第13話:大学の高嶺の花、家では私の大型犬
平日の午後二時。私は、美空が通う都内でも有数の難関私立大学のキャンパスに足を踏み入れていた。
「……はぁ、やっぱり緊張するなぁ」
私自身の大学とは違う、伝統を感じさせる赤レンガの校舎。いかにも『エリート』という雰囲気を纏った学生たちが広大な敷地を行き交っている。
「偏差値が十以上も違うもんなぁ。会話とか嚙み合わなさそう……」
今日、私がわざわざ他の大学である美空のキャンパスまでやってきたのは、一枚の書類が原因だ。
朝、リビングのテーブルの上に、美空が今日提出しなければならないというレポートがぽつんと取り残されているのを見つけてしまった。
昨夜、あれだけ私の膝の上で課題がどうこうと甘えておきながら、一番大事な書類を忘れていくなんて。けれど、その昨夜のことを思えばあまり文句を言う気にもなれなかった。
あの梅雨の日以来、私たちは甘い空気になると自然と口づけを交わすようになっていた。女の子同士の友達だから、という建前で。
ただし、するのは頬へのキスや唇同士が軽く触れ合うようなキスだけだ。
それ以上の深いキス――付き合っていた頃にしていた互いの舌を絡めるようなキスは決してしないことにしていた。
それは、私が引いた最後の一線だ。
そんな口づけをしてしまったら今度こそ私たちはただの友達ではいられなくなってしまう。
それでも、軽く触れ合うようなキスをしているだけで私たちはあっという間に夢中になった。別れてからの数ヶ月の空白期間のせいもあるのだろうか。
昨夜も課題が面倒臭いとごねる美空をなだめているうちにいつの間にかそれっぽい雰囲気になり、気がつくと唇を重ねていた。お互いの頬や唇に優しく触れ合っているだけで小一時間ほどが経ち、美空を落ち着かせてレポートを書き終わらせたのが深夜のことだ。
おかげで私もすっかり寝不足である。
珍しく遅く起きてきた美空は慌ただしく朝の支度をしていた。そのせいでせっかく書き上げたレポートも忘れていってしまったのだろう。
放っておくこともできず、私は自分の講義が空いた時間を利用して、こうして届けにきたというわけだ。
スマホの位置情報アプリを頼りに、法学部の研究棟にある中庭の並木道へと向かう。
「あ、いた……」
緑豊かな並木道のベンチの近く、すぐに見つかった。
人混みの中でも、市之瀬美空の存在感は群を抜いている。サラサラの黒髪をなびかせ、真面目そうなセットアップの私服を着こなした彼女は、遠目から見てもため息が出るほど綺麗だった。
声をかけようと一歩踏み出した、その時。
美空の前に、一人の男子学生が立ちはだかった。背が高く、お洒落なカーディガンを着こなした、いかにも育ちの良さそうなイケメンだ。
手には小さな紙袋を持っている。紙袋のマークに見覚えがあった。この大学の近くにあるスイーツショップのものだ。お洒落なお店で、女子からの人気も高い。
どうやら、彼も私と同じように美空に何か用事があるらしい。
(あ……これ、もしかして……)
嫌な予感がして、私は近くの木陰にそっと身を隠した。
「市之瀬さん、これ、もしよかったら。……ずっと君のことが気になっていて。連絡先だけでも、交換してくれないかな」
男子学生の少し緊張した、けれど真っ直ぐな声が、風に乗ってここまで聞こえてきた。やっぱり、告白だ。
大学に入ってからも、美空の美貌は当然のように周囲の男たちを惹きつけてやまないらしい。私は胸の奥がチクリと痛むのを感じながら、美空の反応をじっと見つめた。
告白された美空は、表情一つ変えなかった。いつも私に見せるような、拗ねたり、焦ったり、独占欲で目を据わらせたりする気配は微塵もない。
「――結構です」
美空の声は、周囲の空気がヒビ割れるかと思うほど冷徹で、容赦がなかった。
「私は大学に勉強をしにきています。あなたと個人的にお付き合いをする理由も、連絡先を共有するメリットもありません。時間の無駄ですので、もう話しかけないでください」
「え、あ、いや……」
男子学生が絶句する。美空はそれ以上、彼の顔を見ることもなく、冷淡に踵を返して歩き去っていった。残された男の人が可哀想になるくらい、完璧で、慈悲のない一蹴だった。
遠ざかっていく美空の背中を見つめながら、私は木陰でぽつりと立ち尽くしていた。
(……凄いなぁ、美空は)
頭が良くて、綺麗で、誰にも媚びず、悪い虫を完璧に払い落とす。大学での彼女は、誰も近づけない冷徹な高嶺の花そのものだった。
それに比べて、私はどうだろう。
大学で男の人に声をかけられればまともに断ることもできず、美空に助けられてばかり。家では、別れたはずの美空の体温や匂いに簡単に流されて、ドキドキして、頭を抱えてばかり。
(家ではあんなに距離感をバグらせてくるけど……本当の美空は、やっぱり私なんかとは住む世界の違う人なんだな)
あの雨の日の、友達同士という建前で口づけを交わした甘い空気すら、なんだか遠い幻のように思えてくる。
急に自分がちっぽけに思えて、胸の奥がズキズキと萎んでいくのが分かった。
結局、私は美空に声をかけることができず、持ってきた書類をキャンパスの学生課の窓口に預け、逃げるように自分の大学に戻ることにしたのだった。
――夕方の五時。自分の大学での用事も終え、私はトボトボとした足取りでマンションの部屋へと帰ってきた。
頭の中は、昼間に目撃した『完璧な美空』の姿でいっぱいで、なんだか酷く疲れきっていた。
「ただいまぁ……」
ため息混じりに鍵を開け、玄関のドアを押し開けた、その瞬間。バタバタと、廊下の奥から激しい足音が響いてきた。
「え? なに――」
私が状況を把握するよりも早く。
「楓――――っ!!」
正面から、強烈な衝撃と共に、細くてしなやかな身体が私の胸元へと突っ込んできた。
「ひゃいっ!? ぶふっ!?」
美空だった。彼女は家に帰るなり着替えたらしく、例のブカブカなネイビーのパーカー姿のまま、私の首元に全力で両腕を絡め、思いっきり抱きついてきたのだ。勢い余って、私は玄関の壁に背中を打ち付けてしまう。
「ちょ、美空!? 急に何よ! 離して!」
「嫌。絶対に離さない」
美空は私の首筋に自分の顔をぐりぐりと埋め込み、大型犬が飼い主にじゃれつくような勢いで、激しく身体を押し付けてくる。昼間のあの、冷徹で、誰も寄せ付けなかった氷の美女の面影なんて、爪の先ほども残っていなかった。
「楓、帰ってくるの遅い。私、大学から帰ってからずっと玄関の前に座って待ってたんだから。寂しかった。楓の匂いが足りなくて、死にそうだった……」
「大袈裟に言わないの! っていうか、レポートは!? ちゃんと届いた!?」
「学生課から受け取った。楓がわざわざ届けてくれたって聞いて、嬉しくて心臓が破裂するかと思った。……なのに、なんで私に会わずに帰っちゃったの? 意地悪」
美空は腕の力をさらに強め、私の身体を自分の体温で塗り潰すようにぎゅっと抱きしめる。耳元で、彼女の焦ったような、甘えたような吐息が何度も跳ね返る。
「……っ」
その瞬間、私の胸の奥で、昼間のあのモヤモヤとした切なさが、一瞬で消し飛んでいくのが分かった。
どんなに大学で男の人から告白されても、どんなに周囲から『高嶺の花』だと崇められても。
この世で唯一、私だけの前で、この女はこんなにも無防備に、理性を無くして、ただの寂しがり屋の犬のようになるのだ。
私一人がいないだけで、死にそうな顔をして、私の匂いを求めて泣きそうになる。
(あ……そっか……)
ドクン、と胸の奥が熱くなる。
それは、これまで感じたことのない、強烈な『優越感』であり。そして――別れた元カノを、自分だけのものにしておきたいという、不純で、激しい『独占欲』の目覚めだった。
「もう……本当に美空は、バカなんだから」
「バカじゃない。楓が好きなだけ」
「はいはい」
さっきまでの気後れなんて、もうどこにもない。
私は小さくため息をつきながらも、腕の中にいる愛しい元カノの背中に、そっと自分の両手を回した。
ぎゅっ、と、今度は私の方から、彼女の細い身体を抱き返す。
「……え?」
いつもならつい嫌がって押し返してしまうし、私から美空に抱きつくことはない。そんな私が、素直に抱き締め返したことに、美空は驚いたように身体を強張らせた。私の胸元で、彼女の大きな瞳がぱちぱちと瞬きをする。
「楓……? 今、抱きしめて、くれた……?」
「……気のせいでしょ。女の子同士の同居人なんだから、ハグくらい普通。……でしょ?」
美空の最強の免罪符を、今度は私が、不敵に笑いながら返してあげる。
美空は一瞬だけ呆然とした後、耳まで真っ赤に染め上げて、今度こそ完全に言葉を失ってしまった。
夕暮れ時の狭い玄関。
他人に決して見せない美空の無防備な姿が、私の心を、いよいよ引き返せないところまで狂わせ始めているのが分かった。
頬を赤らめたまま美空はぽつりと呟く。
「……ちゅー、する?」
「ちゅーはダメ。今日はしない」
「なんで?」
「なんでも」
甘えた声を出しながら私の腕の中で拗ねたような顔をする美空。
そんな顔をしないで欲しい。仕方がないのだ。
今、キスなんてしたら――。
私は、本当に引き返せなくなってしまうから。




