全ては自然なことだった、そうだろう?
怪異譚を歌う。それがどんなに難しいことか知らなかった。
怪異が出ればその怪異によって語らされる。それは怪異譚を歌うのではなく歌わされている状態。逆に怪異が出なければ怪異譚は語れない。怪異譚を歌うのではなく歌詞そのものがない状態。
だから怪異譚を歌うのは不可能だ、と。そう正直な感想、思ってしまう。
けれど僕はそれを踏まえて立ち上がった。それにその能動的行動は僕が完全主義者じゃないことを意味している。そんな意味を持たせるためにも立ち上がったのだ。
先ほどの論理から抜け出すためにこういう考えが生まれる。何も完璧に怪異譚を歌う必要はないのだ、と。だって怪異譚そのものが曖昧なお話なのだから。物語ではないお話だ。昔話だ、信憑性のない、面白ければ良い、そんな怪談だ。怪異譚は必笑、そんなものだ。
それを歌うということは、歌詞があるから歌っているのか、歌詞関係なくただ歌っているのか。そんな細かいことを気にしてどちらかの正しさを証明する輩はそういない。そして僕もそんな輩ではない。あの男が一方的に怪異譚を歌えと言ってきて、世界が一方的であるから俺が一方的であることも自然なことだと言って開き直るのであれば、僕もまた一方的に拒絶してもよいのだ。
つまるところ精神だ。
僕の精神の問題なのだ。あの男の命令を拒絶できるのか、それとも完璧主義を諦められるのか、そういった心の問いなのだ。心の持ちようなのだ。
だから僕は何度も苦しんだ。それは怪異が僕を苦しめている訳だけれど決して直接首を絞めているのではなかった。いつだって長い長い迷路のような内省が僕の首を絞めているのだ。その内省は僕の両腕であって、自分で首を絞めていたのだ。
僕の苦しみは僕が苦しもうとするからやってきた。僕が拒絶できればやってこない。そして苦しみを諦めれば苦しまない。
拒絶と諦観。
簡単な話だ。問題にしなければ問題にならないのと同じで、苦しまなければそこに苦しみはないのだ。
だから僕はこうしてやっと、ようやく解放されるのだ。自分の両腕の使い方に気づいたから。
それでもこうしてみると順序の大切さに気付かされる。全てにおいて順序が大切だということはあり得ないが、大切である時は必ずあるのだ。その時というのが僕にとっては、世界への見識であったのだろう。
髭の男が危惧したように、勝手に世界について一定の理解をしてしまったのが良くなかったのだ。自分でも辻褄の合わない見識だ、と当時から言っていた。そんな辻褄の合わない見識、一人走りしたそいつが物語の順序を狂わせ、ひいては怪異譚を歌うためだったのに、怪異譚が歌えない世界に髭の男が僕を導いた因果なのだ。
世界が異物を一時脱離させるような感覚で、辻褄の合わない理解をしてしまった僕を何もない世界に拘束した、隔離したのだ。
だから怪異が居なかった。
だから何も出来なかった。
であれば、何が良くなかったのか。そう、それはもちろん、僕の辻褄の合わない世界への理解だろう。世界はこういう者だという、独りよがりな憶測がたまたま見事に的を射ていたのだ。それが偶然か必然かは世界にとって重要でなくそう言った憶測が生まれたことが問題だったのだろう。
あの通行人の親子が変に的を射た会話をしていたことが僕にとっての問題であったように、僕にとっての憶測が世界にとっての問題だったのだろう。
そう、世界という名のあの男にとっての問題だったのだ。そしてこの導かれた答えは辻褄の合った正解だ。
ここまで順序立ててくれたならようやく僕が一定の理解をしてもおかしくないとあの男は認めてくれる。
だからあの男は僕が本格的に僕が怪異譚を歌う前に世界に対して僕が歌うための資格、つまり辻褄、順序を整えるためにこの世界に僕を導いたのだ。
と、ここまで理解が進めば僕は次に何をすれば良いのかがわかる。ようやく立ち上がったこの僕が次にどう動けるのか、その詳細が明らかになる。
これすらも僕の憶測だが、前のような勝手な憶測ではない、順当な憶測だ。それの正確性は問われない。大事なのはその憶測を僕がしたことと、それに僕が従うということ。
立ち上がっただけだった僕はこれから歌えるようになるのだ。世界にとって順序を重要視するその姿勢に気づいた僕はようやく怪異譚を歌えるのだ。辻褄の合わなかった見識は、こうして無意な世界で過ごすことで気付いたとみなされ、もはや今の僕ならそれくらいの見識があっても普通だと考えてもらえる。そうすればもう問題などない。
だから隔離するという行為は終わりを告げ、僕が怪異譚を歌う資格、正当性を得る。
そういうことだから僕は立ち上がった。そしてその立ち上がった肩に冷たい爪が乗せられるのを感じて一つ。
口角を上げながら、ようやく始まる僕の舞台に心を震わせ歌ってみる。
「北欧神話がいかにしてこの世界を席巻したか、その昔話を知りたいか。」




