第15話:ほろ酔い元カノとお仕置きのフレンチキス(後編)
スマートフォンの画面に表示された時刻は、二十時五十五分。
「ふえぇ……あ、危なかったぁ……」
東京の居酒屋がひしめく駅前から、小走りでマンションへと帰ってきた私は、エントランスの自動ドアをくぐりながら大きく息を吐き出した。
美空と交わした四つの条件。その最後の一つである『二十一時までに必ず帰宅すること』は、なんとか死守できた。一分でも遅れたらあの女が居酒屋に突入してくるところだったのだから、安全面でも私の社会的信用面でも本当に滑り込みセーフだ。
けれど、私の足取りは、いつになく覚束なかった。
頭の芯が、内側からじんわりと温かい何かに包まれているように、ふわふわとして頼りない。
(や、やっちゃった……。一杯だけ、本当に一杯だけなんだけどな……)
サークルの本新歓コンパ。最初は美空の言いつけ通り、オレンジジュースやウーロン茶を大人しく飲んでいたのだ。男の人の隣を避け、臨の隣の席にだけ座り続けて。
けれど、一次会の終盤、サークルのすごくお世話になっている大好きな女性の先輩が私の隣に来て言った。
「楓ちゃん、これ果汁たっぷりで全然お酒の味しないから、一口だけ飲んでみない?」
そうやってすごく美味しそうなカシスオレンジというカクテルを勧められてしまった。
未成年だからと断るべきだったのに、都会のサークルの雰囲気に流され、先輩の笑顔に押し負け、一口だけならと口をつけてしまったのが運の尽き。ジュースみたいに美味しくて、気づけばグラスを半分以上空けてしまっていた。
お酒など飲んだことのなかった私は、それだけで完全に『ほろ酔い状態』になってしまったのだ。
「ただいまぁ……」
玄関の鍵を開け、なるべく普通を装ってドアを押し開ける。
靴を脱ぎ、リビングへと続く短い廊下を歩く。美空に怒られるかもしれないという恐怖と、お酒のせいで少し大胆になっている心が、胸の奥でせめぎ合っていた。
リビングのドアを開ける。けれど、そこにあるはずの明かりは、灯っていなかった。
「え……? 真っ暗……?」
カーテンの隙間から差し込む都会の夜景の光だけが、薄暗くリビングを照らしている。
美空はもう寝てしまったのだろうか。そう思って、私が壁の電気のスイッチに手を伸ばそうとした、その瞬間。
――カラン。
静まり返った暗闇の中で、ガラスに氷がぶつかる、冷たくて不穏な音が響いた。
「ひゃいっ!?」
驚いて音がした方を振り向くと、月明かりに照らされたソファの上に、人影が座っていた。
美空だ。彼女はいつものネイビーの大きなパーカーを着たまま、膝を抱えるようにしてソファに座り、手にしたグラスをゆっくりと揺らしていた。氷の音が、静かな部屋に冷酷に響く。
「……おかえり、楓」
美空の声は、驚くほど低く、そして感情が完全に抜け落ちていた。
「み、美空……? それ、まさかお酒じゃないよね?」
「そんなわけないでしょ。……炭酸水。私も一人で飲み会してたんだ」
美空の冷たい声を聞いていると鳥肌が立った。
「そ、そっか。けど、なんで電気もつけないで……。起きてたなら、つければいいのに」
「待ってたの。楓がちゃんと、私の言った通りに帰ってくるか。……時計を見て。二十時五十九分。約束は、守れたね」
美空はソファからゆっくりと立ち上がり、私の方へと歩いてきた。暗闇の向こうから、彼女のサラサラとした黒髪と、ハイライトの消えた冷徹な瞳がじわじわと近づいてくる。
「う、うん。ちゃんと帰ってきたよ。だから、そんなに怖い顔しないで――」
一歩、美空が私の目の前まで迫った、その時。
美空の鼻先が、ピクリと動いた。
彼女は私の言葉を無視して、すっと顔を近づけると、私の首筋のあたりに自分の鼻を押し当て、深く、深く息を吸い込んだ。
「ひゃんっ!? ちょっと美空、くすぐったいってば……」
「……楓」
美空が顔を上げた。その顔は、怒っているというよりも、絶望に打ちひしがれているかのように歪んでいた。
「お酒、飲んだね」
「あ。いや、これは、サークルの先輩にどうしてもって勧められて、カシスオレンジってやつをほんの少しだけ……」
「それだけじゃない」
美空は私の両肩を、痛いくらいの強さで掴んだ。彼女の手のひらが、怒りと焦燥で激しく震えている。
「お酒の匂いだけじゃない。……男の、タバコの匂い。他の人間の、知らないアルコールの匂い。居酒屋の、不潔な空気の匂いが……楓の身体から、たくさん、たくさん漂ってくる……っ!」
「それは、居酒屋にみんなでいたんだから、服に匂いが移るのは当然で――」
「嫌だ」
美空は私の言葉を獰猛に掻き消した。彼女の目からは、完全に理性のタガが外れていた。
「美空……?」
「他の人間の匂いをさせて、私たちの家に帰ってこないで……!」
ドン、という強い衝撃。視界が激しく揺れ、次の瞬間、私はリビングの大きなソファの上へと押し倒されていた。
背中にクッションの柔らかい感触を感じると同時に、上から美空のしなやかな身体が完全に覆い被さる。馬乗りになるような体勢で、逃げ道を完全に塞がれる。
「ひゃ……っ! 美空、離して!」
「離さない」
見上げる美空の顔。月明かりに照らされた彼女の瞳には、大粒の涙が溜まっていて、今にも溢れ落ちそうだった。あの完璧で、誰も寄せ付けない冷徹な高嶺の花の市之瀬美空が、今、子供のように泣きそうな顔をして、私を狂おしいほどの独占欲で睨みつけている。
「私が、あんなに心配したのに。男の隣に座るなって、変な匂いをつけて帰ってくるなって言ったのに……。楓は、私のいない場所で、知らない男たちに囲まれて、あの可愛い笑顔を見せて、こんな匂いになるまで楽しんでたんだ……」
ポロポロと涙を流しながら、美空の声が激しく震える。
「私の知らない楓が、外の世界にたくさん増えていく。私は、それが、死ぬほど怖くて、おかしくなりそうなのに……っ!」
「美空……」
お酒のせいでふわふわしていた私の頭が、美空の流した涙と、剥き出しの巨大な感情によって、一気に沸騰しそうになる。
建前なんて、もうどこにもなかった。
女の子同士の友達だから普通、なんて便利な言い訳は、美空の激しい涙の前に、跡形もなく完全に溶けて消え去っていた。
「私のものになって、楓……。私だけの、楓に戻って……!」
美空は叫ぶように呟くと、私の拒絶を許さない強さで、私の首元へと自分の顔を深く、深く埋めてきた。
「ん……っ!?」
首筋に、美空の熱い唇と、濡れた睫毛が触れる。
美空は私の首筋や鎖骨のあたりに、自分の顔を何度も、何度も擦りつけるようにして、激しく身体を押し付けてきた。
それは、居酒屋での飲み会でついてしまった他人の匂いや空気の全てを、自分の、あの濃密な柑橘系のシャンプーの香りで完全に塗り潰し、上書きしようとするかのような、苛烈で狂気的なまでのマーキング行為だった。
「み、美空……あ、熱い……っ」
お酒の熱さなのか、私を押し潰す美空の体温の熱さなのか、もう何も分からなかった。
背中から伝わるソファの感触と、胸元を締め付ける美空の腕の強さ。
美空が私の首元に顔を埋めて息を吸い込むたびに、私の心臓は、破裂しそうなほどの爆音を静かなリビングに響かせていた。
美空の唇が私の首筋を這い回る。それは単なる触れ合いではなく、獲物の血脈を探る獣のような執拗さだった。鎖骨の窪みに舌を這わせたかと思えば、耳朶に鋭い歯を立ててくる。痛みと快感が交互に背筋を駆け上がった。
「やめて……美空……」
抗議の声も届かないのか、美空の動きはますます激しさを増していく。彼女の長い指が私のブラウスのボタンを器用に外していく。冷たい夜気が肌に触れた瞬間、身体がびくりと反応した。
「楓の肌、こんなにすべすべだし……腹筋もすごく綺麗」
うわごとのように呟きながら、美空は露わになった胸元に顔を埋めた。熱い吐息が直接肌を焼き、ぞわりとした感覚が全身を駆け抜ける。
「私だけのものだから。他の男たちには……ううん、他の女にも。絶対に見せないでね」
その言葉と共に、彼女の唇が強く吸い付いた。チクリとした痛みと共に生まれる痕は、まさに所有の印そのものだった。
「んっ……!」
思わず漏れた声に刺激されたのか、美空の行動はさらに加速する。腰に回された手が巧みに動き、タイトスカートのチャックが下ろされる音がした。
「美空……やめて……ダメだって……」
制止の言葉とは裏腹に、身体は美空を受け入れそうになる。押し返すべき手はなぜか彼女の髪を撫でるように動き、拒むべき唇は彼女の名を呼ぶために開かれていた。
「美空……」
「楓……楓…」
喘ぐような声で私の名を呼びながら、美空はようやく顔を上げた。その表情は怒りも悲しみも超えた、純粋な飢餓感に満ちていた。
「全部……私のものにするから……」
言うが早いか、美空の唇が私のそれに襲いかかった。力強く押し付けられた唇は息苦しいほどの圧力で私を求めている。閉じきれない歯の隙間から熱く湿った感覚がねじ込まれた。
――こいつ。舌。入れてきた。
「ふぅ……ん…」
数ヶ月ぶりの深い接吻に戸惑いながらも、本能が搔き立てられる。美空の舌が口内を探索するように蠢き、私の舌を見つけ出す。二つの舌が絡まり合い、唾液が混ざり合う音が静かな部屋に淫靡に響いた。
(付き合ってた頃みたいなキスしちゃってる……ただの友達同士なのに…………)
頭の中が甘く痺れていく。美空の唇の感触と交換される体液の味が意識を支配する。原始的な欲望だけを残し、拒否する理性は少しずつ溶かされていく。
唇が離れると透明な糸が互いを繋いでいた。荒い呼吸を整える間もなく、美空の唇は再び私の首筋へと戻っていく。今度はもっと下へ――鎖骨から胸元へ、そしてお腹へと降りていく。
「美空……」
呼びかけようとした矢先、美空の口が敏感な部分に触れ、予想外の刺激に全身が跳ね上がった。
「あっ……!」
初めて聞く自分の声に驚愕する。それは明らかに快楽の色を帯びていた。
美空の動きは止まらない。太ももの内側に沿って昇ってきた手は既に決定的な位置に到達していた。無意識に開かれた脚の間に指が潜り込む。そして、秘められた場所を探るように動いた。
その瞬間、わずかに残っていた理性が私に悲鳴のような声を上げさせた。
「待って、待って! やめて! そこは本当にダメ……!!」
私は、持ち得る限りの力をこめて美空の手を掴んだ。抵抗を受けた彼女は私の上に跨ったまま睨むような視線を向けてくる。
「……じゃあ。口、開けて」
私は身を捩りながら必死に顔を背けた。
「……嫌……また舌入れるでしょ。それ、嫌だ……」
「誰のせいでこんなことしなきゃいけなくなったと思ってるの。約束を破ったのは誰?」
私は震える声で答える。
「私……です……。私が、美空との約束を破りました……」
「そうだよね。悪いのは楓だよね。じゃあ、お仕置きされても仕方ないね?」
命令口調でありながらどこか切実な響きのある声だった。
「ほら。自分で口、開けて」
涙が零れる。私は、渋々唇を薄く開いた。
羞恥と混乱で思考回路が麻痺する中、美空の顔が突然近づいてきた。唇が重ねられる。それは今までに彼女としたどんな口づけとも違った。荒々しく舌を捻じ込まれる。呼吸困難に陥りそうになる。唾液が混ざり合う粘着質な音が頭の中で反響した。
「……舌、もっと出して」
要求の内容に戸惑う暇もなく、美空の舌先が私の下唇を軽く叩く。まるで誘われるかのように自然と舌先を覗かせてしまったのが致命的だった。瞬時に絡め取られた舌は引き抜かれるかと思うほど強く吸われ、唾液ごと混ぜ合わせられる。
「んぅ……っ!」
粘膜と粘膜が擦れ合う湿った音が鼓膜を犯す。呼吸もままならない深さの接吻に全身の力が奪われていく。必死に酸素を求めて顔を背けようとすれば——。
「逃げないで。お仕置きにならないでしょ」
再び頭を固定される。美空の右手が私の後頭部を抱え込み、左手は、はだけたままのブラウスの内側で蠢いた。熱を持った細い指先が私の横腹をなぞり上げる。
「ひぅ……!」
口腔内の蹂躙と肌への執拗な刺激が連動して脳を麻痺させる。
(私、美空に食べられてる……)
その感覚が最も適切だった。彼女の歯列が私の下唇を甘噛みすると同時、舌が口腔内の粘膜を隈なく征服していく。息苦しさに耐えきれず唾液を嚥下すると美空の喉仏が満足げに上下した。
ようやく解放された唇から銀糸が垂れる。美空の黒曜石のような瞳は既に妖しい光を放っていた。
「もっと……楓の全部を私で塗り潰さないと……」
再び唇が塞がれる。今度はより深い角度から。舌の根元までもを弄ばれる感触。意識が遠のく寸前で離れると、彼女は私の涙で濡れた頬を親指で拭った。
「楓……私のものだよ。今日は朝までずっと一緒だからね」
――それからどれだけの時間が経っただろう。
外の都会の喧騒が遠くで鳴り響く中、薄暗いリビングのソファの上で、私たちはいつまでも、お互いの体温を確かめ合うように強く、強く抱き合い続けていた。
女の子同士だから普通。ただの同居人、ただの友達。
そんな嘘で塗り固められた関係は、引っ越しからわずか三ヶ月で、美空の限界を突破した甘えと嫉妬によって、完全に終わりを迎えたのだ。
昔のような深い口づけはしない、という私が引いていた最後の一線すらも彼女によってあっさりと踏み潰された。
だが、これほど強引に弄ばれたというのに私の中では激しい快感と幸福感が入り混じっていった。
首元に伝わる元カノの愛おしい重みを感じながら、私は、もう二度と彼女のいない世界には戻れないのだと、心の底から確信していた。
お互いを、ただの同居人ではなく――狂おしいほどの熱量を持った『一人の不純な存在』として激しく意識したまま、私たちの新しい東京生活は拗れに拗れていくのだった。
(『第1章:最悪で最高の再会』・完/『第2章:新しい女の影』へ続く)




