第19話:二人きりの放課後、ギターと距離感
壬琴先輩からお出かけに誘われたあの日から数日が経った。週が明けた火曜の放課後。サークルの部室には、夕刻のオレンジ色の光が斜めに差し込んでいた。
全体練習が終わり、他の部員たちが次々に帰っていく中、居残り練習を決めた私の目の前には相変わらず眩しい笑顔を浮かべる壬琴先輩がいた。
「うん。さっきよりは指の形が綺麗になってるよ、楓ちゃん。でも、まだちょっと手首に力が入りすぎかな」
「ううっ……どうしても弦をしっかり押さえようとすると全身がガチガチになっちゃって……」
私はパイプ椅子に腰掛け、アコースティックギターのネックを握りしめながら小さく溜息をついた。マンツーマンでの指導。部室には私と壬琴先輩の二人きりだ。
「ちょっとごめんね」
壬琴先輩はそう言うと、私の背後に回り込むようにして距離を詰めてきた。次の瞬間、私の背中に、壬琴先輩の柔らかい身体の重みがそっと重なる。
「――っ!?」
驚いて心臓が跳ね上がる。
壬琴先輩の長い両腕が、私の脇の下を通るようにして前方へ伸び、私の左手と右手にそれぞれ重ねられた。まるで、背後から深く包み込まれているかのような姿勢だ。
「ね? こうやって、親指の付け根でネックを挟むようにして、力を下に抜く感じ」
耳元で、壬琴先輩の少し低くてハスキーな声が響く。彼女が言葉を発するたびに、私の首筋に温かい呼吸が触れて、頭の中がどうにかなりそうだった。
ボーイッシュで格好良くて、しかもすごく良い匂いがする先輩。そんな人にこんな至近距離で抱きすくめられるように指導されて、ドキドキしないわけがない。
「は、はい……こう、ですか……?」
「そうそう、上手! じゃあ、そのまま右手の力を抜いて、ストロークしてみて」
壬琴先輩の手が私の右手に添えられ、一緒に弦を弾く。部室に響いたのは、これまでで一番クリアで、温かいギターの音色だった。
「すごい……! 綺麗な音が鳴った……!」
「楓ちゃん、やっぱり筋が良いよ」
私は嬉しくなって顔を上げた。すると――。
すぐ目の前に壬琴先輩の顔があった。
しばらく時が止まったように見つめ合う。
切れ長の瞳。長い睫毛。薄い唇。思わずどきりとする。
やがて壬琴先輩は気まずそうに笑って視線を外した。
「……ごめん。距離、近かったね」
「私の方こそすみません……!」
私も慌てて視線を逸らして俯く。
「キスしちゃうところだったね。危なかった」
冗談めいて言う壬琴先輩。
先輩は場を和ませるためにそんなことを言ったのだろう。だが、その言葉は私にある記憶を思い起こさせた。美空と唇を深く重ねた、あの夜の記憶。
私は、ゆっくりと顔を上げる。
「……壬琴先輩は、付き合っていない相手とキスするのってどう思います?」
ふと、そんなことを口にしてしまった。
壬琴先輩は一瞬だけ面食らったような顔をしたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべる。
「さっきの言葉がそういう軽率な発言に聞こえたならごめん。ジョークのつもりだったんだけど不快だったよね」
「あっ、いえ! 違うんです! たまたまこの前、ドラマで……そういうシーンを見ちゃって。壬琴先輩ならどう思うかなって……!」
我ながら無理のある誤魔化し方だ。しかし、それを聞いた壬琴先輩は真剣な顔で考え始めてくれた。
「そうだね。自分のことに置き換えて言うけど……。例えば私がもし楓ちゃんにキスしたくなったとしたらきちんと楓ちゃんに告白してオーケーをもらって、そういう関係になってからするかな」
「そ、そうですよね。それが普通ですよね……」
「何が普通かは人それぞれだよ。私は、自分に誇れる生き方をしたいからそうするだけ」
「自分に誇れる生き方……」
壬琴先輩の言葉を嚙み締める。すぐに流されてフラフラしてばかりいる私とは大違いである。本当に格好良い先輩だ。
彼女は私の隣に座り直すと再び愛おしそうに私の頭をぽんぽんと撫でた。
「距離感、近すぎたら言ってね。楓ちゃんの嫌がることはしたくないから」
「は、はい……」
私は、思わず頬を赤らめて頷いた。
優しくて、面倒見がよくて、不器用な私なんかを真っ直ぐに褒めてくれる。私は壬琴先輩に対して、純粋に「素敵なお姉さんだな」という、強い好感を抱いていた。
けれど。壬琴先輩の温もりが離れた瞬間、私の胸の奥に冷たい違和感がチクリと刺さった。
(美空以外の人間に……こんなに近くに寄られたの、いつ以来だろう)
高校時代、私のパーソナルスペースに踏み込むことを許していたのは、いつだって美空だけだった。恋人以外の人間とそんな距離感になることなどなかったのだから当たり前だ。
上京してからも、「女の子同士だから普通」というあの滅茶苦茶な暴論で、私のベッドやお風呂に当然のように突入してきたのは、あの黒髪の元カノだけだ。
美空の触れ方は、もっと強引で、執着に満ちていて、じっとりと熱かった。
私の首元に痕を残すほどに狂おしく、私が他の誰かと話すだけで壊れそうな目で睨みつけてくる、あの重すぎる愛の温度。
壬琴先輩のカラッとした優しさに触れて、初めて気がついてしまった。
私の心と身体は、既に美空のあの『異常な距離感』に、狂わんばかりに慣らされてしまっているのだということに。
(……やっぱり美空のあの距離感はおかしいよね。私がどれだけ嫌がろうがお構いなしだし)
私が考え込んでいると壬琴先輩は心配そうな視線を向けてくる。
「……楓ちゃん? どうしたの、急にぼんやりして。もしかして指、痛い?」
「あ、いえ! なんでもないです! ちょっと、綺麗な音が鳴って感動しちゃって」
私は慌てて笑顔を作り、頭を振って美空の顔を追い出そうとした。ダメだ、せっかく先輩が親切に教えてくれているのに、こんな時まであの元カノのことを考えてしまうなんて、失礼すぎる。
「そっか。そういえば土曜日の件だけど、結局予定はどう?」
壬琴先輩はスマートフォンの画面を見せながら、悪戯っぽく微笑んだ。
「今すぐじゃなくてもいいけど、これからもギターを続けていくなら自分のギターは持ってた方がいいし。楓ちゃんに似合う可愛いギター、私が絶対に見つけてあげるよ」
美空の徹底管理されたタイムスケジュールが脳裏を過ぎったけれど、私は今度こそ覚悟を決めて頷いた。
「予定、大丈夫そうです。……よろしくお願いします!」
これはサークルの先輩との健全な付き合いだ。美空に怒られる筋合いはないし、いつまでも彼女の顔色を伺って自分の世界を狭める必要なんてない。私は、私の青春を送るんだ。
「やった。じゃあ、今日の練習はここまで。途中まで一緒に帰ろうか」
「はい!」
私たちは機材を片付け、部室の鍵を閉めると、夕暮れ時のキャンパスを歩き出した。並木道を歩きながら、サークルの今後の予定や、大学の話で大いに盛り上がる。壬琴先輩の話の引き出しは豊富で、私はずっと笑顔のまま、楽しい時間を過ごすことができた。
やがて、大学の大きな正門が見えてくる。
「じゃあ、私は駅あっちだから。今度の土曜日、楽しみにしてるね、楓ちゃん」
「はい、壬琴先輩! 今日は本当にありがとうございました!」
私は正門の前で、壬琴先輩に向けてペコリと深く頭を下げ、大きく手を振った。壬琴先輩もまた、爽やかな笑顔で手を振り返し、人混みの向こうへと消えていく。
「ふぅ……緊張したけど、楽しかったなぁ」
先輩の後ろ姿を見送り、私もようやく自分の帰るべき駅の方向へ向かおうと、一歩を踏み出した。
まさにその時だった。
ゾクッ、と。背筋の凍るような、感じたことのあるあの強烈な悪寒が、私の全身を貫いた。
周囲には、家路につくたくさんの大学生たちが行き交っている。夕暮れの賑やかな喧騒。
それなのに、大学の正門の、立派な石柱の影。夕闇が濃くなり始めたその場所に、ぽつりと。
周囲の人間とは明らかに違う、異様なまでの拒絶のオーラを纏った影が佇んでいた。
サラサラとした、夜の闇よりも深い黒髪。きっちりとしたシアージャケットに両手を突っ込み、身じろぎ一つせずにそこに立っている。
「み、美空……!?」
私は思わず息を呑んだ。いつからそこにいたのだろう。
美空は、正門の影から、私が壬琴先輩と笑顔で手を振り返し、親しげに別れるその一連の光景を――ハイライトの完全に消え去った凍てつくような氷の瞳で、じっと見つめ続けていたのだ。
私は慌てて彼女の方に駆け寄る。
「どうしたの。来てたなら声かけてくれればよかったのに」
近寄った瞬間、美空はいきなり私に抱きついてきた。その力は私の身体を押し潰さんばかりの強さだ。
「ちょっと、痛いって! 本当にどうしたの、美空……!?」
「……楓。後で話があるから」
そう言ったきり黙りこくってしまった彼女に私はただただ困惑し続けるしかなかった。




