第48話:境界線迷子の、その先で
あれからいくつかの季節が流れた。高校時代にやり残したことや我慢してきたことを二人で少しずつ塗り替えながら、私たちは大学二年生になった。
あんなに新鮮でどこか怖かった都会の空気も、今ではすっかり馴染み深いものになり、私たちの大学生活は穏やかな日常のレールの上を滑るように進んでいる。
「あー、今日も疲れた! ねえ、楓っち。この後カラオケ行かない?」
「ごめん、臨。今日はちょっと、家でやることがあって」
「えー、また美空さんとお家ご飯? 本当に仲良しだよね、お二人さん」
大学のキャンパス。サークル仲間の臨が、いつものように屈託のない笑顔で私の肩を小突く。
周囲の友人たちの前では、私たちはこれまで通り『地元の仲が良い女子二人のルームメイト』だ。人目につくところではなるべく手は繋がないようにしているし、お互いを名前で呼ぶ声のトーンだって至って普通を装っている。
世間の言う『普通の女の子の人生設計』という濁流は、今でも私たちのすぐ傍をごうごうと音を立てて流れている。お互いの両親からの目に見えないプレッシャーや、いつかは向き合わなければならない『普通じゃない道』への課題が、魔法のように消えてなくなったわけではない。
けれど、私の心には、あの頃のような焦りや恐怖はこれっぽっちもなかった。
「ただいま」
「おかえり、楓」
マンションのドアを開けた瞬間、私を迎える甘い匂い。一歩足を踏み入れれば、そこは世間のどんな常識も届かない、二人だけの絶対的な聖域だ。
玄関の鍵が閉まる音は、私たちが世界で一番安心できる時間の始まりを告げる合図だった。
夕方。私たちはリビングのソファに並んで座り、お揃いで買ったあの色違いのペアマグカップで、温かいココアを飲んでいた。
アコースティックギターのサークルは今でも続けている。壬琴先輩には、あの日きちんとお断りを入れた後も、変わらず良い先輩としてギターを教えてもらっている。時おり挙動不審になるのだけが気がかりだったが、それも徐々に慣れつつあった。
美空はココアを一口飲んで優しく微笑む。
「……ねえ、楓」
美空がココアの湯気の向こうから、じっと私の薬指を見つめてきた。
「これから先、もっと大変なことがあると思う。私の親のこともあるし、いつまでもこうして、ただの同居人のフリを続けるわけにはいかないかもしれない」
美空の言葉は静かで、どこか現実的だった。かつて一人で勝手に絶望して自暴自棄になっていた頃の怯えはない。隣にいる私を、ちゃんと巻き込む覚悟を決めた、強くて優しい瞳だ。
「分かってるよ。でも、二人で一緒にめちゃくちゃになるって決めたでしょ? どんな壁が来たって、今更美空を離してあげる気はないから」
私が強気に言い放つと、美空は嬉しそうに目を細めた。そして、自分のパーカーのポケットから、小さなベロア調の箱を取り出した。
「楓。……これ、早く着けて」
箱を開けると、中にはシンプルで細身のシルバーリングが二つ、並んでいた。
手のひらの側にだけ小さなストーンがあしらわれていて、外側から見れば、ただのファッションリングにしか見えない。けれど、内側には私たちのイニシャルがしっかりと刻まれている。
大学に行く時には外しているが、家に帰るとすぐにでもこの指輪を着けるよう要求されるのだ。
「もし、これからの未来で世間の普通とか、誰かの言葉に流されて、また私たちがどこへ行くべきか分からなくなってさ」
美空は私の左手を取り、その薬指に、ゆっくりと、愛おしそうにリングを重ねていく。ひんやりとした金属の感触のあと、美空の指先の圧倒的な体温が、私の肌に伝わってきた。
「楓がフラフラして迷子になりそうになったら――私が何回でも、どこにいたって、楓を捕まえにいくから」
かつて私をフって地獄の底に突き落とした元カノのあの巨大な感情は、今、私の薬指を永遠に縛り付ける、世界で一番優しくて絶対に解けない愛の呪縛へと変わっていた。
「……捕まりっぱなしは悔しいから、私も美空を離さないよ」
私は微笑み、美空の手からもう一つのリングを取ると、彼女の細い薬指へと滑らせた。
夕暮れの光を浴びて、二人の薬指で、小さなシルバーの線が優しくきらめく。
私はマグカップをテーブルに置き、ソファの上で美空の身体を後ろから包み込むようにして、ぎゅっと抱きしめた。
美空は驚いたように小さく声を上げたが、すぐに安心したように私の胸に背中を預け、とくとくと刻まれる私の心音に耳を澄ませるように目を閉じる。
私の腕の中に、世界で一番重くて、世界で一番愛おしい今カノがいる。
「ねえ、楓」
美空が私の腕の中で、悪戯っぽく、けれど蕩けるような甘い声で囁いた。
「――女の子同士のルームシェアって、やっぱり最高でしょ?」
ルームシェアを始めたばかりの頃、私の理性を狂わせるために放たれていた、あの卑怯な免罪符。
それが、今では私たちを繋ぐ、世界で一番大好きな愛の合言葉だ。
「……美空限定だけどね」
私が呆れ半分、愛しさ半分でそう応じると、美空は本当に幸せそうに、クスッと声を立てて笑った。私はその愛おしい身体を、二度と離さないと誓うように、さらに強く抱きしめ返した。
窓の外からは、東京の温かい夕暮れのオレンジ色の光が差し込み、リビングのソファでぴったりと寄り添い合う私たちを、祝福するように優しく照らし出していた。
高校三年生の三学期のあの日、夕暮れの教室から始まった、長くて、もどかしくて、重すぎた未練の物語。
お互いを好きすぎて、相手の『普通』を縛るのが怖くて逃げ回っていた私たちは、この狭いマンションの真ん中で、ようやく一つの答えに辿り着いた。
私たちのルームシェアは、もう、どこへ行くべきか迷わない。
オレンジ色の光の中、重なる二人の手と、薬指できらめく小さな約束。私たちは互いの顔を見合わせ、私たち以外の誰に届くでもない、けれど確かな決意に満ちた最高の笑顔を、静かに重ね合わせるのだった。




