第6話:看病の距離感は、高熱のせい
頭の芯が、ぐつぐつと沸騰しているように熱い。
「う、うう……全身が痛い……」
朝、目が覚めた瞬間に、私は自分が手詰まりに陥ったことを悟った。
枕元のスマートフォンを引き寄せて画面を見ると、時刻は午前八時。本来なら大学へ行くために家を出ていなければならない時間だが、指一本動かすのすら億劫だった。
脇に体温計を挟み、ピーピーと鳴った電子音を確認する。表示されていたのは『三十八度二分』。見事なまでの高熱だった。これは、詰んだ。
慣れない東京での新生活による緊張と疲れ。そして何より、初日から私のパーソナルスペースを容赦なく侵略してきた元カノのせいで、心身に過度な負担がかかり続けた結果だろう。
(全部、美空のせいだ……。あいつのせいで、私の大学生活は初っ端からお休みだよ……)
霞む視界の中で美空への恨み言を連発していると、自室のドアが静かに開いた。
「楓? まだ起きてこないなんて珍しい――」
入ってきた美空は、服も着替えずベッドで丸くなっている私の様子を見てすぐに状況を察したらしい。スタスタと足早に近づいてくると、私の額に自分の手のひらを当てた。ひんやりとした美空の手が、熱い額に心地良い。
「ものすごい熱。……体温は計ったの?」
「あ、う……机の上……」
美空は体温計の数字を見ると、深くため息をついた。
「大人しく寝てて。今、冷えピタと風邪薬を買ってくるから」
「え。でも、美空も大学あるんじゃ……」
「休む。楓をこんな状態で一人にできるわけないでしょ」
「いや、講義はさすがに出なきゃ……」
「楓の方が大事」
美空は迷いのない口調でそう言い残すと、流れるような動作で部屋を出ていった。
相変わらず極端な女だ。けれど、誰も頼れる人がいない東京で、こうしてすぐに看病してくれる人がいるという事実に、弱った身体がどうしようもなく安堵してしまう。
――それから三十分後。美空は驚くべき手際の良さで、即席のお粥とスポーツドリンクをベッドサイドに用意してくれた。
「ほら、少しでもいいから食べて。じゃないと薬飲めないから」
「う、うん……ありがと……」
美空に背中を支えられながら、私はフーフーと冷まされたお粥を口に運んだ。喉は痛かったけれど、優しい味が身体に染み渡っていく。
半分ほど食べたところで限界を迎え、私は再びベッドに横たわった。
少しだけお腹が満たされたものの、熱のせいでじっとりと嫌な汗をかいているのが分かる。パジャマが首筋や背中に張り付いて、なんとも気持ち悪い。
私が小さく身じろぎをしていると、美空がクローゼットから新しいTシャツとスウェットを取り出してきた。
「楓、汗をかいてる。服、着替えよう」
「あ、うん。後で自分で着替えるから、そこに置いといて……」
「ダメ。今着替えないと身体が冷える。……ほら、手伝ってあげるから万歳して」
美空は当然のような顔をして、私のパジャマの裾を掴んで上へ捲り上げようとした。
「ひゃいっ!? ちょ、ちょっと待って! 何してんの!?」
私はパニックになって、慌てて布団を頭まで被った。
「何って、着替えるんでしょ?」
「いいから! 自分でできるってば! 恥ずかしいでしょ!」
毛布の隙間から抗議する私に、美空は呆れたように片眉を上げた。いつもの、あの無慈悲な正論を放つ時の顔だ。
「何を今更恥ずかしがってるの? 女の子同士だよ?」
出た、最強の免罪符。
「それに、楓の裸なんて高校の時に何回も見たし。普通に何度も着替えさせたでしょ。今更、楓の身体のパーツで私が知らない場所なんてないんだけど」
「ばっ……な、なに不謹慎なこと言ってんのよ、バカ!!」
「不謹慎……とは違うくない?」
冷たい表情のまま首を傾げる美空。
そんな言葉遣いの問題など今はどうでもよかった。熱のせいだけでなく、私の顔は爆発しそうなほど熱くなっている。
確かに付き合っていた頃、お泊まりの時や部活帰りに着替えを手伝ったり、手伝わされたりしたことはある。あるけれど、それは『恋人同士』だったからセーフなのであって、今の『ただの同居人』という関係性でやっていいことでは断じてない。
「ほら、意地を張らない。熱が上がるでしょ」
美空は力ずくで毛布を剥ぎ取ると、私の抵抗を一切無視して、テキパキと私のパジャマを脱がせ始めた。
抵抗しようにも、熱で身体に力が入らない。結局、私は美空のなすがままにされ、新しい大きめのTシャツを着せられる羽目になった。
その間、美空の視線が私の肌に触れるたび、肌が粟立つような奇妙な感覚に襲われた。美空の目はどこまでも真面目で、看病に徹している風を装っていたけれど、その指先が心なしかいつもより優しく、愛おしそうに私の肌をかすめていた気がしたのは――きっと、熱のせいだ。
「……はい、終わり。次は冷えピタね」
着替えが終わると、美空は新しく買ってきた冷えピタのフィルムを剥がし、私の額にそっと貼り付けた。
じゅわ、と冷たい感覚が額に広がり、思わず吐息が漏れる。
美空はそのまま、私の枕元に腰掛け、冷えピタの上から私の頭を優しく撫で始めた。サラサラと、彼女の手のひらが私の髪を梳いていく。その手つきが、驚くほど優しかった。
(あ……ダメだ、これ……)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
いつも優しく微笑みながら私を見ていた、高校時代の美空。
フったのは、美空の方なのに。
もう終わりにしよう、って私の心をズタズタにしたのはそっちなのに。
どうして、そんなに愛おしそうな目で、私を見るの。
どうして、そんなに優しい手で、私に触れるの。
「美空、の……バカ……」
「ん? 何か言った?」
「なんでも、ない……」
弱った身体の隙間に、美空の優しさが容赦なく染み込んでくる。
上京して新しい恋を見つけるつもりだったのに、私の心は、まだあの放課後の教室に囚われたままなのだと、突きつけられているようだった。美空への未練が、熱に浮かされた頭の中で、じわじわと形を取り戻していく。
美空の手のひらの心地よさに身を委ねているうちに、風邪薬が効いてきたのか強烈な眠気が襲ってきた。
瞼が、ゆっくりと塞がっていく。意識が、暗闇へと沈んでいく――その、寸前だった。
ぎゅっ、と。
ベッドの上に置いていた私の右手を、美空が両手で包み込むようにして、優しく握りしめた。
そして。消え入りそうな、今にも泣き出してしまいそうなほど、細くて切ない声が、私の耳元に届いた。
「……置いていかないで、楓」
え……?
置いていくって、誰が、誰を……?
問いかけるだけの気力は、もう残っていなかった。私の意識はそのまま、深い、深い眠りの底へと落ちていった。




