第10話:水道代の節約という、最も不純な動機
五月の初め頃、リビングのテーブルに置かれた数枚の紙切れを見つめて、私は思わず絶句した。
「……高っ」
それは、このマンションに引っ越してきてから初めて届いた、一ヶ月分の水道光熱費の請求書だった。
「水道代とガス代って、こんなに高いんだね。東京だからなのかな」
向かい側に座る美空が、伝票を綺麗な指先でつまみながら、淡々と呟く。
実家暮らしの頃は親が全て払っていたから意識したこともなかったけれど、電気、ガス、水道、そのどれもが私の想像を超える金額を叩き出していた。アルバイトを美空に阻止され、カツカツの生活を送っている私にとって、この出費は致命傷に近い。
「うう……お風呂の回数減らす? いや、この季節にそれは無理だし、どうすれば……」
「それなら私が楓の分まで光熱費を――」
「それはダメ! 生活費は折半!」
ここ最近の美空は何かにつけて私の分のお金を払いたがっていた。一緒に外食をする時などは率先して奢ろうとしてくる。しかも、私の分のお金を払った時の美空はすごく幸せそうな顔をするのだ。そのせいで私もなんだか良いことをしているような気持ちになってくる。もちろんそんなはずはないのだが。
懐の寂しい私は、ここ数週間で何度か美空の好意に甘えてしまっていた。だが、こんなことではいけない。光熱費まで彼女に頼るようになったら本物のヒモになってしまう。
「さすがにスマホ代は削れないしなぁ。それ以外だと……」
頭を抱える私を、美空は頬杖をついたままじっと見つめていた。そして、何事もないかのように、至極真っ当な解決策を思いついた顔で口を開く。
「簡単な節約方法があるよ、楓」
「え? なに?」
「今日から、一緒にお風呂に入ろう」
「……は?」
私は持っていたペンを床に落とした。
「一緒にお風呂に入れば、シャワーを流しっぱなしにする時間も減るし、お湯が冷める前に二人分の入浴が済む。ガス代も水道代も、確実にこれまでの半分近くに抑えられるはず」
美空はホワイトボードに数式でも書くような理路整然としたトーンで、とんでもない暴論をのたまう。
「ば、バカ言わないでよ! なんであんたと一緒にお風呂に入らなきゃいけないの! ルールその三の『過去を連想させる接触は禁止』に完全に引っかかってるでしょ!」
高校時代、お泊まりの時や部活終わりに、私たちは何度も一緒にお風呂に入った。その時に何が起きていたかを考えれば、一緒の浴室に入るなんて正気の沙汰ではない。
お風呂場でキスもしたし、裸のまま抱き合いもしたし――昂った私はそれ以上を求めようとして美空に窘められもしたものだ。
しかし、美空はいつものように、完璧に澄ました顔で私を論破しにかかる。
「何をそんなに大騒ぎしているの? 女の子同士だよ?」
やっぱり出た。伝家の宝刀、最強の免罪符だ。
「女の子の友達同士で、旅行先や銭湯で一緒にお風呂に入るなんて普通でしょ。今回はそれが家になっただけ。お互いの生活費を節約するためなんだから、私生活への不要な干渉でもない。それとも楓は、無駄にお金を払い続けたいの?」
「うぐっ……それは、そうだけど……でも……!」
「決まりね。じゃあ、お風呂を沸かしてくるから」
美空は私の反論を待たずに、満足げに立ち上がって浴室へと向かっていった。
(絶対に違う! あいつの目的は節約なんかじゃなくて、単に私を困らせて楽しみたいだけだ……!)
そう分かっていても、美空の「女の子同士だし普通」という正論の前に、私はどうしても首を縦に振るしかなくなってしまうのだった。
――三十分後。脱衣所の前で、私は自分のパジャマの裾をぎゅっと握りしめて立ち尽くしていた。
「ほ、本当に入るの……?」
浴室のドアの向こうからは、小気味いいシャワーの音と、お湯の流れる音が漏れ聞こえてくる。美空は既に中に入っているのだ。
「楓、遅いよ。お湯が冷めちゃう」
中から美空の少しこもった声が聞こえる。
覚悟を決めて、私は服を脱ぎ、ゆっくりと浴室のドアを開けた。白い湯気が、一瞬で私の視界を包み込む。
靄がかったような視界の中で、洗い場の椅子に座っている美空の姿が見えた。
「――っ」
息が止まりそうになった。
濡れた黒髪が、白く滑らかな背中や首筋に張り付いている。湯気の中に浮かび上がる美空の肢体は、高校時代よりもさらに引き締まり、どこか大人の色香を帯びていて――あまりのスタイルの良さに、同性であるはずの私でも、心臓がバクバクと嫌な音を立てて暴れ出す。
「そこに立ってると体が冷えるよ。早くおいで」
美空が振り返り、濡れた睫毛の奥にある瞳で私を見つめた。私は慌てて視線を床に落とし、美空の隣の洗い場に腰を下ろした。駄目だ、直視したら頭がおかしくなる。
シャワーを浴びて身体を温めている間も、隣から伝わってくる美空の気配が気になって仕方がなかった。浴室という狭くて密閉された空間のせいで、彼女のシャンプーの匂いが、いつもより何倍も濃密に私の鼻腔をくすぐる。
「……じゃあ、楓。背中、流してあげる」
「えっ!? いいよ、自分でできるから!」
「節約。お互いに流し合った方が、効率がいいから」
美空は私の拒絶を無視して、自分の椅子を私の真後ろへと移動させた。そして、ボディソープをたっぷりと泡立てたタオルを、私の背中にそっと当てた。
「んっ……」
思わず、小さく吐息が漏れる。温かい泡と、美空の優しい手つきが、私の背中をゆっくりと滑っていく。
高校時代、私たちはよくこうして背中を流し合っていた。当時はそれが、恋人同士の甘くて幸せなスキンシップだった。その時の手の温もりや、背中に触れる美空の指の感触が、恐ろしいほどの鮮明さで脳裏に蘇ってくる。
背中を流されているだけなのに、身体がじわじわと熱くなっていくのが分かった。熱のせいでも、お湯のせいでもない。私の後ろにいる元カノの存在そのものに、私の身体が過剰に反応してしまっているのだ。
美空の手が、肩から、首筋へと上がってくる。耳の後ろを、彼女の細い指先が愛おしそうに掠めた。
「……懐かしいな」
背後から、美空の声が聞こえた。シャワーの音にかき消されそうなほど小さな、けれど私の鼓膜に直接届く、甘く掠れた声。美空は私の背中に、自分の濡れた胸元をそっと押し付けるようにして、さらに距離を詰めてきた。
「……あの頃はこうやってお風呂に入っていると楓はすぐに興奮してキスしてきたよね」
耳元に、彼女の熱い吐息が触れる。
「今はしないの?」
「――っ!」
心臓が、本日最大の爆音を立てて跳ね上がった。
今はしないの――。それは、どちらの意味だろうか。
興奮をか。
それともキスをしないのか、という意味か。
興奮はずっとしっぱなしだし、キスだってしていいならばしたい。
だが、付き合ってもいない友達同士の間柄でキスなんてしていいわけがないではないか。
それとも。していい、という意味なのか。
私は、すぐ後ろにいる美空にぎこちなく肩越しの視線を向ける。
すると、美空の、クスクスという悪戯が成功した子供のような小さな笑い声が聞こえた。
「どうしたの、楓。顔、真っ赤だよ。のぼせちゃった?」
美空のその笑みは、これが単なる『友達同士の節約』なんかではないことを白状したも同然だった。
やっぱりこの女は、全て分かってやっているのだ。女の子同士だから普通、なんて建前で私を油断させて、私の心を昔のように自分だけで満たそうとしている。
振り返って文句を言おうとしたけれど、恥ずかしさと、背中から伝わってくる彼女の体温の心地よさに、私は声が出せなかった。
湯気の中で、私たちの境界線は、水道代の節約という最も不純な動機によって、またしてもドロドロに溶かされていく。結局、熱に浮かされたような頭のまま、私は浴室で彼女に弄ばれ続けたのだった。




