2-11 見つけた脅威
曇っていた空から、予想どおり小雨が降り始めた。
湿った地面から土の匂いが立ち上り、雨を吸った髪が額へ張りつく。
「二日も家に帰ってなくて、森で何かあったなら、もう……」
「大丈夫。まだ何も分からないよ。人は意外と丈夫だし、水さえあれば、怪我をして動けなくなっているだけかもしれない」
「……そうだよね。うん」
アンジェは不安そうな表情を残したまま、それでも自分へ言い聞かせるように頷いた。
その手には、薬屋の店主が普段使っている布が握られている。
店主を知る男性が、捜索へ使えるようにと、店先に干されていたものを持たせてくれたのだ。
アンジェは布の匂いを確かめ、それを頼りに森の中を進んでいく。
しかし、この森では思うように追跡できないらしい。
周囲の木々には、樹液を採取するための小瓶がいくつも取りつけられている。辺りに漂う濃密な甘い香りが、獣人であるアンジェの鼻を惑わせていた。
ときおり顔をしかめ、咳払いをしながら、それでもアンジェは足を止めずに匂いを探し続ける。
森へ入って間もなく、ぬかるんだ地面に新しい足跡を見つけた。大人一人分の足跡は、村とは反対の方向へ続いている。
そばには小さなガラス片と、乾ききっていない樹液が落ちていた。
店主がこの道を通った可能性は高い。
俺たちは木の幹へ帰路を示す印を残しながら、足跡を追った。
雨が強くなるか、正午が近づいたら引き返す。そう決めて、森の奥へ進んでいく。
腰から短杖を引き抜き、意識を集中させた。
魔力を流すと、短杖が淡い光に包まれる。頭の中で形を思い浮かべると、両端が伸び、扱いやすい短剣へ変わった。
魔力によって作られた刃で、道を塞ぐ細い枝や草を切り払っていく。
形を維持しているだけでも、僅かずつ魔力が減っていくのが分かった。便利ではあるが、長時間使い続けるものではなさそうだ。
「暗くなる心配はないと思ってたけど、雨が強くなったら、もっと見つけにくくなるね」
「匂いも流されちゃう」
「本当は魔力を温存したいけど、仕方ないか」
短剣を片手で握り、切っ先を下へ向ける。
空いた手を掲げて光球をいくつか作り出すと、薄暗い森が淡く照らされた。
続けてアンジェへ向き直り、嗅覚と聴覚を強化する魔力を慎重に流し込む。
淡い光がアンジェの身体を包み、丸い耳がぴくりと動いた。鼻を小さく鳴らし、周囲を探っている。
何度も使ったことのある付与魔法なら、詠唱をしなくても効果を具体的に想像できる。
魔力を一気に注ぐのではなく、必要な量だけ細く流す。
以前のような強い効果は出ないが、身体の内側を焼かれるような感覚もない。
詠唱を使えば想像を補い、魔法を強めることができる。その代わり、発動までに隙が生まれ、消費する魔力も大きくなる。
今のように急ぐ場面では、効果を抑えてでも無詠唱で使うほうが安全だった。
魔力暴走を起こし、自分の限界を知ったことで、ようやく加減の仕方が分かり始めた気がする。
無理に大量の魔力を流さず、必要な分だけ送り込めばいい。それなら、身体へ大きな負担をかけずに済む。
「身体は大丈夫?」
「うん。これくらいなら平気。前より加減が分かるようになってきた」
「少しでも変だと思ったら言ってね」
「分かってる。ありがとう」
アンジェはほっとしたように頷き、再び痕跡を追い始めた。
その背後を、周囲へ気を配りながら進んでいく。
しばらくすると、アンジェが突然立ち止まった。
身を低くし、左右へ顔を向ける。片手を地面へつき、耳を澄ませた。
何かに気づいたらしく、真剣な表情で俺を振り返る。
声を出さず、前方を指さした。
俺も身を屈め、アンジェのあとへ続く。
濡れた茂みを掻き分けると、しなだれた木のそばに二つの影が見えた。
いや、地面へ丸まっているものを含めれば、三つだ。
一つは、宙に浮かんでいる。
不規則な羽音。
ぎょろぎょろと動く、焦点の定まらない目。
細く汚れた手足。
忘れられるはずもない姿だった。
「あれは……」
「インプ……!」
「地面に人がいる。エプロンをつけてるから、店主かもしれない」
心臓が大きく跳ねた。
俺たちは息を殺し、茂みの陰に隠れていたはずだった。
しかし、宙に浮かぶインプは何かを感じ取ったように、真っ直ぐこちらへ顔を向ける。
「見つけたか。この前の」
温かみのない声が、雨音の中を通り抜けた。
地面へ倒れた店主とインプ。
そのそばには、深くフードを被った黒ずくめの人間が立っている。
フードの奥にある目が、茂みの中の俺たちを正確に捉えていた。
見つかっているのなら、隠れ続けても意味はない。
逃げることも考えたが、倒れている店主を置き去りにはできなかった。
話し合いが通じる相手には見えない。それでも、まずは店主の生死を確かめる必要がある。
アンジェと目を合わせ、互いに小さく頷く。
茂みから出て、すぐに動けるだけの距離を保ったまま、黒ずくめの人物と向き合った。
「店主さん、聞こえますか。無事ですか?」
「ん? こいつか。まだ息はしてるんじゃない?」
男は地面へ倒れている店主を、道端の石でも扱うように足先で転がした。
その乱暴な仕草に、恐怖より先に怒りが込み上げる。
拳へ力が入った。
同じ感情を抱いたらしく、アンジェが俺を庇うように前へ出る。四肢を地面へつき、全身の毛を逆立てた。
「う……」
「ほら。生きてる」
店主が弱々しい呻き声を漏らし、濡れた土を指で握った。
こちらを確認する余裕もないほど衰弱している。
目立った出血や、殴られた痕は見当たらない。しかし片足には金属製の足枷がはめられ、太い鎖で木の根元へつながれていた。
「何が目的かは分かりません。でも、その人を解放してください」
「男の子の君。少し前、首都近くの森にある洞窟にいたよね」
「え……」
「間違いないと思うけどな。私のインプも倒したでしょう?」
「やっぱり、あのインプはあんたのものだったのか!」
アンジェの足元で、土が大きく抉れた。
止める間もなく、その姿が視界から消える。
次の瞬間には、男へ向けて鋭い爪を振り上げていた。
二人の間へインプが割り込み、耳障りな奇声を上げる。
赤黒い液体をまとった尻尾がしなり、アンジェの手を叩き落とした。
アンジェは勢いを殺さず後方へ跳び、地面へ着地する。
腕には液体が付着していたが、皮膚まで届いてはいない。先ほどかけた防御強化が、酸を防いでくれたようだ。
「獣人に興味はないんだけどな。まあ、邪魔をするなら仕方ない」
男は最後まで言い終える前に、アンジェへ指先を向けた。
それを合図に、インプが宙を駆ける。
酸をまとった尻尾が、アンジェの目、喉、胸を次々と狙った。
アンジェは迫る尻尾を爪で弾き、攻撃を外側へ逸らす。そのまま懐へ潜り込み、インプの喉、腹、翼を目がけて両手を振るった。
互いの身体が一瞬で間合いへ入り込む。
アンジェの爪がインプの片翼を引き裂いた。
小さな身体が地面へ叩きつけられる。その隙を逃さず、アンジェはインプの喉を大きな手でつかんだ。
細い首が軋む。
インプは必死に手足を動かすものの、獣人の力から逃れることはできない。
視界の隅で、男が懐から細い杖を取り出した。
この男も魔法使いだ。
どれほどの力量があるのか分からない以上、アンジェだけに任せるのは危険だった。
「アンジェ、魔法が来る!」
俺の声に反応し、アンジェが顔を上げる。
インプをつかんだまま地面を蹴り、高く跳び上がった。
直後、その腕を勢いよく振り下ろす。
インプは地面へ叩きつけられ、鈍い音と振動が足元まで伝わった。身体はあり得ない方向へ折れ曲がり、そのまま動かなくなる。
男は倒れたインプへ目も向けなかった。
静かに腕を上げ、杖へ魔力を集める。
周囲の温度が一気に下がった。
雨粒が空中で凍りつき、巻き上がった枯れ葉や塵の間に、いくつもの鋭いつららが作り出される。
氷の弾丸が一斉に放たれ、落下するアンジェの身体へ襲いかかった。
「まずい!」
空中にいるアンジェは拳を引き、男だけを見据えている。
攻撃へ意識を集中させ、迫るつららを避けようとしていない。
防御強化が残っていても、あれほどの数を正面から受ければ無傷では済まない。
考えるより先に、短剣を振り抜いた。
切り払うだけでは届かない。
空を引き裂き、迫る氷をまとめて砕く光景を思い描く。
刃から魔力が一気に吸い上げられた。
空気が震える。
直後、短剣の軌跡から眩い雷撃が迸った。
轟音と衝撃波を引き連れ、雷がつららの群れへ正面から激突する。
氷が砕け、細かな破片となって雨の中へ散った。
予想を超える威力だった。
短剣を握る指先に、焼けるような痛みが走る。
それでも、立ち止まってはいられない。
雷撃と氷の衝突によって土煙が立ち上り、男から俺たちの姿が一瞬だけ隠れた。
今なら、店主を救い出せる。
倒れている店主へ駆け寄り、その身体を起こす。
しかし、足枷から伸びる鎖が木の根元へ固定され、抱き上げることができなかった。
鍵を探している余裕はない。
短剣へ再び魔力を流し、重い刃を持つ斧を想像した。
光に包まれた武器が形を変える。
両手に伝わる重さが増し、銀色の大斧が現れた。
魔力がさらに削られ、視界が僅かに揺らぐ。
歯を食いしばり、鎖へ向けて斧を振り下ろした。
激しい金属音が森へ響く。
一撃では切れない。
もう一度持ち上げ、同じ場所へ刃を叩き込んだ。
鎖が弾け、濡れた地面へ落ちる。
すぐに大斧への魔力を止め、元の短杖へ戻した。
店主の腕を肩へ回し、引きずるようにして男から距離を取る。
「なるほど。確かに魔力は高そうだ。でも、随分と不安定だね、君」
「なっ……」
油断していたわけではない。
店主を安全な場所まで動かす間、アンジェが男を足止めしてくれていると思っていた。
声が聞こえた方向へ振り返る。
土煙の向こうから現れた男は、アンジェの首を片手でつかんでいた。
アンジェは宙へ持ち上げられ、男の腕を引き剥がそうともがいている。
口の端は切れ、片方の肩には氷の破片が深く刺さっていた。
土煙の中で男へ飛びかかったものの、防御強化が切れかけた瞬間を狙われたらしい。足元には砕けた氷が散らばり、片脚には凍りついた蔓のようなものが絡みついている。
魔法を使いすぎた。
アンジェへかけた付与魔法が、いつまで持続するのか考えられていなかった。
心臓が冷たくなり、短杖を握る手が震える。
敵に距離を詰められたうえ、アンジェまで捕らえられている。
男はアンジェをつかんだまま、俺の前へ歩み寄った。
空いている手が伸び、顔を鷲づかみにされる。
鼻先が触れそうな距離まで強引に引き寄せられ、フードの奥にある鋭い目に射抜かれた。
人間のものとは思えない冷たい手が、頬へ食い込む。
その視線は、頭の奥まで抉り、俺の中にあるものをすべて暴こうとしているようだった。
まずい。
次の手が浮かばない。
「魔力の溢れ方が異常だな。固有スキルか?」
男の瞳が僅かに細められる。
顔へ近づき、匂いを確かめるように鼻を鳴らした。
「それだけじゃない。変な香りがする。これは……何だろうね」
「離せ……」
「持ち帰って、ゆっくり調べようか」
顔をつかむ手に力が込められた。
男の瞳孔が、俺を飲み込むように大きく開く。
意識が霞みかけた、そのときだった。
横から何かが勢いよく迫り、男の顔へ激突した。
骨が軋むような音がして、顔をつかんでいた手が離れる。
自由になった身体が地面へ崩れ落ちた。
視線を上げる。
アンジェの拳が、男の頬へ深くめり込んでいた。
男は上半身を仰け反らせ、一歩だけ後ろへ下がる。
しかし、獣人の拳を受けても倒れることなく、すぐに体勢を立て直した。
「まだ動けたのか」
「タ、タカラに……触るな!」
アンジェの呼吸は短く、激しく乱れている。
殴った右腕が不自然に垂れ下がり、指先から血が滴っていた。男の顔を殴った衝撃で、腕を傷めたらしい。
土の上へ、赤い斑点が次々と広がっていく。
急いでアンジェへ手をかざし、治癒の光を集めた。
しかし、傷が深いうえ、すでに俺の魔力も大きく減っている。
淡い光が傷口を覆うものの、血は止まりきらない。
無理に魔力を注ごうとすると、指先へ赤いひび割れが浮かび、焼けるような痛みが走った。
これ以上流せば、また暴走する。
男は曲がった首を戻し、殴られた頬へ手を添えた。
俺たちを見比べ、ひどくつまらなそうに息を吐く。
「もういいや」
細い杖が、アンジェへ向けられた。
「先に獣人を殺してから、君を連れていくことにしよう」




