第46話:お風呂の理由(わけ)は「節約」じゃなくて「独占欲」
どん、どん、と。遠くの夜空を揺らす低音が、開け放ったリビングの窓から微かに響いていた。
「……ふぅ。まさかあんなに人が凄いとは思わなかったね」
「……うん。東京の花火大会を完全に甘く見てた」
人混みの凄さにくじけて、這々《ほうほう》の体でマンションへと逃げ帰ってきたのは、ほんの十分ほど前のこと。
夏の一大イベントということで、気合を入れて出かけたものの、最寄り駅に着いた時点で想像を絶する人波と熱気に圧倒されてしまったのだ。人酔いと猛暑にギブアップした私たちは、会場にたどり着くこともできず、花火の打ち上げ開始時間を待たずに満場一致で引き返してきたのだった。
「でも、帰ってきて正解だったよ。汗でべたべただったし……」
私はバスタオルと着替えを抱え、さっそく汗を流そうと脱衣所へ向かっていた。
「美空。私、先にお風呂に入ってきちゃうね」
脱衣所の扉を開け、着替えを棚に置いたその時。背後から静かに足音が近づいてきた。
「……楓」
振り返ると、そこには自分のバスタオルを抱えた美空が立っていた。既に黒髪を高い位置でアップにまとめ、首筋から鎖骨にかけての美しいラインが露わになっている。
「えっ。もしかして美空も入るの?」
「うん。一緒に入りたいな」
何でもないことのように告げてくる美空を見て、私の脳裏にあの日の記憶が蘇った。
――五月の初め頃のことだ。
あの時、マンションに初めて届いた水道光熱費の請求書を見て、美空は『節約のために一緒にお風呂に入ろう』なんて真顔で提案してきたのだ。
あの頃の私たちは、まだ『元カノ』と『元カノ』。互いに途方もない未練と好意を抱えながら、それを『節約』という苦しい建前で覆い隠していた。私は、気まずさと動悸で心臓を破裂させそうにしながら浴室に入ったものだ。
「……ふふ、なに? 今度もまた『水道代の節約』?」
昔を思い出して少しおかしくなり、悪戯っぽく尋ねてみる。
すると、美空は笑うこともなく、静かに私との距離を詰めてきた。脱衣所の狭いスペースで、美空の真っ直ぐで力強い瞳が私を捕らえる。
「ううん。節約なんかじゃないよ。さっきまで人混みにいて嫌になっちゃったから今は――」
美空は私の手からバスタオルをするりと奪い取って棚に置くと、私の両頬を優しく包み込んだ。
「――楓の全身を、私の存在でいっぱいにしたくてたまらないんだ」
「っ……」
建前なんて一切存在しない、ただ真っ直ぐに放たれた剝き出しの独占欲。
熱い吐息が触れ合うほどの距離で囁かれ、私の心臓がドクンと大きな音を立てた。復縁してからというもの、美空はこうして隠すことなく私への愛を言葉にしてぶつけてくるのだ。
◇
シャワーで汗を綺麗に洗い流し、温かい湯船へと浸かる。湯気が立ち込める浴室の中、お湯が波打つ音が心地よく響いていた。
「……温かいね」
「そうだね」
湯船の端と端で浸かるなどという選択肢は、今の美空には存在しないようだった。
身体を温める間もなく、美空はお湯をかき分けて私の正面へと寄ってくる。そして、当然のような自然さで私の膝の上に跨るように座り、お湯の中で私の身体にぴったりと密着してきたのだ。
「み、美空……っ」
「ん……楓」
美空は私の首元に腕を回すと、そのまま私の肩口に愛おしそうに顔を埋めた。
お湯の温もりと、美空の肌のぬくもりが混ざり合い、全身の感覚が甘く痺れていく。背中に回された美空の手が、私の背筋をゆっくりとなぞった。
「楓の匂いと体温……やっぱり、一番落ち着く」
「お風呂に入ってるのに、私の匂いなんて分かるの?」
「分かるよ。楓の匂いだもん。いくら洗い流しても、私にはちゃんと分かる」
吐息交じりに囁かれ、密着した胸元から美空の鼓動がダイレクトに伝わってくる。
かつては、恥ずかしさのあまり背中を向け、気まずい思いをしながら背中を流してもらうのが限界だったのに。今やこうして正面から抱き合い、お互いの体温を確かめ合っている。
私は気恥ずかしさに頬を染めながらも、湯船の中で美空の細い腰をしっかりと抱き返した。
「……ねえ、楓」
「なに?」
湯気の中で、美空がそっと顔を上げた。
濡れた黒髪が頬に張り付き、熱のせいで赤く染まった頬と、潤んだ瞳。息を呑むほど美しいその顔が、目の前にあった。
「最初にお風呂に誘った時のこと、覚えてる?」
「……覚えてるよ。私は気まずくて、美空の顔もまともに見られなかった。背中を流してもらった時、心臓が爆発するかと思ったんだから」
私が懐かしむように笑うと、美空は少しだけ照れくさそうに目を細めた。
「あの時の私は『しないの?』なんて言って余裕ぶってたけど……本当は、楓に触れて欲しくてたまらなかったんだ」
「え……?」
「ただの同居人のフリをして、節約なんて嘘をついて……本当は楓と触れ合いたくて、抱きしめたくて、頭がおかしくなりそうだった。自分の立場を考えれば私からしていいわけがないって分かってたから。だから、必死で誘ってたんだよ」
「美空……」
「……でも今は、こうして好きなだけ触れられる」
そう呟くと、美空はふわりと顔を近づけてきた。
お湯が揺れ、湯気が二人の隙間を埋める。
触れ合うだけの、短いキス。
「ん……」
一度離れた唇が、すぐにまた重なる。二度、三度。湯気の中で、甘い水音が小さく響いた。
気まずくて苦しかった過去の記憶が、美空の熱い唇によって、最高に甘い思い出へと上書きされていく。
「……もう、絶対に逃がさないからね、楓」
「逃げないよ。……ずっと美空のそばにいるって、決めたんだから」
私がそう答えると、美空は世界で一番幸せそうな笑みを浮かべ、再び私の首元に深く顔を埋めた。
◇
お風呂から上がり、タオルで身体や髪をしっかり拭いてリビングに戻った私たち。
パジャマに着替え、私がコンセントにドライヤーを差し込み、自分の髪を乾かそうとした瞬間だった。
濡れた黒髪を揺らした美空が、私の膝の上にちょこんと座り込んできた。
「……美空?」
「髪、乾かして?」
首を少し傾げ、上目遣いでおねだりしてくる美空。
お風呂上がりで少し火照った肌と、ほのかに甘いシャンプーの香り。そんな顔でおねだりされて拒否できる人間なんて、この世に存在するはずがない。
「はいはい。じっとしててね」
ドライヤーのスイッチを入れ、温風を滑らせる。美空の美しい黒髪に指を通し、優しく手ぐしでほぐしながら乾かしていく。
「ん……気持ちいい」
美空はうっとりと目を細め、まるで撫でられる猫のように私に体重を預けてきた。
やがて、温風に包まれながら指を通していると、美空の手が後ろに回され、私の首元にそっと抱きついてきた。
「ちょっと美空、動いたら乾かしづらいんだけど……」
「いいの。こうやって楓を感じていたいの」
「……甘えん坊すぎ」
「楓限定だよ。……今カノの特権でしょ?」
そう言って、美空は私の首筋に小さく鼻を寄せ、すり寄ってきた。大学で男子学生を冷淡に切り捨てている『氷の美女』が聞いて呆れるほどのデレデレっぷりだ。
ドライヤーのスイッチを切る。風の音が止むと、部屋の中に静寂が戻ってきた。
美空の黒髪はすっかり乾き、サラサラとした質感を取り戻している。
「はい、終わり。乾いたよ」
「……ありがとう、楓」
――どん、と。
ドライヤーの音が消えた部屋に、遠くの打ち上げ花火の音が、微かに夜気を揺らして届いた。
「花火の音。……まだ上がってるんだね」
開いた窓の方に視線を向けると、美空は私の膝の上から降りようともせず、私の首元に顔を埋めたまま小さく呟いた。
「ねえ、楓」
「ん?」
「……会場まで行けなくて、残念だった?」
「ううん、全然。人混みで倒れそうだったし、帰ってきてよかったよ。……美空は、花火見たかった?」
問いかけると、美空は首を横に振って、私の首筋に甘く擦り寄ってきた。
「ううん。行かなくて大正解だった。……人混みの中で見る花火なんかより、私はこうして、楓の隣で遠くの音を聞いている方が何百倍も幸せだもん」
「美空……」
「それに……言ったでしょ? 今日は楓を私でいっぱいにしたいって。……お風呂だけじゃ足りない。部屋でも、ベッドの上でも……全部私でいっぱいにしてあげたい」
耳元で漏らされた、甘く熱い吐息。
遠くで花火が打ち上がる重低音が、二人だけの部屋に心地よい音楽のように響いている。
どこまでも激しく、どこまでも重い愛。だけど、その重さが今の私にはたまらなく愛おしかった。
「……分かったよ。私のこと、美空でいっぱいにして?」
「……うん」
美空は嬉しそうに微笑むと、私の唇に最後にもう一度、深く甘いキスを落とした。
遠くの花火の音を聞きながら、私たちは温もりを分かち合い、どこまでも甘い二人だけの夜の中へと落ちていった。




