混沌とした世界
「私を殺してくれ。」
老天狗が口に出したその祈りは呪詛となって悪鬼を襲った。償いのために蘇生を行なったという悪鬼の行為は、天狗本人に否定された。禁忌を犯してまで償おうとした己の行為の不甲斐なさに気付いた。陰陽師を殺し、語り、そして人間をも捨てた鬼に成仏することは許されない。
語りという役目を捨てた悪鬼には、役目も誇りも価値もない。
怒号が聞こえた。一人の叫び。孤独の恐喝は山をこだまする。それに老天狗が答えた。
「お前はもう悪鬼にはなれない。だから人間として死になさい。これまでの罪は背負い、決して償おうとするでない。お前はせめて、人間として死になさい。」
老天狗の慈愛に満ちた言葉を悪鬼は無視する。もうすでに彼にとって、老天狗は償いの対象ではない。ただの天狗。ただの怪異。彼にとって一柱だけ生かされた天狗は異質そのものであった。周囲は血を流して死んでいる天狗の骸。そこに生きた天狗が一つ。だから彼は殺す。この天狗を。そこに感情はない。悪鬼としての怪異の調整役としての本能だ。全滅させる方がこの世界の秩序にとっては随分と良い。
だから、往ね。
ふぅ…
…だから、また一人だ。
風が悪鬼の肩を撫でる。冷たくなった老天狗を避けるように風はこの部屋を去る。もう誰もこの部屋にはやってこない。外に通ずる隙間を通って風も光も逃げていく。太陽は西日を強め部屋の空気はまた一段と臭気を漂わせた。
(あまりにも血が流れてしまった。もうここにはいられない。)
彼は風を追うように、または老天狗の死体から逃げるように部屋を出て屋敷を抜けた。巨大な足で大地を踏みつけながら駆けた。大地に衝撃が走る。命があまりにも捨てられたこの伊吹山で鬼は駆ける。
一人。故に孤独。孤立ではない。孤独であった。駆け出した足は止まることを知らず山の斜面を下っていく。どこへ向かう。悪鬼は誰もいない、誰も知らない、どこでもないところへ向かっていた。
語りという任務を捨て、居場所から逃げ、そして自分の正体からも逃げる。そんな悪鬼。けれど人間。もうわからない。悪鬼を捨てれば何になる。人間を捨てれば何になる。語りを捨てれば何になる。
誰も知り得ない。知りうることもできない。できないしわからないしやりたくないし怖いし嫌いだ。
ナイナイナイナイナイナイナイナイナイナイ。
駆け続ける両足は止まることを知らず草原を駆け抜ける。山はとっくに離れ太陽は堕ちた。雲に隠れた月の残光が鬼の額を照らす。誰からも逃げるその悪鬼を照らす。その残光もじきに隠れる。雲に隔てられた月光は鬼を見捨てた。三途の川を越える。鬼は猪突猛進で駆ける、この混沌極まりない世界を。そう混沌極まりない世界。それは語り手がいないから。
語り手がいない世界で、語り手を拒否した悪鬼しかいない世界でなぜ物語が進む。このまま物語として続くと信じるものは愚か者だ。信じることはすがること。勝手な理想の押し付けは愚かだ。だからこの物語は続かない。文脈関係なく突然止まるであろう。
鬼は原野を駆ける。そこに意味があると信じて。意味があるという理想を世界に押し付けて。語らずとも押し付けることで物語を進めることができるはず。そのために鬼は駆けている。そう鬼は物語を続けようとしている。償いのためかそれとも…
鬼がどう尽力したとしても物語が止まる運命は変わらない。それは語り手はいないから。だから誰からも忘れられる。そうなれば本当にこの世界は止まる。鬼の額から水滴がこぼれた。なぜだろう。なぜだろうか。なぜだ。
世界が止まる。それを避けるなら。避ける必要がもしもあるなら。その必要があると感じるものがまだいるなら、そうであるならば、そうあるとしたら、語り手はやはり生まれる。生まれるべくして現れるはずだ。
巨大だった両足は次第に縮小していく。黄金だった目は黒い小さな目に変わる。口から突き出していた牙は抜ける。立髪のようだった髭は枯れていく。
風が彼の背中を支える。走り続けるようにと彼を押し出す。走り続ける彼の体から悪鬼は剥がれ落ちていく。剥がれ落ちた体に人間が宿っていく。彼の駆け足は落ちていた。両足の筋肉は疲労困憊で肺は悲鳴をあげていた。だから彼は立ち止まる。
(あぁ本当に物語は止まってしまうのか。)
その時世界が動いた。風は木々を揺らした。雲を払って月はその白銀色の月光を撒き散らした。その閃光は彼の涙を照らした。そして大地が揺れた。地殻が動き地表が揺れた。地震を大地が引き起こしたのだ。それは世界が世界を動かしているようであった。物語が止まることを世界は拒絶していたのだ。
悪鬼でももはや怪異でもない、ただの人間。この物語のために、ただの人間は再び走り出した。
筋肉はちぎれ、肺は裂ける。けれど足は止まらない。それは拒絶された償いだから。
ただの人間風情は走る。大地はうなり木々は騒いでいる。風は荒れ狂い月は正体を見せている。世界に押された人間はようやく辿り着いた。どこでもない場所にたどり着いた。
そこはどうしようもないくらい平凡な場所。小動物も魚もいない。小さく見窄らしい古池だった。
任務遂行_到着_
世界は静まり返った。もう語り手を担う必要はないと悟って。
(舞台は彼らに任せよう。)
風は泣き止んだ。大地は止まった。月は再び雲の奥に隠れた。そして彼は彼の使命から隠れるのを止めた。
僕は腕を掲げた。天頂を突き刺すように高く清く。そして僕は瞼を開き湖面を見つめた。
(まだ来ないか…)
あいつを、僕は逃がしたままではいけない…もう一度話さないといけないだろう僕とお前は。
未来はまだ死んでいないだろう?僕はまだ生きてるから。
僕は言葉を反芻するように溜めて、それから言った。
「僕が怪異譚を歌おう。」
古池から僕の影が見えた。




