第9話:接客業は、元カノの許可が下りません
東京での生活が始まって半月ほどが経った。大学の講義にも少しずつ慣れてきた頃、私はある切実な問題に直面していた。
「うーん……やっぱり、東京はお金がかかるなぁ」
自室のベッドに寝転びながら、私はスマートフォンの銀行口座アプリを見つめて溜息をついた。
実家からの仕送りと奨学金があるとはいえ、教科書代やサークルの会費、それに臨たちと放課後にちょっとお茶をするだけで、お財布の中身はみるみるうちに寂しくなっていく。憧れの都会生活を満喫するためには、どうしても自分でお金を稼ぐ必要があった。
さっそく求人アプリを開き、条件を絞って検索をかけてみる。
居酒屋は夜が遅そうで気が進まないし、家庭教師は私の学力では少し心もとない。
「あ。ここ、すごく良さそう……!」
目に留まったのは、大学の隣の駅にある、お洒落なブックカフェの求人だった。
レンガ造りの落ち着いた店内に、可愛いエプロンの制服。時給も相場より少し高めだ。何より人と接するのがそこまで苦にならない私にとって接客業は最適だ。
「よし、ここに応募してみよう!」
良い求人を見つけて少し浮き足立った私は、スマホを片手にリビングへと向かった。
私たちは「お互いの私生活には干渉しない」というルールを決めている。だから、別にアルバイトを始めること自体を美空に許可してもらう必要などない。ないのだけれど、この前、美空が家庭教師のバイトを始める時にも私に報告をしてくれた。
ならば――同じ家に住む同居人として、せめて一言くらいは伝えておくのが筋というものだろう。
リビングでは、美空がソファに座って法学の講義の分厚い専門書を読んでいた。
お風呂上がりだからか、今日も例のメンズサイズのネイビーパーカーを着て、スラリとした生足を無防備に投げ出している。美空は先日の臨との一件以来、家の中でも私への巨大な感情を隠しきれなくなってきているようだった。
「ねえ、美空。勉強中ごめん」
私が美空の肩を叩くと、彼女は専門書からゆっくりと顔を上げた。
「私、そろそろアルバイト始めようと思うんだ」
「アルバイト? 楓が?」
「うん。仕送りだけじゃちょっと足りなくてさ。さっきアプリで、すごく良さそうなカフェの求人を見つけたんだよね。ほら、これ」
私はスマホの画面を美空の目の前に差し出した。お洒落な店内の写真と、可愛い制服のサンプル画像が画面に映し出される。
美空は無言でスマホを受け取ると、じっと画面を見つめた。
一秒、二秒、三秒。
時間が経つにつれて、美空の綺麗な顔からじわじわと血の気が引いていき、凍りつくような冷たさがその瞳に宿っていくのが分かった。
パタン、と美空が私のスマホをテーブルに置く。
「……却下」
「はあ!?」
あまりにも短く、容赦のない拒絶に、私は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「却下って何よ! アルバイトくらい私の自由でしょ! 初日に決めたルールその二の『お互いの私生活には一切干渉しない』はどこに行ったのよ!」
「ルールよりも、楓の身の安全の方が優先される。……こんな駅前の、誰でも入れるお洒落なカフェなんて絶対にダメ」
美空はソファから立ち上がり、私の前に立ちはだかった。その目は、完全に怒っている時の据わった目だ。
「何がダメなのよ! 時給もいいし、制服だって可愛いし――」
「そこが一番ダメ」
美空は私の言葉を遮り、一歩、距離を詰めてきた。
「そんな可愛い制服を着て、楓がレジに立ってみて。毎日不特定多数の男が、楓を目当てに店にやってくるに決まってる。もし変な男に声をかけられたらどうするの? ナンパされたり、ストーカーされたり、連絡先を渡されたりしたら……」
「考えすぎでしょ!? ただのカフェの店員だよ!?」
「考えすぎじゃない。楓は自分がどれだけ無自覚に人を惹きつけるか分かってない。……大体、そんな風に誰彼構わず営業スマイルを振り撒くなんて許さない」
美空は私の両肩を掴むと、至近距離で、もはや隠そうともしないドロドロの独占欲に満ちた声を漏らした。
「楓の可愛い笑顔を、他人に安売りしないで。……楓が笑っていいのは、私の前だけだよ」
「なっ……!?」
恥ずかしさと美空の重すぎる台詞に、頭がカッと熱くなる。
何なの、この女。付き合っていた頃だってここまでストレートに束縛してこなかった癖に。別れてからの方が明らかに愛のブレーキが壊れている。
「し、仕事なんだから笑顔は当たり前でしょ! もう、美空のバカ! 私は絶対にあのカフェに応募するからね!」
私が掴まれた手を振り払おうとすると、美空は深く溜息をつき、今度は諭すようなトーンに声を切り替えた。
「どうしてもアルバイトがしたいなら、別の場所を紹介してあげる。……私の大学の図書館で、今度新しく学生スタッフの募集があるんだ。外部の学生も雇ってるし、あそこなら静かで、利用するのも真面目な学生だけだから変な男も寄ってこない」
「えっ……美空の大学の、図書館?」
「そう。シフトも融通が利くし、大学の職員さんも優しいし。何より――」
美空は妖しく目を細め、私の耳元で楽しげに囁いた。
「私の目が届く場所だから、安心して働けるでしょ?」
(要するに、私を自分の監視下に置きたいだけじゃないのよ!!)
美空の企みが透けて見えすぎて、思わず私はじっとりとした視線を向けた。
「お断りします! なんでわざわざ美空の大学まで行ってバイトしなきゃいけないのよ。交通費も無駄だし、何よりバイト中まで美空に見張られてるなんて息が詰まるから!」
「見張りじゃない。保護。それに交通費なら私が――」
「とにかくダメ! 私は私の行きたいところで働くの! 私の人生なんだから、美空に指図される覚えはないんだからね!」
私が意地になってそう言い放ち、スマホを回収して自室に戻ろうとした、その時。ぐい、と手首を掴まれ、身体が美空の方へと引き戻された。
「……だったら」
美空は私のスマホを上から優しく包み込むようにして取り上げると、テーブルに静かに置いた。そして、私の両手を自分の胸元へと引き寄せ、真っ直ぐに、とんでもなく大真面目な瞳で私を見つめてきた。
「だったら、もうバイトなんてしなくていい。……私が、楓を養うから」
「……は?」
あまりに想定外の単語が飛び出してきて、私の思考は完全にフリーズした。
「養うって……何を言ってるの、あんた……」
「言葉通りの意味。楓に必要な生活費も、お小遣いも、サークルの費用も、お洋服やコスメの代金も、全部私が払う。仕送りと、今やってる家庭教師のバイト代を回せば、楓一人を不自由なく養うくらいの余裕は十分にあるから」
美空は冗談を言っている風では微塵もなかった。
本気だ。この女は、私を他の男の目に触れさせないためなら、本当に自分の財布を開いて私をヒモに仕立て上げるつもりでいる。
「だ、だから、なんで別れた元カノに養われなきゃいけないのよ! 意味が分かんない!」
「女の子の友達同士のルームシェアで、経済的に余裕がある方が奢ったり助け合ったりするなんて、よくあることでしょ? だから、普通」
「あるわけないでしょ、そんな金額の助け合いなんて!!」
美空の口から飛び出した、過去最大級に無理のある「女の子同士だから普通」という暴論。けれど、私の手を握る美空の手のひらは、じっとりと熱を帯びていて、私を絶対に外の世界へ渡さないという強い執着に満ちていた。
ただの同居人、ただの友達。その建前を都合よく使い回しながら、美空は確実に、私の逃げ道を一つずつ、笑顔で塞ぎ始めていた。
根負けした私は、とうとう深い溜息をついた。
「……分かった。バイト先はもっと美空が納得してくれそうな場所を探してみる」
「本当!? よかった……」
美空はそう言うと、安堵と罪悪感の入り混じった表情を浮かべる。
申し訳なさそうに目が伏せられた美空の綺麗な顔。それが、すぐ目の前にあった。
どうして――どうしてそんな表情をするのだろう。最後まで我儘な態度を貫き通してくれれば私も腹を立てたり恨んだりできるのに。これでは怒りたくても怒れない。
私の心臓は、せつなさと、どうしようもない高揚感で、今日もまたうるさく鳴り響くのだった。




