第17話:『束縛』の裏の、壊れそうな独占欲
火曜日の夜。私はリビングのテーブルの上に、綺麗に印刷された一枚の用紙を叩きつけた。つい先ほど美空から私に提示されたものだ。
「……ねえ、美空さん。これはさすがに何かの冗談ですよね?」
そこには、三十分刻みでびっしりと書き込まれた、私の一週間の『タイムスケジュール表』が並んでいた。
月曜日の移動時間、火曜日のサークル練習の終了予定時刻、水曜日の空きコマ。それだけではない。私がいつ、どこで、誰と大学の講義を受けているかまで、完璧に把握された上での行動予測がグラフ化されている。
「冗談じゃないけど。私、これでも法学部の学生だから。私が作成するスケジュール管理に冗談を挟む余地なんてどこにもないよ」
ソファに座り、タブレット端末で判例を読んでいた美空は、顔を上げることすらなく淡々と言い放った。
ここ数日、あのサークルコンパの夜以来、美空の私に対する管理体制は、明らかに常軌を逸したレベルへと変貌していた。
スマホに入っている位置情報共有アプリ。以前ははぐれた時だけ見るようなものだったのに、今や美空は私が一歩動くたびに画面をチェックしているらしい。
今日などは講義が予定より十分ほど早く終わって臨と購買に立ち寄っただけで、私のスマホに美空からのメッセージが飛んできたのだ。
『今どこにいるの? この時間は英語の講義を受けているはずだよね。なんで位置情報が移動してるの?』
あの時はさすがに嫌な汗が流れた。一緒にいた臨に動揺を悟られないようにするのに必死だった。
あんな思いをするのはもう御免だ。私はため息をつくと、目の前のタイムスケジュール表を指先で叩く。
「スケジュール管理っていうか、これじゃあただの監視じゃない。今日だって購買にいただけで連絡してきてさ。いくら何でもやりすぎ! 重すぎるってば!」
私が声を大にして抗議すると、美空はゆっくりとタブレット端末をテーブルに置いた。彼女の瞳は、どこまでも冷静で、いつもの知性的なトーンを崩さない。
「これは正当なリスク管理だよ。東京の治安の悪さを甘く見ないで。楓はただでさえ隙が多いんだから。大学に入ったばかりの頃だってサークルの男に声をかけられて困っていたでしょ。私が常に楓の現在地とスケジュールを把握しておくことは、予期せぬトラブルから身を守るために最も効率的な手段なんだよ」
美空は流れるような口調で、さも『ルームシェアの同居人を心配する良識ある友人』としての正論を並べ立てる。
「だから! それを言うなら、初日に決めたルールその二の『お互いの私生活には一切干渉しない』はどこに行ったのよ! 私が誰とどこにいようが、美空にそこまで言われる筋合いはないはずでしょ! 私たち、もう――」
――もう、別れた他人なんだから。
その言葉が、喉の奥まで出かかった。あの日、偽物の建前が崩れて抱き合い、恋人のようなキスまでしたはずなのに。美空のあまりに過剰な束縛っぷりに、私は意地になってその現実を突きつけようとした。
けれど。その言葉を口にする前に、私の視線は、美空の『手元』に釘付けになった。
テーブルの上に置かれた、美空の白い手。法学部の小難しい専門書をいつもスマートにめくる、あの細くて綺麗な指先が――。
ガタガタと、目に見えるほどの強さで、激しく震えていた。
「……美空?」
「楓が、どこにいるか分からないと」
美空の声が、不意に、掠れた。先ほどまでの理路整然としたトーンが、まるで薄い氷がヒビ割れるように、一瞬で剥がれ落ちる。
美空はテーブルの上の自分の手を隠すように、ぎゅっと拳を握り締めた。けれど、その身体全体の震えまでは隠しきれていない。彼女は俯き、長い黒髪でその表情を隠しながら、胸の奥を掻きむしるような声を漏らした。
「楓の位置情報が、私の知らない場所で止まるたびに、私の心臓は止まりそうになる。また知らない誰かが楓に触れているんじゃないか、楓が私の手の届かないところに行ってしまうんじゃないかって……頭が変になりそうなの」
「美空……あんた、何を……」
「分かってる。分かってるよ。フったのは私。楓の隣にいる権利を、自分から手放したのは私だってことくらい、痛いほど分かってる……!」
美空は、自分の爪が皮膚に食い込むほど、強く、強く拳を握り締めていた。
「でも、嫌なの。楓が大学で新しい友達を作って、新しい世界に馴染んで、そうして私のことなんてどうでもよくなって、いつか完全に私の前からいなくなってしまうのが……死ぬほど怖いの」
「――っ」
胸の奥が、言葉にできない衝撃で大きく揺さぶられた。
そうだった。美空は家の中で、いつだって『女の子同士だから普通』という無敵の盾を使って、自信満々に私を侵略してきているように見えていた。私の心を自分だけで満たそうと、狂気にすら思える余裕の笑みを浮かべているのだとばかり思っていた。
けれど、それは全部、嘘だったのだ。本当の美空は、自信なんて一ミリも持っていなかった。
自分が一度、私をフって深く傷つけてしまったからこそ。いつ私が彼女を完全に嫌いになって、この部屋から、彼女の人生から飛び出していってしまうか。その恐怖に、毎日、毎秒、押し潰されそうになりながら、壊れそうな心を必死に繋ぎ止めるために――あの『束縛』という名の、不器用で必死な防衛線を張っていたのだ。
「だから……お願い、楓。私の前を歩かないで。私を、置いていかないで……」
顔を上げた美空の瞳には、じわりと涙が浮かんでいた。
大学で男の告白を冷淡に一蹴した、あの誰も寄せ付けない高嶺の花の姿なんて、どこにもない。そこにいたのは、飼い主に嫌われることを極限まで恐れて震える、寂しがり屋の子犬のような少女だった。
「……はぁ」
私は小さく、本当に小さくため息をついた。
呆れるほどに重い。狂おしいほどに独占欲が強い。普通なら、こんな風にスケジュールを徹底管理されたら、今度こそ怒って部屋を飛び出すのが正解なのだろう。
なのに。そんな壊れそうな瞳で私を見つめ、私を失う恐怖にガタガタと震えている元カノの姿を見てしまうと。
私の胸の奥は、鬱陶しさなどではなく、どうしようもないほどの愛おしさと切なさでぎゅっと締め付けられてしまうのだ。
もしかしたら間違っているのかもしれないけれど。美空に束縛されるたびに。愛されていると強く実感してしまう自分がいるのも、また確かだった。
「……美空」
私はテーブルを回り、美空のすぐ隣へと腰掛けた。
美空はハッとして身体を強張らせ、涙の溜まった瞳で私を見つめてくる。
私は何も言わずに、テーブルの上で激しく震えていた美空の右手を、上からそっと包み込むようにして握りしめた。
「楓……?」
「これ、サークルがある日は移動時間をあと十五分だけ長めにしておいて」
「え……?」
「サークルの後、臨たちと立ち話くらいはしたいから。その分の時間も計算に入れておいてくれないとスケジュール通りに動けないでしょ」
私が少し呆れたように笑いながらそう言うと、美空は一瞬だけ呆然とした後、みるみるうちにその大きな瞳に光を取り戻していった。
「じゃあ……そのスケジュール通りに、動いてくれるの?」
「約束は守るよ。私は、美空の『ただの同居人』だからね」
「……っ、楓!」
美空は今度こそ我慢が限界を迎えたように、私の胸元へと全力で抱きついてきた。私のブラウスを両手でぎゅっと掴み、首元に顔を埋めて、安心しきったような激しい呼吸を繰り返す。
服の裾を握る美空の手の震えは、いつの間にか、ぴたりと止まっていた。
あまりにも重くて、あまりにも歪な、元カノからの独占欲。
そのとんでもない重さに辟易しつつも、私は彼女の体温の心地よさに、今夜もまた、強く突き放すことができなくなってしまう。
そうやって美空の身体の温もりを感じていた時、テーブルに置いたままのスマートフォンが小さく震えた。
彼女を抱きしめたままわずかに視線を向ける。
サークルのグループLINE。尊敬する大好きな女性の先輩からだ。
嬉しさに思わず口角が上がる。
先日の飲み会の時もほろ酔い状態になってしまった私を酷く心配して家まで送るとまで言ってくれた優しくて素敵な先輩だ。
美空を落ち着かせたら後で返信しよう。そう思いながらふと不安がよぎった。
これは、美空の言うスケジュール管理のうちに入るのだろうか。
――いや、さすがにこんな些細なことまで気にする必要はないだろう。
美空を抱く手に力を込め、私は小さく首を振った。




