2-13 ぶっきらぼうな白のひと
男の姿を覆っていた雪が雨へ溶け、辺りに元の蒸し暑い空気が戻ってくる。
腕の中へ視線を落とす。
アンジェの脇腹に開いていた傷は、投げられた治癒薬によって塞がり始めていた。完治には程遠いものの、青ざめていた顔には僅かに血の気が戻り、乱れていた呼吸も少しずつ整っている。
傷口を押さえながら、アンジェの胸が上下していることを確かめる。
温かい。
柔らかい身体の中で、確かに命が動いている。
張り詰めていたものが一気に緩み、視界がぼやけた。
大粒の涙がアンジェの頬へ落ち、濡れた毛並みの上を滑っていく。
「よかった……アンジェ、生きてる。よかった……」
誰かの温もりを、これほど嬉しいと思ったことはなかった。
大切な仲間を失うところだった。
未熟であることは自覚していた。危険を感じたら引き返すと、何度も約束していた。
それでも、誰かを助けたいという気持ちだけで進んだ結果、俺たちは簡単に追い詰められた。
信念さえあれば正しい行動ができるわけではない。
力が伴わなければ、その信念が自分だけでなく、大切な仲間まで危険へ巻き込んでしまう。
ぽつり、ぽつりと雨粒が頬を打つ。
僅かに差し込んでいた空の明かりが、何かに遮られた。
滲んだ視界のまま顔を上げると、俺たちを助けてくれた白髪の女性が、険しい顔で見下ろしていた。
お礼を言わなければ。
そう思って口を開きかける。
しかし女性は俺を無視し、アンジェのそばへ片膝をついた。
首筋へ指を当てて脈を確かめ、傷口と呼吸の状態を素早く確認する。その手つきは、先ほどまで剣を振るっていた人物とは思えないほど慎重だった。
「脈はある。薬も効いてる。すぐに死ぬ状態じゃねぇ」
その言葉に息をついた直後、女性は俺へ向き直った。
胸倉を勢いよくつかまれ、顔を引き寄せられる。
「それで、てめぇは正気か!? あの状態で、何で長ったらしい詠唱なんぞ始めやがった!」
「ひっ……ご、ごめんなさい」
「謝れば済むか、ど阿呆! 私が止めなかったら、お前ごと周りが吹き飛んでたぞ!」
「ふ、吹き飛ぶ……?」
「分かってなかったのかよ!」
女性の怒鳴り声が、雨の森へ響き渡る。
「森を進んでたら、急に空気が重くなりやがった。魔力が周囲へ漏れ出して、流れまで歪んでたんだ。魔力暴走を起こす直前によく出る兆候だ」
「魔力暴走……」
「それも、試験のときみてぇな可愛い規模じゃねぇ。あのまま詠唱を完成させてたら、お前の身体が耐えられずに弾けてた。下手すりゃ、そこの獣人も店主もまとめて炭屑だ」
「そんな……」
「自分が爆発する感覚も分からねぇのか? 何で、ひょろい豆もやしみてぇなお前が、あれだけ馬鹿みたいな魔力を持ってんだよ」
知らない。
自分の魔力が、そこまで危険な状態になっていたとは思わなかった。
ただ、アンジェを助けなければならないと、それしか考えられなかった。
視線を落とすと、胸倉をつかんでいる女性の腕で、銀色のものが光を反射した。
細い腕輪に、見覚えのある紋章の飾りが下がっている。
鷲と剣が交差した、冒険者ギルドの紋章だ。
「あの……あなたは、ギルドの……?」
「ようやく気づいたのか。目まで節穴か、てめぇは」
「す、すみません!」
「謝ってばかりで鬱陶しい。私はネージュ。ウノーに尻を叩かれて、てめぇらの後始末に来た」
「ネージュさん……」
「さんはいらねぇ。気色悪い」
ネージュは吐き捨てるように言い、ようやく胸倉から手を離した。
よれた襟を直していると、小瓶を乱暴に放られる。
慌てて両手で受け止めた。
「飲め。魔力じゃなく、体力を戻す薬だ」
「でも、高そうな薬をまた……」
「支給品だ。ぐだぐだ言わずに飲め」
「ありがとうございます」
「仕事でやってるだけだ」
促されるまま蓋を開け、中身を飲み干した。
薬草の苦みと強い刺激が喉を通り抜ける。
数時間にわたって蓄積していた緊張と疲労が、じわじわと解けていった。身体の重さが僅かに抜け、擦り傷の痛みも和らいでいく。
拳を握ってみると、手のひらに広がっていた赤いひび割れも、少しずつ塞がっていた。
これなら、アンジェを背負って歩ける。
自分の身体へ最低限の強化魔法をかけようとしたところで、ネージュに手首をつかまれた。
「また魔法を使おうとしてんじゃねぇ」
「でも、アンジェを運ぶために……」
「薬で動けるようになった途端、懲りずに魔力を使う馬鹿がいるか。今のお前は、自分で思ってる以上に空っぽだ」
「それじゃあ、どうやって二人を――」
「おーい! ネージュさーん! 一人で先に行かないでくださいよ!」
森の奥から、息を切らした青年が走ってきた。
昨夜ネージュと一緒に村へ向かっていた、ギルドの同行者らしい。
青年は俺たちと倒れている店主を見比べ、すぐに表情を引き締めた。
「怪我人が二人ですか」
「獣人はそこの坊主に背負わせろ。お前は店主を運べ」
「了解です」
「坊主。歩くための強化は私がかける。てめぇは一滴も魔力を使うな」
「……はい」
「返事だけはいいな」
ネージュが片手を上げる。
淡い光が俺の身体を包み、脚や背中へ力が満ちていく。自分で使う強化魔法よりも穏やかなのに、身体が驚くほど軽くなった。
アンジェの傷に触れないよう慎重に身体を起こし、背中へ負ぶう。
温かな呼吸が首筋に当たった。
青年も店主を背負い、固定するための帯を結んでいる。
「動けるな?」
「はい」
「途中でふらついたら、意地張らずに言え。二人まとめて転ばれたら面倒だ」
「分かりました」
「分かったなら行くぞ」
ネージュは剣を抜いたまま、先頭に立って歩き始めた。
邪魔になる草や枝を払い、周囲だけでなく、ときおり空にも目を向けている。
歩く速度は速いが、俺たちが離れ始めると、何も言わず僅かに足を緩めてくれた。
「ネージュは、ウノーさんがあとから来ると言っていた冒険者なんですよね?」
「さっき言っただろ。あいつに押しつけられて来ただけだ」
「ポーションも、ありがとうございました。それから、助けてくれて」
「聞こえなかったのか? 全部仕事だ」
「それでも、ネージュが来てくれなかったら、俺たちは……」
「礼を言う暇があるなら、足元を見て歩け。そいつを落としたらぶっ飛ばすぞ」
「はいっ!」
ぶっきらぼうに告げたネージュの横顔へ、風に煽られた長い白髪がかかる。
表情は見えなかった。
それでも、先ほどから何度も後ろを確認していることには気づいていた。
森を抜けて村へ戻ると、知らせを聞きつけた大勢の村人に取り囲まれた。
無事だったのか。森で何があった。怪我をしているのは誰だ。
四方から一斉に声を浴びせられ、何から答えればいいのか分からない。思わずアンジェを支える腕へ力が入った。
「うるせぇ! 怪我人の邪魔だ、道を空けろ!」
ネージュの一喝で、辺りが一瞬にして静まり返る。
「質問はあとだ! 診療所はどこだ!」
「あ、あちらです!」
一人の村人が指さし、人垣が左右へ割れた。
店主の姿に気づいた者たちから、安堵の声が漏れる。
よかった。
無事に連れ戻せた。
ようやく実感が湧き、肩から力が抜ける。足元が僅かにふらついたが、背中のアンジェを落とさないよう踏みとどまった。
店主とアンジェは、そのまま診療所へ運ばれた。
店主はひどく衰弱し、軽い脱水症状も起こしていたが、命に関わる外傷や毒は確認されなかった。
アンジェは治癒薬によって一命を取り留めたものの、失った血が多く、しばらく安静が必要だという。
傷を洗浄し、薬と包帯による処置を受ける。
意識が戻らないことが不安だったが、治療師からは、身体が回復のために眠りを求めているのだと説明された。
騒ぎを聞きつけた村長への説明は、ネージュが引き受けてくれた。
話が終わり次第、ビスの工房で合流する約束を交わし、俺はアンジェを休ませるため、先に工房へ戻った。
客室のベッドへアンジェを寝かせ、その傍らへ腰を下ろす。
診療所で処置は受けている。それでも、何もせずに見ていることができなかった。
今度は詠唱を使わない。
傷を無理やり塞ぐのではなく、身体が持つ治癒の力をそっと後押しするイメージで、僅かな魔力をゆっくりと流していく。
森にいたときと違い、ここは安全な場所だ。
呼吸を整えながら魔力を注ぐと、青ざめていたアンジェの顔へ、少しずつ血の気が戻ってきた。
その顔を見ていると、目の奥が痛み、涙が滲んでくる。
震えそうになる手へ力を込め、アンジェの状態だけに意識を集中させた。
生きている。
それだけでいい。
店主も、アンジェも、無事に戻ってこられた。
けれど、それは運がよかっただけだ。
もし、あのとき詠唱を最後まで口にしていたら。
ネージュが現れなかったら。
その先を想像しただけで、胸の奥を強く握り潰されたように痛んだ。
どれほど、そうしていただろう。
答えの出ない問いを何度も頭の中で繰り返しながら、アンジェの顔を見つめ続けた。
俺を守ってくれた大きな手へ、ときおり触れては、その温もりを確かめる。
数分だったのか、それとも数時間だったのか。
気がつけば窓の外には星が瞬き、虫の声とアンジェの寝息が静かな部屋に溶け合っていた。
不意に、扉が小さく叩かれた。
アンジェを起こさないよう、音を立てずに扉を開ける。
けれど、目の前には誰の姿もない。
不思議に思って視線を下げると、小さな顔がこちらを見上げていた。
「にいちゃん」
「ジェスくん。どうしたの?」
小さな来訪者の手には、桶と布が抱えられていた。
そういえば、アンジェのことにかかりきりで、自分の着替えすらままならなかった。
「これ、持ってきた。使って」
「ありがとう。自分のこと、すっかり忘れてたよ」
「うん。あの……」
「ん?」
「背中、拭いてあげる」
こちらが遠慮するより先に、ジェスは部屋へ入ってきた。
アンジェのベッド脇にあるテーブルへ桶を置き、布を濡らして固く絞る。その間も、大きな目は何度もアンジェの様子を窺っていた。
穏やかに眠る顔を確かめると、ジェスはほっとしたように肩の力を抜いた。
森で起きたことを、すでに知っているようだ。
あれだけ大勢の村人が騒いでいれば、耳へ入らないほうが難しい。
深く傷ついている少年へ、さらに新しい不安を与えてしまったことが心苦しかった。
小さな頭を撫で、空いているベッドへ腰を下ろす。
装備を外し、汚れた上着も脱いでベッドの上へ置いた。
自分で手の届くところを拭いていると、爽やかな香りに気づく。桶を覗けば、ハーブの葉が数枚浮かんでいた。
布を受け取ったジェスが、背中を拭き始める。
少し冷たい感触が心地よく、張り詰めていた気持ちがゆっくりとほぐれていった。
背中を拭く手には、子供とは思えないほどしっかりと力が込められている。きっと幼い頃から、職人として修業を重ねてきたのだろう。
「にいちゃん、あの魔物を倒したんでしょ?」
「俺じゃないよ。ギルドから来てくれた人が追い払ってくれたんだ」
「……それでも、店主さんを見つけてくれて、ありがとう」
「うん。でも、もっと強くならないとね」
ジェスの手が止まった。
ためらうような浅い呼吸が聞こえる。
それでも、少年は弱音を吐かず、布を握り直した。
「僕、おじさんの靴を完成させるんだ」
「うん」
「最後まで作って、おじさんと一緒に始めた仕事を、ちゃんと終わらせる」
「きっと、いい靴になるよ」
「うん。絶対に完成させる」
「完成したら、胸を張ってヒューゴさんに見せられるね」
「……うん」
背中を拭き終えたジェスは、桶を持って立ち上がった。
目元と鼻にはまだ赤みが残っている。それでも、その瞳に涙はなかった。
固く結ばれた口元を見る。
この少年はきっと、いつか立派な職人になる。
理由を説明することはできないが、自然とそう思えた。
「おい、入るぞ」
ぶっきらぼうな声が聞こえた直後、こちらが返事をするより早く扉が開いた。
白髪の剣士――ネージュが、立っている。
上着を脱いだままの俺と、桶を抱えたジェスを交互に見たが、特に気にする様子はなかった。
「明日、ギルドの調査班が来ることになった。今日あったことを、順番どおりにまとめておけ」
「分かりました」
「記憶が曖昧なところは、勝手に埋めるな。分からねぇなら分からねぇと書け」
「はい」
「あと、今夜は魔法を使うな」
「でも、アンジェの治療が――」
「診療所で処置は済んでる。これ以上、素人が余計な魔力を流すな。助けた相手を、てめぇの焦りで悪化させたいのか?」
「……分かりました」
「分かったなら寝ろ。ひでぇ面してやがる」
「あの、ネージュ」
「あ?」
「アンジェのこと、気にして来てくれたんですか?」
「調査の説明に来ただけだ。自惚れんな、豆もやし」
ネージュは吐き捨てるように言うと、眠るアンジェへ一瞬だけ目を向けた。
呼吸と顔色を確かめたように見えたが、何も言わずに踵を返す。
「おやすみなさい、ネージュ」
「……さっさと寝ろ」
乱暴に扉が閉められる。
その足音が廊下の向こうへ消えるまで、俺とジェスは顔を見合わせていた。




