第12話:梅雨の日の衣替え、友達ならキスくらい普通?
窓ガラスを激しく叩く雨の音が、リビングに響いていた。
六月に入り、東京は本格的な梅雨の季節を迎えていた。せっかくの休日だというのに、外はバケツをひっくり返したような大雨。臨たちと行く予定だったフリーマーケットの計画も、当然のように中止になってしまった。
「はぁ……完全に出鼻をくじかれちゃったな」
私はリビングのソファに深く腰掛け、どんよりとした外の景色を眺めて溜息をついた。
あの「どっちが大事なの?」という、美空の愛のブレーキ完全破壊発言から数日。グループワークの一件は、一応の解決を見たものの、それ以来、私に対する美空の距離感はさらに一段階おかしな方向へ加速していた。
「楓、暇ならクローゼットの整理をしない? ちょうど衣替えの時期だし、二人分のスペースを少し見直したいと思ってたんだ」
お気に入りのくすんだブルーのマグカップを片手に、美空が自分の部屋から顔を出した。着ているのは、相変わらずあのネイビーの大きなパーカーだ。
「衣替えかぁ。確かに冬服とかまだ出しっぱなしだし、やっちゃおうかな」
予定がなくなって退屈していた私は、美空の提案に乗ることにした。
それぞれの部屋から、もう着ない厚手のコートや、新しく買った夏服をリビングへと持ち寄る。テーブルの上に山積みにされた服を前に、私たちは仕分け作業を始めた。
「それにしても、やっぱり美空はスタイルが良いよね。服のサイズが私と全然違うもん」
ハンガーにかかった美空のロングコートを見つめながら、私はぽつりと溢した。
モデル体型で何を着ても綺麗にキマる美空と違って、私は平均身長よりも少し低めで、体型も良く言えば健康的、悪く言えば幼児体型だ。高校時代から、彼女の大人びたクローゼットを見るたびに、少しだけ羨ましく思っていた。
すると、美空は私の言葉に何かを思いついたように目を輝かせた。他人が見れば彼女の表情はほとんど変わっていないように感じられただろう。だが、私には瞳の奥が妖しく光っていたのが確かに分かった。
今度は何を企んでいるのだろうと訝しんでいると、美空は山の中から一着の白いオーバーサイズのサマーニットを引っ張り出した。
「じゃあ、楓。これ、着てみて」
「え? なんでよ。美空の服でしょ?」
「いいから。これ、絶対に楓に似合うと思う」
美空は有無を言わせぬプレッシャーでニットを私に押し付けてきた。
断るのも面倒なので、私は今着ているTシャツの上からそのニットをすっぽりと頭から被った。
「うわ、やっぱり大きい……」
袖を通してみると、美空のサイズに合わせて作られたニットは、私の手を完全に覆い隠していた。裾も太もものあたりまでダボリと垂れ下がっていて、鏡を見るまでもなく服に着られている感が凄まじい。
「ほらね、やっぱり変じゃ――」
文句を言おうと顔を上げた私を見て、美空はピタリと動きを止めた。
そして、ゴクリと唾を呑み込むような音が聞こえた気がした次の瞬間、彼女は素早い手つきでポケットからスマートフォンを取り出し、画面をこちらに向けてきた。激しく響く連写音。
「ちょっと!? なんで写真なんて撮ってるのよ!」
「……記録。ブカブカの服を着て、袖から指先だけちょこんと出している楓、信じられないくらい可愛い。保護欲が刺激される。これは私の個人フォルダの永久保存版に――」
「こんなの保存してどうするの!? もう、脱ぐからね!」
恥ずかしさに耐えかねてニットを脱ごうとする私を、美空は「待って、あと三枚だけ」と必死に制してくる。本当にこの元カノ、私の前だと普段のクールさをどこかに置き忘れてしまっている。
「じゃあ、今度は私の番」
「交代制なの、これ?」
「そうだよ」
「そ、そうだったんだ!? 知らなかった……」
写真を撮り終えて満足したらしい美空は、私の服の山から、私が高校時代から愛用している薄手のピンクのカーディガンを手に取った。
「美空が私の服を着るの? 絶対にサイズが小さくてパツパツになるって」
「いいの。ちょっと羽織るだけだから」
美空は私の制止を聞かず、その長い腕を私の小さなカーディガンへと通した。
予想通り、肩幅や袖の長さが全然足りていなくてかなり窮屈そうな見た目になっている。サイズが合わずボタンは留まってすらいない。スタイルの良さが仇になってなんだか可哀想なことになっているというのに、美空はなぜかものすごく幸せそうな顔をしてカーディガンの襟元に自分の鼻をそっと近づけた。
そして、深く、深く息を吸った。
「……っ!? ちょっと、何してんのよ!?」
あからさまに、深呼吸をするように私の服の匂いを嗅ぎにいった元カノに、私は叫び声を上げた。
「……楓の匂いがして、すごく落ち着く」
美空は、私のカーディガンに顔を半分埋めたまま、潤んだ瞳で私を見上げてきた。
「高校の時、デートの帰りにいつも楓が貸してくれたカーディガンと同じ匂いがする。……これ、私の部屋のクローゼットに移しておいてもいい? 疲れた時に吸って癒される」
「ダメに決まってるでしょ!? それ、私が明日大学に着ていくやつ!」
「じゃあ、明日まで借りておく」
美空はカーディガンを羽織ったまま満足げにリビングのソファへと移動し、コロンと横になった。その姿は、まるで大好きな飼い主の匂いがついた毛布を確保してご満悦な大型犬のようで、さっきまでのどこか狂気的なまでの勢いが嘘のように無防備だった。
「……もう、本当に自由なんだから」
私はため息をつきながらも、服の片付けを一時中断し、美空が占領しているソファの空いているスペースへと腰掛けた。
雨の日の薄暗いリビング。外の雨音は、相変わらず激しく響いている。
「……楓」
不意に、横になっていた美空が、私の名前を呼んだ。
「ん? なに?」
「ちょっと、足、貸して」
「え――」
言うが早いか、美空は私の返事をも待たずに、自分の綺麗な黒髪の頭を、私の太ももの上へと滑り込ませてきた。
ストン、という軽い重みと共に、私の膝の上に美空の頭が乗る。思いっきり膝枕の体勢だった。
「ちょ、美空!? 膝枕なんてルールその三に完全に――」
「雨の日は、古傷が痛むから。こうして精神を安定させないと勉強が手につかない」
「古傷なんてないでしょ、あんた!? いつの間にそんな大怪我したのよ!」
拒絶すべく美空の肩を押そうとしたけれど、私のカーディガンを愛おしそうに羽織り、私の膝の上で本当に心地よさそうに目を細めている美空の顔を見てしまうとどうしてもそれ以上強く押し返すことができなかった。
サラサラとした美空の黒髪が、私の指先に触れる。
膝の上から伝わってくる、彼女の頭の絶妙な重みと、そこから漂うあの柑橘系の香りが、私の理性をじわじわと麻痺させていく。
(あーあ……また流されてる、私……)
心の中で自分に呆れつつも、私は雨の音を聞きながら、美空の髪をそっと撫で始めた。
膝の上の美空は、私が髪に触れると、嬉しそうに喉を鳴らす猫のように、小さく体を揺らした。
しばらくの間、贅沢で、そして甘酸っぱすぎる沈黙が、私たちの間に流れていた。テレビの音も消した静かな部屋で、雨の音だけが世界を包み込んでいる。
ふと、美空の髪を撫でる手を止めて、私は彼女の顔を見つめた。
美空もまた、目を閉じることなく、膝の上からじっと私の顔を見上げていた。
至近距離で、視線が交差する。
美空の切れ上がった、けれど今は熱を孕んで潤んでいる瞳が、私の目を捉えて離さない。
心臓が、またうるさい音を立てて跳ね上がり始める。
美空の視線が、私の目から、ゆっくりと下へと移動していった。彼女の目が、私の『唇』のあたりでピタリと止まる。
「……楓」
美空の声が、さっきまでの甘えたトーンから、低く、掠れたものへと変わった。
美空は私の膝の上で、ゆっくりと上半身を浮かせ、私の方へと顔を近づけてくる。
勝手に羽織った私のカーディガンの匂いじゃなくて、美空自身の、あの濃密な柑橘系の香りが、一気に顔の距離をゼロにする勢いで迫ってくる。
美空の薄い唇が、私の目の前、あと数センチのところまで迫り――。
慌てて彼女の顔を手で支え、押し留める。
「マズいって、美空」
震える声で言うと、美空はせつなそうに見つめ返してくる。
「何がマズいの。誰も見てないよ。それに――女の子の友達同士だよ」
その先を言わないでくれと、そう願う。その先の言葉を言われてしまったら、私は。
意志の弱い私は、きっとまた流されてしまう。
熱っぽい瞳で私を見つめたまま、美空の唇がゆっくりと動く。
「高校の時もクラスでふざけてキスしてる子とかいたでしょ」
無慈悲に。残酷に。艶やかな唇がその言葉を紡ぐ。
「女の子なら友達同士でキスするくらい普通だよ」
「……普通、かな」
「うん。普通」
そうか。普通なのか。女の子なら友達同士でキスくらいするものなのか。
美空は私より頭も良いし。しっかりしてるし。美空が言うならそうなのだろう。
なら、別にいいか。
私は、手で美空の頭を支えたまま少し身を屈めた。
「ん……っ」
柔らかくて少し濡れた感触。半年ぶりくらいだろうか。美空との口づけ。甘くて、痺れるような感覚。
頭と頭が静かに離れる。
体が奥の方から熱くなってくるような欲を覚え、私は目を見開いた。嬉しそうに微笑む美空の頭をそっと下ろすと、慌ててソファから飛び退く。
駄目だ。このままここにいたら頭がおかしくなる。本当に友達同士のキスでは済まなくなってしまう。
「衣替え、まだ終わってないから。やらなきゃ」
服の山の前で正座をすると、ぼんやりした思考のまま黙々と服を畳む。
服の片付けをしているうちに、ふと明日着るつもりだったカーディガンがないことに気づいた。一瞬考え、あのカーディガンは美空が勝手に羽織っていたことを思い出す。彼女の方に視線を向けようとしてやめた。
――友達なら普通。
彼女を意識しまいとしても衣擦れの音や息遣いが聞こえるたびに私の身体はどうしようもなく火照るのだった。
雨の日の静寂の中で、私たちの境界線は、クローゼットから盗まれた匂いと共に、今度こそ完全に決壊した。




