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アンブロシアの種  作者: でれ
第2章
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2-10 走る不安

 書き上げた報告書を片づけ、まだ寝息を立てているアンジェを部屋へ残して外へ出た。

 村を軽く散策しながら、新鮮な空気を吸い込む。

 澄んだ朝の風が、少し火照った頬を冷ましてくれた。胸に残っていた昨日の重苦しさも、僅かに薄らいだような気がする。

 工房の周辺には砂利と草が入り交じり、歩くたびに小気味よい音が鳴った。

 まだ朝も早いというのに、工房からは革を叩く鈍い音と、職人たちの話し声が聞こえてくる。

 開かれた扉から中を覗くと、三人の職人に交じり、昨日話した少年の姿があった。

 昨夜蹲っていた作業台へ、今朝はきちんと椅子に座っている。赤く腫れた目を伏せ、一人で真剣に革靴を磨いていた。

 ときおり先輩らしい職人が様子を見に来て、手元を指しながら何かを教えている。

 ジェスは顔を上げて話を聞き、何度か頷く。職人はその頭を軽く撫でると、再び一人で作業を続けさせた。

 必要以上に声をかけず、それでも一人にはしない。

 周囲の気遣いを見て、ジェスが孤独ではないことに少し安心した。


「ジェス、おはよう」

「……! にいちゃん」


 ジェスは手を止め、俺を見上げた。

 作業場の熱気のせいか、薄茶色の前髪が額へ張りついている。

 隣の椅子へ腰を下ろすと、ジェスは再び手を動かし始めた。


「よく眠れた?」

「うん。いっぱい寝てたみたい」

「そっか。少しでも眠れてよかった」

「にいちゃんたちは、今日どうするの?」

「村の人たちに、最近変わったことがなかったか聞いて回るよ」

「……なんで?」

「ほかにも帰ってきていない人や、危ない目に遭った人がいないか確かめるためだよ」

「帰ってきてない人……」


 布を持ったまま、ジェスの手が止まる。

 深く息を吸う音が聞こえ、靴を押さえる指が僅かに震えていた。

 それでも、やがて作業を再開する。余計なことを考えないよう、目の前の靴だけに集中しているように見えた。

 見つかった被害者は、今のところヒューゴ一人だ。

 しかし、捜索願がギルドまで届いていないだけで、ほかにも戻っていない者がいるかもしれない。それに、あのインプが一体だけだったという保証もない。

 不審な出来事がなかったか、できる限り聞いて回る必要がある。

 本当は、やりたくない。

 昨日のように、誰かの悲しみへ触れる仕事はもうしたくなかった。

 ただ世界を冒険して、新しいものを発見し、仲間を増やして、少しずつランクを上げていきたい。自分が触れるものは、希望に満ちたものだけであってほしい。

 けれど、この世界はもう物語の中ではない。

 美しいものも、恐ろしいものも、目を背けたくなるものも、すべてが現実として存在している。

 何もかも平気になる必要はない。

 怖いままでも、悲しいままでも、自分にできることを選ばなくてはならない。

 それが今の俺にできる、強さへの一歩なのだと思う。


「それじゃあ、そろそろ行くね。仕事、頑張って」


 椅子から立ち上がると、ジェスに袖をつかまれた。

 俯いたまま、抑揚のない声で尋ねられる。


「おじさんを殺した魔物は、死んだの?」

「……うん。俺たちが倒したよ」

「そう、なんだ。ほかにもいるの?」


 弱々しい声に含まれているのが、恐怖なのか怒りなのか、俺には区別がつかなかった。


「まだ分からない。だから、これから調べるんだ」

「……そっか」


 ジェスは俺の袖から手を放し、布を握り直した。

 心の中に生まれた感情をどう扱えばよいのか、本人にも分からないのだろう。

 俺はそれ以上何も言わず、再び作業を始めた少年を残して工房をあとにした。


 部屋へ戻る頃には、アンジェも出発の準備を終えていた。

 工房の出入口で待つ彼女と合流する。


「ジェス、どうだった?」

「黙々と靴を磨いてたよ。無理に元気になろうとはしてないけど、周りの職人さんたちが見守ってくれてた」

「そっか。しばらくは、あんな感じなのかな」

「きっとね。今は時間が必要なんだと思う」


 今日は昨日までの蒸し暑さが和らぎ、空には薄い雲がまばらに浮かんでいる。

 ときおり吹く冷たい風が、村に漂う様々な匂いを運んできた。

 薬品の刺激的な匂い。真新しい革の香り。どこかの家から漂う朝食の匂い。

 小さな村は、今日も朝から活気に満ちていた。

 忙しそうに歩き回る人々の顔には充実感があり、一見しただけでは、昨日悲しい知らせが届いた村とは思えない。

 当然なのだろう。

 一人が亡くなっても、村で暮らすほかの人々の生活まで止まるわけではない。

 規模の小さな村ではあるが、ポーションや革製品の需要は高い。家族だけでは仕事を賄いきれず、周辺の村から働きに来る者も多いらしい。

 建設途中の建物もいくつか見えた。今の勢いで発展を続ければ、数年後には村ではなく町と呼ばれるようになるかもしれない。

 俺たちは依頼書に従い、村人や工房で働く者へ順番に話を聞いて回った。

 最初は忙しそうに顔をしかめる者もいたが、見える位置につけた冒険者バッジとギルドの依頼書を示すと、足を止めてくれる。

 好感恩恵も、相手の警戒を僅かに和らげているのかもしれない。

 しかし、何軒かの家や工房を回っても、気になる話は出てこなかった。


「最近、何か変わったことはありませんでしたか? 事故や、不自然な怪我をした人など」

「軽い怪我なら、職人にはつきものだからねぇ。うちの工房では、特に変わったことはないと思うよ」

「ほかの工房や店について、何か聞いていませんか?」


 考え込む女性に合わせ、アンジェも同じ方向へ首を傾ける。

 その様子がおかしかったのか、女性の表情が少し和らいだ。

 三人で話を続けていると、一人の男性が近づいてきた。

 立派な髭を生やし、頭や作業着には黒い煤が付着している。肩へ担いだ大きな袋からは、何枚もの革がはみ出していた。


「なあ、薬屋の店主を知らねぇか? 昨日、防腐用の薬剤を買いに行ったんだが、店が閉まっててよ。あそこが一番安いから、困ってるんだ」

「薬屋の店主が? 昨日から?」

「ああ。今日もまだ開いてねぇみたいだ」

「二日続けて店を空けるなんて、滅多にない人なのに……」


 女性の顔から笑みが消えた。

 詳しく話を聞くと、店主は勤勉な人物で、何も告げずに仕事を休むことはほとんどないらしい。

 独り身で、同居している家族はいない。

 薬剤を多く扱うため、匂いや事故が周囲へ影響しないよう、村の中心から少し離れた場所に店を構えている。寡黙だが、周囲への配慮を欠かさない人物だという。


「店を空けるとき、行き先を誰かに伝えていませんでしたか?」

「そういえば、薬に使う樹液が足りないって言ってたわ。もしかすると、村の裏手にある森へ採りに行ったのかも」

「その森へ行くとしたら、普通はどれくらいで戻りますか?」

「長くても半日くらいじゃないかしら。森で夜を越すほど遠くはないわ」

「最後に店主を見たのは、いつですか?」

「一昨日の夕方ね。店を閉めるところを見たわ」


 俺とアンジェは顔を見合わせた。

 二日近く戻っていないことになる。


「その薬屋まで、案内してもらえますか?」

「ああ。俺が案内する。こっちだ」


 髭の男性が歩き出し、俺たちはそのあとを追った。


 薬屋は、村の外れに建つ小さな家だった。

 正面には店の看板が掲げられているものの、入口は閉ざされ、営業している気配はない。

 俺たちは何度か扉を叩いた。


「すみません! 冒険者ギルドから来ました。どなたかいませんか!」

「店主さん! いるなら返事をして!」


 しばらく待っても、返事はない。

 扉へ手を添えると、鍵はかかっておらず、僅かに開いた。

 調査のため、緊急時には建物の内部を確認する権限が与えられている。ただし、勝手に物を動かすことはできない。

 同行してきた男性に立ち会ってもらい、もう一度大きな声で呼びかけてから、ゆっくりと扉を押した。

 薬品特有の刺激的な匂いが、開いた隙間から流れ出す。

 店内は少し乱雑だった。

 大きな壺には半分ほど液体が残り、蓋はずれた状態で斜めに載せられている。テーブルには空になった小瓶がいくつも並び、作業を途中で中断したように見えた。


「俺は店の中を確認する。アンジェは奥の部屋を見てもらえる?」

「分かった。何も触らないようにするね」


 手分けして室内を確認する。

 倒れている人がいないか、声を出しながら一部屋ずつ見て回った。

 ほどなく、アンジェが奥から戻ってくる。


「どの部屋にもいなかった。ベッドも使われてないみたい」

「やっぱり、森へ行ったのか……」


 同行していた男性が、低い声で呟いた。

 家の裏手には、手入れされていない小さな森が広がっている。

 生息する魔物は少なく、現れてもほとんどが低級であるため、国やギルドによる厳しい入場管理は行われていないらしい。

 それでも、森をよく知る人物が二日近く戻っていないのは明らかに不自然だ。

 病気で寝込んでいるだけなら、まだよかった。

 だが、店主は家にいない。

 事件と無関係だと決めつけることはできなかった。

 俺は同行してくれた男性へ向き直る。


「すみません。村長とビスさんに、店主が戻っていないことを伝えてください。俺たちは森の入口付近まで確認します」

「二人だけで大丈夫なのか?」

「危険を感じたら、すぐに引き返します。正午までに戻らなければ、森へは入らず、村長からギルドへ連絡してください」

「分かった。すぐに知らせてくる」


 男性が村の中心へ向かって走り出す。

 俺は薬屋の扉を閉め、アンジェとともに裏手の森を見据えた。


「アンジェ、行こう」

「うん。でも、絶対に深追いはしないよ」

「分かってる。まずは足跡と匂いを確認しよう」


 互いの装備を確かめ、店主が向かったと思われる森へ足を踏み入れた。


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