万端だと言わんばかりに憎しみを込めて。
「今からお前は天狗たちの仲間入りを果たす。歯を噛み締めて死を受け入れろ。」
嘘をつくことはいけないこと。時と場所を鑑みずに嘘をつく野郎は一番許せない。




