2 圧の強すぎる奥さま
森の小道端に停まった箱馬車のそばで、モスリンのデイドレスをまとった栗色髪の婦人が、何やらおろおろと行きつ戻りつしている。
蒲公英の葉を摘みに野へ出ようとしていたニレは、通りすがりに思わず声をかけてしまった。
「あの、お困りですか?」
婦人は過剰なほど勢いよく振り向いたかと思うと、一足飛びでニレに走り寄った。
腰をかがめてにじり寄ってくるその顔が、ずいぶんと近い。
その遠慮のなさに恐れをなしたニレは、上体をのけ反らせた。
「あの、」
「あなた、その声、それに瞳も、」
そこへ、のんびりした調子で御者らしき男性が呼びかけてきた。
「奥さま、お嬢さんがお困りでやすよ。それに、まずはこの馬車を何とかしねぇと」
「はっ、そうだったわ!」
我に返った婦人が、身を翻して馬車の方へ戻って行く。
近づいてくるのも唐突だったが、去るのもまたいきなりである。
なかなかエネルギッシュな奥さまだと思いながら、ニレはその背中を見送った。
どうやら馬車の車輪が石に乗り上げた衝撃で、部品に何か不具合が生じ、立ち往生しているようだ。
「あー、こりゃひびが入っちまってるなぁ。近くの町までなんとか保ちゃあいいんですが、」
「、あの、私、マルカじいさんを呼んできます。この近くに住んでて、器用だからたいていのものは修理できちゃうんです」
御者が日に焼けた弱り顔でニレを見た。
「おぉ、まぁそりゃあ助かるがね。しかし、そのじいさんは信用できるのかね。あんたは、」
「この子は大丈夫です!私が保証します!」
婦人が胸を張って宣言した。
御者が呆れ顔になる。
「いや奥さま、この娘っ子とはあんたさまだって初対面でしょうが、」
「そうですけれど、この子は大丈夫です。私の親友にこれほど似ているのですもの。あの人の子なら、信用に足るに決まっていますわ!」
親友だかなんだか知らないが、親が人格者だとしても、子どもまでそうとは限らないのでは、と信用を保証されたニレ自身が首を傾げた。
ともかく大丈夫だからと奥さまが押し切ったので、ニレはまずひとりでマルカじいさんの小屋へ駆けて行き、腹を出して昼寝していたじいさんを叩き起こして馬車まで戻って来た。
「あぁ、これなら直せるぞい」
じいさんはあっさり言って、御者と何やら相談し始めた。
その話しぶりに、御者もこれは信用できると思ったらしい。
馬車が直るまでの間、奥さまは歩いて十分ほどの距離にあるニレの家でひと休みすることになった。
「さあ、あなたのお母さまについて、一から百まで聞かせてちょうだい!」
ニレがお茶を出す暇もあればこそ、使い込まれた木の椅子に座るなり、奥さまが勢い込んで身を乗り出してきた。
聞かれるがまま、ニレは母親と思われる人物について、タミから聞かされた特徴などを洗いざらい話していった。
というか、矢継ぎ早に問いかけられて話させられた。
噂に聞く憲兵の尋問とはこういうものか、とニレは若干遠い目になった。
「そう、やはり黒髪に、銀粉の散ったような菫色の瞳。そして特徴的なその声。お母さまとあなたはとてもよく似ているようね」
紫の瞳自体が珍しいのだが、加えて星屑を散りばめたかのような虹彩となれば、誰しもがまずはかなり血の近い近親者であることを疑うだろう。
また、ニレの声はややハスキーで、声だけ聞いていると男性とも女性とも判別しがたい、中性的な響きを持っている。
特に十歳を過ぎたあたりから、タミが時折、このところ声がめっきり母親似になってきたね、と言うようになっていた。
「あの人も、あなたとよく似たとても魅力的な声の持ち主で、男性からも女性からも本当によくモテたのです」
母親らしき人のことは伝聞でしか知らないし、今のところあまりモテている実感のないニレとしては、そうですか、以外に返事のしようもないのだが。
「そんなわけで、今こそエテンシアに恩返しをするときですわ!」
母親と思しき人の名は、エテンシアと言うらしい。
ニレは口中で噛みしめるようにその名を呟いた。
婦人は、エテンシアのおかげで想い人と一緒になれたので、それを生涯の恩と感じているのだと言う。
「いま聞いたところでは、ニレあなた、天涯孤独になってしまったわけでしょう?このまま、私と一緒においでなさい。そうね、うちの息子たちの誰かと結婚でもしてくれて、本当の娘になってくれたら最高だわ!ね、いいわよね?」
いいわよね、ではない。
まずそもそも、
「あの……奥さまはどちらさまで?」
「あらやだっ、私ったら名乗りもしないでごめんなさいね〜」
婦人は、口元に手を当てて可愛らしく笑った。
「デヴォアラよ。奥さまだなんて、そんな他人行儀な呼び方はやめてちょうだい」
他人行儀も何も、今日知り合ったばかりの、血縁でもなんでもない真っ赤な他人なのだが。
「お母さまと呼んでくれてよくってよ!さあ、善は急げと言うでしょう。そろそろ馬車も直っている頃でしょうし、このまま出発するわよ!」
「え、あのっ、ちょっと、どこへ……あぁぁぁ〜」
二の腕をがっしり掴まれ、意外に力のあるデヴォアラにニレはなすすべもなく引き摺られてゆく。
売られてゆく子牛のごとき悲壮な声が尾を引きながら遠ざかって行くのを、何事かと顔を覗かせた集落の人々が目を丸くして見送っていた。




