2-8 待っていたものたち
久しぶりに、深く眠れた気がする。
やけに冴えた思考と軽い身体が、睡眠の大切さを教えてくれていた。
雲一つない青空の下、乗合馬車は東へ向かって進んでいく。
楽しそうに話す人、うたた寝をする人、静かに本を読む人。数人の乗客を乗せた馬車は、ときおり休憩を挟みながら、穏やかな街道を揺られていた。
休憩のたびに御者が馬を労わるように撫で、水を飲ませてから再び手綱を握る。
窓の外にはのどかな景色が流れている。それなのに、俺とアンジェの間には、朝から重い空気が漂っていた。
「嫌な気持ちだね。早く、この重苦しさから解放されたい」
座席の上で膝を抱え、小さく丸くなったアンジェが呟く。
「そうだね。これも仕事だから、避けては通れないって分かってる。それでも、やっぱり気が重い」
「戦って命を落とすことがあるのは覚悟してた。でも、亡くなったことを誰かに伝える側になるなんて、想像してなかったよ」
その言葉に頷く。
冒険者になれたことを喜び、初めての依頼に浮かれていた気持ちへ、暗い影が差していた。
膝の上には、朝から同じページを開いたままの本がある。何度文字を目で追っても、内容はまるで頭に入ってこない。
本を閉じ、鞄から依頼書を取り出した。
今回の仕事は、亡くなった男性の身元を村で正式に確認してもらい、ギルドからの書状と回収された遺品を村長へ届けること。そのうえで、周辺で最近起きた異変について聞き取りを行うことだ。
男性の死には、普通の魔物に襲われたにしては不自然な点が残っている。
たった一人の死で終わるのか。それとも、今後より大きな脅威につながるのか。ギルドは追加の調査が必要だと判断した。
夜明けとともに先行の調査員が洞窟へ向かい、回収できた所持品の一部を、出発前に俺たちへ届けてくれた。
別の調査員も後ほど村へ来て、聞き取った情報をもとに、さらに詳しく調べる予定になっている。
「今、一緒に来てくれたら心強かったのにな……」
「タカラ?」
「ううん、何でもない。村までは、まだ少しかかるみたいだよ。今のうちに休んでおこう」
「うん」
互いの肩を寄せ、体重を預け合う。
少しでも憂鬱な気持ちを紛らわせるため、何も考えないように目を閉じた。
次に目を覚ましたとき、空は夕暮れの色へ変わっていた。
馬車がゆっくりと速度を落とし、目的地へ到着する。安堵した乗客たちは、それぞれ荷物を抱えて馬車を降りていった。
俺たちもその後へ続く。
停車場所のそばには、村の名前が刻まれた木製の看板が立っていた。地図と見比べ、無事に目的地へ着いたことを確認する。
馬車を待っていた家族や友人が、到着した乗客へ次々と声をかける。笑い声と楽しげな話し声が辺りを満たし、夕暮れの村を明るくしていた。
周囲を見回すと、初老の男性と一人の少年が、誰かを捜すように馬車の乗客を一人ずつ確認している。
待ち合わせだろうか。
そう思って見ていると、男性と目が合った。
彼は俺たちの全身を確かめ、アンジェの胸元につけられた冒険者バッジを見つけると、足早に近づいてきた。
「もしや、冒険者ギルドの方ですか?」
「はい。ギルドから依頼を受けて来ました。俺はタカラです」
「アンジェです」
男性は胸へ手を当て、浅く頭を下げた。
「私は、この村で革製品の工房を営んでいるビスと申します。実は数日前から、従業員の一人が採取へ出たまま戻っていません。ヒューゴという男です。ギルドにも捜索をお願いしていたのですが……何か、分かったのでしょうか」
不安を押し殺したような声だった。
隣に立つ少年も眉間へ皺を寄せ、黙ったまま俺たちの様子を窺っている。
「……ええと」
どう切り出せばいいのか分からず、言葉に詰まる。
俺たちの表情を見たビスは、何かを察したように目を見開いた。そのままゆっくりと視線を落とす。
「長旅で、お疲れでしょう。よろしければ、工房へ来ていただけますか。そこで、お話を聞かせてください」
「はい」
遠くからは、再会を喜ぶ人々の笑い声が聞こえている。
その間を縫うように、俺たちはビスのあとへついていった。
案内されたのは、大きな平屋の建物だった。
手前は工房になっており、一日の作業を終えた職人たちが道具を片づけながら談笑している。
俺たちに気づくと、何人かが手を上げて挨拶をしてくれた。しかし、ビスの後ろにいるのが冒険者だと気づいた途端、その笑顔はぎこちないものへ変わる。
彼らも、ヒューゴが戻っていないことや、ギルドへ捜索を依頼したことを知っているのだろう。
俺たち以外に帰ってきた者がいないと分かり、誰からともなく視線を伏せた。
作業場を抜け、奥にある居間へ通される。
並んだ椅子の前には大きなテーブルが置かれ、その上には作りかけの革製品がいくつか並んでいた。
アンジェと少年が向かい合うように座り、俺もその隣へ腰を下ろす。
革製品は簡素な形ながら、細部まで丈夫に縫い上げられている。なめらかな艶も美しく、素人の俺が見ても質のよい品だと分かった。
ビスが茶を用意し、それぞれの前へ置いていく。
「お待たせしました。どうぞ」
「ありがとうございます。お気遣いいただいて、すみません」
「いえ……それで、報告があるのでしょう?」
ビスは眉間に深く皺を寄せ、テーブルの上で両手を組んだ。
厚く硬そうな手に力が入り、指が皮膚へ食い込んでいる。
「ヒューゴおじさんのことでしょ? まだ見つからないの?」
「ジェス……」
ジェスと呼ばれた少年が前のめりになり、俺とアンジェを交互に見つめる。
揺れる瞳から、焦りと不安が伝わってきた。
少年の薄茶色の髪には見覚えがある。
洞窟で見つけた男性も、同じような色の髪をしていた。
「首都近くの森にある洞窟で、その……」
アンジェが言葉を詰まらせる。
俺は鞄から、ギルドの紋章が押された書状を取り出した。
「まず、こちらを確認していただけますか」
書状と一緒に、先行した調査員が回収した革の鞄をテーブルへ置く。
洞窟で見つけた所持品の中から、身元の確認に使えそうなものだけが選ばれていた。
目を見開いたビスが、震える手で鞄を引き寄せる。
側面の傷や、留め具へ刻まれた印を何度も確かめた。
「これは……ヒューゴのものです」
絞り出すような声だった。
ビスの目から涙が溢れ、鞄の上へ落ちていく。
その様子を見ていたジェスが、ゆっくりと首を横へ振った。
「違う」
「ジェス……」
「違うよ」
ビスが何かを言おうとすると、少年は椅子から立ち上がった。
「違う! おじさんのじゃない!」
椅子が倒れ、大きな音を立てて床へ打ちつけられる。
ジェスは転びそうになりながら居間を飛び出していった。
アンジェが慌てて立ち上がる。
「私、追いかける」
「待って。俺が行くよ。アンジェは、ビスさんに詳しい状況を説明してくれる?」
「……分かった」
アンジェの耳は力なく垂れたままだ。
俺はビスへ頭を下げ、ジェスのあとを追った。
廊下へ出ると、先ほどまで聞こえていた職人たちの話し声が消えていた。
皆、居間から聞こえた声で事情を察したのだろう。
工房へ足を踏み入れると、奥の大きな扉が開いたままになっている。外の涼しい風が流れ込み、熱くなった顔を撫でた。
その風に乗って、小さな嗚咽が聞こえる。
声を辿ると、作業台の陰に蹲る小さな背中を見つけた。
近づき、声をかける代わりに、肩へそっと触れる。
少年の身体が大きく跳ねた。
肩越しに顔を上げたジェスと目が合う。目元は真っ赤に腫れ、頬は涙で濡れていた。
俺を確認すると、すぐに顔を伏せる。
「お、おじさんは……死んじゃったの?」
ここで曖昧なことを言って、希望を持たせてはいけない。
唇を噛み、ゆっくりと答える。
「……うん。洞窟で、亡くなっていた」
小さな口元が歪んだ。
再び溢れた涙が、作業着の膝へ次々と落ちていく。
何と声をかければいいのか、分からなかった。
慰める言葉を探しても、どれも軽く思えて口にできない。
ただ隣へ腰を下ろし、震える背中をゆっくりと撫でた。
しばらくすると、身体から力が抜け、ジェスが俺へもたれかかってくる。
その重みを受け止めた。
荒かった呼吸が少しずつ落ち着き、やがて少年が上半身を起こす。
外はすでに薄暗い。工房の奥にある炉の淡い光が、闇へ滲むように広がっていた。
その光が、ジェスの握っているものを照らし出す。
一足の立派な革靴だった。
まだ艶出しを施していない未完成品だが、落ち着いた色合いと几帳面に揃った縫い目から、大切に作られていることが伝わってくる。
「最後は、一緒に作った艶出しを塗ろうって……約束したんだ」
「うん」
「僕も、一緒に行けばよかった」
「一緒に行きたかったんだね」
「でも、おじさんは自分は強いからって……僕がいると面倒だから、置いていくって言ったんだ」
「ジェスを危ない場所へ連れていきたくなかったんだと思う」
「すぐ帰るって言ってたのに。帰ってこなくて……」
「うん」
「僕のせいだ。僕が薬品を使いすぎなかったら、材料を取りに行かなくてもよかったんだ」
大粒の涙が、少年の頬を伝っていく。
その言葉を否定したくて、ジェスの身体へ向き直った。
「ジェス。それは、ジェスのせいじゃない」
「でも、僕が――」
「艶出しを使ったのは、この靴を完成させるためでしょう?」
「……うん」
「ヒューゴさんも、それを分かっていたんだよね。それでも一緒に作ろうって約束してくれた」
「うん……」
「それに、ジェスを置いていったのは、邪魔だったからじゃない。大切だから、危ない目に遭わせたくなかったんだと思う」
「でも……」
「もしヒューゴさんがここにいたら、今回のことをジェスのせいだって言うと思う?」
ジェスは涙に濡れた顔を上げた。
迷うように口元を震わせる。
それでも、やがて強く首を横へ振った。
「……絶対に言わない」
「うん」
「おじさん、そんなこと絶対に言わない!」
声を上げたジェスには、僅かながら確信があった。
その答えを迷わず口にできることが、ヒューゴから大切にされていた証しなのだろう。
俺には、亡くなった人の気持ちを断言することはできない。
それでも、この少年が知っているヒューゴなら、きっとジェスを責めたりはしない。
ジェスは袖で涙を拭い、近くにあった椅子へ座り直した。
未完成の靴を作業台へ置き、天井を仰ぐ。涙はまだ止まらない。それでも、自分の中に溢れた感情をどうにか整理しようとしているように見えた。
そっと頭を撫でると、ジェスが俺を見上げる。
泣き疲れたのか、その身体がゆっくりと傾いた。
慌てて支えると、すでに瞼は閉じかけている。
「ジェス?」
返事はない。
浅く規則正しい寝息だけが聞こえた。
人に抱えられても起きないほど疲れ切っていたのだろう。あるいは、誰かに支えられていることで、ようやく力を抜けたのかもしれない。
小さな身体を抱き上げる。
涙で湿った髪をもう一度撫で、未完成の革靴を作業台へ残したまま、俺は静かに工房をあとにした。




