第14話:ほろ酔い元カノとお仕置きのフレンチキス(前編)
木曜日の夜。私はベッドの上でスマートフォンの画面を見つめながら、ごくりと唾を呑み込んだ。
「本新歓コンパ……。つまり、飲み会ってことだよね」
画面に表示されているのは、私が所属を決めたアコースティックギターサークルのグループLINEだ。そこには、今週末の金曜日に開催されるという新入生歓迎コンパの案内が流れていた。
新歓期間が終わり、正式なサークルのイベントとしての飲み会。
臨も一緒に行くし、優しそうな先輩が多いサークルだから楽しみにしているのだけれど、やはりお酒の席ということもあって、ほんの少しだけ緊張してしまう。もちろん、私はまだ十八歳だからお酒を飲むつもりなんて毛頭ないけれど、都会の大学の『コンパ』という響きそのものに、田舎者としての気後れがあった。
そんな期待と不安を抱えながらリビングへ向かうと、そこには案の定、リビングの空気を一瞬で北極圏に変えるほどの冷気を放つ元カノがいた。
「……明日、それに行くの?」
ソファに座り、分厚いポケット六法を膝に置いた美空が、私のスマホを一瞥して低く呟いた。勉強中だからかメガネをかけており、その視線がより冷たく感じる。
どうやら、私がサークルの先輩とLINEでやり取りをしていた画面が見えていたらしい。先日の『我が家での大型犬モード』から一転、今日の美空は法学部生らしい理性の壁をこれでもかと強固に築き上げていた。けれど、その瞳の奥にある嫉妬の炎は、全く隠しきれていない。
「うん。正式な歓迎会だし、サークルの人たちとももっと仲良くなりたいから。臨も行くって言ってるしね」
美空は無言でポケット六法を閉じ、メガネを外してテーブルに置いた。そして、じっと私を見つめ、まるで裁判官が判決を言い渡すかのような、厳格極まりないトーンで口を開いた。
「行くのは止めない。ルームシェアのルール上、私に楓の交友関係を制限する権利はないから」
「そ、そう。分かってくれて何より――」
「ただし、条件が四つある」
「四つも!? 多くない!!?」
私は思わず声を上げた。美空は立ち上がり、私の前に仁王立ちになると、指を一本ずつ立てながら容赦のない『掟』を並べ始めた。
「一つ、二十歳前なんだから絶対にお酒は口にしないこと。先輩に強引に勧められても、炭酸水で誤魔化して断りなさい。二つ、変な男の隣、および正面の席には絶対に座らないこと。座るなら臨さんの隣だけにすること。三つ、コールや一気飲みが始まったら、体調不良のフリをしてすぐにトイレに逃げ込むこと。そして四つ――」
美空は、私の目の前で、もはや隠そうともしない重すぎる束縛の視線をぶつけてきた。
「一次会が終わったら二次会には行かず、二十一時には必ずこの家に帰ってくること。一分でも遅れたら、私がお店に突入するから」
「ちょっと待って! 過保護な彼氏か、昭和の厳しいお母さんか何かなの!?」
「昭和って何それ。今は令和だよ、楓」
「分かってるよ! ビックリしすぎて時代が二つくらい遡っちゃったの!!」
あまりにも細かくて理不尽な条件に、私は思いっきり突っ込みを入れた。男の隣に座るなだの、二十一時に帰れだの、いくら何でも過保護が過ぎる。
「これは正当なリスク管理。お酒の席には変な男がうじゃうじゃいる。楓のあの隙だらけの可愛い笑顔を、酔った勢いで男たちに見せるなんて断じて許されない行為――」
「はいはい、すぐ主観が入る! ルールその二の『お互いの私生活には干渉しない』はどうしたのよ!」
私が呆れたように言うと、美空は一瞬だけ言葉に詰まった。けれど、次の瞬間には、あの十八番の台詞を大真面目な顔で繰り出してきた。
「……女の子の友達同士、上京したばかりの友人の身を案じて、アドバイスを提示するのは普通のこと。だから、干渉じゃない」
「アドバイスの域を超えて完全にお店に突入しようとしてるでしょ!」
本当に、この女は『女の子同士だから普通』という建前を、都合のいい盾のように使ってくる。
けれど――そうやって怒って反論しつつも、私の胸の奥は、どうしようもないほどの熱量でトクン、と跳ね上がっていた。彼女に愛されている、と。そう感じてしまっていたのだ。
(……あーあ。私、本当に美空に毒されてるなぁ)
前までは、こんな風に束縛されたら鬱陶しいとしか思わなかったはずだ。なのに、先日のキャンパスでの一件以来、美空が私を他の誰にも渡したくなくて、狂おしいほどの独占欲を剥き出しにしてくる姿を見るたびに、胸の奥がじんわりと甘酸っぱさで満たされてしまう。
こんなに心配されるのが、こんなに私のことだけを見て狂いそうになっている元カノがいるのが、心のどこかで嬉しくて、浮き足立っている自分がいた。
「……分かったわよ。お酒は飲まないし、男の隣にも座らない。二十一時には帰ってくる。これで満足?」
私が少し意地悪に笑いながらそう言うと、美空は意外そうに目を丸くした。いつもならもっと本気で嫌がるはずの私が、あっさりと条件を呑んだからだ。
「本当に、守ってくれるの?」
「約束するよ。私は美空の『可愛い同居人』だからね」
「くっ……!」
今度は私が仕掛けた小さな悪戯に、美空は顔を真っ赤にして俯き、その顔を隠すようにクッションを抱きかかえた。耳の先まで真っ赤な様子が、たまらなく愛らしかった。
――そして、明くる日の夕方。飲み会当日の、家を出る瞬間。
私は大学の友人たちに見劣りしないよう、新しく買った少し大人っぽいブラウスを着て、鏡の前で髪を整えていた。
玄関に向かうと、そこにはすでに美空が先回りして立っていた。彼女は例のネイビーの大きなパーカーのポケットに両手を突っ込み、酷く神妙な面持ちで私を見つめている。
「じゃあ、行ってくるね、美空。夕飯は冷蔵庫にあるから適当に食べて」
「……楓」
靴を履き終えた私の腕を、美空がすっと掴んだ。
振り返ると、彼女の切れ上がった瞳が、いつになく真剣な、そして心の底から私を案じるような強い光を宿して私を射抜いていた。
「……何かあったら、すぐに電話して」
美空は掴んだ私の腕を引き寄せ、至近距離で、私の耳元にその熱い吐息を吹きかけた。
「飲み会の席でも、お店のトイレの中からでもいい。楓が私の名前を呼んでくれたら――世界中のどこにいたって、何をしてたって、私がすぐに迎えに行くから」
「美空……」
冗談でも、大袈裟な表現でもない。この女は、私が呼べば、本当に全てを投げ打ってでも私を助けにくる。その絶対的な安心感と、狂気的なまでの愛の重さに、私の心臓はまたしても爆発しそうなほどの音を立てて暴れ出した。
「……うん、分かった。行ってきます。ありがとう、美空」
「行ってらっしゃい。……二十一時一分には、玄関を開けて会場に向かうからね」
一分の猶予もくれない元カノに見送られ、私はマンションのドアを開けた。
夜の街へと向かう私の足取りは、美空の重すぎる愛の言葉のおかげで、緊張よりも、どうしようもない高揚感で満たされていた。
ただ、この時の私はまだ知らなかった。
お酒の席という魔物が、私の想像以上に、二人の境界線をさらなる修羅場へと叩き落とすことになるなんて。




