目を覚ますとそこには追憶と言う名の日常が広がっていた。
桜に別れを告げてから。僕の中の時計は今までずれていたようで、桜の世界から抜けた後、その時計は修復された、そんな意識があった。詰まるところ、自分についての莫大とした疑念や不信が剥がれ落ち、ある種の人間として確固たる定義を得た感じであった。
それは鬼でも不死鳥でもその怪異を持った自分が他の何かに変わるときに何かが剥がれ落ちる感覚と似ているともいえた。そう僕の常用辞書で言うならば鮮明に定義された何かに成り上がったということであろう。
成り上がった、成り下がった。この言葉の差異は気にしなくて良い。そう、言葉は語るための道具で言葉が本質そのものではないから。そう言う意味で言葉というのは嘘つきなのかもしれない。
そんな独白。こんな独り言。それを十分に言うことができるくらいには僕は安定した安全が約束されているであろう状況にいた。
つまり元の世界。
されど世界。
世界という枠組みがいかに許容できる言葉なのかはわからない。けれど僕は天狗の住まう和室でもなく、月がくり抜かれた後輩世界の片隅の教室の中でもなく、巨浪が居座る大聖堂でもない、人間世界とでも言えるであろう場所、地名、世界に戻れたと言える。
故に安心できる。僕が今何なのかもわかる。ああ、実感する。何かの怪異として世界を転々としていた時は自分の存在に絶対的安心はできなかった。けれどこう、一つことが終わった後、見覚えのある世界に戻れば自ずと適応する。
人間という自分に。
懐かしい。あぁ懐かしい。
こんな馬鹿げたヒトリゴトを言えるこの環境が懐かしい。この語り口が懐かしい。
ああ、そうだった。元の世界、元の環境というばかりで具体的な今の僕を語っていなかった。今の僕について語る緊急性がない、それほどまでに僕は今の自分に満足と安堵をしているわけであるが。
僕は今、とあるカフェにいる。
「YG』という店名。
うん、YGとは妖気殺しの略称だろうか。咄嗟になんの略称かと言われるとこんな野暮なことしか思いつかない僕はやはり怪異だった自分の過去に毒されていると言えるだろうか。
それでも妖怪殺しと僕が想ったこのYGというカフェは妖怪を殺し尽くした後の静けさを体現したような雰囲気であった。焙煎された豆を用いたコーヒー。その飲み物から沸き立つ湯気が僕の鼻腔をくすぐる。1月7日の寒さが強調された今日。暖房がついた店内は居心地が良く眠りこける客もいる。僕は寝ないが。
厳密には、寝れないが正しいが。
怪異であった過去をもつ僕には後遺症と世間では言われる症状が今ある。怪異の後遺症。鬼であった過去があるからか、りんごを片手で潰せたり。不死鳥であったせいか寒さに強かったり。まあそんなものである。副作用として困るものとしては緊張状態が続くせいか寝る行為自体不可能になったことである。眠気がないだけでなく目を瞑っても思念が暴走して寝られない。
そんな自分がたとえ人間らしくなくてもまた、後遺症があってもいや後遺症があるからこそ、今の自分が確実に怪異から切り離された人間であるだろうと考えることができる。
あれから不可思議な対象とは出会わなくなったし。といってもこの世界に戻ってからまだそこまで経っていないが。
とりあえず僕はこの後遺症を持ちながら、常人とは少し違った道を歩みながら、時には妬まれ時には笑われながら、あの壮絶な過去のことも次第に忘れていきながら、僕は生きて、それから死ぬ。死ぬだろう。そういう無意識かの暗黙の了解が僕中では確かにある。
それは切ないだろうか。喜ばしいことだろうか。
注文したキリマンジャロを口内に注ぎながら思う。考える。
どちらにせよ、僕は戻った。この世界に。そして人間に。
それが何よりも嬉しくて少し悲しい。
なぜか、なぜか、あの日が羨ましいと思う自分がいる。
それは、なんだろう。
それは、なんでしょうか。
謎が解けきっていないのに宙吊りにされたあの苛立たしい感じ。厄介なことで危険だったからこそ答えを知っておきたかったあの思い。常人の人生では経験できないであろう壮絶な出来事を通った上での焦燥。
僕はこの世界に戻ったのではない、あの世界から見捨てられたのではなかろうか。
キリマンジャロが注がれたカップは静かに机の上に戻される。
背中から寒気が伝わる。ブルブルと小刻みに震えた後、僕は店内の窓から見える冬景色を盗み見る。
僕は…
死にたいわけじゃないし、危険なことがしたほどMでもない…それでも僕はあの世界に未練がある…僕の語りはあの世界に関連したことしか語れない…
語りたいからではない…僕はそうだ。あの世界が好きだったから。そうだろう?僕。
このままこの世界で朽ちたくない。
だから、いや、あの世界で聞き馴染みのある言葉を僕がこの後遺症を持った体で聞いたのか。描きされたのか。索敵してまで拾い上げたのか。真相はわからない。けれど。
「お前が必要だ。殺した償いは俺がとる。」
そういうふうな戯言を、聞いた人間がいた、もちろん僕のことだ。ああそうだ。この「妖怪殺し」で有名なYGという店内に。




