第11話:スマホの画面に映る、知らない男の名前
お風呂での『水道代節約イベント』から数日後。我が家のリビングには、あの日浴びた熱い湯気とは真逆の、シベリアの永久凍土を思わせるような極寒の空気が吹き荒れていた。
原因は、今日の夕方にリビングのテーブルの上で発生した、ある些細な出来事にある。
夕暮れ時。私はリビングのテーブルにノートパソコンを置き、忙しなくキーボードを叩いていた。大学の必修科目で行われる、グループワークの資料作りだ。
「ふぅ。これでとりあえずレジュメの準備は終わり、と」
テーブルの向かい側では、美空がいつものように法学部の分厚い専門書を広げている。
その時、私がノートパソコンの横に置いていたスマートフォンが、短く震えた。画面が明るくなり、ポップアップの通知が表示される。
『高橋:中道さん、さっき送ってくれた共有データの3ページ目、ちょっと修正しておいたから確認よろしく!』
大学のグループワークで同じ班になった、真面目そうな男子学生――高橋からの、紛うことなき業務連絡のLINEだった。
「高橋くん、仕事早いな。確認しなきゃ」
私がスマホに手を伸ばそうとした、その瞬間。
ぴしり、と。向かい側から、空気が凍りつく音が聞こえたような気がした。
恐る恐る顔を上げると、専門書から顔を上げた美空が、据わった目で私のスマホの画面をじっと凝視していた。その瞳の奥にあるハイライトは完全に消え去っており、先日の臨の時以上の、どす黒いオーラが彼女の背後から立ち上っている。
「……誰、それ」
美空の声は、地の底から響いてくるかのように低かった。
「え? ああ、高橋くん? 大学のグループワークで同じ班の人。発表のレジュメ作りのための連絡だよ」
「……男?」
「うん、男の子だけど……それがどうかした?」
美空はそれ以上何も言わず、激しい音を立てて専門書を閉じると、そのまま無言で立ち上がって自分の部屋へと戻っていく。後には冷たく閉まるドアの音だけが残された。
そして、その夜から。私の元カノ、市之瀬美空は、あからさまに冷淡な態度を取り始めたのだった。
――翌日の夜。リビングの空気は、いまだに冷え切ったままだった。
いつもなら、お風呂上がりには「髪を乾かして」と言わんばかりに私の隣に滑り込んできたり、「節約だから」と一緒に入浴を強要してきたり、あの手この手で距離感を狂わせてくる美空。
それが、昨日から完全にゼロになっていた。
「ご飯、できてるから」
「あ、うん。ありがと……」
食卓に並んだご飯は美味しかったけれど、交わされたのはどこか無機質で事務的な会話だけ。美空は私の顔を一度も直視しようとせず、淡々と食事を済ませると、すぐに自分の食器だけを洗ってリビングのソファへと移動してしまった。
(何なのよ、もう……)
お気に入りのピンクのマグカップで麦茶を飲みながら、私はソファに座る美空の横顔を横目で睨みつけた。
美空はスマホをいじっているけれど、画面をスクロールする指先が妙に荒々しい。
お互いの私生活には一切干渉しない。ルールその二の通りである。美空が私の人間関係に口を出さないのも、冷たく距離を置くのも、ある意味では契約通りで正しいルームシェアの姿なのだ。
正しい、はずなのに。
「……何よ。寂しいじゃん」
ぽつりと、自分でも驚くほど小さな本音が口から漏れた。
あれだけ毎日「可愛い笑顔を他人に安売りしないで」だの「楓は私のもの」だのと言われて辟易していたはずなのに。いざその熱量が急に他人のように冷め切ってしまうと、胸の奥が妙にうそ寒くて、どうしようもなく寂しくなってしまう。
結局、私の心も、美空の過剰な愛に毒されてしまっていたのだ。
時計の針は、夜の十一時を回ろうとしていた。
これ以上、この気まずい空間に耐えられなくなった私は、ノートパソコンを閉じて立ち上がった。グループワークの課題は明日大学で講義が始まる前にやればいいだろう。
「……じゃあ、私、部屋に戻るね」
声をかけても、美空はスマホの画面を見つめたまま、小さく返事をして頷くだけだ。
やはり、あの高橋からのLINEのことで怒っているのだろうか。でも、ただの業務連絡だし、そもそも私たちは別れた他人同士なのだから、私が大学で男友達を作ろうが彼女に怒られる筋合いはないはずだ。
そう自分に言い聞かせ、自室のドアノブに手をかける。だが、どうしてもそのまま部屋に戻るのが躊躇われた。
嫌だ。このままでは眠れない。
「ねえ、美空」
私はドアノブから手を離し、ソファに座る元カノを振り返った。
「……なに?」
美空は相変わらず、私の方を見ようとしない。
「あんた……昨日から、何か怒ってる?」
「怒ってない」
美空は即座に、冷淡なトーンで言い返した。
「怒ってないなら、なんでそんなに冷たいのよ。会話も素っ気ないし。お風呂だって一緒に入ろうって言わなくなったし……」
「楓が『過去を連想させる接触は禁止』ってルールを作ったから、それに従っているだけ。私は、ただの同居人として、正しい距離感を保っているんだけど。……それの何が不満なの?」
美空は淡々と、けれど棘のある言葉を並べた。彼女の横顔はどこか強がっているようにも見える。その顔を見つめているうちにふと気がついた。
(そうか。こいつ、めちゃくちゃ拗ねてるんだ……)
ただの業務連絡に嫉妬して、でも「別れた自分には束縛する権利がない」という矛盾に一人で勝手に傷ついて、子供みたいに殻に閉じこもっているのだ。
そう分かると、さっきまでの寂しさが、なんだか少しだけ愛おしさに変わっていくのが分かった。
「そっか、そっか。美空が怒ってないなら別にいいんだ」
私は小さくため息をつき、今度こそ自分の部屋に入ろうと足を一歩進めた。
その時だ。ぐいっ、と。背後から、強い力で服の裾を引っ張られた。
「ひゃいっ!?」
驚いて振り返ると、いつの間にかソファから立ち上がっていた美空が、私のTシャツの裾を、両手でぎゅっと握りしめていた。
美空は俯いていて、その長い黒髪の隙間から見える耳の先端が、真っ赤に染まっている。
「美空……?」
服を掴む美空の指先が、微かに震えていた。
「……よくない」
「え?」
「よくない。なんで分かってくれないの。怒ってるよ。怒ってるに決まってる……っ!」
美空が勢いよく顔を上げた。その綺麗な瞳には、いつものクールな余裕など一ミリも残っていなくて、今にも泣き出してしまいそうなほどの寂しさと、激しい嫉妬の色がドロドロに混ざり合っていた。
美空は私の服を掴んだまま、一歩、私との距離をゼロにするように踏み込んできた。彼女の熱い吐息が、私の鎖骨のあたりに触れる。
「なんなの、あの高橋って男。楓のことを『中道さん』なんて親しげに呼んで、データの修正とかいって、明日も大学で二人きりで会うの? 楓は、私以外の男にあんな可愛いレジュメを見せて、二人で笑い合うの……?」
「レジュメに可愛いとかないから! ただのグループワークだって――」
「嫌。絶対に嫌……!」
美空は私の言葉を掻き消すように叫ぶと、私のTシャツの裾をさらに強く握り込み、付き合っていた頃に何度も私に向けてきた、あのわがままで、独占欲全開の、愛おしい声を漏らした。
「ねえ、楓……。あの男と、私――」
美空は潤んだ瞳で私をまっすぐに見つめ、至近距離で、私の心臓を爆発させるような台詞を言い放った。
「――どっちが、大事なの?」
ただの同居人、ただの女の子の友達。美空がこれまで必死に使い回してきたその便利な建前は、知らない男の名前一つによって、跡形もなく完全に消し飛んでしまったのだ。
小さく震える美空の細い肩を抱き、どう答えるべきか逡巡する。上手く答えをはぐらかして有耶無耶にするか。それか、いっそ逆ギレして彼女を突き放したっていいはずだ。もしくは――。
ちらりと彼女の様子を窺う。目鼻立ちの整った美空の端正な顔。それが、今にも泣き出しそうに崩れかかっている。
胸が、痛んだ。
私の答えは――。
私は小さく息を吐くと、美空の背中に手を回して優しく擦った。
「……美空の方が大事。知り合ったばかりの男子なんかより美空の方が大事に決まってるでしょ」
「本当……?」
美空は潤んだ瞳で私を見つめてくる。
「本当だってば」
「だったら、楓。私と――」
何かを言おうとした美空は口をつぐみ、悲しげに首を振ると私の体を離した。
「ごめん。なんでもない。……先に部屋に戻るね」
去り際、美空は私の方を振り返って笑った。
「私のことを大事って言ってくれたのすごく嬉しかった。ありがとう」
呆気に取られた私は何も返事をすることができなかった。
美空の姿が見えなくなると私はその場にへたり込む。
「何なのよ、もう……」
あれほど未練がましく迫ってくるのならばもういっそ一言、やり直したいと言ってくれればいいのに。
ただ意地を張っているのか。それとも言えない事情でもあるのか。
もしも美空が素直に謝って復縁したいと言ってきたなら、私は――。
私は、どうするのだろう。私の今の気持ちは、どうなのだろうか。
口元を押さえたまま顔を上げる。
私は、美空が去った方をただ呆然と見つめることしかできなかった。




