奇想天外な鬼の怪談
鬼は速かった。飛影のようであって風を切って行く。山を一飛びで超え、谷を滑空して通り過ぎ、嵐をその頑丈な両足で飛翔して抜け、巨大な船底はいかなる礫も遠ざけた。
鬼は速かった。
あの学校という現実から早々に抜け出し人里離れた山奥に突入したのもそう長い時を要さなかった。伊吹山、伊吹の鬼の里。それはいつも人間からの供物で宴会をする陽気な鬼達。恐るべき剛腕と妖術でその地を支配し土着した神。それが日本神話に出てくる怪異達の王。そう僕は教わった。そういうふうな童謡を、物語を聴いて育った。
けれどもそれはフィクションだったのかもしれない。真実か虚構か。その答えは知り得ない。けれども目の前に広がるのは決して予想とはある意味では違ったと言えた。
「あなた達が、この山の鬼ですか。」
一番近くに居座る赤い鬼が僕に振り返りながら応える。その目元には大きく腫れたあざがあった。
「ああそうだ。天下一と褒め囃された伊吹山の鬼神だよ。」
その声には覇気がなかった。ハエの羽音にも取れるその声量はこの空間にしか届かない。閉鎖していた。
「皆さんは今、何を。」
今度は一番奥で居座る腕を組んだ暗い鬼が応える。開かれた口からは牙が見え、頭に宿る二つの角のうち片方は折れていた。それを恥じることも誇りにすることもなく、ただきつい視線で僕を捉えながら応える。
「お前を待っていた。」
それだけだった。周りの鬼どもは口を開かず周囲に撒き散らされた酒瓶を煽ることもなく、ただ茫然と腕を組んで、それから足を組んで俯いて居座っていた。お通夜といっても良かった。けれどそんな言葉一つでこの状況を片付けるほどの度量は僕にはなかった。
「では僕は何をすれば良いのですか。」
僕は聞いた。先ほどの暗い鬼が表情一つ変えずその鋭い目のまま言う。
「それはお前が知ってるだろう。」
会話になっていなかった。でも僕は続けた。
「分かりました。とりあえず今の状況について聞かせて下さい。僕は全ては知りません。知っているのはあなた達でしょうこれに関しては。」
奥、宴会だろうか、ただ茫然と集合しただけか。それすらもわからないこの閉鎖空間の中でも僕から一番離れて座る暗い鬼。そいつの口は開かなかった。今度の僕の言葉には応えようとしなかった。
「ワシが答えるわ。」
赤い鬼が答えた。僕に一番近く、最初の僕の問いにも答えた存在。どこか諦めていそうでどこか悟っていそうな表情に風貌。眉間に刻まれた皺は他に追随を許さない。口元に生えた髭の密度は類を見ない。要するにこの一団の長老的立場であることは一目瞭然だった。
「ワシらは知っておる。この世が朽ちるのを。仏から聞いたんじゃ。」
僕はとりあえず腰を下ろしてその鬼の集いの中に入る。そのまま俯いたままの鬼どもを尻目に、その赤い鬼の言葉を傾聴した。
「仏は言っておった。北の大地に住まう滅びの怪獣がツキを喰らう時、全ては手遅れじゃと。」
その言いぐさに反応したのは僕だけでなかった。
「荊芥爺、それは違う。西の大地じゃ。」
僕を連れてきた赤い巨大な背中の鬼が叫んだ。低くて腹の底が煮え繰り返るような猛々しい声色。僕の背中は身震いして場は一時騒然とした。
「いいや、北の大地じゃ。ワシは見た。そしてそこに住まう怪獣があのツキを喰らうんじゃ。今もこうしてワシらを照らしてくださるあのツキを。」
その言葉に大勢が今度は反応し返す。ツキが死ぬはずがないだとか、その怪獣は何だとか、ワシは知らんだとか。どちらにせよ一つでも騒々しい声量が閉鎖空間で複数それも叫ぶように広がっている事態に僕の耳は痛めつけられる。僕は両手で耳を塞いで抵抗する。けれども低い地ならしのような声は手を貫いて鼓膜に響く。どうしようもなかった。痛かった。
「黙れ…口うるさいのは化かされてからにしろ。」
『化か』と『馬鹿』がかかっていたと言うのは口が裂けても言えなかった。けれどもその言葉のおかげで場は静まった。
荊芥爺は続けて行った。
「その滅亡の一つ手前じゃ。それがここじゃ。」
ここ。今ということだろう。状況は掴めた、予想していたのとどうやら同じらしい。ならばあの赤い背中に乗せられていた時に導いた、そんな答えが的を射ているかもしれない。
「その滅亡、なぜ生じると思いますか。」
僕は聞いた。荊芥爺だけではない。再び俯いて座る鬼達全員にだ。いや、それだけでもない。周囲に撒き散らかされた酒瓶の付喪神。この屋敷の建材にこの閉鎖空間の空気にも尋ねた。この問いはある個体に尋ねるものではないし、答えを求めるものでもない。答えは僕がもう気づいている。だから考えさせたいのだった、この伊吹山に。
分からん、そんな答えを浮かべながら眉間の皺を一層刻み、俯いたまま答えようとしない鬼神達。荊芥爺ですら口を開いたまま大きな牙を見せるだけ見せて虚空を見ていた。付喪神は動きを止めたままで、閉鎖空間の空気は動くこともなく、無風のまま。やはりお通夜、けれど、お通夜だけではなかった。答える鬼がいた。
「群集であれば異常性が発現しないこと、それが滅亡の因果だ。」
この場で一人弱気を見せず、余所者の僕をきつい眼球で捉える鬼。奥に居座る威風。口から覇気を出し、頭髪は龍のように暗く硬く。それはそれは不気味で名を伊吹童子と言った。




