言い訳。世界への挑戦
人違いとはどうやら幾分にも恥ずかしいことであるらしい。その証拠に僕の顔は赤面する。それは羞恥のせいであって決して体調がすぐれないことを意味するわけではない。だから当然、頭大丈夫か?という心配にも似た挑発には頭を振って違いますと答えるほかならなかった。
8月8日の学校の中庭。暖かな夏であってもその夜、それも屋外であれば冷えることも、もちろんある。そんな底冷えの環境下で横たえていた僕を発見者が心配することも、もちろんあるだろう。
僕の前で突っ立っているそのおっさん教師は、かのように言った。
「とりあえず絶対下校だ。俺は黙認してやるから早くかえろよ。」
かのように言う。そしてかのように帰る。ハエのように素早く、けれども人間らしく足のついた足取りで、影がついたその背中は遠ざかっていく。彼は激昂する訳でも糾弾する訳でもなくただ見逃した。僕を見逃した。
それは僕に無関心であることも意味し、同時に大人の器が広いということを見せつけたようであった。風が靡いて僕の頬を撫でる。そして去る。無風になってから僕は月に顔を向ける。動かないけれどその光はどこよりも明るい。
口を閉じて僕は黙った。消え行くその背中をぼうっと眺めながら、ただ風を感じながら居た。木陰から動かずに座ったまま僕は居た。僕は座って居た。それから僕は顔を地面に向け直す。月は僕には明るすぎたようで、暗い夜の草原の底の土砂が似合うようだった。そのただのノイズのような、砂嵐の砂そのもののような土砂をただずっとひとしきり眺め終えた後、眼を瞑り小さく呟く。誰にも聞かれないように、そして誰も聞かないように。
この世界に僕は必要ないだろ。
それは嘆願でもあり言い訳でもあった。そしてそれを叱る者がいないのも事実だった。その呟きはやはり小さすぎてすぐに潰える。中庭の木陰から響くことはなく、古池の湖面を波紋させる小石のようでもなかった。つまり何でもなかった。ただの呟きでしかなかった、独り言。
何のためにこの世界にやってきたんだよ。
それは僕が今手持ち無沙汰であることの言い訳のようであり、自分の無力さに憤りを感じる初老の風なやさぐれでもあった。つまるところ枯れ木のようであった。
中庭に生える元気ある木の木陰に横たわる枯れ木。木の木陰に居たから光合成できず枯れて枯れ木になったのか、元から枯れ木だったのか、枯れた後、元気ある木がそばに生えたのか。順序は定かではない。
だからなかなかどうして順序は定かではない。だから順序は分からない。なので順序を気にしてはいけない。ということは順序はどうでも良い。であるならば順序は不必要だ。
もし僕が先に猫を助けてから教師に出会ってやさぐれるという順序も、僕が教師に出会ってやさぐれた後、猫を助けてそれでもやはりやさぐれたという順序も、そもそも猫を助けずにただやさぐれて居たというのも同じではないか。ただ語りが違うだけで結果は同じではないか。けれども順序が違うという結果、内容が違ったという結果が生じる。最後の結果は同じでも内容が同じだという結果が生じる。
難しい話か。難しい話だろう。だって、珍しく僕は考えているのだから。考えるから難しい話になるのか、難しい話だから考えるのか。これも順序の話だ。物語の話として具体的に猫を助けるとかやさぐれるとかそう言った類の順序を指摘すれば。なるほど順序は重要そうに思える。
けれどそれはただ辻褄が合うかどうかであって、詰まるところ辻褄さえ合えば順序などどうでも良いのではないだろうか。だからか回想するのだろう、だから過去を憂うのだろう、故に思い出話をするのだろう。
ならば、そうであるならば。順序はどうでもよく辻褄が合っていれさえすれば良いというのであれば、そう言った論法をたとえ荒唐無稽で不適切でも適用させるのであれば。僕は動ける。動くことができる、可能になる。
それはなぜか。簡単だ、動きたかったからだ。動きたいから動くための論法を唱えたのだ。そうでないように言っているが実はそうなのだ。論法を唱えた結果動けるようになる訳ではないのだ。でもそれをそのまま言うのは駄目なのだ。それだと論法など要らなくなる。大義名分として、あくまでも形式として必要だったのだ。
つまり僕は初めから動きたかったのだ。だから一度止まってみたのだ。やさぐれるという精神的な停滞も、木陰で休むという物理的な停止も全ては動き出すためだったのだ。そのためだったのだ。
そしてそれを今、言い訳としてあるいは主義として僕は再度唱えた。
ふう、なかなかどうして手こずらせてくれるじゃないか。
そこまでして僕に怪異譚を歌わせたくないのか。
けれどそうだな、どんな怪異譚を歌うか、その詳細は決めて居なかっただろう。
だから正体のない怪異譚でも許されるだろう。
僕は立ち上がった。それからこの二つの眼球で月を睨んだ。
8月8日。そに日に容赦なく喰われた満月を。




