第18話:魅力的な『水科先輩』
木曜日の放課後。大学のサークル棟の一室に、私のかすれた悲鳴が響いていた。
「うう……指が、指が痛い……」
アコースティックギターサークルの本新歓から約一週間。ついに本格的な合同練習が始まったのだ。
運動部は高校までのつもりだったし、何かしら音楽系のサークルに入ってみたいけれど歌には自信がない。かといって軽音部のような本格的な音楽活動も気後れしてしまう。そんな私が友人の臨と一緒に選んだのがこのアコースティックギターサークルだ。
しかし、実際に合同練習でギターに触れてみると音を鳴らすだけでも一苦労だった。その難しさにただただ絶望するしかない。
特に『F』のコード。人差し指一本で全ての弦を均等に押さえるなんて、人間の手の構造上、絶対に不可能だと思う。
指先もヒリヒリと痛む。初心者の私にとって、ギターの弦はもはや凶器以外の何物でもなかった。
「楓っち、どんまい。あたしも爪割れそうだし。これマジで無理じゃない?」
隣でマイペースにコードをジャカジャカと鳴らしている臨が、ケラケラと笑いながら励ましてくれる。臨は手先が器用なのか、初心者なりにそれっぽい音を鳴らせていて、余計に自分の不器用さが身に染みた。
その時、ぽん、と私の頭の上に優しい手が置かれた。
「最初はみんなそうだよね。指にタコができるまでは、ちょっと辛いかも」
「ひゃいっ!?」
驚いて顔を上げると、そこには一人の女子の先輩が微笑んでいた。
水科先輩。私の通う大学のサークル連合会の幹部で、大学三年生の先輩だ。
肩にかからないくらいのすっきりとした黒髪のショートカットで、髪には紫色のグラデーションがかかっている。切れ長だけれど優しげな瞳に、すっと通った鼻筋。メンズライクなオーバーサイズのシャツをさらりと着こなした彼女は、同性から見ても思わずドキリとしてしまうほど、ボーイッシュで魅力的な美人だった。
「水科先輩……」
「楓ちゃん、ちょっと左手見せてごらん? うん、親指の位置が少し上すぎるかな。ネックの裏の真ん中あたりをグッと押さえるイメージにすると、少し楽になるよ」
水科先輩は私のすぐ隣に屈み込むと、私の左手に自分の手をそっと添えた。細いけれど、ギターの練習で少し固くなった先輩の指先。
美空以外の女の子に、こんなに自然に、距離感近く触れられたのはいつ以来だろう。美空の執着に満ちた熱い温度とは違う、カラッとしたお姉さんのような優しさに、私は少しだけ緊張して身体を強張らせていた。
「こ、こうですか……?」
「そうそう! ほら、さっきより綺麗な音が鳴った。楓ちゃんって、素直で教えがいがあるなぁ。すごく可愛い」
水科先輩は眩しいほどの笑顔を浮かべ、再び私の頭をクシャクシャと優しく撫でた。
可愛いとストレートに褒められ、私の心臓がトクンと小さく跳ね上がる。美空に言われるのとはまた違う、お洒落な先輩からの純粋な好意に、なんだかくすぐったいような、気恥ずかしいような気分になってしまう。
「あ、ありがとうございます……」
「ううん。また分からないところがあったら、いつでも何でも聞いてね。あ、私のことは壬琴って下の名前で呼んでいいから」
水科先輩はウインクを一つ残すと、他の新入生の指導のために、軽やかな足取りで離れていった。
「……ふぅ」
緊張の糸が切れ、大きなため息をつく私に、隣の臨がニヤニヤとした笑みを浮かべながら肘で突っついてきた。
「ねえねえ、楓っち。何、今の?」
「え? 今のって?」
「とぼけないでよ! 水科先輩、楓っちのことめちゃくちゃお気に入りじゃん! 他の一年生にはあんなにベタベタ頭撫でたりしてないよ? 壬琴って呼んで、とかさぁ。……あの先輩、楓っちのこと絶対狙ってるよ〜」
「な、何言ってるのよ、臨! 先輩はただ、初心者の私を気遣ってくれただけでしょ。ただの先輩と後輩だよ」
私は慌てて否定したけれど、臨は楽しそうにからかってくる。
「いやいや、あたしの勘は間違いないね。それにさ、水科先輩って高校の時も女子校でめっちゃモテたらしいよ。実際に彼女もいたって。楓っち、先輩のストライクゾーンだったりするんじゃない?」
「ストライクゾーンって……女の子同士だよ!?」
咄嗟に叫んだその言葉に、私の脳裏で、ある冷徹な元カノの顔がフラッシュバックした。
『何を驚いてるの? 女の子同士だよ?』
家の中で、事あるごとにお風呂やベッドに突入してくる美空が使う、あの最強の免罪符。女の子同士の友達なんだから、スキンシップなんて普通。美空はいつだってそう言って私の理性を狂わせてきた。
なのに、サークルの水科先輩から向けられる『女の子同士のスキンシップ』に対しては、なぜか私の防衛本能がこれは普通の枠を超えているのではないかとアラートを鳴らし始めている。
(……美空があれだけ『男の隣に座るな』って怒ってた理由が、ちょっと分かった気がするなぁ)
誰かから特別なお気に入りの視線を向けられるということの、むず痒さと、ほんの少しの危険信号。
練習の終わり際、機材を片付けていると、水科先輩が再び私のところへ歩み寄ってきた。
「楓ちゃん、お疲れ様。始めたばかりにしてはすごく筋がよかったよ」
「み、壬琴先輩、ありがとうございます。まだまだ全然上手く弾けないですけど……」
さっそく名前で呼んでみると、壬琴先輩は嬉しそうに目を細めた。そして、自分のトートバッグからスマートフォンを取り出すと、画面をこちらに向けながら、少しだけ声を弾ませて言った。
「ねえ。来週の土曜日、サークルの練習も休みでしょ? もしよかったらさ――」
壬琴先輩は、私の目を真っ直ぐに見つめ、優しく微笑んだ。
「――御茶ノ水に、私のお勧めの老舗の楽器屋さんがあるんだ。まだ自分のギター持ってないよね? 一緒に選びに行ってあげたいなと思って。……二人で、お出かけしない?」
「え……?」
二人でお出かけ。
お洒落で、ボーイッシュで魅力的な先輩からの、直球のお誘い。
これまで私の世界は、いつだって美空の重すぎる愛と、彼女との狭いルームシェアの空間だけで完結していた。
それが、初めて美空以外の人間から、私の『私生活』の領域へと一歩踏み込まれるような提案をされたのだ。
「あ、えっと……」
咄嗟に返事に窮した私の頭の中に、あの徹底管理された『タイムスケジュール表』と、私が他の人間と仲良くするたびに目を据わらせて泣きそうになる、未練の塊のような元カノの顔が、強烈な警告音と共に浮かび上がってきたのだった。
「すみません。たぶん大丈夫だとは思うんですけど……一応スケジュールを確認させてください。次のサークルの時にお返事する感じでもいいですか?」
「うん、いいよ。全然急ぎじゃないから先約があったら気にせずそっちを優先してね」
さらりとそう言って微笑みかけてくる壬琴先輩。そのあっさりとした返事に妙な安堵を覚えた。
相手が美空だったらこうはいかなかっただろう。
どうして即答できないの、とか。誰と何の用事があるの、とか。色々と問い質されていたに違いない。
きっと壬琴先輩のこの距離感が正しい。そう気づいた途端、私はなぜだか胸が苦しくなったのだった。




