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アンブロシアの種  作者: でれ
第2章
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26/31

2-11 見つけた脅威

 曇っていた空から、予想どおり小雨が降り始めた。

 湿った地面から土の匂いが立ち上り、雨を吸った髪が額へ張りつく。


「二日も家に帰ってなくて、森で何かあったなら、もう……」

「大丈夫。まだ何も分からないよ。人は意外と丈夫だし、水さえあれば、怪我をして動けなくなっているだけかもしれない」

「……そうだよね。うん」


 アンジェは不安そうな表情を残したまま、それでも自分へ言い聞かせるように頷いた。

 その手には、薬屋の店主が普段使っている布が握られている。

 店主を知る男性が、捜索へ使えるようにと、店先に干されていたものを持たせてくれたのだ。

 アンジェは布の匂いを確かめ、それを頼りに森の中を進んでいく。

 しかし、この森では思うように追跡できないらしい。

 周囲の木々には、樹液を採取するための小瓶がいくつも取りつけられている。辺りに漂う濃密な甘い香りが、獣人であるアンジェの鼻を惑わせていた。

 ときおり顔をしかめ、咳払いをしながら、それでもアンジェは足を止めずに匂いを探し続ける。

 森へ入って間もなく、ぬかるんだ地面に新しい足跡を見つけた。大人一人分の足跡は、村とは反対の方向へ続いている。

 そばには小さなガラス片と、乾ききっていない樹液が落ちていた。

 店主がこの道を通った可能性は高い。

 俺たちは木の幹へ帰路を示す印を残しながら、足跡を追った。

 雨が強くなるか、正午が近づいたら引き返す。そう決めて、森の奥へ進んでいく。

 腰から短杖を引き抜き、意識を集中させた。

 魔力を流すと、短杖が淡い光に包まれる。頭の中で形を思い浮かべると、両端が伸び、扱いやすい短剣へ変わった。

 魔力によって作られた刃で、道を塞ぐ細い枝や草を切り払っていく。

 形を維持しているだけでも、僅かずつ魔力が減っていくのが分かった。便利ではあるが、長時間使い続けるものではなさそうだ。


「暗くなる心配はないと思ってたけど、雨が強くなったら、もっと見つけにくくなるね」

「匂いも流されちゃう」

「本当は魔力を温存したいけど、仕方ないか」


 短剣を片手で握り、切っ先を下へ向ける。

 空いた手を掲げて光球をいくつか作り出すと、薄暗い森が淡く照らされた。

 続けてアンジェへ向き直り、嗅覚と聴覚を強化する魔力を慎重に流し込む。

 淡い光がアンジェの身体を包み、丸い耳がぴくりと動いた。鼻を小さく鳴らし、周囲を探っている。

 何度も使ったことのある付与魔法なら、詠唱をしなくても効果を具体的に想像できる。

 魔力を一気に注ぐのではなく、必要な量だけ細く流す。

 以前のような強い効果は出ないが、身体の内側を焼かれるような感覚もない。

 詠唱を使えば想像を補い、魔法を強めることができる。その代わり、発動までに隙が生まれ、消費する魔力も大きくなる。

 今のように急ぐ場面では、効果を抑えてでも無詠唱で使うほうが安全だった。

 魔力暴走を起こし、自分の限界を知ったことで、ようやく加減の仕方が分かり始めた気がする。

 無理に大量の魔力を流さず、必要な分だけ送り込めばいい。それなら、身体へ大きな負担をかけずに済む。


「身体は大丈夫?」

「うん。これくらいなら平気。前より加減が分かるようになってきた」

「少しでも変だと思ったら言ってね」

「分かってる。ありがとう」


 アンジェはほっとしたように頷き、再び痕跡を追い始めた。

 その背後を、周囲へ気を配りながら進んでいく。

 しばらくすると、アンジェが突然立ち止まった。

 身を低くし、左右へ顔を向ける。片手を地面へつき、耳を澄ませた。

 何かに気づいたらしく、真剣な表情で俺を振り返る。

 声を出さず、前方を指さした。

 俺も身を屈め、アンジェのあとへ続く。

 濡れた茂みを掻き分けると、しなだれた木のそばに二つの影が見えた。

 いや、地面へ丸まっているものを含めれば、三つだ。

 一つは、宙に浮かんでいる。

 不規則な羽音。

 ぎょろぎょろと動く、焦点の定まらない目。

 細く汚れた手足。

 忘れられるはずもない姿だった。


「あれは……」

「インプ……!」

「地面に人がいる。エプロンをつけてるから、店主かもしれない」


 心臓が大きく跳ねた。

 俺たちは息を殺し、茂みの陰に隠れていたはずだった。

 しかし、宙に浮かぶインプは何かを感じ取ったように、真っ直ぐこちらへ顔を向ける。


「見つけたか。この前の」


 温かみのない声が、雨音の中を通り抜けた。

 地面へ倒れた店主とインプ。

 そのそばには、深くフードを被った黒ずくめの人間が立っている。

 フードの奥にある目が、茂みの中の俺たちを正確に捉えていた。

 見つかっているのなら、隠れ続けても意味はない。

 逃げることも考えたが、倒れている店主を置き去りにはできなかった。

 話し合いが通じる相手には見えない。それでも、まずは店主の生死を確かめる必要がある。

 アンジェと目を合わせ、互いに小さく頷く。

 茂みから出て、すぐに動けるだけの距離を保ったまま、黒ずくめの人物と向き合った。


「店主さん、聞こえますか。無事ですか?」

「ん? こいつか。まだ息はしてるんじゃない?」


 男は地面へ倒れている店主を、道端の石でも扱うように足先で転がした。

 その乱暴な仕草に、恐怖より先に怒りが込み上げる。

 拳へ力が入った。

 同じ感情を抱いたらしく、アンジェが俺を庇うように前へ出る。四肢を地面へつき、全身の毛を逆立てた。


「う……」

「ほら。生きてる」


 店主が弱々しい呻き声を漏らし、濡れた土を指で握った。

 こちらを確認する余裕もないほど衰弱している。

 目立った出血や、殴られた痕は見当たらない。しかし片足には金属製の足枷がはめられ、太い鎖で木の根元へつながれていた。


「何が目的かは分かりません。でも、その人を解放してください」

「男の子の君。少し前、首都近くの森にある洞窟にいたよね」

「え……」

「間違いないと思うけどな。私のインプも倒したでしょう?」

「やっぱり、あのインプはあんたのものだったのか!」


 アンジェの足元で、土が大きく抉れた。

 止める間もなく、その姿が視界から消える。

 次の瞬間には、男へ向けて鋭い爪を振り上げていた。

 二人の間へインプが割り込み、耳障りな奇声を上げる。

 赤黒い液体をまとった尻尾がしなり、アンジェの手を叩き落とした。

 アンジェは勢いを殺さず後方へ跳び、地面へ着地する。

 腕には液体が付着していたが、皮膚まで届いてはいない。先ほどかけた防御強化が、酸を防いでくれたようだ。


「獣人に興味はないんだけどな。まあ、邪魔をするなら仕方ない」


 男は最後まで言い終える前に、アンジェへ指先を向けた。

 それを合図に、インプが宙を駆ける。

 酸をまとった尻尾が、アンジェの目、喉、胸を次々と狙った。

 アンジェは迫る尻尾を爪で弾き、攻撃を外側へ逸らす。そのまま懐へ潜り込み、インプの喉、腹、翼を目がけて両手を振るった。

 互いの身体が一瞬で間合いへ入り込む。

 アンジェの爪がインプの片翼を引き裂いた。

 小さな身体が地面へ叩きつけられる。その隙を逃さず、アンジェはインプの喉を大きな手でつかんだ。

 細い首が軋む。

 インプは必死に手足を動かすものの、獣人の力から逃れることはできない。

 視界の隅で、男が懐から細い杖を取り出した。

 この男も魔法使いだ。

 どれほどの力量があるのか分からない以上、アンジェだけに任せるのは危険だった。


「アンジェ、魔法が来る!」


 俺の声に反応し、アンジェが顔を上げる。

 インプをつかんだまま地面を蹴り、高く跳び上がった。

 直後、その腕を勢いよく振り下ろす。

 インプは地面へ叩きつけられ、鈍い音と振動が足元まで伝わった。身体はあり得ない方向へ折れ曲がり、そのまま動かなくなる。

 男は倒れたインプへ目も向けなかった。

 静かに腕を上げ、杖へ魔力を集める。

 周囲の温度が一気に下がった。

 雨粒が空中で凍りつき、巻き上がった枯れ葉や塵の間に、いくつもの鋭いつららが作り出される。

 氷の弾丸が一斉に放たれ、落下するアンジェの身体へ襲いかかった。


「まずい!」


 空中にいるアンジェは拳を引き、男だけを見据えている。

 攻撃へ意識を集中させ、迫るつららを避けようとしていない。

 防御強化が残っていても、あれほどの数を正面から受ければ無傷では済まない。

 考えるより先に、短剣を振り抜いた。

 切り払うだけでは届かない。

 空を引き裂き、迫る氷をまとめて砕く光景を思い描く。

 刃から魔力が一気に吸い上げられた。

 空気が震える。

 直後、短剣の軌跡から眩い雷撃が迸った。

 轟音と衝撃波を引き連れ、雷がつららの群れへ正面から激突する。

 氷が砕け、細かな破片となって雨の中へ散った。

 予想を超える威力だった。

 短剣を握る指先に、焼けるような痛みが走る。

 それでも、立ち止まってはいられない。

 雷撃と氷の衝突によって土煙が立ち上り、男から俺たちの姿が一瞬だけ隠れた。

 今なら、店主を救い出せる。

 倒れている店主へ駆け寄り、その身体を起こす。

 しかし、足枷から伸びる鎖が木の根元へ固定され、抱き上げることができなかった。

 鍵を探している余裕はない。

 短剣へ再び魔力を流し、重い刃を持つ斧を想像した。

 光に包まれた武器が形を変える。

 両手に伝わる重さが増し、銀色の大斧が現れた。

 魔力がさらに削られ、視界が僅かに揺らぐ。

 歯を食いしばり、鎖へ向けて斧を振り下ろした。

 激しい金属音が森へ響く。

 一撃では切れない。

 もう一度持ち上げ、同じ場所へ刃を叩き込んだ。

 鎖が弾け、濡れた地面へ落ちる。

 すぐに大斧への魔力を止め、元の短杖へ戻した。

 店主の腕を肩へ回し、引きずるようにして男から距離を取る。


「なるほど。確かに魔力は高そうだ。でも、随分と不安定だね、君」

「なっ……」


 油断していたわけではない。

 店主を安全な場所まで動かす間、アンジェが男を足止めしてくれていると思っていた。

 声が聞こえた方向へ振り返る。

 土煙の向こうから現れた男は、アンジェの首を片手でつかんでいた。

 アンジェは宙へ持ち上げられ、男の腕を引き剥がそうともがいている。

 口の端は切れ、片方の肩には氷の破片が深く刺さっていた。

 土煙の中で男へ飛びかかったものの、防御強化が切れかけた瞬間を狙われたらしい。足元には砕けた氷が散らばり、片脚には凍りついた蔓のようなものが絡みついている。

 魔法を使いすぎた。

 アンジェへかけた付与魔法が、いつまで持続するのか考えられていなかった。

 心臓が冷たくなり、短杖を握る手が震える。

 敵に距離を詰められたうえ、アンジェまで捕らえられている。

 男はアンジェをつかんだまま、俺の前へ歩み寄った。

 空いている手が伸び、顔を鷲づかみにされる。

 鼻先が触れそうな距離まで強引に引き寄せられ、フードの奥にある鋭い目に射抜かれた。

 人間のものとは思えない冷たい手が、頬へ食い込む。

 その視線は、頭の奥まで抉り、俺の中にあるものをすべて暴こうとしているようだった。

 まずい。

 次の手が浮かばない。


「魔力の溢れ方が異常だな。固有スキルか?」


 男の瞳が僅かに細められる。

 顔へ近づき、匂いを確かめるように鼻を鳴らした。


「それだけじゃない。変な香りがする。これは……何だろうね」

「離せ……」

「持ち帰って、ゆっくり調べようか」


 顔をつかむ手に力が込められた。

 男の瞳孔が、俺を飲み込むように大きく開く。

 意識が霞みかけた、そのときだった。

 横から何かが勢いよく迫り、男の顔へ激突した。

 骨が軋むような音がして、顔をつかんでいた手が離れる。

 自由になった身体が地面へ崩れ落ちた。

 視線を上げる。

 アンジェの拳が、男の頬へ深くめり込んでいた。

 男は上半身を仰け反らせ、一歩だけ後ろへ下がる。

 しかし、獣人の拳を受けても倒れることなく、すぐに体勢を立て直した。


「まだ動けたのか」

「タ、タカラに……触るな!」


 アンジェの呼吸は短く、激しく乱れている。

 殴った右腕が不自然に垂れ下がり、指先から血が滴っていた。男の顔を殴った衝撃で、腕を傷めたらしい。

 土の上へ、赤い斑点が次々と広がっていく。

 急いでアンジェへ手をかざし、治癒の光を集めた。

 しかし、傷が深いうえ、すでに俺の魔力も大きく減っている。

 淡い光が傷口を覆うものの、血は止まりきらない。

 無理に魔力を注ごうとすると、指先へ赤いひび割れが浮かび、焼けるような痛みが走った。

 これ以上流せば、また暴走する。

 男は曲がった首を戻し、殴られた頬へ手を添えた。

 俺たちを見比べ、ひどくつまらなそうに息を吐く。


「もういいや」


 細い杖が、アンジェへ向けられた。


「先に獣人を殺してから、君を連れていくことにしよう」


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