2-12 現れた白のひと
男が杖を構えた瞬間、大地が低く震え始めた。
ひび割れた土が次々と盛り上がり、鋭い槍へ形を変える。アンジェが身をかわすたび、その足元を狙って土の槍が突き上がった。
地面へ膝をつきかけていた俺は、頭を振って意識をつなぎ止める。
急いで腰のポーチを探り、青い液体の入った小瓶を取り出した。今日買ったばかりの魔力回復ポーションだ。
蓋を外し、中身を一息に飲み干す。
強い苦みが舌にまとわりつき、喉を焼くように流れていく。直後、冷たい魔力が腹の底から広がり、枯れかけていた身体の内側を満たし始めた。
完全に回復したわけではない。それでも、何もできない状態からは抜け出せる。
逃げ回るアンジェへ向け、まず治癒魔法を送った。
傷ついた右腕を淡い光が包み、出血が僅かに弱まる。続けて脚力と防御を強化する付与魔法を重ねた。
男の力量は、俺たちとは比べものにならない。
勝てない。
このまま戦っても、あの男には勝てない。
全員で逃げる方法を考えなければならない。
アンジェの傷を最低限塞ぎ、残った魔力で身体能力を限界近くまで引き上げる。そのあと、俺と店主を抱えて逃げてもらう。
そのためには、一度だけでも男を怯ませ、逃げる隙を作る必要がある。
短剣へ変えた短杖の切っ先を、男へ向けた。
回復したばかりの魔力をかき集め、刃へ流し込む。
空気を引き裂く雷を想像する。
男と俺たちの間を分断し、動きを止めるほどの一撃。
周囲の空気がぴりぴりと震え、青白い光が短剣の周りへ集まり始めた。
轟雷を放とうとした、そのときだった。
「そうはさせない」
男が空いている手を空へ向ける。
頭上に冷気が集まり、雨粒が細かな氷へ変わった。無数の氷のつぶてが、避ける間もなく俺へ降り注ぐ。
頬、腕、背中へ鈍く重い衝撃が走った。
集中が途切れ、短剣に集めていた雷が霧散する。肺から空気を叩き出され、身体が地面へ倒れ込んだ。
「がっ……!」
「タカラ!」
アンジェが身を翻し、俺のもとへ駆け出した。
その背後で、地面が大きく裂ける。
アンジェを追うように、土の槍が斜めに伸び上がった。
「アンジェ!」
叫びが届くより早く、鋭い穂先がアンジェの脇腹を貫いた。
鮮血が宙へ散る。
俺へ伸ばされていた手が力を失い、温かい血が頬と腕へ降りかかった。
目の前の光景が信じられず、喉が裂けるほど名前を叫ぶ。
土の槍が崩れるのと同時に、アンジェの身体が力なく落ちてきた。
地面へ叩きつけられる寸前で、どうにか抱き止める。
脇腹には大きな穴が開き、そこから止めどなく血が溢れていた。
震える手を傷口へ当て、ありったけの魔力を治癒へ変える。
淡い光が傷を包み、裂けた肉が僅かずつ寄り始めた。
それでも、流れ出る血の量が多すぎる。
間に合わない。
このままでは間に合わない。
焦りが頭の中を埋め尽くす。
魔力をどれだけ流せばいいのかも、身体にどれほど残っているのかも、もう考えられなかった。
ただ、アンジェの命をつなぎ止めなければならない。
腕の中の柔らかな身体が、次第に強張っていく。
浅い呼吸をするたび、口元から血が零れた。
「嫌だ……駄目だ、アンジェ。お願いだから……」
男は追撃してこなかった。
少し離れた場所に立ち、首を傾げながら、俺たちの様子を眺めている。
睨みつけても、その表情は変わらない。
温度のない鋭い目が、まるで実験の結果を待つように、俺たちを観察していた。
傷口を両手で塞ぐ。
これ以上、アンジェの中から命が流れ出さないように祈りながら、焼けるように痛む指先を押しつけた。
頭の中へ、図書館で読んだ神話が浮かぶ。
光を携え、蛇とともに病や傷を癒やしたとされる神の物語。
神そのものが力を貸してくれるわけではない。
けれど、その神話に描かれていた光景なら、傷が塞がり、血が止まり、命がつながる様子をはっきりと思い描ける。
詠唱は、その想像を魔法へ乗せるためのものだ。
長く言葉を重ねるほど魔法は強くなる。
その代わり、必要な魔力も、身体へかかる負担も大きくなる。
今の俺が使えば、再び魔力が暴走するかもしれない。
それでも、このまま何もしなければアンジェが死ぬ。
「……光の御子、蛇を携えし癒やしの御子よ……」
震える声で、覚えている言葉を紡ぐ。
呼びかけに応じるように、両手の光が僅かに強くなった。
「血を鎮め、裂けた肉を結び、砕けた骨をつなげ……」
「ほう。詠唱まで使うのか」
男が興味深そうに目を細める。
「随分と面白いものを拾ったかもしれないな」
言葉の意味を考える余裕はなかった。
男が何を企んでいるのかも分からない。
それでも、今すぐ手を出すつもりはないらしい。ただ瀕死のアンジェと、必死に魔法を使う俺を観察し続けている。
震える身体を押さえ込むように、アンジェを強く抱きしめた。
全身が熱を帯びていく。
乾いていく口を無理やり動かし、神話の言葉を魔法の形へ変えていく。
「この者より死の影を遠ざけたまえ。我が祈りを糧として、その命をここへつなぎ留めよ……!」
胸が破裂しそうなほど、鼓動が速くなる。
血液が全身を激しく駆け巡り、脈打つたびに、無数の針が血管の内側を引っ掻いているような痛みが走った。
頭は朦朧としている。それでも、詠唱だけは不自然なほど鮮明に浮かんでくる。
どうか間に合ってくれ。
せめて、アンジェだけでも。
周囲の空気が重く濁り始めた。
雨交じりの風が止まり、湿った空気が肌へまとわりつく。
俺の胸元で、水面のきらめきに似た淡い光が揺らめいた。
それは治癒魔法の光とは異なり、深い朱色を僅かに帯びている。
最後の言葉を口にしようとしたとき、男が何かに気づいたように空を見上げた。
同時に、頭上で鋭い音が弾ける。
反射的に顔を伏せると、赤い液体が雨のように俺とアンジェへ降り注いだ。
投げつけられた小瓶が、空中で砕けたらしい。
破片は地面へ落ちる前に光の粒へ変わり、液体だけが俺たちの身体へ降りかかる。
詠唱を中断されたにもかかわらず、全身を巡っていた痛みが僅かに和らいだ。
赤い液体がひび割れた指先へ染み込み、傷を少しずつ塞いでいく。
アンジェの脇腹から溢れていた血も、完全には止まらないものの、明らかに勢いを弱めた。
「これ……上級の治癒薬……?」
霞む目で、瓶が飛んできた方向を見上げる。
一つの影が、俺たちの頭上を飛び越えた。
長い脚が俺とアンジェを跨ぎ、崩れた土の上へ音もなく着地する。
緩やかに波打つ長い白髪。
夜のように黒い外套。
腰には、金と銀の細かな刺繍が施された鞘が下げられていた。
「え……」
男が、突然現れた女性を静かに見据える。
やがて面倒そうに大きな息を吐き、構えていた杖を下ろした。
「厄介なのが来たな。あまり目立つことはするなと言われているんだ。一度退かせてもらうよ」
男が一歩後ろへ下がる。
白髪の女性は答える代わりに剣を抜き、男との距離を詰めた。
「逃がすと思ってんのか、ぼけ頭」
鈴を転がしたように澄んだ声と、そこから放たれた言葉がまるで釣り合っていない。
女性は銀色の剣を構え、地面を強く蹴った。
白髪が風に流れ、曇り空から僅かに差した光を反射する。
一瞬で男の懐へ入り込み、剣を横薙ぎに振るった。
男は上半身を反らし、紙一重で刃を避ける。
続けざまに放たれる斬撃も、杖で受けることなく、後ろへ下がりながらかわしていった。
反撃する気はないらしい。
逃げるための機会だけを窺っている。
女性が眉間へ深い皺を刻み、大きく舌打ちした。
「ちょこまかと……」
「本当に鬱陶しいな。今日はもういいだろう」
男はさらに距離を取り、俺へ顔を向けた。
「それじゃあ、男の子。また会おう」
笑みを浮かべることもなく、不気味な目をしたまま片手を振る。
杖が空へ掲げられた。
その仕草に呼ばれるように、激しい突風が吹き荒れる。
冷気が頬を掠め、空気中の水分が次々と凍りついた。白い結晶は瞬く間に雪へ変わり、風に巻き上げられながら男の姿を覆い隠す。
あまりの冷たさに、思わず目を閉じた。
ほんの一瞬だった。
再び目を開けたとき、男の姿はどこにもない。
雪が雨へ溶けていく中、剣を握った白髪の女性だけが立っていた。
女性は男が消えた場所を睨み、大きく舌打ちする。
それから剣を鞘へ戻し、俺たちを振り返った。
「おい、そこの坊主。そいつを死なせたくなかったら、ぼさっとしてないで傷を押さえろ」




