第16話:一線を超えた翌朝、消えない痕跡
土曜の朝。じわじわと差し込む朝の光が、重い瞼を押し上げる。
「う……あたま、痛い……」
霞む視界の中、天井の白さを見つめながら、私はズキズキと鳴るこめかみを押さえた。
朧げな記憶を辿る。どうやら朝方になって自分の部屋に戻り、短い睡眠を取ったようだ。そこまで思い出した時、また頭がずきりと痛んだ。
生まれて初めて味わう、軽い二日酔いの症状。サークルの新歓コンパで、先輩に勧められるがままに飲んでしまった、あの甘いカシスオレンジの代償だ。
けれど、頭痛よりも、喉の渇きよりも。目覚めた私の頭を最優先で支配したのは、昨夜、薄暗いリビングのソファで起きた――あの、あまりにも狂気的で、あまりにも熱すぎた出来事だった。
『他の人間の匂いをさせて、私たちの家に帰ってこないで……!』
大粒の涙をボロボロと流しながら、私をソファに押し倒した美空。
いつもは氷のように冷徹な元カノが、あの夜は完全に理性を失って、私の首元に何度も顔を埋め、口づけをし、舌を絡めてきた。居酒屋での飲み会でついてしまった他人の匂いを消し去るように、自分の匂いをこれでもかと擦りつけてきた、あの生々しい体温と、耳元で聞いた泣きそうな声。
「な、なんなのよ、もう……っ!」
布団を頭まで被り、バタバタと足を動かす。お酒の熱はとっくに引いているはずなのに、思い出すだけで顔から火が出そうに熱くなる。
女の子同士だから普通、なんて建前が、昨夜の美空の涙によって粉々に砕け散ってしまった。あの独占欲に満ちた行動のどこをどう切り取れば『ただの友達』だと言い張れるのだろう。
「と、とにかく顔を洗って目を覚まそう……」
私はのろのろとベッドから這い出ると、重い身体を引きずって洗面所へと向かった。
冷たい水で何度も顔を洗い、少しだけ頭がすっきりしたところで、ふと鏡に映る自分の姿を見た。
「……え?」
寝癖のついた髪を直そうと、首元を触った指先がピタリと止まる。
鏡の中の私。新しく着替えたTシャツの襟元から覗く、鎖骨の少し上のあたり。白い肌の上に、ぽつりと、うっすらとした赤い斑点が浮かび上がっていた。
「嘘……これって……」
近づいて鏡を凝視する。
虫刺されなどではない。昨夜、美空が狂ったように私の首元に顔を埋め、強く、強く吸いつくようにして私を抱きしめていた、まさにその場所だ。
さすがにクッキリとしたキスマークとまではいかないけれど、皮膚が強く引っ張られて鬱血したような、あからさまに不自然な赤みが、消えない痕跡としてそこに残されていた。
「あ、あのバカ美空……! 加減ってものを知らないの!?」
頭が真っ白になり、恥ずかしさのあまり洗面台を両手でバンッと叩いた。
こんなの、もし襟の広い服を着て大学に行ったら、臨たちに一発で勘繰られるに決まっている。男と何かあったのではないか、と。相手は男などではなく部屋の奥で寝ているはずの美空なのだが。
しかも最悪なことに今日は土曜だというのに大学に行かねばならない日だった。カリキュラムの関係で月に一回だけ土曜の講義があるのだ。
慌てて自室に戻り、首元が完全に隠れるような襟の高いスタンドカラーのブラウスに着替える。
ふぅ、と息を吐いてリビングに向かうと、そこには既に、キッチンで朝食の準備をしている美空の姿があった。
「――あ」
ドアを開けた私を見て、美空の手がピタリと止まる。
彼女は既に部屋着から着替え、いつも通りの綺麗な私服に身を包んでいた。本当に隙のない女だ。しかし――その耳の先端が、心なしかほんのりと赤くなっているのが私には見えた。
「……おはよう、楓」
美空の声は、昨夜の狂気的なトーンが嘘のように、いつものクールなものに戻っていた。
けれど、私と絶対に目を合わせようとせず、そっぽを向いたままトーストをお皿に並べる手元が、明らかにぎこちない。あからさまに昨夜のことを意識して、盛大に気まずがっている。
「……おはよう、美空」
私も私で、どんな顔をして彼女の前に座ればいいのか分からず、ぎこちない態度のままダイニングテーブルの席に着いた。
カチャカチャ、と食器の擦れ合う音だけが、静かなリビングに響く。
いつもなら女の子の友達という建前を使って距離を詰めてくる美空が、今朝は完全に沈黙を守っていた。昨夜、あそこまで感情を爆発させてワンワン泣いてしまった手前、彼女の理性が必死にブレーキを踏み直そうとしているのだろう。
私はトーストを齧りながら、チラチラと美空の様子を盗み見た。
美空はスープを口に運びながらも、時折、私の首元へと視線を這わせてくる。
私が襟元を落ち着かない様子で手で隠すと、美空はハッとしたようにスプーンを止めた。彼女は私のスタンドカラーのブラウスを見つめ、それから、その下がどうなっているかを完璧に察したらしい。
美空はスープのカップを持ったまま、顔をさらに真っ赤に染め上げた。
そして、自分のしでかした『痕跡』の重大さにバツが悪そうに視線を泳がせながらも――その薄い唇の端を、ほんのわずかだけ、歪なほど満足げに、フッと上へ向けた。
「……何よ」
私が小さく睨みつけると、美空はカップを置き、掠れた声でぽつりと呟いた。
「……ううん。ただ、今日の服、よく似合ってるなと思って」
「……誰のせいでこの服着てると思ってるのよ」
「私のせい。……だから、すごく嬉しい。首輪をつけてるみたいで」
美空は、私の首元に自分の印がついているというその事実に、歪んだ独占欲をこれでもかと満たされているようだった。
「……楓は今日の予定は?」
「土曜だけど講義ある」
「……大学に行く時はその襟のボタン開けたら? 自分が誰のものなのか周りの人たちにアピールしてきてよ」
美空はそう冷たく、けれど命令するような愛おしさを込めて言う。私は一気に顔が真っ赤になった。
「す、するわけないでしょ、そんなこと!」
「そう? 残念。私は今日は出かける用事はないから部屋で大学の課題やってるね」
美空は自分の分の食器を片づけると、一足先に自室に戻っていった。バタン、と閉まるドアの音。
「……本当になんなのよ、あいつ」
一人残されたリビングで、私は襟元のボタンをぎゅっときつく締め直した。
――マンションを出て、大学へと向かう満員電車の中。吊り革を掴みながら、私は窓ガラスに映る自分の冴えない顔を見つめていた。
首元に残る、美空の熱い痕跡。ブラウスの生地越しに、そこだけが今でもじんわりと熱を持っているような、奇妙な錯覚に襲われる。
(……ダメだ。美空のことばかり、考えちゃう)
襟元のボタンに指を添えながらぼんやりとした思考が巡る。
もしも今このボタンを外したらどうなるだろう。満員電車中の人たちに気づかれれば奇異の視線で見られるだろう。そのまま大学に行けば臨たちに根掘り葉掘り聞かれるに違いない。そして、美空とのことを洗いざらい話すことになるのだ。そんなことになっていいわけがない。
だが――ふと、美空の声が脳裏に蘇った。
『私のものになって、楓』
私は、美空のもの。そう考えだけで身体が火照るのを感じた。
――もう、それはそれで幸せなのかもしれない。
襟元のボタンに添えた指に力が入る。二度、三度、爪の先がボタンを引っ搔く。
無意識のその仕草に気づいた瞬間。私は急激に我に返った。
――いったい何を考えているんだ、私は。
弾かれるように襟元のボタンから手を離す。慌てて首を振り、危うい思考を打ち消した。
本当にどうかしてしまっている。
今までの私は、美空がいくら距離感を狂わせてきても、「これは元カノの嫌がらせだ」とか「女の子同士の甘えだ」と、頭の中で無理やり言い訳を作ってシャッターを下ろすことができていた。
なのに、昨夜の美空の涙を見てから。私を他の誰にも渡したくないと、狂おしいほどの愛を剥き出しにして私を塗り潰してきた、あの体温を知ってから。絡め合った舌の生々しい熱さを教え込まれてから。
私の心の中のシャッターが、ガタガタと音を立てて崩壊し始めているのを、認めざるを得なかった。
新しい恋をしよう、東京で普通の青春を送り直そう、そんな決意が、美空の重すぎる愛の濁流によって跡形もなく押し流されていく。
ただの同居人なんて、もう嘘だ。
私もまた、美空のあの甘くて不純な温度に、取り返しのつかないレベルで狂わされ始めていることに、満員電車の人混みの中で静かに気づかされてしまうのだった。




