第5話:【美空視点】計画通りのルームシェア
カフェの向かい側で、楓は耳まで真っ赤にしてパフェを口に運んでいる。
私が「あーん」をしてあげた苺。それを咀嚼する彼女の小さな唇や、恥ずかしさに潤んだ瞳を見つめているだけで、胸の奥がじわじわと熱狂的な歓喜で満たされていく。
(ああ、可愛い。楓ってなんでこんなに可愛いんだろう……。やっぱり、多少の無茶をしてでも東京に来て大正解だった)
内心で荒れ狂うほどの悶絶を抱えながらも、私はいつものように、完璧にクールな『市之瀬美空』の仮面を維持したまま、静かにスプーンを動かした。
楓は気づいていないのだろう。私が「女の子同士の友達だから普通」と言うたびに、彼女がどれほど分かりやすく動揺し、どれほど愛らしい反応を見せるかを。その全てが、私の計算通りであることを。
――私は、人生で一度だけ、取り返しのつかない大失敗をした。三ヶ月前。高校の三学期のこと。
地元の国立大学の推薦入試に受かったあの日。放課後の誰もいない教室で、楓から「これからもずっと、一緒に隣にいたい」と、震える声で手を握られた。それは事実上の、将来を誓い合う告白だった。私は、そう認識している。
しかし、当時の私は、あまりにも愚かで、臆病だった。
女同士の恋愛。これからの大学生活。世間の目。
楓のことが好きすぎるあまり、「私のせいで、楓の『普通の女の子としての将来』を奪ってしまったらどうしよう」という、身勝手で独りよがりな恐怖に負けてしまったのだ。
だから、心を引き裂かれるような思いで、あえて冷徹に言い放った。
――もう終わりにしよう、と。
遠距離恋愛は大変だから、などと言ったのはただの言い訳に過ぎない。
地元の国立大学に進学し、楓とは綺麗な思い出のまま離れる。それが互いのためだと信じ込んでいた。
けれど、別れた瞬間に、世界から色が消えた。
一ヶ月と保たなかった。楓のいない日常は、息をするのも苦しいほどの地獄だった。夜な夜な枕を涙で濡らし、自分の下した決断が、人生最大の愚行であったことを思い知らされた。今でも毎日のように後悔している。楓をフったあの時の自分を、ナイフで滅多刺しにしてやりたいほどだ。
こんなことならばもっと早く既成事実を作っておくべきだったとすら思った。
付き合っていた頃、私とエッチなことをしたがる楓を拒み続けたのは、一度体を重ねてしまえば肉欲に溺れる自信があったからだ。
経験など一度もありはしないが、あんなに可愛くて愛らしい楓との行為など気持ちが良いに決まっている。そんな快楽を知ってしまっては受験勉強にも身が入らなくなってしまう。
だからこそ私は心を鬼にして「高校を卒業して大学生になってからにしよう」と断り続けた。
何も知らない楓は、そんな私を「なんて冷静で的確な判断力なのだろう」と尊敬の眼差しで見ていたものだ。
しかし――いつかの自分が楓をフるなどという愚行をすると分かっていたならば、さっさと楓の求めに応じておくべきだった。悔やんでも悔やみきれない。
そんな絶望の最中、信じられない神風が吹いた。
ある日、打ち沈んだ気持ちのままリビングに降りると、母がスマートフォンをスピーカーモードにしたまま大声で電話をしていた。母は、私の躾には厳しかった癖に自分の言動はいつも大雑把なのだ。
気が立っていた私は思わず怒鳴りつけそうになったほどだ。だが――電話の相手が楓の母親だと気づくと、咄嗟に声を潜めて聞き耳を立てていた。
『ええ、楓が東京の私立大学に行くことになってね。一人暮らしは心配だから、誰か同性のルームシェアの相手を探してるのよ』
その言葉を聞いた瞬間、私の脳内は沸騰した。神様がくれた、二度目のチャンスだと思った。
そこからの私の行動は、我ながら迅速かつ完璧だった。
地元の国立大学の推薦をあっさりと辞退し、死に物狂いで勉強して、楓の大学からほど近い都内の難関私立大学の法学部に一般入試で滑り込んだ。
並行して、母の前に立ち、いかに『地元の気心が知れた楓とルームシェアをすることが、経済的にも安全面でも優れているか』を、法学部志望らしい整然とした論理でプレゼンし、母を完璧に丸め込んだ。
親同士をコントロールし、先んじて不動産業者にも手を回し、互いの部屋が完全に独立していながらも、リビングで嫌でも顔を合わせる絶妙な間取りの2DKを契約させた。
全ては、私の計画通り。
楓が東京のマンションのドアを開けた瞬間、そこに私がいるという運命は、あの高校三年生の三学期に流した涙の数だけ、緻密に組み立てられたものだった。
――そして、引っ越し初日の昨夜。
『……東京の夜、外の物音が酷くて眠れない。人の声とか車の音とか聞こえるし。パトカーのサイレンはうるさいし。最悪。……高校の時みたいに、一緒に寝て』
あれも、全くの嘘。
ここは法治国家日本だ。繫華街でもあるまいし、いくら東京が地元より治安が悪いとはいっても真夜中にそんな騒音がするわけがない。むしろ築浅の女性向けマンションの防音性能は完璧で、外の音なんて一ミリも聞こえやしなかった。
ただ、隣の部屋から微かに聞こえてくる楓の衣擦れの音や、ベッドが軋む音を壁越しに聴いているうちに、私の独占欲と飢餓感が限界を迎えてしまっただけだ。
ルールはどうしたの、と慌てる楓のベッドに潜り込んだ瞬間、私の世界の中心に、ようやく血が巡るような心地がした。
狭いシングルベッド。後ろから楓の身体を抱きしめると、彼女はガチガチに緊張して、心臓を信じられないほどの速さで脈打たせていた。私のせいで、彼女の頭の中がひっくり返るほど混乱している。それが、たまらなく愛おしかった。
しばらくして、緊張の糸が切れた楓が、すやすやと小さな寝息を立て始めたのを確認する。
私はそっと腕の力を緩め、暗闇の中で、愛しい彼女の髪に指を滑らせた。
「……私の可愛い楓」
地元を離れ、東京で私の知らない誰かと楽しげに大学生活を送ろうとしていた、不届きな私の元カノ。
一度は手放してしまったけれど、もう二度と逃がさない。
私のことを「冷淡な元カノ」だと思っているなら、それでいい。私は「女の子同士の友達」という、親も世間も誰も疑わない最強の隠れ蓑を使って、何度でも貴女のパーソナルスペースを侵食していく。
ルール? 干渉禁止?
そんな紙切れ一枚、私の愛の重さの前には何の意味もなさない。
「もう一度、私に溺れさせてあげるね。楓」
眠る楓の頬に、静かに、音も立てずに唇を寄せる。
甘い柔軟剤の匂い。私の大好きな、楓。誰にも渡さない。全部、私のものだ。
――
「美空? パフェ、溶けちゃうよ?」
「あ……」
楓の声で、私は現実へと引き戻された。
目の前では、楓が怪訝そうな顔で私の顔を覗き込んでいる。どうやら、少しだけ考えに没頭しすぎていたらしい。
「なんでもない。ちょっと、これから始まる生活が楽しみだなと思って」
「ふん、私は毎日心臓が保たない気がするけどね」
楓はぷいっと膨れて、残りのアイスクリームをスプーンですくった。
その無防備な仕草を、私はスマートフォンを見ているフリをしながらカメラで音を立てずに素早く連写する。
カフェを出て、駅へと向かう道すがら。私はスマートフォンの画面を開き、厳重なパスコードと指紋認証、さらに顔認証を設定した『非公開フォルダ』に、さっき撮った写真を格納した。
フォルダの名前は『私の楓』。そこには、高校時代のデート中の笑顔から、卒業式の泣き顔、そして昨夜、私の腕の中で無防備に眠っていた愛らしい寝顔の写真まで、数百枚に及ぶ『中道楓の全て』が、日付ごとに美しく整理されて保存されている。
(今日のパフェの写真も、すごく良く撮れた)
画面を閉じ、私は隣を歩く楓の手を、再び何食わぬ顔でぎゅっと握り締めた。
「ちょっと、美空! 外でこんな堂々と手を繋がないでよ……! 干渉禁止のルール!」
怒る彼女に、私はいつもの涼しい声で、最高の言い訳を告げる。
「迷子防止。女の子同士なんだから、別に普通でしょ?」
東京の広い空の下。私の計画的な侵略は、まだ始まったばかりだった。




