第8話:大学の友人を家に呼ぶのも一苦労
大学の大きな講義室。授業終わりのチャイムが鳴り響く中で声をかけてきたのは、私の前に座っていた女の子――御堂臨だった。
「ねえねえ楓っち! この後、暇!? 英語の課題、どうしても意味分かんないところあってさー。もしよかったら、楓っちの家で教えてもらうのってアリ!?」
臨は新入生オリエンテーションの日に偶然席が隣になって以来、一番によく話すようになった、大学で初めての友人だ。明るめの茶髪に今時のメイクをした、ノリのいい、いわゆる『ギャル』っぽい子。しかし、根はすごく真面目で良い子なのだ。
なるほど、私の家で英語の課題を――。
「……えっ!? わ、私の家!?」
咄嗟に思考が追いつかず、遅れて大きな声を上げてしまった。
「うん! 楓っち、ルームシェアしてるって言ってたじゃん? 一回遊びに行ってみたかったんだよねー。相手の子、地元の幼馴染なんでしょ? 挨拶もしたいし!」
「あ、いや、それはそうなんだけど……」
頭の中が瞬時にパニックになる。
確かに私は、臨に「地元の友達とルームシェアをしてる」と話していた。けれど、その相手が『ただの友達』ではなく、私を木端微塵にフった超絶ド級の未練を抱える『元カノ』だなんて事実は、墓場まで持っていくつもりで隠している。
しかし、せっかく友達になった臨の誘いを断ることもしたくはなかった。
私は、必死に考えを巡らせる。
そうだ、美空は確か今日は夕方まで法学部のゼミのガイダンスがあると言っていたのではなかったか。私の通う大学ではゼミへの所属は三年生からなのだが、彼女の大学では一年生からゼミに所属して基礎的なことを学ぶのだという。偏差値の高い大学は違うのだなぁ、と妙に感心したから覚えている。
だとすれば、今からマンションに行って一時間ほどで課題を片付ければなんとか美空に鉢合わせせずに済むかもしれない。
――よし、それに賭けよう。
「……うん、いいよ! じゃあ、サクッと課題やっちゃおっか!」
己の浅はかなタイムスケジュールに運命を委ねることにした私は、臨を伴って新居へと向かった。これが、本日最大にして最悪の悪手になるとも知らずに。
――
リビングのドアを開けると、臨は歓声を上げて部屋を見回した。
「うわー! めっちゃ綺麗なマンション! 楓っち、実はいいとこのお嬢様だったりする!?」
「違う違う、親が勝手に決めただけだから!」
美空の姿はない。やはりまだ帰ってきていないようだ。私は内心でガッツポーズを決めながら、臨を自分の部屋へと案内しようとした。
まさにその時。カチャリ、と無慈悲な金属音が玄関から響いた。
「ただいま、楓。……あれ?」
絶望に顔を歪めながら振り返ると、そこには通学用のトートバッグを肩にかけた美空が立っていた。
最悪のタイミングでの帰宅。私は一瞬で全身に冷や汗が吹き出すのを感じた。
「い、市之瀬さん……今日はゼミのガイダンスがあるから遅くなるって言っていたんじゃありませんでしたっけ……」
「その予定だったんだけど、ガイダンスが思ったよりも早く終わったから。というか、なんで敬語? それに、そちらの方は――」
美空はそう言うと、臨の方にゆっくりと視線を向ける。
「あ、はじめまして! 楓っちの友達の臨です! 突撃しちゃってすみません!」
臨が持ち前のコミュ力で、物怖じせずに美空に頭を下げた。
美空の視線が一瞬だけ――本当に一瞬だけ、臨を値踏みするような鋭さを帯びた。けれど、次の瞬間には、まるで熟練の女優のように完璧な『優しいルームシェアのお姉さん』の笑顔を浮かべた。
「はじめまして、市之瀬美空です。いつも楓が本当にお世話になっています。この子、ちょっと不器用で寂しがり屋だから、お友達ができて安心しました」
「いえいえ。楓っち、超優しくて助かってます! っていうか美空さん、めちゃくちゃ美人ですね! モデルさんかと思いました!」
「ふふ、ありがとう。立ち話もなんだし、遠慮せず座ってゆっくりしてね。今、お茶を淹れるから」
美空はどこまでも上品に微笑み、キッチンへと向かっていった。
誰が不器用で寂しがり屋だ、と内心で美空にツッコみつつも、ひとまず胸を撫で下ろした。美空が猫を被ってくれて助かった。あの外面の良さには、こういう時だけは感謝せざるを得ない。
「よし。リビングじゃあ市之瀬さんに悪いし、私の部屋に行こう!」
私は半ば強引に臨を自分の部屋へと引っ張り込んだ。
「お邪魔しまーす。へー、楓っちの部屋もお洒落じゃん! ちょい座るねー」
「いいよー。その辺、適当に座って」
臨はバッグを床に置くと、移動の疲れを癒やすように、無警戒に私のベッドの端へ腰掛けようとする。その時、タイミングを見計らったかのように、美空がお盆を持って部屋に入ってきた。
臨が私のベッドに座ろうとしているその光景を目にした瞬間。美空の顔から、全ての笑みが消え失せた。
すっ、と美空の瞳からハイライトが消え、目が据わる。リビングで見せていた外面モードは一瞬で霧散し、ただならぬ暗黒のオーラが美空の背後から立ち上る。
「そこは、楓が寝る場所だから」
美空の声が、さっきより二オクターブは低かった。
「悪いんだけど、お友達さんはこっちのクッションに座ってくれます?」
「あ、す、すみません……!」
臨はギャルの野生の勘で何かを察したのか、慌ててベッドから飛びのき、床に敷かれたクッションの上へと正座した。
美空の目が怖すぎる。大学の新歓で男の先輩を追い払った時の比ではない。
美空は満足したように小さく頷くと、お盆から飲み物をテーブルへと並べ始めた。
しかし、その器のチョイスが、またしても常軌を逸していた。臨の前に置かれたのは、どこにでもありそうな、なんの変哲もない透明なガラスのコップ。中には麦茶が注がれている。
そして、私の前に置かれたのは――先週末、家具店で美空が強引に購入した、あの淡いピンク色のマグカップ。さらに、美空は自分の手にあるくすんだ色のブルーのマグカップを愛おしそうに眺めながら、私のすぐ隣にすとん、と腰掛けた。
「あ、ありがとうございます……って、あれ? 楓っちと美空さんのマグカップ、色違いのお揃いですか? 超可愛い!」
臨が何気なく放ったその言葉に、美空は待ってましたと言わんばかりに、ふっと優越感に満ちた歪んだ笑みを浮かべた。
「ええ。新生活を始める時にね、二人で『ペア』のものを一通り揃えたの。やっぱり、私たちは特別だから。ねえ、楓?」
「ぶっ……!?」
私は飲んでいた麦茶を盛大に吹き出しそうになった。
(家具屋さんで美空が勝手にカゴに放り込んだだけだし! 特別って何よ! 言い方が完全に誤解を招くでしょ!?)
隣から伝わってくる美空の圧力が凄まじい。下手なことを言ったら承知しない、という無言の脅迫だ。
「へ、へえ〜、仲良しなんですね……!」
臨は、私たちの間に漂う異様な空気に完全に圧倒され、それ以上マグカップの件に触れることはなかった。
――その後、一時間。
美空が私の隣にぴったりと密着したまま、一歩も動かないという地獄のような監視体制の中、私と臨は猛スピードで英語の課題を終わらせた。
「じゃ、じゃあ、私そろそろ帰るね! 美空さん、お邪魔しましたー!」
「ええ。またいつでも来てね」
美空は再び完璧なお姉さんの笑顔に戻り、臨を見送った。
臨は玄関を出る間際、私にだけ聞こえる声で言う。
「楓っちのルームメイト、美人さんだけどなんか覇気がヤバいね。あの覇気はシャンクス並みだわ……。頑張れ!」
そんな哀れみの視線だけを残して臨は去っていった。パタン、と玄関のドアが閉まる。
「ふぅぅぅ……! 死ぬかと思った……」
緊張の糸が切れ、私はその場にへたり込みそうになりながら、大きなため息をついた。
本当に心臓に悪い。美空の暴挙のせいで、危うく元カノだということがバレ、爛れた同棲生活を送っていると臨に勘違いされるところだった。
「もう! 美空、あんなあからさまなマウンティングするのやめてよ! 友達なんだから、別に私のベッドくらい――」
文句を言おうと、私が振り返った、その瞬間。視界が、急激に反転した。
「ひゃいっ!?」
美空に両肩を掴まれ、そのまま玄関の壁へと背中を強く押し付けられる。
ドン、と小気味いい衝撃と共に、私の顔の真横の壁に、美空の白い手が叩きつけられた。なんて完璧な壁ドン――。
先ほどまでの外面お姉さんモードは完全に消え去り、そこにあるのは、嫉妬と独占欲でドロドロに濁った元カノの顔だった。美空の呼吸が、すぐ間近で激しく上下しているのが分かる。
「み、美空……?」
美空は空いている方の手で、私の顎をくい、と少しだけ持ち上げた。逃げ場を完全に塞がれた状態で、彼女の長い黒髪が私の頬をかすめる。
「……私の知らない子を、あのベッドに座らせないで。私たち、あのベッドで一緒に寝たんだよ。分かってるの?」
低く、けれどゾクリとするほどの熱を孕んだ声が、私の耳元に直接届けられた。
「い、一緒に寝たって美空が勝手に潜り込んできただけでしょ……!」
「だから、何。あの部屋も、あのベッドも、楓の身体も。全部、私だけのもの。……違う?」
美空の切れ上がった瞳が、至近距離で私をじっと見つめている。その目は、高校時代に私をフった時の冷たい目なんかじゃない。飢えた猛獣が獲物を閉じ込める時の、情欲の瞳そのものだった。
「だ、だって、私たちはもう友達で……」
「友達なら、友達でもいい。なら、せめて他の子と私の扱いを同じにしないで。私は、楓の初めての相手なんだよ」
「なっ……!?」
恥ずかしさで脳が沸騰しそうになる。女同士だとか友達だとかいう言い訳を、この女は今、自らの手で完全に踏み潰した。
「……初めてだけじゃないよね。付き合ってた時は、何回もした」
美空の顔が、じわじわと近づいてくる。彼女の薄い唇が、今にも私の唇に重なりそうなほどの距離にあった。
「もう一度言うね。楓の場所も、楓の身体も。汚していいのは、私だけだから」
そう冷たく、熱く囁きながら、美空は私の首筋に、自分の頭を深く、深く埋めてきた。まるで、他人の気配を全て消し去り、自分の匂いだけで私を塗り潰してしまおうとするかのように。
「み、美空……」
思わず吐息が漏れる。私の心臓は、もう破裂しそうなほどの爆音を立てていた。
ただの同居人という建前は、この日、完全に美空の嫉妬によって引き裂かれたのだった。




