2-9 剣士が向かう先
アンジェと一緒に居間へ戻ると、落ち着きを取り戻していたビスが驚いたように振り返った。
腕の中で眠るジェスを見るなり、ビスの表情が僅かに和らぐ。何度も礼を言いながら、少年を抱き取ってくれた。
「空いている部屋があります。よろしければ、今夜はそちらをお使いください」
「助かります。ありがとうございます」
長かった一日が、ようやく終わろうとしていた。
張り詰めていたものが緩み、重かった肩が僅かに軽くなる。
やはり、辛い仕事だった。
想像していた以上に頭も口も回らなかった。あの伝え方でよかったのか。ジェスに、もっと別の言葉をかけられなかったのか。
答えの出ない考えばかりが、頭の中を巡り続けていた。
案内された客室には、二つのベッドが並んでいた。
俺とアンジェはほとんど言葉を交わさず、黙々と寝支度を進める。
ときおり、アンジェの口からため息が漏れた。それが構ってほしいためのものではないことは、俺にも分かっている。
向かい合うように、それぞれのベッドへ腰を下ろした。
アンジェは首を傾け、疲れ切った様子で、そのまま後ろへ倒れ込む。
「とりあえず、分かることは全部ビスさんに伝えたよ」
「お疲れさま。任せちゃって、ごめん。ありがとう」
「タカラもお疲れさま。明日は、聞き取りのために村を回っていいって。冒険者のバッジは見えるところにつけておいてほしいみたい」
「うん、分かった」
「……ジェスとは、何を話したの?」
「ヒューゴさんが、ジェスを大切にしていたってことかな」
「……そっか」
アンジェを真似するように、俺もベッドへ倒れ込んだ。
今日は体力をほとんど使っていないはずなのに、採取依頼を終えた日よりも強い倦怠感が全身にまとわりついている。
家族を失う悲しみは、俺には分からない。
記憶の中に、家族と過ごした時間がほとんど残っていないからだ。
けれど、親しくなった人を失う感覚なら知っている。
以前の人生を過ごした病院は、いつも死と隣り合わせだった。
昨日まで一緒に映画や本の話をしていた人が、翌日にはいなくなることもあった。親しくなった誰かが、いつ亡くなってもおかしくない場所だった。
別れのたびに傷ついていたら、耐えられなかったのだろう。
いつからか、別れに心を動かされることを、自分から拒むようになっていた。
もし今、アンジェを失ったら、俺はどうなるのだろう。
短い時間しか一緒に過ごしていなくても、ジェスのように泣けるのだろうか。
きちんと悲しみ、いなくなったことを惜しめるのだろうか。
それとも、また何も感じないふりをして、自分の心を閉ざすのだろうか。
逆に、もし俺が死んだなら。
誰かが、あんなふうに泣いてくれるのだろうか。
「……明日は、予定どおり村で聞き取りをしよう。できれば、森の入口も離れたところから確認したい」
「分かった」
「今日はもう寝よう」
「うん。おやすみ、タカラ」
「おやすみ、アンジェ」
アンジェは身体を横へ向け、最後に長い息を吐いた。
しばらく天井を見つめていると、隣から規則正しい呼吸が聞こえ始める。
その寝息を煩わしいとは思わなかった。むしろ、アンジェが眠れたことに安堵した。
枕元に置いていた依頼書と報告用紙を、手を伸ばしてテーブルへ移す。
明日の朝、これまでに分かったことを整理してから村を回ろう。
灯りを消さなければと思ったものの、身体はもう動いてくれなかった。
俺も枕へ頭を預け、そのまま意識を手放した。
◇
薄い雲が、淡く輝く月へかかっている。
星の瞬く黒い空が野原を覆い、馬車の脇へ下げられたランプだけが、暗い街道を照らしていた。
「村までは、あと一日くらいですかねぇ」
「長ぇな……こんな硬い板の上じゃ、ろくに眠れもしねぇ」
荷台に座った白髪の女性が、大きな目で御者台の青年を睨む。
星空を映した瞳は人形のように美しかったが、口から出てくるのは不満ばかりだ。
青年は慣れた様子で、困ったように笑った。
「はいはい。遠方への出張なんて、初めてじゃないでしょう。文句を言っても早くは着きませんから、少し目を閉じていてください」
「お前は座り心地のいい場所にいるから、そんなことが言えるんだ」
「代わります? その代わり、馬の扱いもお願いすることになりますけど」
「……断る」
女性の大きな舌打ちが、夜の街道へ響く。
青年は気にする様子もなく、携帯していた水を口へ含んだ。時計を取り出して時刻を確認すると、女性が荷台の隙間から身を乗り出し、その文字盤を覗き込む。
「まだ、この時間なのか……。ウノーめ、恨むぞ」
「パン、食べます?」
「……食う」
差し出された硬いパンを受け取り、小さな口で噛みちぎる。
女性の絹糸のような白髪が、肩からさらりと流れ落ちた。透けるように白い肌は、月明かりを受けて人間離れした冷たさを帯びている。
黙っていれば、精巧な人形のようだった。
パンを食べ終えた頃には、女性の目が少しずつ眠たげに細くなっていた。
荷台の隅で片膝を立て、身体を丸める。
眠りにつく前に、右手だけを馬車の外へ出した。指先の前へ小さな魔法陣が現れ、音もなく弾ける。
細かな光が空中へ散り、走る馬車全体を包み込んだ。
「寝る。何かあったら起こせ」
「おっ、結界まで張ってくれるんですか。承知しました」
青年が返事をすると、女性は外套へ顔を埋めた。
彼女の名は、ネージュ。
ギルドに直属する冒険者の一人だった。
多くの冒険者は、個人やパーティーごとにギルドから依頼を受ける。対して直属の冒険者には、安定した収入や一部の権限が与えられる代わりに、ギルドから命令があれば現場へ赴く義務がある。
数時間前、仕事を終えて戻ってきたばかりのネージュへ、新たな任務を告げたのはウノーだった。
「森で起きた不審死について、新しい情報が入った」
ウノーはテーブルへ地図を広げ、いくつかの場所へ印をつけた。
「死亡した男性の村の周辺で、魔物の動きに不自然な点が見つかった。タカラとアンジェには、遺品の配達と聞き取りだけを頼んでいる。だが、村の近くまで異変が広がっているなら、二人だけでは危険かもしれない」
「新人二人だけを送り込んだのか。不用心すぎるだろ」
「送り出した時点では、村の周辺まで調査対象になるとは分かっていなかったんだ。危険な場所へは近づかないよう伝えてある」
「だったら、私以外の奴を行かせろ」
「調査と別件で、ほかの直属冒険者は出払っている。すぐに動けるのは君だけだ」
「私だって忙しい」
「三日も連絡を寄越さず、好き勝手に歩き回っていた人のどこが忙しいの?」
「必要な巡回だ」
「申請されていない巡回は、仕事とは呼ばない」
「ぐっ……」
ネージュが言葉に詰まる。
ウノーは腕を組み、さらに追い打ちをかけた。
「そもそも君は、口が悪いうえに新人への指導が厳しすぎる。何人の新人が心を折られたと思っているんだ」
「甘やかすから、出来損ないが増えるんだろ」
「近年の法改正で、庶民にも教養を得る機会が増えた。危険な冒険者にならなくても、仕事を選べる時代になりつつあるんだ。冒険者不足の今、最初の支援もなしに新人が残ると思う?」
「それと私の性格に、何の関係がある」
「君が新人を怖がらせるから、ほかの者が代わりに指導へ回っている。結果として、今動ける人員が足りない」
「私のせいだって言いたいのか?」
「口が悪い、厳しい、愛想もない。おまけに性格まで悪い」
「性格が悪い!? 今のは、ただの悪口じゃないか!」
「忘れているようだが、君はギルド直属の冒険者だ。私の要請には応じてもらうよ」
「…………」
「ネージュ」
「分かったよ。行けばいいんだろ」
ネージュは苦虫を噛み潰したような顔で立ち上がった。
部屋の隅で待機していた青年の襟首をつかみ、そのまま引きずるように出口へ向かう。
青年は抵抗することなく、ウノーへ軽く手を振った。
「それでは、行ってきます」
「気をつけて。可能な限り急いでくれ」
「人使いの荒い女だ」
「聞こえているよ」
「聞かせたんだ」
扉が閉まり、二人の足音が遠ざかっていった。
現在、ネージュを乗せた馬車は夜の街道を東へ進んでいる。
御者台の青年は手綱を握り直し、暗闇の先へ目を凝らした。
後方では、白髪の女性が外套に包まり、静かな寝息を立て始めている。
馬車を覆う結界の光は、目を凝らさなければ見えないほど淡い。
それでも、ときおり夜露を弾き、小さな波紋を空中へ広げていた。
誰もいない街道を、車輪の音だけが進んでいく。
目的の村までは、まだ遠い。




