最終話:【美空視点】私に笑顔を持ってきてくれた人
柔らかな休日の日差しが、リビングのフローリングに温かな光影を描いている。
大学二年生になった私たちの部屋に流れるのは、静かで、穏やかで、どこまでも満ち足りた空気だ。
「ねえ、楓。少し体勢、変えてもいい?」
「いいよ。というか、私の足、寝にくくないの?」
「全然。楓の太もも、柔らかくて気持ちいいよ」
私は楓の膝枕の上で身を翻し、仰向けになって彼女の顔を見上げた。視線が交わると、楓が困ったように、けれど愛おしそうに眉を下げて笑う。その目元にそっと手を伸ばし、指先で頬を撫でる。
かつての私を支配していた悲壮感や、いつか手が離れてしまうのではないかという凍りつくような恐怖は、もうどこにもない。
私の世界は今、中道楓というたった一人の女の子の存在によって、世界で一番優しく、温かい色彩に満たされていた。
ふと思い立ったように、楓が声をあげる。
「そうだ、美空。私、前よりちょっとはギターも上手くなったし、いつか美空にも聞いてもらいたいと思ってたんだよね。弾いてみていい?」
「ギター? いいけど、近所迷惑にならない?」
「昼間なら大丈夫でしょ」
私の頭をそっとクッションの上へ下ろすと、楓はパタパタと足音を立てて自分の部屋へ向かった。
体を起こして眺めていると、彼女は淡いピンク色のアコースティックギターを抱えて戻ってくる。
「ねえ、楓。私、音楽はあまり詳しくないから聞いてもアドバイスできないよ」
幼い頃は親にピアノを習わされていたが、もうすっかり忘れてしまった。流行りの曲だってろくに知らないから楓の役に立てるとも思えない。
「別にアドバイスが欲しいわけじゃないからいいよ。美空に聞いてもらいたいだけ」
楓はどこか照れくさそうに鼻の頭を掻きながら、慣れた手つきでケースからギターを取り出した。
ピンク色のボディを愛おしそうに撫で、チューニングを確認する彼女の横顔を、私は不思議な心地で見つめる。
「何の曲? 私も知ってるやつかな」
「どうだろう。BUMP OF CHICKENの『ラフ・メイカー』って分かる?」
私は眉根を寄せて記憶を探る。
「BUMP OF CHICKEN……。『天体観測』くらいしか知らないかも。先に元の曲を聞いておいた方がいい?」
「絶対やめて! ご本人様と聞き比べられるなんて耐えられない!」
スマートフォンを取り出そうとした私を楓は必死に止める。
「分かった。じゃあ、普通に聞くね」
「うん、そうして。まだまだ下手くそだけど笑わないでよね」
楓が息を一つ吐き、静かにピックを構える。
優しいアコースティックギターの音色がリビングに響き渡った。
軽快で、少し切なくて、けれど力強いストローク。拙いけれど、一音一音に込められた真っ直ぐな熱量。
楓の一生懸命な声が、軽快なリズムに乗って私の鼓膜を、そして心の奥を優しく揺さぶる。
真っ直ぐな瞳。息が切れ、歌声が微かに震える。
私なんかのために、この人は。こんなに一生懸命になってくれるんだ。
一年前はギターなんて全く弾けなかったはずだ。たくさん練習したんだろうな、と思った。
歌声を聴いているうちに、私の視界がゆっくりと熱く滲み始めていた。
溢れ出す涙を止められなかった。
――ああ。私は、この人のことが好きだ。この人と出会えてよかった。
かつて一人きりで流していた涙は、寂しさと恐怖と罪悪感の味がした。けれど今、頬を伝ってポロポロとこぼれ落ちるのは、胸がはち切れそうなほどの愛おしさと、温かい幸福の涙だった。
最後のコードを弾き終えて荒い息を吐いた楓が、顔を上げる。私の状態に気づき、彼女は一瞬でパニックに陥った。
「どうだったかな……って、あれっ!?」
ギターを慌てて床に置くと、膝立ちになって私の肩を揺さぶってくる。
「えっ、美空!? なんで泣いてるの!? ご、ごめん、やっぱり下手すぎた!? それとも音がうるさすぎた!? ごめんね!?」
「ううん……っ、ちが、違うの……っ」
「じゃあ、どうして!? どこか痛い!? 気分悪くなっちゃった!?」
焦って私の涙を袖で拭おうとする楓。その慌てふためく姿が愛おしくて、私はたまらなくなって彼女の首元に勢いよく飛びついた。
「きゃっ……!? み、美空!?」
「ううん……っ、すごく……すごく良かった……っ!」
倒れ込むようにして楓の身体を強く抱きしめる。腕の中に伝わる、大好きな楓の体温。
もう、建前も、理屈も、重すぎる未練の言い訳も、何一つ要らなかった。
私の心の中にあるのは、純粋で真っ直ぐな想いだけだ。
楓の首筋に顔を埋め、ボロボロと涙を流しながら、私は心からの言葉を彼女にぶつけた。
「大好き、楓……っ! 私と出会ってくれて……私を諦めないでくれて……本当に、ありがとう……っ!!」
ずっと言いたかった。
高校の時も、再会してからも、言葉にできていなかった深い感謝と愛。
私の言葉を受け止めた楓は、一瞬だけ息を呑む気配を見せた。
そしてすぐに、柔らかくて温かい両腕が、私の背中に優しく回された。
「……お礼を言うのは私の方だよ」
耳元で聞こえる楓の声は、少しだけ泣きそうに震えていて、けれどたまらなく優しかった。
「私を好きになってくれてありがとう。愛してるよ、美空」
楓は私の頭を優しく撫でると、首元から顔を上げさせ、そっと涙を指で拭ってくれた。そして、少し背伸びをして、私の唇にちゅっと甘いキスを重ねた。
窓から差し込む春の光が、リビングのソファで寄り添う私たちを柔らかく包み込んでいく。
私たちの手には、外からは見えないイニシャルが刻まれたペアリングと、二度と解けることのない強い絆が握られている。
私は今日も、世界で一番大好きな彼女の隣で、幸せに満ちた笑顔を咲かせ続けるのだ。
(『元カノと始める境界線迷子のルームシェア』 完)




